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第18話:故郷のお母さん

アーク・ノヴァを後にし、飛行船は穏やかな空の旅を続けていた。だが、イオの心は穏やかではなかった。操縦室のコンソールに、補給のために立ち寄った港町で手に入れた、古い航路図が映し出されている。その隅に、インクの染みのように描かれた、小さな紋章。

二匹の蛇が、フラスコに絡みつく、古い紋様。

ヴェリタス家の紋章。

その紋章を見た瞬間、イオの脳裏に、忘れていたはずの、あるいは、思い出すことを拒絶していたはずの、断片的な記憶が、ノイズのように駆け巡った。白い研究所。チェス盤。そして、銀縁の眼鏡の奥で、静かに光る、機械の瞳。


彼女の魂が、悲鳴を上げていた。行かなければならない、と。


「進路を変更する」


イオは、有無を言わさぬ口調で告げた。


「イオ!どうした!」


「目的地は、クライン王国だ。異論は認めない」


その瞳には、ゴウもルルも逆らうことのできない、絶対的な意志の力が宿っていた。彼女に、何かが起きている。ゴウは、黙って操縦桿をイオに譲った。

飛行船が、クライン王国の上空に到達した時、ゴウとルルは息をのんだ。

そこは、街ではなかった。寸分の狂いもなく区画整理された、どこまでも続く、灰色の建造物の群れ。道を行き交う人々は、感情のないオートマタのように、黙々と歩いている。


イオは、まるで何かに導かれるように、飛行船を、街外れの工業地区に着陸させた。そして、吸い寄せられるように、一軒の、錆びついた機械部品が山と積まれた、小さな工房へと向かっていった。


工房の中には、一人の男がいた。年の頃は三十代だろうか。作業着は油で汚れ、その顔には深い疲労が刻まれている。だが、彼は、目の前の複雑な機械を、まるで祈るかのように、驚くほど繊細な手つきで修理していた。

三人が入ってきても、男は顔を上げない。工房の中は、金属を削る音と、静かな息遣いだけが響いていた。

その、張り詰めた沈黙を破ったのは、やはり、ルルだった。


「わあ、すごい!ホコリっぽいけど、なんだか落ち着く場所ですね!あたしのお父さんのガラクタ店を思い出します!お父さん、『ブリキ・ゴーレム3号』の修理が得意で、近所の子供たちからは、『ブリキの神様』って呼ばれてて…」


その、あまりに空気が読めない、しかし、悪意のない言葉に、男の手が、ぴたりと止まった。

彼は、ゆっくりと顔を上げた。その視線は、ゴウとルルを通り越し、ただ一点、イオだけに注がれている。彼は、イオの顔を、その姿を、その魂の形を、確かめるように、じっと見つめた。

そして、何十年という、長すぎた時を超えて、掠れた声で、呟いた。


「……姉さん、だな。」


その一言が、鍵だった。イオの記憶の最後の扉が、轟音と共に開かれる。

白い研究所。非人道的な実験。そして、自分が捨てた、病弱な弟。その弟が、父の狂気によって怪物へと作り変えられ、敵として、自分の前に立ちはだかった、あの日の絶望。


「エミール…!?」


イオの声が、震えた。工房の空気は、刃物のように、緊迫していた。

だが、次の瞬間、その緊張は、あっけなく霧散した。


「ぷっ…!」


エミールは、突然噴き出したかと思うと、腹を抱えて笑い出したのだ。


「あはははは!なんだい、その格好は!それに、その連れは!君も、ずいぶんと、人間らしくなったじゃないか!」


一行は、工房の奥にある、粗末な食堂で、温かいスープをすすっていた。

エミールは、自らの過去を、まるで他人事のように語った。あの戦いの後、彼は世界の敵として捕らえられ、罪人として10年の時を、監獄で過ごしたこと。そして、最近、ようやく釈放されたことを。

彼は、スープを一口すすると、心底面白そうに、イオを見た。


「笑えるよな。僕は、自分の狂気を止めてくれた君を、姉さんを、なんだかんだ、心のどこかで、正義だと思ってた。なのに、その君が、僕よりも先に世界を崩壊させちまうんだから!しかも、他人のためだろ?あははは!不謹慎だって、わかってるさ!でも、笑っちまうんだよ!」


エミールは、涙を流しながら、笑い続けた。

ひとしきり話し終えた後、イオは、真剣な顔で、弟に言った。


「エミール。私と共に来い。君の知識と技術が必要だ」


だが、エミールは、静かに首を横に振った。


「そんなことだろうと思ったよ。でもね、僕は行かない。ここで、一生を終える気でいるんだ。ここの空気は、案外、僕に似合ってる。」


「エミール!……私は学んだのだ!私は、反省したのだ!だから、やり直そう!一緒にやり直そう!…だから!…一緒に来てくれ!」


エミールは、静かに、自らの腕の袖をまくった。


「……もう、長くはないんだ、姉さん」


その皮膚の下で、青白い光の線が、不規則に明滅し、消えかけている。


「僕の体はね、父さんの狂気と、君の才能が産み出した、失敗作だ。もう、限界なんだよ」


「だが」と、彼は続けた。


「最後の道標くらいは、示してやれる。君たちが最後に行くべき場所…『スターゲイト』の、真の鍵は、『竜の墓場』にある。だが、そこは、ただの船の墓場じゃない。時空そのものが、嵐のように荒れ狂う、宇宙の難所だ。そこを安全に航行するには、嵐の動きを完全に予測する、特別な羅針盤が必要になる。その羅針盤は、『歌うクジラの腹の中』にあると、古い文献には記されている。…がんばれ。頑張れよ、姉さん。」



旅立ちの日。

エミールは、見送りに来なかった。

ヴェリタス家の紋章付きの飛行船が、ゆっくりと浮上を始める。


その時だった。エミールが、まるで子供の頃に戻ったかのように、飛び出してきた。飛行船を、必死に追いかけながら、彼は、その魂の全てを込めて、叫んだ。


「姉さん!…姉さんっ!…エラーラ姉さんっ!」


その声は、涙で、ぐしゃぐしゃだった。


「今度こそッ!今度こそ幸せになれよ!姉さんは、ただ、たった一度、間違えただけなんだ!姉さんは、間違いから、学んだんだ!もう学んだんだよ!もう苦しまなくて良いんだよ!だから!今度こそ…!二度目の人生だぞ!絶対に、間違えるなよッ!」


それは、姉の幸せを願う、たった一人の弟からの、最初で、最後の激励だった。

飛行船の窓から、イオの瞳から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。彼女は、泣きながら、しかし、力強く、頷いた。

そして、小さくなっていく弟の姿を目に焼き付けながら、その意志を、魂を受け継ぐことを、心に誓うのだった。

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