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19.ストア派哲学

深夜のカウンセリング店。


俺は、ソファに深く身を沈め、手元の心理学の本を読んでいた。


タイトルは『不安障害とその対処法』。


……正直、驚いてる。


広場であんな大騒ぎを起こした後だ。クラークが国王軍を引き連れて、俺たちを一網打尽にしに来てもおかしくない。


エルスは確かに女神だし、戦闘力もそれなりにあるんだろうが……何せあのポンコツ度だ。一国家を相手に戦うなんて、想像するだけで胃が痛い。


でも……現実は、妙に平穏だった。


追っ手も来ない。逮捕状も届かない。


まるで、あの騒動が最初からなかったかのように。


……気味が悪いくらいに、静かだ。


「ふわああああ……」


エルスは、寝袋にすっぽりと包まって、膝の上に本を乗せていた。


いや、「乗せていた」というより、「置いてある」と言った方が正確か。


どう見ても、もう半分寝てる。


ページも、さっきから一ミリも進んでない。


「……エルス、お前、完全に寝てるだろ」


「ね、寝てませんわよ! ちゃんと読んでますわ!」


嘘つけ。


一方、ペルフィは——


来客用の椅子に座り、小さなランプの灯りの下で、真面目に本を読んでいた。


その膝の上には、タコちゃんが丸まって眠っている。


……あの合成獣、いつの間にかペルフィに完全に懐いてるな。


まあ、ペルフィも、タコちゃんを可愛がってるみたいだし、いいのか。


俺は、再び本に目を落とした。


『不安とは、未来を制御したいという欲求と、未来が実際には制御不可能であるという現実との間に生じる矛盾である。古代ギリシャ時代、ストア派哲学者たちは、この問題に対する一つの解決策を提唱した』


『ストア主義——我々は、自分が制御できるものと、制御できないものを明確に区別しなければならない』


……ほう。


なるほど、確かにそうかもしれない……俺も試してみるか。


よし、まず、俺が制御できないことは何だ?


えーと……


エルスが、またポンコツな失敗をして俺たちを困らせるかどうか。


ペルフィが、感情を制御できずに破壊魔法を撃ってしまうかどうか。


デュランの頭が、また落ちるかどうか。


次の依頼人が、またとんでもない変人かどうか。


クラークが、いつ俺たちを捕まえに来るか。


教会が、デュランをクビにするかどうか。


ドリアが、約束の報酬をちゃんと支払ってくれるかどうか。


家賃が——


……いやちょっと待て、多すぎないか?


じゃあ、逆に、俺が制御できることは何だ?


……


………


…………


「何一つないじゃねえか!!!」


「うわあああ!?」


エルスが、ビクッと跳ね上がった。


寝袋ごと。


「え、ええ!? タンタン、どうしたのよ!? いきなり叫んで……ああ、もう、タコちゃんが逃げちゃったじゃない!」


ペルフィも、驚いて本を落としそうになった。


タコちゃんは、慌てて部屋の隅に逃げ込んだ。


「……いや、すまん」


俺は、深呼吸をした。


「でも、おかしいだろ! 俺が制御できることが、マジで何もないんだぞ!」


「え? あ、タンタンも、そのページ読んでたの?私も、さっきそこ読んだわ。ストア主義、だったかしら。正直、その言葉自体は初めて聞いたけど……言いたいことは、何となく分かる気がする。要するに、自分が制御できることと、制御できないことを区別しろってことでしょう?」


「……ああ、そうだ。でも、問題は、俺が制御できることが何もないってことだよ」


「確かに……タンタンの場合、制御できないことばっかりかもね」


ペルフィが、同情するような目で俺を見た。


……おい。


何だよその目。まるで、『可哀想な人を見る目』じゃねえか。


「ねえ、エルス、あなたも何か言ったら?」


ペルフィが、エルスの方を向いた。


エルスは——


完全に、ぼーっとした顔で、俺たちを見ていた。


「……エルス?」


「……え? あ、はい! 私も、ちゃんとそのページ読みましたわよ!」


嘘つけ。


お前、絶対に読んでないだろ。


「じゃあ、説明してみろよ。ストア主義って、どういう考え方なんだ?」


「え? ス、ストア……あ! それなら知ってますわ!」


エルスが、急に自信満々な表情になった。


「簡単に言えば、私たちは、デュランに教えてあげないといけないんですわ! 彼の頭は、どうやっても落ちるし、彼は、どうせ失業するし、どうせ人にいじめられるんだ、って!」


「合ってるわけねえだろ!?完全に逆だろ!? ていうかお前、それ、逆だからこそ絶妙に間違ってるんだよ!」


「え、ええ……確かに、前提を『制御できること』に変えたら、正しい気もするわね……」


ペルフィが、困ったように言った。


……ああ、もう。


何でこいつ、こんなに完璧に間違えられるんだよ。


ある意味、才能だろ、これ。


「そ、それじゃあ!み、みんなで、今から一緒に練習してみましょうか! このストア主義の考え方を!」


「……は?」


「だから! 今、自分が不安に思っていることを、みんなで出し合って、それを『制御できること』と『制御できないこと』に分けてみるんですわ!」


……おい。


珍しく、まともな提案じゃねえか。


「……まあ、悪くないな。じゃあ、やってみるか」


俺は、再びソファに座った。


「うん!」


ペルフィも、賛成したようだ。


「それじゃあ、まず、何について不安なのか、出し合いましょう!」


エルスが、張り切って言った。


そして——


三人とも、同時に口を開いた。


「「「お金」」」


……


……


「……やっぱり、みんな同じこと考えてたのね」


「そ、そうね……お金、確かに不安よね……」


ペルフィが、苦笑いした。そして、エルスも情けない顔で頷いた。


俺は、ため息をつきながら言った:


「……じゃあ、具体的に、お金について何が不安なのか、整理してみるか」


「うん。一つは、家賃と、店の運営費用の問題ね」


ペルフィが、指を折りながら言った。


「もう一つは、広場での戦闘で起こした破壊の賠償金の問題」


「……そうだな。じゃあ、この二つを、『制御できること』と『制御できないこと』に分けてみよう」


「はい!」


エルスが、元気よく手を上げた。


「まず、『制御できないこと』は——」


ペルフィが、ノートに書き始めた。


「一つ目:ドリアが、いつお金を払ってくれるか。あるいは、本当に払ってくれるかどうか」


「二つ目:広場の破壊について、賠償金を請求されるかどうか」


「……うん、確かに」


俺は、頷いた。


「この二つは、完全に相手次第だからな。俺たちには、どうしようもない」


「それじゃあ、次は『制御できること』ね!」


エルスが、期待に満ちた目で、俺たちを見た。


そして——


……


……


「……ないね」


「うん、ないですね」


「……ああ、ないな」


完全に、意見が一致した。


「……あ、でも!逃げる、っていう選択肢はあるぞ」


「え?」


「つまり、この店を捨てて、デュランも置いて、どこか遠くに逃げるんだ。そうすれば、少なくとも、賠償金は払わなくて済む」


「絶対にダメですわ!」


エルスが、即座に却下した。


「だ、だって、デュランさんを見捨てるなんて……それに、この店、私、気に入ってるんですもの!」


「……私が考えられる『制御できること』と言えば……」


ペルフィが、恐る恐る言った。


「……クラークと、戦う?」


「やめろ!絶対にやめろ! お前、また街を破壊する気か!?」


「で、でも……他に、方法が……」


「いいから、戦うのは却下だ!」


結局、俺たちには、何もできないってことか。


「……そ、そうだ!」


ペルフィが、急に思いついたように言った。


「別の方法を試してみましょうか!」


「……別の方法?」


「うん! 実は、さっき本を読んでて、もう一つ、面白い方法を見つけたの」


ペルフィが、本をパラパラとめくった。


「『マインドフルネス』って言うんだけど……聞いたことある?」


「……いや、ないな」


「これは、簡単に言うと、『今、この瞬間に意識を集中する』っていう考え方なの。過去のことを悔やんだり、未来のことを心配したりするんじゃなくて、今、ここにいる自分自身に意識を向けるの」


「……ほう。それで、どうやってやるんだ?」


「主に、瞑想と組み合わせて使われるみたい。呼吸に意識を集中して、心を落ち着かせるの」


「瞑想か……」


まあ、やってみる価値はあるかもな……どうせ、他にやることもないし。


「じゃあ、やってみるか」


「本当!? じゃあ、みんなで一緒にやりましょう!」


ペルフィが、嬉しそうに言った。


「え、ええ!? 私も!?」


「当たり前でしょう! あなたも一緒よ!」


「で、でも……私、瞑想とか、やったことないんですけど……」


「大丈夫よ。簡単だから」


ペルフィが、本を読みながら説明し始めた。


「まず、楽な姿勢で座って。背筋を伸ばして、目を閉じて。それから、自分の呼吸に意識を集中するの。吸って、吐いて。それだけ」


「……それだけ?」


「うん、それだけ」


……なんか、拍子抜けするくらい簡単だな。


「よし、じゃあ、やってみるか」


俺は、ソファに座り直し、背筋を伸ばした。


エルスとペルフィも、それぞれの場所で座り直した。


「それじゃあ、始めましょう」


ペルフィの声が、静かに響いた。


「目を閉じて……呼吸に意識を向けて……」


俺は、目を閉じた。


……


息を吸う。


息を吐く。


吸う。


吐く。


……


静かだな。


こんなに静かな時間、久しぶりかもしれない。


いつも、エルスが騒いだり、ペルフィが怒ったり、デュランの頭が落ちたり……


でも、今は——


本当に、静かだ。


……


……ああ、そういえば。


デュランのこと、どうしようかな。


彼の問題は、単なるコミュ障じゃない。


もっと深い、自己肯定感の欠如だ。


彼は、自分が役に立たないと思い込んでる。


だから、誰かに必要とされてないと感じた瞬間、すぐに諦めてしまう。


……それって、不安障害の一種だよな。


自分が他人の役に立ってないと感じると、強い不安を覚える。


そして、その不安から逃れるために、自分から関係を断ち切ってしまう。


……


でも、どうやって治せばいいんだ?


俺、心理カウンセラーの資格なんて持ってないし。


ただのハッタリで、ここまで来ただけだ。


……


……ああ、そうだ。


明日、デュランが来たら、ちゃんと話を聞いてやらないとな。


彼が本当に何を求めてるのか。


彼が本当に何を恐れてるのか。


……


………


…………


……って、あれ?


俺、今、瞑想してたんじゃなかったっけ?


いつの間にか、デュランのことを考えてたぞ。


これ、瞑想になってるのか?


……まあ、いいか。


どうせ、正しいやり方なんて、分からないし。


……ああ、眠い。


今日は、色々あったからな……疲れた。


本当に、疲れた。


…………


コンコンコン。


「あの……すみません……デュランです……」


あ、もう朝だああああああ!

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