第八話:交差する鼓動
静水の町は、外から見るよりもずっとにぎやかだった。
石畳の通りには露店が並び、焼きたてのパンや果物の甘い香りが風に混じっていた。
行き交う人々の声が重なって、町全体がゆっくりと鼓動しているみたいだった。
「しっかり歩いて。目を離すと迷うわよ」
「う、うん……」
僕は緊張していた。あたりの賑やかさに圧倒されて、つい歩幅が乱れそうになる。
エリスは相変わらず落ち着いていて、でもほんの少し、表情が和らいで見えた。
宿に着くと受付にいた女性が、少し困ったように笑った。
「申し訳ありません、今夜空いているお部屋はひとつだけでして……お二人でご一緒なら、ご案内できますけど」
「ええ、それで構わないわ」
エリスはすぐに答えた。
僕は一瞬戸惑って、思わずつぶやく。
「……エリスと一緒の部屋か。……ちょっと恥ずかしいかも」
するとエリスが、振り返りもせずに軽く言った。
「一緒に旅をするんだから、それくらい、慣れてもらわないとね」
それ以上何も言えず、僕は荷物を背負い直してエリスの後を追った。
案内された部屋は二階の角にあった。
窓があって、外の光がやわらかく差し込んでいた。
ベッドはひとつ。枕がふたつ。僕の胸がどきんと跳ねた。
荷物を下ろしたあと、エリスが立ち上がる。
「先に汗を流してくるわ。ルシアスは休んでて」
「う、うん……」
湯道具を持って出ていく背中を見送りながら、僕は木剣を手に取った。
刃なんてないけれど、大事なものだから、布で表面の汚れを拭うようにして丁寧に手入れをする。
袖をまくったとき、右腕にうっすらと血がにじんでいるのを見つけた。
昼間、崖沿いの細道で木の枝に引っかけたときの傷だ。
(気づかなかった……結構、擦ってたんだな)
と、そのとき。
扉が開いて、エリスが戻ってきた。
まだ湯気をまとったような髪が肩にかかっていて、肌がほのかに火照って見えた。
「どうしたの?」
「昼間、ちょっと枝に引っかけたみたいで……大したことないけど、ほら」
僕がそう言って腕を差し出すと、エリスは黙って歩み寄ってきた。
そして――
ぺろり。
舌先が、傷に触れた。
「……えっ……」
驚いて顔を上げた僕に、エリスは何も言わず、そっと視線をそらした。
その頬にはかすかに紅が差していた。
何も言わずに窓辺に歩いていく彼女の背中を見つめながら、僕は、胸の内が不思議と熱くなるのを感じていた。
そして――ふと気づく。
さっきまでにじんでいた血が、もう止まっている。
それどころか、薄皮が張ったように傷そのものが――もう、なかった。
(……え? いつのまに……)
僕は何も言えず、ただ袖をそっと戻した。
夜。
灯りを落とした部屋で、僕たちは同じ布団に入った。
「……エリス、狭くない?」
「気にしなくていいわ。私、そんなに動かないから」
「う、うん……」
ベッドの中。隣に誰かがいるなんて初めてで、緊張して体が固まった。
でも、エリスは静かだった。目を閉じて、呼吸を整えているようだった。
「……おやすみ、エリス」
「おやすみなさい、ルシアス」
しばらくして、僕は小さな声で聞いてみた。
「ねえ、さっきの……腕の傷、もう治ってたんだ。あれって……」
エリスは少しだけ目を開け、静かに答えた。
「吸血鬼の唾液には、癒しの力があるの。……少しだけね」
「そうなんだ……。ありがとう」
「どういたしまして。驚かせたなら、ごめんなさい」
「ううん。びっくりはしたけど、……なんか、不思議と嫌じゃなかった」
エリスはそれには答えず、ただ目を閉じた。
僕は、すぐに眠りに落ちた。
......。
夜が深くなるころ。
エリスは目を開け天井を見上げていた。
静かな寝息が、彼の口元から漏れている。
ひとつの布団の中、彼女はじっと身じろぎもせずにそこにいた。
しかし唇が、わずかに開く。
(……いけないわ)
心臓が、静かに、けれど確かに高鳴っていた。
あの血の味が、脳裏に残っている。
香り、温度、感触――どれもが忘れがたい衝動を呼び起こす。
紅い瞳が、闇の中に光を宿した。
そしてまたほんの少し、口元が開き――
そのままぴたりと止まった。
(……だめよ。まだ)
エリスはゆっくりと目を閉じた。
何も言わず、何も求めず、ただ静かに時間をやり過ごす。
隣のぬくもりを感じながら、彼女は夜明けを待った。