第六話:不死の身体
朝の山道は、ひんやりしていた。
まだ霧が残っていて、湿った空気が足元にまとわりつく。
その中を、僕たちはゆっくりと登っていく。
「今日は山を越えるわ、気を抜かないように。」
エリスが、前を歩きながら言った。
黒いマントが小さく揺れて、その背中が頼もしく見えた。
「……うん。ちゃんと歩くよ」
足元を見ながら、息を整えて前に出る。
少しずつだけど、自分で前に進めている気がした。
道はすぐに険しくなった。
岩肌は湿っていて、石も滑りやすい。
「うっ……!」
体がぐらついた瞬間、エリスがさっと僕の腕を支えた。
「焦らないで。足元を見てゆっくり」
「……ありがとう」
彼女は手を離しながら、僕の顔を少しだけ見て言った。
「大丈夫よ、昨日よりは良い歩き方をしてる。」
その言葉が、なんだかとても嬉しかった。
午後、森が開けたところで空気が変わった。
「止まって」
エリスの声が低くなったかと思うと、次の瞬間、岩の陰から魔物が飛び出した。
灰色の体毛、濁った目、低いうなり声。
鋭い爪が地面をえぐって、こちらへまっすぐに突っ込んでくる。
「私が引きつける。ルシアス、脚を狙って」
「……わかった!」
魔物が跳ねるように迫ってきた瞬間、エリスの足元に紅い魔法陣が浮かんだ。
「紅蓮刃」
手に現れた紅の剣が、空気を裂くように一閃。
魔物の肩に深い傷が走る。
僕はその隙を逃さず、背後に回り込んだ。
「たぁっ!」
木剣が魔物の脚に当たる、ずしんと手に響く感触。
ぐらりと揺れたその瞬間エリスが静かに言った。
「還りなさい」
紅い光が魔物を包み、影は霧のように溶けていった。
「……はぁ……」
僕はその場に膝をついて、肩で息をした。
「ちゃんと、当たった……」
「ええ。怖くても動けた。それだけで十分よ」
彼女の声はいつもと変わらない調子だったけど、少しだけやさしかった。
夕方。山の中腹に、開けた草地があった。
「今日は、ここで休みましょう。見晴らしも......悪くないから」
僕はその隣に腰を下ろして、空を見上げた。
紅い月がゆっくりと昇ってきていた。
「……明日も、剣の練習していい?」
「もちろん。続けたいなら、いつでも」
その言葉を聞いて、自然と笑みがこぼれた。
夜。
喉が渇いてふと目が覚めた。
水筒が空なのを思い出して、静かに寝袋を抜け出す。
草を踏む音だけが夜に溶けて、滝の音が近づいてくる。
そこに、エリスがいた。
月明かりの下、滝に打たれていた。
黒いマントを脱いだその姿は、水と光に包まれていた。
濡れた銀の髪が背に貼りつき、白くなめらかな肌が冷たい水をはじいていた。
肩や背中、首筋にかけて――驚くほど綺麗で、傷ひとつない。
水は凄く冷たいはずなのに、エリスは少しも震えていなかった。まるで、何も感じていないみたいに、静かにそこに立っていた。
その瞳が、月明かりを受けて紅く光る。
(……やっぱり僕とは、違う。エリスは吸血鬼なんだ)
血を飲むこと。眠らないこと。年をとらないこと。
そして体には傷一つ残らないこと。
少しずつだけど、わかってきた。
「……ご、ごめん!」
慌てて声をかけると、彼女は振り返らずに言った。
「水を汲みに来たんでしょう。気にしないで」
「……う、うん」
目を逸らして、水をくみながら小さくつぶやいた。
「ねえ……吸血鬼って不死なの?」
「そうね。歳はとらないし、傷もすぐに治る。……でもそれが良いとは思わない。」
エリスの声はいつもと変わらなかったけど、どこか少しだけ遠く感じた。
焚き火跡に戻り、僕はそっと寝袋のそばに腰を下ろした。
水を口に含んで、小さく息を吐く。
足音がして、振り返る。
エリスが戻ってきた。
濡れた髪を後ろで束ね、肩にはマントを軽く羽織っている。
白い肌にまだ水滴が残っていて、それが月明かりにやわらかく光っていた。
彼女は僕の隣に、何も言わず腰を下ろした。
少しだけ距離があって、それでも近かった。
冷えた空気の中で、その存在だけがあたたかく感じられた。
僕は視線を落とし、そっとつぶやいた。
「……僕、もっと強くなりたい」
彼女は少しだけ目を細めて、それから静かに言った。
「……知ってるわ」
それきり、ふたりとも黙った。
エリスは焚き火の跡を見つめていた。
僕はその横顔を見ていた。目が離せなかった。
空を見上げると、紅い月が高く昇っていた。
昨日よりも少しだけ近く、そしてやさしく見えた。
そのとき、エリスがぽつりと言った。
「……そういう顔、するのね」
「え?」
「ふふ。別に、何でもない。」
そう言って、エリスは月を見たまま、少しだけ笑った。