第十話「花の名」
嵐の翌日は、嘘みたいに晴れ渡っていた。
寝不足の気怠さの中、リリアナは制服に着替え髪を整えながら、授業の時間割に目を通す。最初は違和感だらけだった生活も、少しずつ日常として体に馴染み始めていた。
それでも、鏡の中で眠そうな顔をしている、純白の制服に身を包んだ少女は、時々『お前は誰だ』と責め立ててくる。
ふと、ポールハンガーにかけられた外套が目に入った。リリアナには大き過ぎるそれは、昨晩アルクから借りたままになっていたものだ。
(今思えば『あなたの体温で温めて欲しい』なんて言って、迫ればよかったかもしれないな)
寒さに震えながら頼めば、流石の彼も無碍には出来なかっただろう。深夜の庭園というのも、彼の従者がいることを除けば、ロマンチックな状況だった気がする。
誘惑するチャンスを逃してしまったリリアナ。それでも何故か、昨晩はあれで良かった気がした。
部屋を出たリリアナは、食堂ではなく花園へと向かう。
アルクは、夜が明けてから荒れた花園を整えると言っていた。こんなに朝早くからいるかは分からないが、何となく彼ならいそうだと思った。
外に出ると、澄んだ冷たい空気が肺を洗う。昨晩の嵐が、一気に夏の名残を吹き飛ばしていったみたいだ。低気温のドゥラザークで育ったリリアナには、過ごしやすい季節の始まりである。
――数時間ぶりに訪れた花園。そこには予想通りの先客が居た。
「アルク様、おはようございます。あ、上着……」
「……おはよう。返すのはいつでもいい。君も様子を見に来たのか?」
リリアナは小さく頷き、周囲を見回す。アルクが結界で守ったとはいえ、それより前に暴風雨に曝されていた花々は、ひしゃげ、泥にまみれていた。
(もう、あの綺麗な花園は見れないのか……)
リリアナは花壇に歩み寄る。ぬかるんだ土を踏みしめる度、じゅぐりと湿った音が響いた。靴に泥が跳ねることを気にする様子の無いリリアナに、アルクは何かを言いかけ、やめる。
「このお花、もう元には戻りませんか?」
リリアナはしゃがみこみ、ぐったり倒れた花を見つめた。その目に浮かぶ悲しみや憐れみは、打算などなくどこまでも純粋なものに見える。アルクはこっそりと、心の内で溜息を吐いた。
彼は返事をせず、無言でリリアナの隣にしゃがむと、慣れた手つきで花の周りの土を掘り起こし始める。そして、花を掬い上げ優しく植え直した。その様子をリリアナは瞬きもせず見つめる。
「……そんなに見るな」
アルクは居心地が悪そうに、リリアナと目を合わせずその行動を繰り返す。爪に土が入り込んだ彼の手を、リリアナはじっと追い続けた。相変わらず気配のない従者は、離れた場所で折れた薔薇の枝を剪定している。
「お花、元に戻るんですか?」
「全てが完全に元通りにはならない。だが手をかければ、少しずつでも回復する。……王子が土いじりなど、おかしいと思うか?」
「どうしてですか?」
「……いや」
「わたしにも、教えてください」
「――制服は汚さないように気を付けろ。白は汚れが良く目立つ」
「はい。あ、」
早速袖に泥を付けるリリアナに、アルクはもう一度溜息をついて、袖をまくるように言った。
リリアナにとって初めての土いじりは、なんとも楽しいものだった。濡れた土はひんやりとしていて気持ちがよく、何より自らの手で整っていく様子を見るのは、達成感がある。
ドゥラザークでは、破壊することばかりを学んできた。敵の急所だとか、強力な魔術だとか、そういうことばかりを叩きこまれてきた。こんな風に、雨風で倒れてしまうような儚いものに心を向けたことはない。
弱く脆いもの。なのにそれに触れると、確かな力強さを感じた。
会話も忘れ、作業に没頭する三人。夢中になっていた彼らの手を止めたのは、学院の鐘の音だった。授業には間に合うだろうが、もう朝食を摂っている暇は無い。
「一旦中断しよう。あとは放課後だな」
「授業の間が心配です。……あ、でも、庭師さんがいらっしゃるんですよね?」
リリアナは以前サイラスが、ここには特別な庭師がいるのだと言っていたことを思い出した。だったらその人に任せておいてもいいのかもしれない。
しかしアルクは何も答えなかった。彼の後ろでは、サイラスが妙な笑みを浮かべている。
「はい、それはそれは特別大層な庭師さまがいらっしゃいますよ。……ここに」
サイラスはもったいぶった後、手の平でアルクを指し示した。
リリアナは驚き、また同時に深く納得する。庭を整える彼は手慣れていたし、その姿はあまりに板についていたのだ。
どうやらこの花園は、アルクが手ずから愛でているらしい。それだけ思い入れがあるということなのだろう。
「すごいですね、アルク様」
「ただの趣味だ。ほら、授業に遅れるぞ。早く手を洗いなさい」
アルクは備え付けの水道にリリアナを促す。子供を相手にしたみたいな言い方に、サイラスは一層ニヤニヤを濃くした。
リリアナはアルクからブラシを借りて、丁寧に爪の間まで洗い、靴の泥を落とす。スカートの裾に付いていた泥をビシャビシャと洗い流すと、アルクは「君は豪快だな」とぎょっとした。きつく絞り、パタパタと仰ぐように乾かし始めた時には、流石に止められた。
花園を出て、学舎へと向かう道。少しずつ生徒達の気配が感じられ、リリアナは現実に戻って来たような気分になった。何故か名残惜しくなり、思わず花園の方を振り返ってしまう。
……あの場所には、あの場所だけに許される、何かがあるような気がした。
「リリアナ、どうした?」
「あ、いえ」
アルクの声に、再び前を向くリリアナ。ふと、サイラスが抱えている花々が目に入った。それは彼らが、折れてしまった花の中から状態のいいものを選び、学院に飾るのだと言っていたものだ。
華やかな花々の中に、他とは雰囲気の違う花がある。
「……そのお花、綺麗ですね」
「ああ、この花ですか? どこから種が飛んできたのか、花壇に混ざっていたんです。生命力の強い花なので、そのままにしておくとワラワラ増えてしまうんですよね。どこにでも咲くので、探せばその辺の道端にもありますよ」
サイラスが答えた。つまるところ、雑草である。
アルクはその花をスッと抜き取り、優しく茎を転がした。
「あの嵐にも耐えうる強かな花だ。……太陽神の加護が薄い辺境の地でも咲くらしい。私は嫌いじゃない」
一つの茎に、いくつかの花を付けたそれ。鮮やかなマゼンタ色の五枚の花弁が、アルクの手の動きに合わせて揺れる。可憐でありながら堂々とした美しさは、豪奢なドレスの美女ではなく無邪気な少女を思わせた。
ぼーっと花を見ているリリアナ。
アルクは無意識の内に、彼女にその花を差し出していた。
「気に入ったのなら君にあげよう。この花は、君によく似合う」
(あちゃ~)
というのは、サイラスの心の声である。
アルクに贈り物でもしろと言ったのは自分だが、タイミングも品選びもまるでなっていない。手元にある百合や薔薇を差し置いて、雑草が似合うと言われて喜ぶ女が、一体どこに居るというのか。渡すなら、彼女の名前(偽名だろうが)の由来である百合にすべきだ。それでも、嵐で駄目になりかけた花という時点で良くは無いのだが。
知らない内に他所に潜り込んでいる図々しさ、強かさという点では、確かにこの花は彼女らしい。――だがきっと、アルクはそこまで意図して嫌味を言ったわけではない。恐らくは本当に、思ったままを言っただけ。アレはそういう顔だと、サイラスは知っていた。
リリアナはポカンとしている。
だが、サイラスが想像している反応ではないようだ。
「わたし……に? いただいてしまって、いいんですか?」
「ああ。いらないなら、無理にとは……」
「いえ、いります。ありがとうございます」
これまで誰かから贈り物をされたことなど無いリリアナは、どういう反応が正解か分からず、恐る恐る手を伸ばした。
花を受け取る時、リリアナの指先がアルクの手に、一瞬だけ触れる。それはリリアナに知らない感覚をもたらした。柔らかい火傷のような、痛いような、気持ちがいいような。
リリアナは思わずアルクの顔を見上げる。アルクの夜明け色の瞳には、夜色の地味な少女が映っていた。
彼の薄い唇が、空気を食むように、音を紡ぐ。
「“ ”」
――それは、世界で最も特別な言葉。
耳に届いた瞬間、リリアナの中で火花が散る。心臓がドクリと跳ねる。
(何故、彼がそれを、)
アルクが口にしたのは、彼が知っている筈もない、リリアナの“本当の名前”だった。母親以外が呼ぶことの無い大切な名前。突然心の奥深くに踏み込まれたみたいで、リリアナは頭が真っ白になる。
「その名前……」
「ん? ああ、この花の名前だ」
リリアナの反応に、疑問符を浮かべるアルク。リリアナは呆然と手元の花を見下ろした。
『あなたの名前は、お母さんの大好きなお花からいただいたのよ』
記憶の中の母が、朧な顔で笑った。
(そうか……この花が、お母さんが好きだった花。わたしに名前をくれた花……)
リリアナはそれを、愛おしそうに胸元に引き寄せる。
愛する者から最高の贈り物をもらった、とでもいうような彼女の様子に、アルクはそれが演技だとは思えず困惑した。
――その様子を、離れた場所から数人の生徒が見ていた。
*
「ねえ、ローレンスさん。そんな花ひとつで嬉しそうにして、まるで見せびらかしているみたいだけど、まだ何か勘違いしているのかしら?」
「嫌だわ。まさかそんな事、ないわよね? だってそんな雑草を贈られるなんて……アルク殿下にとって、あなたはそういう存在だってことだものね」
アルクから花を受け取った日の放課後、リリアナは廊下で数人の女生徒に囲まれていた。女生徒達はリリアナの胸ポケットに挿されている萎れかけの花を見て、意地悪く笑う。
その後ろから、鈴のような声が凛と響いた。
「あなた達、一体何をしているの?」
「エレナ様!」
瑞々しく輝く高貴な花と、萎れた雑草の対面に、女生徒達は興奮する。リリアナはエレナの身から溢れ出る陽力に圧倒され、一歩後退った。その反応を都合よく解釈した女生徒が、これ見よがしにエレナを称賛する。
「ああっ、今日もなんとお美しい! 太陽の弱まる秋になっても、エレナ様の輝きは真夏のよう!」
「どこかの野暮ったい方と違って、エレナ様はお持ちの物一つ一つにまで気品が漂っていらっしゃいますね。金の御髪をいっそう引き立てる純金のバレッタ、希少なピンクダイヤの指輪、そしてそちらのブローチは……ああ、ため息が出るほど繊細な彫刻! どれも最上級品。エレナ様のためだけに存在しているようです」
「あらあなた、それは当たり前よ。全てアルク殿下が愛するエレナ様に贈った、特別な物なのだもの。本当に、アルクのセンスは一流ですね」
「どの贈り物からも、アルク殿下がいかにエレナ様を大切に想っていらっしゃるか伝わってきます。ああ、羨ましい」
横目でリリアナを見ながら、大袈裟な口ぶりで言う女生徒達。リリアナの表情に、変化はない。
「何か言ったらどうなの?」
「……はい?」
「羨ましいでしょう!?」
「えっと……わたしはこの花だけで、充分です。――アルク様が似合うって、言ってくださったので」
喋り方だけは弱々しいが、意に介した様子もなく、言い返しさえするリリアナ。それが女生徒達の火に油を注ぐ。
(……わたしは馬鹿か?)
リリアナには、自分の発言がこの場に適したものでは無いことくらい分かっていた。大人しく言い負かされるのが賢い選択だということも分かっていた。
だからそれが出来なかったのは、リリアナにとっても不測の事態だった。
どうしても、この贈り物の価値を下げさせたくなかった。
「強がりを言って! 見苦しいったらないわ!」
「えっと……では見なければいいのでは?」
「何ですって!?」
カッとした女生徒が、花を奪おうと手を伸ばす。少しでもリリアナに痛い目を見せなければ気が済まないのだ。
(見苦しいのはあなた達よ。自分が関係ない争いに、よくそこまで熱心になれるわね)
エレナは冷ややかな目で、卑俗な争いを一瞥した。
自分の一声でこの場は収まるということを、エレナは知っている。だが、そうしない。エレナもまた、リリアナの態度に腹を据えかねていたのだ。
花を庇うように腕を構えるリリアナ。リリアナと女生徒の間に、誰かがスッと割って入った。
「女の子同士の喧嘩は良くないよ~」
黄金色の髪、甘いマスクの少年、セシル。
婚約者の弟の出現に、エレナは顔色を変えて「セシル様の仰る通りです。あなた達、おやめなさい」と取り繕う。
エレナの言葉と、セシルの柔らかくも咎める視線に、女生徒達は一礼だけすると逃げるように去っていった。エレナも決まりが悪そうに、セシルに挨拶をした後どこかへ行ってしまう。
「やれやれ。マリアちゃん、大丈夫?」
(……また堂々と名前を間違えてる)
セシルの行動は、リリアナにとって意外なものだった。こういう場面は見て見ぬふりをするタイプだと思っていたからだ。無類の女好きのセシルなら、一匹の雌に好かれるより、複数の雌に嫌われることを避けるだろう、と。
「はい……ありがとうございます」
「兄さんの所為でごめんね? あの人はこういう所まで気が回らないからね~。女の子のこと、なんにも分かって無いんだよ」
「……はあ」
そうだろうか? 現に気位の高そうなエレナの心を掴んでいるし、贈り物のセンスも褒められていたし、とてもそうとは思えない。
「お手数をおかけして、すみません……でも、どうして?」
「ん? どうして僕が君を助けたか?」
セシルは余裕のある遊び人の表情を崩して、子供っぽく照れ笑いした。
「なんか……兄さんがさ、大切にしているみたいだから」
「……え?」
「ねえマリアちゃん。君は兄さんのことが、好き?」
リリアナは言葉に詰まった。
……深く考える必要はない。
リリアナ・ローレンスとしての答えは決まっている。
「はい」
「……そっか。あんな真面目で面白味のない顔だけの人、どこが好きなの?」
「わたしよりセシル様の方が、アルク様のことをご存知なのではないですか?」
セシルは少しポカンとした後、そっぽを向いてガシガシ頭を掻いた。
彼は自分に厳しい兄を、心から嫌っている訳では無さそうである。
(それはそうだろう。あんな人のこと――嫌いになるなんて、難しい)




