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第16話:深海のお母さん

ゴウは、入り江の隅にぽつんと建つ、一軒のさびれた海の家を見つけた。


「すいませーん!何か食わせてくれよ!」


中から現れたのは、日に焼けた、寡黙そうな老いた店主だった。彼が黙って出してくれた、ただ塩で焼いただけの魚と、握り飯は、しかし、旅を続ける三人の腹と心に、じんわりと染み渡るほど美味しかった。


「すっげえ美味いなここの魚!この海が、こんなに綺麗だからかな!」


ゴウが屈託なく笑うと、店主は、初めて顔を上げ、寂しそうに目を細めた。


「…ああ。綺麗だろう。じゃが…もう、じきに終わりさ。この店も、この海もな」


「え?」


店主は、語り始めた。この美しい海の海底深くに、古代人が遺した巨大な遺跡があること。そして、その遺跡の中心にある『蒼き心臓』と呼ばれる浄化装置が、この海の美しさを保ってきたこと。


「じゃが、その『心臓』が、もう限界なんじゃ。数年前から、少しずつ、汚染された魔力を漏れ出しておる。今、この海が異常なまでに透き通っているのは、ロウソクが消える前の、最後の輝きのようなもんさ。もうじきこの海は、生命の住めない、ヘドロの海になる」


修理しようにも、老人ばかりのこの土地では、危険な海底遺跡へ潜れる者は、もう誰もいないのだという。

その話を聞いたゴウの答えは、決まっていた。


「じいさん、心配すんな!その『蒼き心臓』、俺たちがなんとかしてきてやるよ!」


飛行船に戻り、作戦会議が始まった。だが、その輪から、一人だけ、そろりそろりと後ずさる影があった。


「あ、あの…」


ルルが、おずおずと手を挙げる。


「わ、わたしは、ここで、お留守番を…」


「はあ!?」


「だ、だって、海底遺跡ですよ!?絶対、タコのお化けとか、出ますよ!」


「却下する」


イオが、冷たく言い放つ。


「君は、我々と共に行動する義務がある」


「いやあああ!無理です!」


イオとルルの間で、激しい論争が始まった。ゴウは、頭を抱えながら、二人の間に割って入る。


「わーわー!わかったから!落ち着けって!」


ゴウがなんとか二人を宥めると、イオは、心底呆れたという顔で、ルルに問いを突きつけた。


「では聞くが、ルル。君は、一体何ができるのだ?」


その問いに、ルルはぐうの音も出なかった。


「ぐう……あ、う…な、何も…ありません…」


場の空気が、最悪に気まずくなる。それを見かねたゴウは、携帯用のコンロを取り出した。


「…はいはい、休憩!俺が、美味いコーヒー淹れてやるよ」


香ばしい香りが広がる中、ルルは、カップに注がれる黒い液体をぼーっと見つめた。


「……黒い…苦い…。昔、無理やり飲まされた、『黒沼の泥茶』…。あの道場の、ケンガン先生…。岩みたいな、拳…。拳…拳法…」


ルルは、ぶつぶつと呟きながら、何かを必死に思い出そうとしている。


「…そうだ…。お父さんとお母さんの勧めで、無理やりやらされた、『不動山流体術』…。わたし、才能がなさすぎて…。でも…」


その時、ルルの瞳に、ぱっと光が宿った。


「でも、先生、一つだけ、褒めてくれたことがある!組手の時、兄弟子の渾身の蹴りをお腹で受け止めても、わたし、全然、平気だった!先生、言ってた!『ルル!お前は防御力だけは伝説級だ!』って!」


そう言って、ルルは、ばっと立ち上がった。


「あたし、守るのは、得意です!」


ゴウは、その柔らかそうなお腹を見つめながら、心の底から納得したように、深く、頷いた。


「…確かに」


「問題は、その防御力をどう活かすかだ」


イオが議論を再開する。


「盾…。盾といえば、ハグルマシティの『鉄壁ベーカリー』の黒パン…。あのパン、ミギンズさん家の犬の『ポチ』が大好きで…。ポチの毛って、ふわふわで…ふわふわ…あたしのお腹みたい…」


そして、その目が、とろんと据わる。


「そうですよ…。あたしのお腹は、ポチの毛皮のように、すべての衝撃を優しく受け止めるんです…。ゴウくん、試しに、このお腹に、飛び込んできても、いいんですよ…?」


「な、ん、で、だ、よ!」


ゴウが、軌道修正する。


「他にできることはないのかよ!?」


「他に…ほか…保管庫…。叔父さんの古い幻光盤の保管庫…。『硝煙のワルツ』っていうのが好きで…。硝煙…銃…」


ルルの瞳が、キラリと光った。


「銃といえば!ハグルマシティの射的屋の、片目のバーソロミューさん!あたし、特賞の『ブリキのゴーレム人形』を、一発で撃ち落としたことがあるんです!」


ルルは、確固たる自信に満ちた表情で断言した。


「あたし、銃、得意かもしれません!」


半信半疑のまま、イオは、飛行船の船首機関砲で、試し撃ちをさせた。

結果は、驚くべきものだった。ルルが放った弾丸は、遥か先の岩礁の、指定した一点を、寸分の狂いもなく粉砕したのだ。


「…わかったぞ」


イオは、一つの結論にたどり着いた。


「君のその巨体と、ぽっちゃりした体型。それが、射撃時の反動を完璧に相殺し、微細なブレを吸収する!君は、その身体そのものが、天然の『固定砲台』なのだ!」


こうして、ルルが持ち運べる魔力銃を探すため、三人は再び船倉のガラクタの山へと向かった。


「これ、もしかして…『魔力式カービン銃マークⅡ』の試作フレーム!」


ルルが、埃をかぶった一丁の銃を、宝物のように掲げた。

イオは、それを見て、作戦を決定した。


「よし。この銃を改造し、浄化作用のある魔力触媒を弾丸として、『蒼き心臓』の汚染されたコアに直接撃ち込む。それが、我々の取るべき、最も合理的な解決策だ」


イオの言葉に、ルルはこくりと頷くと、船内の作業台で、慣れた手つきでカービン銃の分解を始めた。


「見てください、ゴウくん。ここの魔力コンバーターは旧式の『水晶蒸気社』製ですね。出力は低いですが、構造が単純で、とっても可愛いんです。あ、この引き金機構は、『鋼鉄腕社』の…。ここは、エーテル残渣が溜まりやすいので、こうして、こまめに掃除してあげないと、拗ねちゃうんですよ」


彼女は、まるで旧友と語らうかのように、楽しげに、そして、驚くほど正確に、複雑な銃をバラバラの部品へと分解していく。

その、あまりにも異常な手際の良さ。専門家もかくやという、深すぎる知識。


イオの瞳が、すっと細められた。


『…この女、何者だ?ヤバい人間なんじゃないか…?』


その、突き刺すような視線に、ルルは気づいた。彼女は、びくりと体を震わせると、途端に、いつものおどおどした女性へと逆戻りした。


「あ!あう…!ご、ごめんなさい!あ、怪しい者じゃないんです!これは、その、父がやっていたガラクタ屋の商品の、説明書を読んでいただけというか…『ブリキ・ゴーレム3号』の修理とかもしてたら、詳しくなっちゃっただけで…」


「?」


ゴウは、ただただ、不思議そうに首を傾げた。だが、イオは、その瞬間に、全てを理解した。


「なるほどな。ケンジの世界の言葉で言うところの、君は、『オタク』ということだ」


こうして、ルルに『銃オタク』という新たな称号が与えられた。

彼女は、外で集めてきた巻貝や水晶を使って、カービン銃の改造を再開する。

完成したのは、自然の造形美と、無骨な機械工学が、奇跡的なバランスで融合した、唯一無二の芸術品だった。


「うおおおおおっ!すげえ!ルル、これ、めちゃくちゃカッコいいじゃねえか!」


ゴウは、少年の心を鷲掴みにされ、目をキラキラと輝かせながら、その銃を称賛した。

イオは、その銃の非合理的な構造を一瞥したが、心から嬉しそうにしているゴウの横顔を見ると、静かに、そして、深く頷いた。


「ふむ。ゴウが、これほど強力な武器だと判断するのなら、そうなのであろうな」


『蒼き心臓』を浄化する。その使命を胸に、三人は飛行船の改造に取り掛かっていた。


「この飛行船を、一時的に、潜水艇へとコンバートする」


イオの宣言に、ゴウとルルは目を丸くした。


「そんなこと、できるのか!?」


「理論上は可能だ。船体の気密性を確保し、水中での推進力と生命維持装置を即席で構築する。非効率的だが、他に選択肢はない」


そこからの三人の動きは、さながらドタバタ劇のようだった。

イオの指揮の下、ゴウは遺跡の瓦礫から頑丈な金属板を運び、船体の亀裂や窓を塞いでいく。

ルルは、その器用な手つきで、特殊な樹脂を使い、金属板の隙間を完全に密閉していく。


「この樹脂、ハグルマシティの『蒸気パイプ修理組合』で使われてる、『ネバーリーク3号』にそっくりです!」


イオは、船の魔力エンジンを改造し、海水を電気分解して推進力を得る、無音の電磁推進システムを組み上げた。予備の生命維持装置として、液体呼吸用の、怪しげなピンク色の液体が入ったボンベまで用意する周到ぶりだった。

数時間の格闘の末、飛行船は、不格好だが、頑丈な、即席の潜水艇へとその姿を変えた。


「行くぞ!」


ゴウの号令と共に、船は、白い砂浜から、ゆっくりと、エメラルドグリーンの海へと沈んでいく。

世界から、音が消えた。


太陽の光が届いていた、明るい浅瀬を過ぎると、世界は急速に、青一色に染まっていく。船内には、金属がきしむ、不安な音だけが響き渡る。やがて、その青は、深い藍色に変わり、そして、完全な漆黒が、三人を支配した。


船首に取り付けた、強力なスポットライトだけが、前方を照らし出す。そこに映し出されるのは、地上とは全く異なる、異世界の光景だった。自ら発光する、幽霊のようなクラゲの群れ。牙を剥き出しにした、奇怪な深海魚。そして、スポットライトの光が届かない、闇の向こう側でうごめく、巨大な何かの影。


ゴウは、操縦席の窓に額を押し付け、その光景に釘付けになっていた。


怖い。

敵が、ではない。

この、海の、底知れなさが、怖いのだ。

上も、下も、右も、左も、ただ、どこまでも続く、冷たい、黒い水。船を一歩でも出れば、凄まじい水圧が、一瞬で体を圧し潰すだろう。ここは、人間が生きていてはいけない場所だ。宇宙空間にも似た、絶対的な孤独と、死の気配。


ゴウの体が、カタカタと、小刻みに震え始めた。

その時だった。

背後から、そっと、温かいものが、彼の体を包み込んだ。


「わっ!?」


ゴウが驚いて振り返るより早く、イオが、彼の冷えた体を、後ろから、優しく抱きしめていた。彼女は、何も言わなかった。ただ、ゴウの震えが止まるまで、その小さな背中に、自分の体温を分け与えるように、じっと、抱きしめ続けていた。

ゴウは、驚きながらも、その温かさに、強張っていた心をゆっくりと解きほぐしていく。

だが、その温かい静寂は、すぐに、別の、さらに大きな温もりによって、破られた。


「…わっ!」


今度は、イオが、可愛らしい声を上げて、びくりと体を震わせた。

ゴウを抱きしめていたイオの、そのさらに後ろから、ルルが、その大きな体で、二人まとめて、ふわりと、抱きしめていたのだ。

イオが、困惑したように、背後のルルを見上げる。ルルは、聖母のような、穏やかな笑みを浮かべて、イオの頭の上に、そっと自分の顎を乗せた。


「大丈夫ですよ、イオさん。今だけは、あたしがお母さんの、お母さんですからね」


その、あまりに優しく、そして、少しだけおかしな言葉に、イオの頬が、わずかに赤く染まった。

三人は、しばらくの間、深海の暗闇のただ中で、一つの温かい塊となって、静かに、そこにいた。


やがて、船のソナーが、前方に、巨大な構造物を捉えた。

スポットライトの光が、闇の中から、荘厳な神殿の姿を、ゆっくりと浮かび上がらせる。

そこは、悠久の時を経て、なお、その威容を保ち続ける、沈黙の海底神殿だった。


船内は、自らの呼吸音と、水圧にきしむ船体の悲鳴だけが響く、緊張に満ちた静寂に包まれている。

眼前に、神殿の巨大な入り口が、まるで深海の巨人の口のように、その姿を現し始めた。


「よし、もうすぐだ…」


イオが、慎重に操縦桿を握る。だが、その時だった。


「何かがおかしい……」


ゴウが、鋭い声で呟いた。彼は、ソナーにもレーダーにも映らない、本能的な危険を察知していた。それは、獣の匂いを嗅ぎ分ける、狩人の勘だった。


「イオ、近づきすぎるな!なにか、何か、嫌な感じがする!」


「ゴウ。センサーに異常はない」


イオは、ゴウの直感を非合理的だと一蹴し、さらに船を前進させる。


「待て!イオ!やめろ!」


ゴウの絶叫と、それが現実になるのは、ほぼ同時だった。

神殿の入り口と見えていたものが、突如として「開いた」。いや、それは入り口ではなかった。光学迷彩で、神殿の壁に擬態していた、超巨大なアンコウ型の怪物の、巨大な顎だったのだ。


「罠かっ!」


無数の牙が、船体を砕かんと迫る!


「ルル!」


イオの叫び。


「はいなっ!」


すでに銃座についていたルルが、動揺一つ見せずに引き金を引く。

ターコイズブルーの螺旋光が、海水を沸騰させながら怪物の口内へと叩き込まれ、その巨体を内側から木っ端微塵に吹き飛ばした。

だが、それは、巧妙に仕組まれた陽動だった。


「後ろか!」


ソナーが、後方からの急速な接近を告げる。イオは、即座に船を反転させ、迎撃態勢をとった。

だが、それは、敵の陽動に誘い出すための、偽りの信号だった。

本当の脅威は、上と、下から来ていた。

海底の地形に完全に同化していた、無数のカマキリ型の小型怪物の群れが、一斉に襲いかかってきたのだ。


「しまった!裏をかかれた!」


無数の、鎌のような腕が、船体の、装甲が最も薄い、上下から突き刺さる。


「くそっ、キリがねえ!」


ゴウは、予備の銛銃で応戦する。ルルの機銃も火を吹くが、敵の数が多すぎる。


「イオ!船のバッテリーから、電力を全部放出できないのか!」


「やるしかないな!」


イオは、覚悟を決め、船体の全エネルギーを、一度きりのパルス放電として放った。

船の周囲に、凄まじい電撃が走り、怪物の群れは、感電して、一斉に離れていく。


「…やったか…!」


ゴウが息をついた、その時だった。

船倉の方から、ゴポゴポ…という、嫌な水の音が聞こえてきた。


「嘘だろ…」


三人が駆けつけると、そこは、悪夢の光景だった。

先ほどの攻撃で、一体の怪物が、船倉の壁を食い破り、その鎌のような腕を突き刺したまま、絶命していたのだ。そして、その腕がこじ開けた穴から、凄まじい勢いで、海水が流れ込んでいた。


「まずい!このままでは、船が水圧で潰される!」


「ゴウ!ルル!奥の隔壁を閉鎖しろ!」


イオが叫ぶ。

ゴウとルルは、腰まで海水に浸かりながら、必死に、手動で、緊急用の隔壁を閉鎖しようとする。


「くそっ、重てえ!」


「が、頑張って、ゴウくん!」


ギギギギ…という、金属の悲鳴が上がる。そして、最後の一人が通れるくらいの隙間を残して、隔壁は、その動きを止めてしまった。


「ダメだ!水圧で、これ以上、閉まらねえ!」


船倉は、もう、完全に浸水し、失われた。

イオは、操縦室で、次々と消えていく計器のランプを、唇を噛み締めながら見つめていた。


「メインエンジン、浸水により機能停止。垂直スラスター、応答なし。…航行能力、喪失。我々は、完全に立ち往生だ」


飛行船は、もはや、ただの鉄の棺桶と化していた。動くことも、浮上することもできない。残された生命維持装置が、尽きるのを待つだけだ。

そして、その、動かなくなった船の、すぐ目の前。わずか、数十メートル先には、目的地である、沈黙の神殿の、本当の入り口が、まるで、三人を嘲笑うかのように、静かに、口を開けていた。


鉄の棺桶と化した飛行船に、船体のきしむ音と、赤い非常灯の明滅だけが、死の宣告のように響き渡っていた。生命維持装置の残存時間を示すカウンターが、無慈悲に数字を減らしていく。


「あわわ…あわわわ…!こ、こんな所で、海の藻屑になるなんて…!やっぱり、ハグルマシティのあたしの部屋から、出るべきじゃなかったんです…!」


ルルは、完全にパニックに陥り、その巨体を震わせている。


「うるさい!泣き言を言うな!」


ゴウは、浸水した船倉との隔壁を必死に押さえていたが、凄まじい水圧に、びくともしない。


「くそっ!どうすりゃいいんだよ!」


絶望が、三人を支配しかけていた。

イオは、高速で思考を巡らせていたが、導き出される結論は、どれも生存確率0.01%以下という、非情な数字ばかりだった。

だが、その時だった。ゴウが、まるで天啓を得たかのように、顔を上げた。彼の視線は、船首に固定されたままの、予備の銛銃と、そして、ルルが大切そうに抱えている、愛銃『カービン・マークⅡ』に注がれていた。


「…イオ、ルル。一つ、思いついた。絶対に、誰もやらないような、クソみたいに馬鹿な作戦だ」


ゴウが語った作戦は、まさに、狂気の沙汰だった。

船外に出て、船の装甲版を一枚剥がし、それに三人で乗り込む。そして、後方でルルが『カービン・マークⅡ』を最大出力で噴射し、その反動を推進力にして、神殿まで一気に突っ込む、人間魚雷作戦。


「却下する!」


イオは、即座に叫んだ。


「あまりに無謀だ!推進力のベクトルが少しでもずれれば、我々は神殿の壁に叩きつけられてミンチになる!そもそも、生身の人間が、あの銃の反動に耐えられるはずがない!成功確率は、限りなくゼロだ!」


「ゼロじゃねえだろ!」


ゴウは、イオの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、叫び返した。


「このまま、ここで、指をくわえて死ぬのを待つより、よっぽどマシだ!俺は、まだ諦めてねえ!俺たちは、まだ、死んでねえ!」


その、魂からの叫び。それは、論理を超えた、生命そのものの咆哮だった。イオは、ゴウの瞳に宿る、決して消えることのない炎を見て、唇を噛み締めた。


「…わかった。その、非合理的な賭けに乗ろう」


そこからの三人の動きは、火事場の馬鹿力と、それぞれの才能が融合した、奇跡の連携だった。

ゴウが、最後の力を振り絞り、船体の装甲版を一枚、無理やり引き剥がす。

イオが、銛銃を改造し、先端にワイヤーを付けて、神殿の入り口に撃ち込み、一本のレールを確保した。

そして、ルルは、愛銃を抱きしめ、覚悟を決めていた。

三人は、残された潜水ヘルメットを被り、緊急用のエアロックから、冷たい深海へと、その身を躍らせた。

ゴウが、剥がした装甲版の先端に乗り、舵取り役となる。

イオが、中間で全体のバランスを取り、指示を出す。

そして、最後尾に、この作戦の心臓部である、ルルが、銃を構えた。


「いいか!俺の合図で、ありったけの力で撃て!」


ゴウが叫ぶ。

ワイヤーを伝って、神殿の入り口へと狙いを定める。


「今だあああああっ!」


その声に、ルルは、恐怖を振り払うように絶叫しながら、引き金を引いた。


「いっけえええええええええええっ!」


ゴオオオオオオッ!

『カービン・マークⅡ』が咆哮し、ターコイズブルーの奔流が、三人の背後で炸裂した。

凄まじい反動が、三人を襲う。それは、もはや推進力というより、爆発そのものだった。

三人を乗せた鉄のソリは、水中で音速を超え、魚雷となって、一直線に、神殿へと向かっていく。


「ぎゃああああああああああ!」


ゴウは、必死に舵にしがみつきながら、絶叫している。


「計算以上の加速だ!このままでは、目標をオーバーランする!」


イオが、悲鳴に近い分析結果を叫ぶ。

だが、三人は、奇跡的に、神殿の入り口へと寸分の狂いもなく着水(?)し、そのまま、神殿の内部の床を、火花を散らしながら、凄まじい勢いで滑走していった。

そして、最奥の広間、『蒼き心臓』が安置された、祭壇の壁に激突し、ようやく、その狂った進軍を止めたのだった。


「……はぁ…はぁ…い、生きてる…」


ゴウが、気を失いかけている。ルルは、反動で完全に伸びていた。

だが、休んでいる時間はない。ヘルメットの活動限界も、残りわずかだ。

イオは、満身創痍の二人を叱咤した。


「立て、二人とも!最後の仕事を、終わらせるぞ!」


目の前には、黒い亀裂から、汚染された魔力を漏れ出させる、『蒼き心臓』。


「ルル!」


イオの叫び。

ルルは、震える腕で、再び、『カービン・マークⅡ』を持ち上げた。その銃口の先には、イオが用意した、最後の希望――浄化の水晶弾が、装填されている。


彼女は、引き金を引いた。

それは、この海の、未来を決める、最後の一撃だった。

浄化の光を纏った、ターコイズブルーの螺旋が、まっすぐに、『蒼き心臓』の中心にある、黒い亀裂へと、吸い込まれていった。

その瞬間、世界が、白い光に包まれた。


光が収まった時、三人は、静寂を取り戻した神殿の広間に、呆然と立ち尽くしていた。『蒼き心臓』は、その名の通り、穏やかで、清らかな青い光を、心臓の鼓動のように、ゆっくりと脈打たせている。亀裂は完全に塞がり、漏れ出していた汚染は、跡形もなく消え去っていた。

勝ったのだ。


だが、どうやって、ここから帰る?

ゴウの脳裏に、絶望的な現実が蘇る。船は壊れ、ヘルメットの活動限界も、もうすぐだ。


その時だった。

浄化された『蒼き心臓』が、まるで感謝を示すかのように、ひときわ強い光を放った。そして、その光は、三人の体を、柔らかな水の泡で包み込んだ。次の瞬間、彼らの体は、抗うことのできない、しかし、どこまでも優しい上昇気流に乗って、水面へと、ゆっくりと、ゆっくりと、昇り始めた。


最初は、光の届かない、絶対的な暗闇。そこは、生命の気配すら感じられない、死の領域だった。母なる海。その言葉が、ゴウの脳裏をよぎる。なんて、恐ろしいのだろう。この海は、全ての生命の源でありながら、その気まぐれ一つで、全てを飲み込み、無に還してしまう、絶対的な捕食者でもあるのだ。その、底知れない深淵に、ゴウは、魂の根源が震えるような、原始的な恐怖を感じていた。


やがて、上昇を続ける彼らの頭上に、遠い、遠い光が見えてきた。

世界の色が、ゆっくりと変わっていく。漆黒から、深い藍色へ。藍色から、澄み切った群青色へ。そして、太陽の光が、金色の槍のように、幾筋も、水の中へと突き刺さり始めた。


海は、もはや、恐怖の対象ではなかった。ゆらめく光のカーテンの中を、色とりどりの魚たちが、祝福するように舞っている。なんと、美しいのだろう。なんと、温かいのだろう。母なる海は、死であり、同時に、生命そのものでもあるのだ。


ゴウは、自分の隣で、同じように光の粒子に包まれて昇っていく、二人の女性の姿を見た。


イオ。

彼女は、世界の全てを理屈で解き明かそうとする、天才で、魔王で、そして、不器用な、俺の「母親」だ。彼女は、俺に、世界の複雑さと、それに立ち向かうための知恵を教えてくれる。


ルル。

彼女は、世界の全てを感情で受け止めようとする、心優しくて、食いしん坊で、とてつもない力を持つ、俺の、もう一人の「母親」だ。彼女は、俺に、世界の温かさと、理屈を超えた先にある、無償の愛を教えてくれる。


俺は、もう一人じゃない。

この、恐ろしくて、そして、どうしようもなく美しい、母なる海の中で。

俺には、二人も、母親がいる。

その事実が、ゴウの心を、どうしようもないほどの、幸福感で満たした。

ざっぱーん!

三人の体は、水面を突き破り、太陽の光が満ち溢れる、地上へと帰還した。

彼らは、白い砂浜に打ち上げられ、ぜえぜえと息をしながらも、互いの顔を見て、笑い合った。


「やったな…!」


ゴウは、仰向けに倒れ込み、どこまでも青い空を見上げた。やり遂げたのだ。

その、ゴウの顔を、イオが、濡れた髪から雫を滴らせながら、覗き込んだ。彼女の瞳には、安堵と、誇らしさと、そして、これまでゴウが見たこともないほど、熱く、潤んだ感情が、渦を巻いていた。

彼女は、何も言わなかった。

ただ、その燃えるような瞳でゴウを見つめると、ゆっくりと顔を寄せ、その唇を、ゴウの唇に、強く、押し付けた。

それは、これまでの、どんなキスとも違っていた。安堵と、喜びと、そして、独占欲が、ごちゃ混ぜになった、激しい、激しいキスだった。まるで、ゴウの生命そのものを、確かめるかのように、彼の唾液ごと、飲み干さんばかりの勢いで。

ゴウが、その、あまりに情熱的な口づけに、意識を飛ばしかけていた、その時。

唇のすぐ横に、にゅるり、とした、第三の感触が、割り込んできた。


「……んむ!?」


ゴウとイオが、同時に目を見開く。

そこには、満面の笑みを浮かべたルルが、二人の、固く結ばれた唇の、その結合部分を、子犬のように、ぺろぺろと、熱心に舐め回していた。


「ルル!?き、貴様ッ、何を…!」


イオが、真っ赤な顔で、驚愕の声を上げる。

ルルは、きょとんとした顔で、小首を傾げた。そして、心底、不思議そうに、こう言った。


「え?あの、すごく、幸せそうな雰囲気だったので…。い、いまは、みんなで舐め合う時なのかなって…」


「……」


「……」


「……えへへ」


気まずい沈黙が流れる中、ルルだけが、なぜか満足そうに微笑んでいた。


その、奇妙な空気を破ったのは、背後から聞こえた、老人の絶叫だった。


「な、なんじゃこりゃあ!海が…!海が、光っておる!」


振り返ると、そこには、海の家のおやっさんが、腰を抜かさんばかりの勢いで、驚愕の表情を浮かべて立っていた。


彼の指さす先、エメラルドグリーンだった海は、その姿をさらに変えていた。海の底、浄化された『蒼き心臓』から放たれる、穏やかで、清らかな青い光。その光が、海全体を、内側から、まるで巨大な宝石のように、キラキラと輝かせているのだ。これまで、汚染された魔力に怯えていた魚たちが、群れをなして、岸辺へと戻ってきていた。


「あ、ああ…」


ゴウは、口下手ながらも、事の経緯を説明した。海底の遺跡に潜り、汚染の元を断ってきた、と。

おやっさんは、ゴウの手を、涙でぐしゃぐしゃになりながら、何度も何度も握りしめた。


「あ…ありがとう…!ありがとう、あんたたち…!」


彼は、小さな村へと、一目散に駆け出していった。

やがて、その知らせは、村中の人々に伝わった。年老いた漁師たち、その妻たち、そして、村に数人しかいない子供たち。皆が、浜辺へと集まってきて、蘇った海の美しさに、涙を流して喜んだ。


村長と思しき、一番年嵩の老人が、三人の前に進み出て、深々と頭を下げた。


「旅の方々よ。あなた方は、我々の海を、我々の未来を、救ってくださった。この御恩は、決して忘れませぬ」


だが、村人たちの表情は、どこか申し訳なさそうだった。


「じゃが…今の我々には、お渡しできるような、金目のものなど、何一つないのです」


村長は、沖合の、今は穏やかになった海を指さした。


「昔、この村の財産のほとんどを積んだ交易船が、嵐で、あの遺跡のすぐそばに沈んでしまってのう。以来、この村は、すっかり貧しくなってしまった。あなた方に差し上げられるものなど…」


その言葉に、ゴウは、にっと笑った。


「礼なんて、いらねえよ!じいさんたちが喜んでくれただけで、十分だ!」


「いえ、そういうわけには、いきませぬ」


村長の、意志は固かった。


「我々の、誇りの問題です。金銀財宝はなくとも、我々が出せる、全てを、あなた方に」


そう言って、村人たちが、三人を案内したのは、村はずれにある、古びた納屋だった。

そこにあったのは、埃をかぶった、一台の、古くて、錆びついた、三輪のトラックだった。


「こ、これは…?」


「我が村が、かつて交易で使っておった、魔導蒸気式のトラック、『シーラカンス3号』じゃ。エンジンは、もう何年も前に壊れてしもうたが…これくらいしか、我々には…」


それは、お世辞にも立派とは言えない、ガラクタ同然の贈り物だった。だが、村人たちの、精一杯の感謝の気持ちが、その錆びついた車体から、ひしひしと伝わってきた。


イオは、その車体を分析し、「シャーシの腐食が深刻だ。ボイラーの圧力弁も劣化している。この乗り物の、現時点における稼働確率は、統計的にゼロと断言できる」と、相変わらずの調子だったが、その口元は、少しだけ、緩んでいた。


さらに、村の女たちが、大きな布の包みを持ってきた。中には、繕いの跡が目立つが、清潔に洗濯された、たくさんの衣服が入っていた。


「これも、持っておゆきなさい。我々の、着古しで、申し訳ないが…」


金銀財宝よりも、遥かに温かい、心のこもった贈り物。

三人は、その全てを、ありがたく受け取ることにした。

その夜、三人は、村で一番立派な宿に泊まった。

ゴウは、もらったばかりの、少しサイズの大きいシャツを広げながら、今日の出来事を思い返していた。

隣には、相変わらず屁理屈をこねているが、どこか満足げなイオと、新しい服にはしゃいでいるルル。そして、窓の外には、静かに輝く、蘇った海。

ガラクタみたいな車と、お古の服。

だけど、こんなに心が温かくなる贈り物は、生まれて初めてだった。

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