第七話:風が運ぶもの
朝、山の反対側には、まるで世界が変わったような広がりがあった。
見渡すかぎり続く草原。その向こうには、なだらかな丘が幾重にも重なり、
ずっと遠く、うっすらと青く霞んだ町の輪郭が浮かんでいる。
「……あれが、静水の町?」
僕の問いに、エリスは小さく頷いた。
「ええ。今日のうちに辿り着けるはずよ。平坦な道が多いから、昨日ほどきつくはないわ」
朝日が昇る空は澄んでいて、山の冷たい空気とは違い、谷を抜けた風はやわらかく、どこか春の匂いが混じっていた。
エリスのマントが風に揺れて、その背中を追うだけで、心が少しだけ軽くなった。
「……うん。行こう」
山を下りていくにつれて、草を踏む音と鳥のさえずりが周囲に広がる。
道端には名も知らない花が咲いていて、僕の足音に驚いた小動物が逃げていく。
昨日までの筋肉痛は残っていたけど、不思議と体はよく動いた。剣を振ったあとのだるさより、歩くリズムの方が心地よかった。
「ルシアス、左側。そっちは泥が深いわ」
「あ、ありがとう……」
エリスは振り返らずに言うけれど、ちゃんと僕の様子を見てくれているのがわかる。
それだけで、不安だった足取りが少しずつ自然になっていく気がした。
昼前、古びた石の橋のそばで一度腰を下ろした。
橋の袂には倒れた標識と、苔むした井戸があった。どれも使われていないらしく、もうずいぶんと人の気配が遠ざかっている。
僕は水筒の水を口に含みながら、ふと隣のエリスに声をかけた。
「エリスって、ずっと旅をしてきたんだよね?」
「そうね。……でも、一人の時間が長かったわけじゃないのよ」
「え?」
エリスは風に揺れる髪を指先でおさえながら、ぽつりと続けた。
「静かに歩く時間はあったけど、気づけばいつも誰かの言葉が頭に残っていてね。……だから不思議と、独りって感じはしなかったの」
それが“誰か”なのか、“誰かだった”のか、聞こうとは思わなかった。
けれどその言葉の響きに、僕はほんの少しだけ胸が締めつけられた。
軽い昼食を取ったあと、再び歩き出す。
道は草原の緩やかな斜面を下り、やがて大きな木立の間を抜けるようになった。
木漏れ日が揺れて、エリスの白い髪にちらちらと光が落ちる。
「ルシアス、疲れていない?」
「うん、大丈夫。昨日よりずっと楽」
「身体が覚えてきたのね。剣もそう、繰り返すことで形が自分のものになっていくわ」
「じゃあ、歩くのも剣の練習みたいなものなんだね」
「似てるところはあるわ。どちらも続ける力が大切よ」
歩きながら交わす会話が、妙に自然だった。
山で出会ったばかりの頃と比べて、言葉に迷いがなくなってきたのを、自分でも感じる。
「エリスも、剣の練習は毎日してた?」
「ええ、昔は……ね。今はほとんど必要ないけれど」
エリスの言葉には、どこか遠い記憶のような響きがあった。
夕方、町の輪郭がようやくはっきりしてきた。
高い石壁に囲まれた静水の町は、旅人の列と商人の荷車で、門前が少し騒がしくなっていた。
「……あれが静水の町。」
門が見えたとたん、僕は思わず歩みを速めていた。
石壁の向こうには人の声と焚き火の匂い。町の気配が確かにあった。
「着いたわね。お疲れさま」
エリスがふと足を止めて、僕の方に目を向けた。
「うん。……流石に疲れたかも。」
「ふふ、まずは宿を探しましょ。」
町の門をくぐる瞬間、ひんやりとした空気が肌をかすめた。
旅が、また一段深くなっていく気がした。
昨日と同じ紅い月、それが少しだけ、近づいて見えるのは気のせいじゃないと思った。