5.この頭と共に歩んだ、苦難の道のり
俺はため息交じりに男——ガルバに近づいた。 彼はまだ俺たちの存在に気づかず、部屋の隅にある植木鉢を食い入るように見つめている。背中を丸め、ブツブツと何かを唱えている姿は、正直言ってかなり不気味だ。
「おい、聞こえてるか?」
背後から肩を叩く。 反応なし。
「もしもーし、ご近所トラブルの苦情係でーす」
耳元で叫んでみる。 反応なし。
「……頑丈な耳栓だな」
俺は少しイラッとした。こっちはメリーさんのためにわざわざ乗り込んできたというのに、当の本人がこの有様では話が進まない。
「ええい、面倒くさい!」
俺は強引に手を伸ばし、ガルバの耳からその触手付き耳栓を引っこ抜いた。
スポンッ!
小気味よい音がして、耳栓が外れる。 その瞬間——
「うぉおおおおおおおおっ!?」
ガルバが飛び上がった。 いや、比喩ではなく本当に数センチ浮いた。
「な、な、なんだ!? 敵襲か!? それともマンドラゴラの逆襲か!?」
彼は腰を抜かして床に尻餅をつき、バタバタと手足を動かして後ずさった。そして、ようやく目の前に立っている俺たちに気づく。
「あ……?」
ガルバは目を白黒させながら、俺とエルスを交互に見た。
「だ、誰だお前らは!ここは私の家だぞ!いつの間に入ってきた!不法侵入で衛兵を呼ぶぞ!」
恐怖が怒りに変わったのか、ガルバは顔を真っ赤にして立ち上がろうとした。唾を飛ばしながら喚き散らすその態度は、まさに逆ギレの見本市だ。
「人の家に勝手に入り込んで、一体何のつもりだ! 私は今、人生を賭けた重要な儀式の最中なんだぞ! 邪魔をするな!」
俺の中で、何かがプツンと切れた。
こっちは平和的に解決しようと思ってたのに。 メリーさんが毎晩震えて眠れない夜を過ごしているのを、なんとかしてやりたいと思ったのに。 それなのに、このおっさんは——
「うるせええええええ!!勝手に入ってきただと!?ふざけんな!お前が毎晩毎晩マンドラゴラなんて育てて騒音を撒き散らしてるから、こっちは苦情を言いに来たんだろうが!」
「なっ……」
「大体な、なんだその態度は!人に迷惑をかけておいて、開き直るとかいい度胸してんな!この……この……」
言葉に詰まった俺の視界に、彼の頭頂部が飛び込んできた。
照明の光を反射して、神々しいまでに輝くそのスキンヘッド。いや、サイドには未練がましく残された髪の毛たち。
俺は反射的に、言ってはいけない一言を口走ってしまった。
「このハゲ!!!」
「…………」
時間が、止まった。
ガルバの動きが完全に静止した。 怒りで赤くなっていた顔から、急速に血の気が引いていく。
口は半開きのまま、目は点になり、まるで石化魔法でも食らったかのように固まっている。
やってしまった。
いくら頭に来たとはいえ、身体的特徴を罵倒するのは人として——いや、カウンセラーとして最低だ。
「あ、いや、その……」
俺がフォローしようとした、その時だ。
隣にいた女神様が、追い打ちをかけた。
「そうですわね。やはり人に迷惑をかけてはいけませんわ、ハゲさん」
「ぶっふぉ!!」
ガルバが血を吐きそうな顔になった。
「エ、エルス!? お前、今なんて……」
「え? 但馬さんがそう呼んだので、それがこの方の名前なのかと」
エルスはきょとんとした顔で首を傾げる。 悪気がない。こいつ、完全に悪気がない天然でトドメを刺しに来た!
「ち、違う!名前じゃない!状態だ!」
「状態……? ああ、なるほど。アトリビュートみたいなものですのね」
「余計に傷つくからやめろ!」
ガルバは膝から崩れ落ちた。 両手を地面につき、プルプルと震えている。
「は……ハゲ……ハゲと言ったか……」
「あー、その、なんというか、言葉のアヤで……」
「今まで……今まで必死に隠してきたのに……」
隠せてねえよ。 どう見てもバーコードだろ。隠す努力の方向性が間違ってるよ。
だが、悲劇はこれで終わらなかった。
ドタドタドタ!
廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「タンタン! 大丈夫!?」
ペルフィだ。 俺たちの怒鳴り声を聞きつけて、心配して飛んできたらしい。後ろにはおずおずとした様子のメリーもいる。
二人は部屋に飛び込むなり、床にうずくまるガルバを見て、そしてその頭を見て——
「わっ! ハゲ!」
ペルフィが指差して叫んだ。
「ひぃっ! い、言っちゃダメですペルフィさん!」
メリーが慌ててペルフィの口を塞ごうとするが、その視線はガルバの頭部に釘付けだ。そして、あろうことか同情たっぷりの声で呟いてしまった。
「居、居たわ……こんなに可憐な頭皮の方が……」
「可憐って言うなああああああ!!」
ガルバの絶叫が部屋に響いた。 マンドラゴラよりも悲痛な、魂の叫びだった。
十分後。
部屋の中は、奇妙な静寂に包まれていた。
ガルバは部屋の中央にある椅子に座らされ、完全に憔悴しきっていた。魂が抜けたように一点を見つめ、時折ヒックとしゃっくりをしている。
俺とエルスは、その向かいに座り、尋問——もとい、事情聴取を行っていた。
そして部屋の隅では、ペルフィが腕を組み、仁王立ちでガルバを睨みつけている。 彼女の耳には、先ほど俺がガルバから奪い取ったマンドラゴラ用の耳栓が装着されていた。
「ふん! これさえあれば、あのおっさんの言い訳も聞かなくて済むわ!」
そう言ってプイと顔を背けているが、要するに「うるさいのは嫌だから自衛している」というアピールらしい。
メリーはその横で、オロオロしながらペルフィをなだめていた。
「ま、まあまあペルフィさん……おじさんも反省しているようですし……」
「反省? どこがよ。ハゲてるだけで許されると思ったら大間違いよ」
「それは関係ないと思いますけど……」
外野のやり取りはさておき、俺は目の前の男に向き直った。
「さて、ガルバさん」
「……はい」
ガルバの声は蚊の鳴くように小さかった。 先ほどの威勢はどこへやら。すっかり小さくなってしまっている。
「あなたがここでマンドラゴラを栽培していたことは、認めますね?」
「……はい」
「その騒音で、隣のメリーさんが眠れずに体調を崩していたことも、理解できますね?」
「……はい。申し訳ありません……」
ガルバは深々と頭を下げた。 その拍子に、サイドに残っていた貴重な髪の毛がふわりと揺れ、頭頂部の輝きがいっそう強調される。
俺は咳払いをして視線を逸らした。直視するには眩しすぎる。
「で、どうしてこんな住宅街で、あんな危険な植物を育てていたんですか? エルスの話だと、マンドラゴラは許可制の高級素材だそうですが」
「失われた……青春を」
「……は?」
「髪を! 髪の毛を生やしたかったんです!!」
ガルバが叫んだ。 その悲痛な響きに、部屋の空気が一変した。
「か、髪の毛……?」
「そうです! マンドラゴラの根を煎じて飲むと、発毛効果があるという噂を聞いたんです!」
「絶対嘘だろそれ……」
どう考えても詐欺だ。
あるいは誰かの悪ふざけだ。
「でも!でも私には、これしか縋るものがなかったんです!私の家系は、代々ハゲの家系でした。父も、祖父も、曽祖父も、肖像画を見る限り全員が見事なスキンヘッド。逃れられない血の宿命だったのです!覚悟はしていました。いつかその時が来るだろうと。でも……早すぎたんです」
ガルバは遠い目をした。
「二十歳。成人を迎えたその日に、私の前髪は後退を始めました」
「早っ!」
「最初は気のせいだと思いました。枕元の抜け毛が増えただけだと。でも、現実は残酷でした。季節が巡るたびに、私の生え際は北上を続け、頭頂部は砂漠化していったのです」
彼はハンカチを取り出し、目頭を押さえた。
「美容院に行くのが怖くなりました。『お客様、今日はどうされますか?』と聞かれるたびに、『あるものでなんとかしてください』としか言えない惨めさ。美容師の困ったような笑顔。そして最後に渡される手鏡に映る、無慈悲な現実」
具体的すぎて心が痛い。
「好きな女の子もいました。でも、告白する勇気なんて出なかった。ある時、彼女が私の頭を見て、ふっと目を逸らしたんです。軽蔑じゃなかった。もっと残酷な……『憐れみ』の目でした」
「うわぁ……」
エルスが口元を押さえた。
「魔法も試しました。『発毛促進』の魔法をかけてもらうために、高額な料金を払って専門の魔術院に通いました。でも、結果はどうだったと思います?」
「ど、どうだったんですか?」
「背中の毛だけが、剛毛になりました」
「ブフッ!」
俺は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。 笑っちゃいけない。ここは笑うところじゃない。心理カウンセラーとして、クライアントの痛みに寄り添わなければ。
「詐欺にも遭いました。『東方の秘薬』と称するワカメのようなものを買わされ、頭に貼り付けて生活したこともあります。街中で『海藻男』と指差され、子供に石を投げられました」
悲惨すぎる。 もはやこれは、一人の男の闘病記だ。
「そして、辿り着いたのがマンドラゴラだったんです。あれは叫び声がうるさい。近所迷惑になることも分かっていました。でも……もう、これしかなかったんです!」
ガルバはテーブルに突っ伏して泣き出した。
「お願いします……あと一週間、いや三日でいいんです! もう少しで収穫できるんです! そうすれば、私の頭にも春が……!」
俺は言葉を失っていた。 正直、マンドラゴラの騒音問題という単純な事件だと思っていた。 だが、その裏にはこれほどまでに深く、重く、そして滑稽なドラマがあったとは。
『……但馬さん』
エルスの声が、直接頭の中に響いてきた。
『これ、メリーさんの相談より、よっぽど心理カウンセリングが必要な案件じゃないですか?』
『……言うな。俺もそう思ってたところだ』
「自己受容」とか「コンプレックスの克服」とか、まさに心理学の教科書に出てきそうなテーマだ。 ただ、物理的な発毛への執着が強すぎて、心のケアだけで解決するかは怪しいが。
ふと横を見ると、メリーがボロボロと涙を流していた。
「か、可哀想すぎます……」
「え?」
「だって、二十歳からずっと……そんなに苦しんで……誰にも相談できずに……」
メリーはハンカチで目を拭いながら、ガルバに歩み寄った。
「おじさん、ごめんなさい……私、そんな事情があるなんて知らなくて……ただうるさいってだけで、怒っちゃって……」
「メ、メリーさん……?」
ガルバが驚いて顔を上げる。
「私、協力します! マンドラゴラの収穫まで、私、我慢します!」
「おいおい、本末転倒だろ」
俺は慌てて止めた。
「メリーさんが我慢したら、メリーさんが倒れちまうよ。それに、マンドラゴラで髪が生えるなんて保証はないんだぞ」
「でも! でも希望を奪うなんてできません!」
メリーは完全にガルバに感情移入してしまっている。優しい子なんだろうけど、ちょっと流されやすすぎないか。
すると、今まで黙って聞いていたペルフィが、ツカツカと歩み寄ってきた。 耳栓をしたままだから、会話の詳細は聞こえていないはずだ。 だが、彼女はガルバの前に立つと、その耳栓を外した。
「……話は、なんとなく分かったわ」
「え? 聞こえてたのか?」
「読唇術よ。エルフの嗜みね」
嘘つけ。絶対聞こえてただろ。
ペルフィはガルバの頭を見下ろした。その目には、いつものキツイ光はなく、どこか複雑な色が浮かんでいた。
「あんた……苦労したのね」
「エルフの嬢ちゃん……」
「ハゲてること自体は、罪じゃないわ。でも、それで人生を諦めたような顔をしてるのは、見ててイライラするのよ」
ペルフィなりの励ましなのかもしれない。
「何年も何年も、そうやって悩み続けてきたんでしょ? その執念だけは、認めてあげるわ」
「……ありがとうございます」
ガルバは涙目で頷いた。
「この頭と共に歩んだ、苦難の道のり……。長かった……本当に、長かった……」
部屋に、しんみりとした空気が流れる。 誰もが、この中年男性の過酷な半生に想いを馳せていた。 若くして髪を失い、嘲笑と憐憫に晒され、それでも希望を捨てずに生きてきた男。 そのシワの一本一本に、年輪のような重みを感じる。
「大変でしたね……」
エルスが慈母のような微笑みで語りかけた。
「もう何年、そのお悩みと戦ってこられたのですか?」
ガルバは遠くを見つめ、指を折って数える仕草をした。
「ええ……発症から、かれこれ六年になりますか……」
俺たちの動きが止まった。
エルスの微笑みが凍りついた。 メリーの涙が引っ込んだ。 ペルフィが口をポカンと開けた。
俺は恐る恐る、確認のために口を開いた。
「……えっと、確認ですが。発症したのは、二十歳の時でしたよね?」
「はい、そうです」
「で、それから六年経ったということは……」
俺は簡単な足し算をした。 20 足す 6 は……
「現在、26歳?」
「はい。来月で27になります」
「「「「はあああああああああああ!?」」」」
全員の声がハモった。
「に、二十六!?」




