第零話「真実の愛」
四方八方から突き刺さる蔑みの視線。嫌悪と好奇が入り混じったそれに、エレナは歯を食いしばり平静を装う。
「見て、エレナ様だわ。よく平然としていられるわね」
「恥知らずなのよ。寮に外の男性を連れ込んでいたっていうじゃない」
「ああ、なんてふしだらな! あの方が“聖女”だなんて、とても信じられない!」
「アルク殿下はどう思われたのかしら?」
「ええ、それが実はね……」
「いやあ! 実に羨ましいな。僕の相手もしてもらえないだろうか」
「ははは。君は鏡を見たことが無いのかい?」
好き勝手なことを言う生徒達。その中には、つい先日までエレナに擦り寄っていた取り巻きもいた。公衆の面前での耐え難い辱めに、エレナの中で激しい怒りと悲しみが渦を巻く。
――太陽神ソルディウスの祝福により、肥沃な大地と水に恵まれ、繁栄を遂げたソルヴィア王国。
王都に位置するサンクタ・ルミナ学院は、王族や貴族、資産家や政治家など裕福な家の子女が集まる特別な学び舎だ。生徒達は十二~三歳で入学し、数年をかけて様々な分野の知識を学ぶ。
生徒達にとって何より重要なことは、在学中に将来的な人脈を広げること。学院は未来を担う若者達の社交場。誰と親しくするか、どの派閥に属するか、その一つ一つが後の人生を左右する。だからこそ、彼らは常に不安と野心で目をギラつかせていた。
光と闇の交錯する学院。その中で、エレナ・アステリアは別格。彼女は常に光の中心にいた。
公爵家の三女で、学院一の才女で、第三王子アルクの婚約者。
また、太陽神の祝福の一つである聖なる力“陽力”に恵まれ、祈りの力で国を守る聖女でもあった。
恵まれた才能、更には目を瞠るほどの美貌の持ち主でもあり、絹糸のような金色の髪や煌めく翡翠の瞳は、どんな宝石にも勝る唯一無二の輝きを放っている。
非の打ち所の無い所作、生来の気品。多くの者が彼女に憧れ、羨んだ。
だがそんな完全無欠の花が、たった一回の雨で泥まみれになり、誰も踏むことを厭わなくなる。晴れ渡っていた空に突然降った雨。それがエレナの“不義”の噂だ。
“エレナは婚約者を裏切り、他の男と親密な関係を持った”
複数の生徒がその場面を目撃しているという。
しかし当のエレナには全く身に覚えが無い。無実だ。誰かに罠に嵌められたとしか思えなかった。だが身の潔白を証明する前に、彼女の気力を根こそぎ奪うことが起きる。それが、愛する王子からの婚約破棄だ。
「あっ――」
生徒達の声が、サッとさざなみのように引いていく。回廊に流れ込んできた清涼な気配をエレナはよく知っていた。
アルク・ソルディウス。太陽神の御子として、その名を名乗ることが許された王家の、第三王子。……エレナの“元”婚約者だ。
大理石の床に鳴り響く足音。スラリと伸びた脚が歩を進める度、辺りに静寂が広がっていく。
窓から差し込む陽光に輝く、白金色の髪。高く通った鼻筋、引き締まった口元、切れ長の瞳。彼の一つ一つが気高く美しい。エレナは一時、全てを忘れその姿に見惚れる。
エレナが十歳の頃に結ばれたこの縁談は、彼女にとってこの上ない運命だった。初めてアルクに出会った時、エレナは彼の神秘的な雰囲気に一瞬で心を奪われたのだ。
清廉で、理知的で、そしてどこか触れがたい冷たさを秘めた王子。けれどそんな彼の優しさを、エレナはよく知っていた。
アルクは学業や剣の鍛錬のほか、式典や顔見せ程度の王族行事にも駆り出されるため、自由な時間は決して多くは無い。だがその合間を縫って、僅かな時間でも、彼はエレナとの時間を作ることを忘れなかった。
会えない時でも、手紙を出せば丁寧な文字で返事が返ってくる。何の記念日で無くとも、流行りのドレスや高価なアクセサリーを贈ってくれる。その口から直接的な愛の言葉は無かったが、態度で示してくれた。そんな彼のことがエレナは好きだ。愛している。
アルクもまた、自分を愛してくれているのだと思っていた。
なのに。
彼は変わってしまった。
「アルク様……」
切なげに名を呼ぶエレナ。アルクはエレナを興味なさげに一瞥すると、背中の後ろに隠れている一人の女生徒を振り返った。
「大丈夫だ。君は何も気にしなくていい」
聞いたことも無いような、甘い声。
アルクの後ろから恐る恐る出てくる女生徒。
彼女を見る彼の目を、エレナはとても見ていられなかった。いつもは冷たく澄んだ青色の瞳が、熱に浮かされたように揺れている。愛おしそうにたった一人を見つめているのだ。
女生徒は潤んだ目でアルクを見上げ、それからエレナを気遣わしげに見た。それはもう憎らしい程に、わざとらしく。
――リリアナ・ローレンス。
辺境からやってきた男爵令嬢。持病で長く自宅療養をしていたが快復し、三ヶ月前から学院に通い始めた、世間知らずの田舎娘。療養中は家庭教師を付けていたらしいが、礼儀作法のなっていない立ち振るまいに、エレナも周囲も眉を顰めた。自身やアルクより二つ年下の十六歳だというが、あまりに幼く見えるその少女に、エレナはただ呆れるばかりだった。
……それだけなら、どうでもよかった。
多少目障りでも、関わらなければ済む話だ。
だがいつからか、無視できない存在になっていた。
リリアナの存在が、エレナの完璧な世界を壊してしまった。
彼女はエレナの最愛の婚約者、アルクを、狂わせたのだ。
エレナはこれまで何度か、アルクとリリアナが仲睦まじげに肩を並べているところを見かけた。休日に街で二人を見たという噂も耳にした。しかし、周囲が二人の仲をいくら面白おかしく取り沙汰しても、エレナはアルクを信じていた。
他でもない彼が、不誠実なことや軽薄さとは縁遠い彼が、婚約者を裏切るとは思えない。あんな芋臭い女にうつつを抜かすなどあり得ない。自分が負ける筈がない。
だから、敢えて問い質すことはしなかった。
いや、本当は、出来なかっただけだ。エレナは彼の口から本心を聞くのが恐ろしかったのである。
けれど言葉などなくとも、アルクがリリアナに向ける目を見れば一目瞭然だった。
彼はあの少女に心を奪われている。此度のエレナの噂も、彼にとっては婚約を白紙に戻す絶好の機会だったのだろう。
貴族階級にとって婚約とは、家と家の誓約であり、軽んじられることなどあり得ない。そのため貴族の生徒達は、エレナだけでなくアルクに対しても冷ややかな視線を向けている。
だが、平民の生徒達の反応は異なっていた。貴族然としたエレナを苦手に思う者――特に女生徒達は、アルクとリリアナを応援する側に回っている。病弱で地味な娘が、禁断の恋を叶え、見目麗しい王子と結ばれる……恋に恋する少女達は、リリアナのシンデレラストーリーに夢を見たのだ。
「さあ、行こう」
アルクがリリアナと共に歩き出す。エレナは二人が自分の横を通り過ぎる時、思わず大きな声で呼び止めてしまった。
「アルク様!」
「……何だ」
これまでの彼とは別人のような厳しい視線が、エレナを射抜く。エレナは足先の感覚が失われるのを感じた。渇く喉で、震える声で、縋るように叫ぶ。
「わたくしは不義など働いておりません! 無実なのです!」
「事実がどうであろうと、私には関係のないことだ。私はただ――ようやく、真実の愛を見つけただけなのだから」
そう言って、リリアナの頭を優しく撫でるアルク。驚いたように目を丸くし、頬を染めるリリアナ。
エレナの中で憎悪が膨らむ。
許せない。
この女、純真無垢を装ってはいるが、狡賢い悪女に違いない。
何か汚い手を使って彼を誑かしたのだ!
女の勘とでもいうのか、エレナにはその確信があった。しかしそれを証明できるものは一つも無い。
「アルク様、目を覚ましてください! あなたは……あなたはその女に騙されているのです!」
「彼女を侮辱することは誰であっても許さない。もう二度と、私達に構うな」
「そんな……どうか考え直してください。私達の婚約は両家が決めたことです。あなたの一存ではどうにもなりません。それにあなただって、私が居ないと――」
「私に君は必要ない」
取り付く島もない拒絶に、エレナは立ち竦んだ。
その時、アルクの胸元に顔を寄せていたリリアナが、スッと視線だけをエレナに向ける。
エレナは確かに見た。
暗い瞳の中に淀む、不穏な闇を。
基本的に毎日更新で、最後まで駆け抜けていく予定です。
よろしくお願いいたします。




