第15話:野生のお母さん
ハグルマシティでの目的を果たし、飛行船の修理も完了した。テオと街の人々に見送られ、ゴウとイオは、まさに飛び立とうとしていた。
「よし、イオ!出発だ!」
ゴウが希望に満ちた声を上げた、その瞬間だった。
「ああああ、ああ、あの、間に合わない、人生に、乗り遅れるううううっ!」
物悲しいようでいて、どこか切羽まった叫び声と共に、通りの向こうから、一人の女性が猛然とこちらへ突進してきた。身長が高く、少しぽっちゃりとした、しかし、その体型を補って余りあるほどに巨大な胸を持つお姉さんだった。彼女は、足元の古びた歯車に気づかず、盛大に足を滑らせ、放物線を描いて、見事に宙を舞った。
そして、その着地地点には、運悪く、イオが立っていた。
「む?」
イオが気づいた時には、もう遅い。
お姉さんの巨大な胸が、イオの顔面をクリーンヒットした。イオは「んぐっ!」という言葉にならない悲鳴を上げ、そのまま後ろへ吹っ飛んだ。
「な、なんて失礼な胸なのだ…!」
顔を押さえながら、なんとか起き上がったイオは、主の制御を離れて凶器と化 したその胸に、抗議の意を込めて、ぺしっと平手打ちを食らわせた。
「きゃん!」
お姉さんは、子犬のような可愛らしい悲鳴を上げると、その場でうずくまった。
「あぅ…わ、わたしの唯一の長所であるこの柔らかい部分に、暴力…ひどい…訴訟も辞さない構え…」
そして、うずくまったまま、彼女のマシンガンのような、訳のわからない独白が始まった。
「あ、あの、ごめんなさい、でも、これは運命だと思うんです、わたし、この街から出たいってずっと思ってて…」
「待て」
イオは、すかさずツッコミを入れた。
「事象の偶然性を、観測者の主観によって『運命』と定義づけるのは、論理的飛躍だ。君と我々が接触したのは、君の不注意と、我々の存在確率が偶然重なった結果に過ぎん」
「でも、いとこが都の『水晶蒸気社』に就職した時に誘われたんですけど、履歴書の書く欄が多すぎて不安になってやめちゃったし、でも、やっぱりこの街からは出たいし…」
「話が飛んだな」
イオは、早くも困惑し始めた。
「君の離脱願望と、君のいとこの就職活動、そして筆記用具に対する不安感。この三つの事象を結びつける、明確な因果関係が観測できないのだが?」
「それに、お母さんがパン屋の息子さんの写真とか見せてくるし、そろそろ結婚相手も欲しいけど、でも、家からは一歩も出たくないし、わたしの部屋は安全地帯だし…」
「待て、待ってくれ!」
イオの脳が、情報の洪水に混乱し始める。
「論点が拡散しすぎている!街からの離脱、結婚願望、そして特定の居住空間への固執!君の目的関数が定義できない!君の最終的な目標地点はどこなのだ!?君は一体、何をしたいのだ!?」
「でも、もし、この飛行船がわたしの新しい家だと仮定すれば、わたしは家から出ていないことになりますよね?それは悪くないし、あと、そこの少年、なんか、こう、栄養価が高そうで、食べごろだから…」
「なっ…!」
イオの論理回路が、ショート寸前になった。
「その仮定はカテゴリーの誤謬であり、ゴウへの言及は捕食者のそれだ!前提が論理的に破綻している上に、結論が非人道的だ!私の、私の脳が…!エラーを、エラーを吐いている…!再計算、再計算…不可能だ!」
「だから、もし、この飛行船に乗せてくれないなら、やだ…やだです…」
最後の、子供のような一言が、イオの思考能力に、とどめを刺した。
イオが頭を抱えてうめく横で、ゴウはあっけらかんと笑った。
「よくわかんねえけど、面白いやつだな!いいぜ、一緒に来いよ!俺はゴウ、こっちはイオ。あんたの名前は?」
「る、ルルです…ルル・オーキッド……ご迷惑でなければ、あの、隅っこの方で、息を潜めてますので…」
こうして、ルルと名乗る、論理の破壊者を乗せ、飛行船はハグルマシティを飛び立った。
自動操縦に切り替え、イオは、この新しい、極めて非合理的な乗組員についてのデータ収集を試みた。
「さて、ルル。君は、我々の旅において、どのような貢献が可能だと自己分析する?」
「え、あ、貢献…ですか?ええと、ハグルマシティの『蒸しパン早食い大会』で三位になったことがあります…。でも、優勝したミギンズさん家の息子さんは、大会スポンサーの『銀の歯車ベーカリー』の甥っ子で、絶対、審査員を買収してたと思うんです…。あと、『機械仕掛けの吟遊詩人』っていう楽団の、『錆びたゴーレムの涙』っていう曲なら、旧式の音響水晶盤でも完璧な音質で再生できます…」
イオは、そのどうでもいい個人情報とゴシップの濁流を、真剣な顔で分析し始めた。
「なるほど…。高い食料摂取能力は、長期航海における生存率の高さを示唆する。権力に対する不信感と鋭い観察眼は、諜E活動において有用な可能性がある。そして、旧式機械への造詣の深さ…ふむ。興味深いサンプルだ」
「え、あ、はい…」
ゴウが、楽しそうに二人の会話に割って入る。
「なあ、ルルはどこに行きたいんだ?」
「ええと、ここじゃないどこかなら…。『白波の港町エリシア』とか、素敵そうだなって、文通相手のスージーちゃんが言ってましたけど、でも、あそこのカモメは、『ヘムロック爺さんのエサ屋』の近くにいるやつが特に凶暴で、人の食べ物を奪うって聞きましたし、わたし、鳥、怖いので、やっぱりやめようかなって…」
イオは、ペンを取り出すと、几帳面にメモを取り始めた。
「分析:被験者は、現状からの脱却を望む一方で、未知の環境に対する極端な恐怖心を持つ。典型的な、接近=回避の葛藤状態にある」
「それであたし、スージーちゃんに、『ポルペッタ村の木苺パイは絶品よ』って手紙を書いたんです…」
「ほう、ポルペッタ村の木苺パイか。あれの甘酸っぱさの比率は、確かに黄金比に近いものがあったな…」
「ですよね!?」
眼下にはハグルマシティの無骨な街並みがみるみる小さくなっていく。目的地は、南の海。
ルルは、どうにも落ち着かない様子だった。船内をそわそわと歩き回り、窓の外を不安げに眺めている。
「大丈夫か?檻の中の動物みたいだぞ」
操縦桿を握るゴウが、呆れたように声をかける。その一言が、ルルの不安の捌け口に、火をつけた。
「お、檻ですって!?そ、そういえば、檻といえば、あのジャーミアン・コスが撮った幻光の傑作、『時計仕掛けのカナリアと金色の檻』を思い出します!あのラストシーンで、主人公のフォン・ヘス男爵が言うセリフ!『檻が牢獄なのは、外に自由があると錯覚している時だけだ』…あれって、深くないですか!?」
「ああ、ベランティー…いや、コスの作品か」
イオが、興味深そうに会話に入ってきた。
「あの作品のテーマは、主観的認識が規定する幸福の相対性だな。面白い試みだが、いかんせん台詞が冗長すぎる」
こうして、飛行船の船室では、世界の命運など全く関係のない、極めて不毛な幻光論争が始まった。
「冗長じゃありません!あれがコスの味じゃないですか!」
ルルは、自分の得意分野に話が及んだことで、少しだけ元気を取り戻したようだ。
「特に、『銀の盆の上、最後の夕日』で、主人公のサイラスが、『エリシア港の闇トリュフ』を一口食べただけで、自分の人生が偽りだったって気づくシーン!特定の郷土料理が、物語の転換点になるなんて、コスは天才ですよ!」
「ふむ」
イオは、腕を組んで分析を始める。
「君が主張しているのは、物語における『マクガフィン』…すなわち、筋書きを動かすための小道具の有効性について、だな。キャラクターの認識論的危機を誘発する起爆剤としては、古典的だが、確かに、効果的な手法だ」
「まくがふぃん…?よくわかりませんけど、違います!サイラスは、ハグルマシティの『灰かぶり地区』の出身だから、闇トリュフが、彼にとって手の届かない貴族の富の象徴だったんです!これは階級闘争の物語なんですよ!『グレタおばさんの蒸気キッチン』で、ライバルの片目の操縦士、バーソロミュー・ヒギンズが言ってたじゃないですか!」
「なるほど。キャラクターの社会経済的背景が、小道具の象徴性を担保していると。つまり、この物語は、階級闘争を主題とした、典型的なビルドゥングスロマンの構造を持っているわけだ。片目の操縦士は、主人公に重要な情報開示を行う、助言者であり、好敵手というわけだな」
イオが、ルルの熱弁を、次々と一般名詞と普遍的な概念に変換していく。ルルの洞察力は鋭いが、イオの体系的な知識と論理の前では、徐々に分が悪くなってきた。
「バーティです!バーソロミュー・“バーティ”・ヒギンズです!彼は…彼は、すごくいいことを言ってたんです!忘れましたけど!で、でも、あたしの洞察が告げてるんです!大事なのは理屈じゃなくて、あの、胸が締め付けられるような『感じ』なんです!コスはその『感じ』を描く、世界一の幻光作家なんです!」
ついにルルは、論理を放棄し、感情論に打って出た。
イオは、冷静に、そして、無慈悲にとどめを刺した。
「『感じ』…すなわち、主観的な情動反応は、客観的な芸術批評の評価基準としては採用できない。作品の価値は、その構造的完全性、テーマ的一貫性、そして論理的整合性によって判断されるべきだ。その基準に照らし合わせれば、ジャーミアン・コスは有能だが、決して最高ではない。凡百の幻光作家の一人だ」
「……んーっ!」
完膚なきまでに論破され、ルルは涙目になった。彼女は悔しそうに辺りを見回すと、最後の、そして、最悪の手段に打って出た。
彼女は、操縦席でこの不毛な論争を完全に無視し、鼻歌交じりに地図を眺めていたゴウの背後に、音もなく忍び寄った。そして、その体を、背後からがしりと抱きしめ、自分の巨大な胸を、ゴウの後頭部に押し付けた!
「ひ、一言でも動いたら…!この子に、わ、わたしの最終奥義…『おっぱい攻撃』をしますよ!」
「な、何!?」
ゴウは、突然の柔らかい衝撃に、ただただ困惑している。
だが、イオは、その言葉に凍り付いた。
「待て…!『おっぱい攻撃』だと…!?ま、まずい!」
彼女の顔から、すっと血の気が引いていく。
「いかん!ルル、落ち着け!早まるな!おっぱい攻撃は、論理的な対話のテーブルを強制的に転覆させる、物理的介入だ!それは、大脳新皮質をバイパスし、快楽原則を司る脳幹に直接作用する!あまりに強力すぎる!対話における禁じ手だ!」
イオは、本気で狼狽えていた。
「わ、わかった!私が間違っていた!君の洞察は、完全に正しかった!だから、頼む!その最終兵器だけは、使うんじゃない!この子の、健全な精神的発達のためにも!」
イオの必死の説得に、ルルは満足げに頷くと、そっとゴウを解放した。
ゴウは、自分の頭が人質に取られ、世界一どうでもいい論争が終結したことに、全く気づいていなかった。
「ん?なんか言ったか?あ、イオ、見てみろよ!海だ!」
少年の無邪気な声が、飛行船の奇妙な静寂を破った。眼下には、どこまでも続く、青い、青い海が広がっていた。