第32話:過程こそが人生。(蛇足)
宿屋の女将が流す涙と、その唇からこぼれ落ちた、決して忘れえぬ名。ゴウは、隣に立つイオと、泣き崩れる女将を交互に見比べ、混乱していた。
「エラーラ様…」
「エラーラ?おばちゃん、何言ってんだよ。こいつはイオだぞ?」
だが、女将――ハナは、ただ静かに首を横に振るだけだった。彼女は震える手で二人を奥へと導いた。そこは、客間ではなく、彼女が暮らす質素だが、塵一つなく磨き上げられた私室だった。障子窓の向こうには、静かな石庭が広がっている。まるで、この世の喧騒から切り離された、清浄な舞台のようだった。
ハナは、ゆっくりとお茶を淹れながら、遠い昔の物語を、まるで一篇の叙事詩を語るかのように、静かに紡ぎ始めた。
「わたくしが、まだ言葉を失くした、ただの孤児だった頃のこと…もう、何十年も昔になります」
彼女の語る物語は、まるでセピア色の幻光を見ているかのようだった。両親を失った衝撃で声が出なくなり、誰からも気味悪がられ、ただ黙って宿屋の隅で息を潜めていた少女、ハナ。そんな彼女の前に、ある日、一人の旅人が現れた。それが、若き日のエラーラだった。彼女は、まだ世界に絶望する前の、ただ知識を求める、孤高で、どこか寂しげな天才だった。
「エラーラ様は、わたくしを憐れんだりはしませんでした。それどころか、まるで対等な研究仲間のように、様々なことを教えてくださいました。風の読み方、星の紡ぐ物語、花の持つ論理…。彼女は、言葉を話せぬわたくしに、この世界の本当の『声』の聞き方を、辛抱強く教えてくださったのです」
ゴウは、その話を聞きながら、イオの横顔を盗み見た。今のイオと、ハナの語るエラーラの姿が、不思議なほど重なって見える。
「でも、おばちゃん。こいつと、そのエラーラって人は、見た目も全然違うんだろ?なんで、こいつがエラーラ様だって、わかったんだ?」
その純粋な疑問に、ハナは、涙に濡れた瞳で、優しく微笑んだ。
「お顔や、姿かたちは、全く違います。でもね、坊や。魂というものは、時が経っても、器が代わっても、その輝きを変えはしないのですよ」
彼女は、イオの瞳をじっと見つめた。
「その瞳です。わたくしがこの宿屋に入ってきた、あなたの瞳を見た瞬間に、わかりました。それは、この世界のすべてを、ただ見るのではなく、その裏側にある設計図まで読み解こうとする、探求者の瞳。この世のありとあらゆるものに、無限の好奇心を向けながら、その奥に、誰にも癒せぬほどの深い孤独を宿した、哀しい瞳。そんな目をする方を、わたくしは、エラーラ様お一人しか知りません」
そして、ハナは続けた。
「それに、あなたの話し方。宿屋の梁の構造を見て、『実に合理的な組み方だ』と呟かれたでしょう?この世の森羅万象を、まず『合理的』か『非合理的』かで判断する、その独特の思考の癖…。忘れるはずがありません」
イオは、ただ黙って、その言葉を聞いていた。彼女の瞳が、困惑と、懐かしさと、そして痛みで、複雑に揺らめいている。
「そして…一番の理由は…」
ハナは、部屋の奥の棚から、一つの古い植木鉢を、大切そうに持ってきた。中には、何十年も姿を変えていないであろう、石のように固くなった、一粒の種が眠っている。
「この、『月花草』の種です」
ハナが幼い頃、偶然拾ったという、その不思議な種。どんな方法を試しても、芽を出すことはなかった。だが、エラーラだけが、その正体を見抜いたのだという。
『これは、月花草の種だ。月の光を浴びて咲く、幻の花だよ』
若き日のエラーラは、そう教えた。
『だが、この花が咲く条件は、一つだけ。純粋で、見返りを求めない、無垢な愛の歌を聞かせることだ』
当時のハナには、そんな歌は歌えなかった。そして、エラーラ自身も、「私には、そんな歌を歌う資格はない」と、寂しそうに笑ったのだという。
「エラーラ様は、この街を去る時、わたくしと約束してくださいました。『いつか、私が本当に誰かを愛し、自分のための歌を見つけられたら、必ずここへ戻ってきて、この花を咲かせてあげる』と。…その約束は、果たされることはありませんでした。そのすぐ後に、世界は、あの方ご自身の手で、混沌に沈んだのですから…」
イオは、その固くなった種を、震える指でそっと撫でた。そして、ゆっくりと、隣のゴウの顔に、その視線を移した。
彼女の胸に、様々な感情が去来する。母性、友情、庇護欲、そして、初めて知った、焦がれるような恋心。
それは、かつてのエラーラが、知りたくても知ることができなかった、純粋で、温かい感情だった。
イオは、植木鉢を胸に抱くと、静かに、本当に静かに、歌を口ずさみ始めた。それは、誰に教わったわけでもない、彼女が、ゴウと出会ってから、その心の中で自然と生まれていた、不器用で、優しい、ただの鼻歌だった。
だが、その歌には、魂が込められていた。
すると、奇跡が起きた。
イオのハミングに呼応するように、固くなった種から、淡い、月の光のような燐光が放たれる。そして、カタカタと震え始め、ゆっくりと、しかし力強く、芽を伸ばし始めたのだ。
芽は見る見るうちに成長し、やがて、その先端に、固く閉ざされた蕾をつけた。そして、イオの歌が最高潮に達した瞬間、その蕾は、音もなく、ふわりと花開いた。
それは、銀色の花弁を持つ、まるで本物の月のかけらを閉じ込めたかのように、内側から青白い光を放つ、あまりに美しい花だった。
約束は、果たされた。
「…ああ…エラーラ様…」
ハナは、その幻想的な光景に、ただ静かに涙を流していた。
「お帰りなさい…本当に、お帰りなさいませ…」
イオは、咲き誇る月花草と、涙を浮かべるハナ、そして、穏やかなゴウの顔を、代わる代わる見つめた。そして、かつてのエラーラが決して見せることのなかった、心からの、穏やかな微笑みを、その唇に浮かべた。
「…随分と、時間がかかってしまったがな」
彼女は、自分の歌を見つけたのだ。
その声は、朝の光のように、どこまでも澄み渡っていた。
ハナとの再会の噂は、乾いた薪に燃え移る火のように、瞬く間にポルペッタの村中を駆け巡った。かつてこの始まりの街を訪れた、伝説の天才。世界を破滅させ、そして救ったとされる、あのエラーラ様が、全く違う姿で帰ってきた、と。
人々は、最初、半信半疑だった。だが、イオがゴウと共に村を歩くと、次々と奇跡のような再会が果たされていった。
時計塔の前に来た時、中から杖をついた、ほとんど目の見えない老人が現れた。彼は、かつてエラーラに「君の時計は美しいが、時を奏でるための心が足りない」と評された、若き日の時計職人だった。彼はイオの顔を見ることはできない。だが、イオが、彼の未完成の最高傑作である天文時計を一瞥し、「…歯車の、ほんの僅かな共振が、音色を濁らせているな」と呟いた瞬間、老人はその場に崩れ落ちた。
「その…その声…その、世界のすべてを数式として見抜く御言葉…!エラーラ様!」
イオは、ただ黙って老人の手を取り、一つの歯車を調整した。すると、時計塔は、まるで天上の調べのような、澄み切った鐘の音を、何十年ぶりに村中に響かせたのだった。
パン屋の前を通りかかると、今の女店主が、家宝だという古いレシピを手に、泣きそうな顔で立っていた。それは、エラーラが彼女の祖父に授けたという、「食べた者の最も幸せな記憶を呼び覚ます」パンのレシピ。だが、最後の一行が、どうしても読み解けないのだという。イオはそのレシピを一目見ると、こともなげに言った。
「ああ、これは古代語の隠語だ。『太陽を浴びた海の涙を、夜明けの一つまみだけ加えよ』…つまり、天日干しの塩を、夜明けの空気と共に、ほんの少し加えるのだ」
その言葉は、祖父の遺言と全く同じだった。女店主は、イオがエラーラ本人であることを、涙ながらに確信した。
古い図書館では、白髪の館長が、イオが書架から本を抜き取っていく順番を見て、息をのんだ。天文学、古代詩、機械工学、そして神話。その脈絡のないようでいて、一つの真理を探求する知性の軌跡は、かつてこの図書館で最も本を愛した少女のそれと、完全に一致していた。イオは、ポーチの中から、一冊の古びた詩集を取り出すと、館長に差し出した。
「借りっぱなしになっていたな。申し訳ない」
それは、何十年も前に行方不明になっていた、図書館の最後の蔵書だった。
イオは、街角で演奏していた、指の動かなくなった老音楽家の前に立つと、彼が大切にしていた、エラーラ自身が設計したという笛を手に取った。そして、それを隣に立つゴウに手渡した。「吹いてみろ、ゴウ。君になら、この笛の本当の音が出せるはずだ」。ゴウが戸惑いながらも笛を吹くと、まるで天上の風が歌っているかのような、清らかで力強い音色が、村中に響き渡った。老音楽家は、その音色と、ゴウに笛を渡したイオの優しい眼差しの中に、かつて自分に夢を与えてくれた、エラーラの面影を見た。
夕暮れ時、村の広場には、いつの間にか、すべての村人たちが集まっていた。彼らは、イオを遠巻きに囲むと、誰からともなく、祭りで使ったランタンに火を灯し始めた。そして、ただ静かに、深々と、頭を下げた。それは、歓迎と、赦しと、そして、再会への心からの感謝を示す、言葉のない祈りだった。
エラーラは、世界を壊した。だが、イオは、この街の人々との約束を、一つ、また一つと、果たしていく。ゴウは、ランタンの幻想的な光の中で、静かに頭を下げるイオの横顔が、今まで見た中で、一番美しく見えた。
その夜。
一日の疲れを癒すため、ゴウは一人、宿屋が誇る源泉かけ流しの温泉に浸かっていた。湯けむりの向こうに星空が広がり、心地よい静寂が体を包む。
「はぁ…。イオのやつ、本当に、すげえな…」
ゴウが、思わず独り言を呟いた、その時だった。
「そうだろう!そうだろう!まあ、私の性能を形容する言葉としては、あまりに語彙力に欠けるが、事実ではあるな」
「うわあああっ!?」
すぐ背後から聞こえた声に、ゴウは心臓が飛び出るほど驚いた。振り返ると、湯けむりの中に、滑らかな褐色の肌を惜しげもなく晒したイオが、気持ちよさそうに湯に浸かっていた。
「い、イオ!なんでここに!」
「ここは混浴だが?何か論理的な問題でもあるのか?」
イオは、こともなげに言う。二人の間には、気まずいようでいて、どこか穏やかで、温かい時間が流れた。ゴウは、今日一日の出来事を思い返し、イオの優しさに触れて、胸がいっぱいになっていた。
だが、少年は、もう一つの感情とも戦っていた。目の前には、湯に濡れて艶めかしい、天才美少女の裸。見てはいけない、見てはいけない…!ゴウは必死に明後日の方向を向き、悟りを開かんばかりの形相で耐えていた。
そんなゴウの葛藤に気づいたイオは、面白そうに、そして、どこか慈しむように、尋ねた。
「…気になるのか?」
「なっ、何がだよ!」
「胸が」
あまりに直接的な言葉に、ゴウは狼狽える。イオは、そんな彼に、追い打ちをかけるように、悪戯っぽく、しかし真剣な瞳で、こう言った。
「飲むか?…出ないがな」
「の…!?」
飲む。何を?胸を?
その言葉の意味するところに、ゴウの純真な脳がようやくたどり着いた瞬間。
「ぶはっ!」
少年は、奇妙な声を上げると、そのまま湯の中へと沈んでいった。