第三話:深紅の導き
夕暮れの光が、村を朱に染めていた。
木造の屋根が赤く照らされ、空気がほんのりと温かい。
けれど、それも長くは続かないだろう。日が落ちれば、霧がまた村を覆う。
そんな気がして、僕は自然と歩を早めた。
エリスに言われた通り、村の広場の裏へ向かっていた。
小さな祠の奥、使われていない畑の脇に、細長い空き地がある。
そこに、彼女は立っていた。
「来たのね」
「うん。ちゃんと間に合ったよ」
「それはどうかしら。太陽があと半分沈んでたら、“夜の稽古”になるところだったわ」
冗談のようでいて、目は本気だった。
彼女は腰に手をあて、僕の足元を見て言った。
「それ、ちゃんと持てる?」
「ちょっと重いけど……大丈夫。」
僕が握っているのは、村の道具屋から借りてきた木剣。
鉄に比べれば軽いけれど、それでも10歳の僕には、なかなかの重さだった。
「なら構えなさい。……いいえ、ちょっと待って。動く前に整えるわ」
エリスは近づいてきて、僕の肩と背中に軽く手を添えた。
「肩を落として。右足を半歩引いて。腰は低く。……そう、腕の角度はそこ」
彼女の手が、僕の腕をそっと導く。
冷たい指先なのに、すごく丁寧で妙に心地よかった。
「どう? 立ってるだけで疲れるでしょ?」
「うん……でも、なんか“ちゃんと立ててる”って感じ」
「ふふ。いい感覚ね。じゃあそのまま、振ってみなさい」
「うん……!」
木剣を振る。
風を切る音と同時に、腕にずしりと重みが返ってきた。
「あっ……」
「腕だけで振ってる。全身で“前に踏み出す”意識を持ちなさい。身体の勢いを使うの」
僕はもう一度、構えて、振った。
少しだけ踏み出してみる。そうすると、ほんの少し、刃が伸びた気がした。
「悪くないわ。今のは及第点。あと十回、やってみなさい」
十回。
思ったより、きつかった。
でも、十回目に「そう、それよ」と言ってくれたとき、腕の痛みも吹き飛んだ気がした。
「ふう……これ、毎日やるの?」
「やれるなら、やった方がいいわ。剣はすぐには上達しない。毎日千本振って、ようやく入口よ」
「千……!」
「なによ。吸血鬼の話のほうが信じられるくせに、千本の剣のほうが信じられないの?」
「いや、それは……」
「素直でよろしい」
彼女は背を向けて、軽く笑った。
そのとき――
風が変わった。
森の奥。村の外れから、何かの気配が流れてきた。
血のにおいを感じた。獣のうなりにも似た、喉の奥でこもる低音。
「ルシアス、後ろに下がりなさい」
「えっ、でも……!」
「みなさい」
エリスが一歩前に出る。
草の陰から、黒い獣が姿を現した。
狼に似ているけれど、大きさは二回りはある。
皮膚は部分的に裂けていて、目は赤黒く濁っている。
「影蝕個体ね。まだ“核”は定着してない。処理可能」
彼女はそう判断すると、右手を上げた。
そこに、炎のような紅い光が集まっていく。
「――紅焔刃」
声が響いた瞬間、彼女の腕に紅い剣が現れた。
炎と光をまとったその刃は、空気ごと空間を裂いた。
魔物が跳びかかる。
それより早く、エリスの剣が動いた。
一閃。
刃が赤く軌道を描く。
魔物の巨体が宙に浮かび、そのまま霧のように崩れた。
音も、血の匂いも残さなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
「……なに、今の……」
「見た通りよ。あれが“戦う”ということ」
「……僕にできるのかな。あんなの」
「無理よ」
「えっ」
「今は、ね」
エリスは振り返る。その紅い瞳が、まっすぐ僕を射抜いた。
「でも“やりたい”と思ったなら、歩きなさい。遠回りでも、一歩ずつね」
僕は木剣を見た。手は少し震えていた。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「……教えて。僕もできるようになりたい」
「ええ。君が望むなら、私が教えてあげる」
彼女の瞳は、確かに笑っていた。口元は変わらないままでも、ちゃんと。
その夜、稽古はもうしないということで終わった。
でも、僕の中では何かが始まっていた。
村に戻ると、空には紅い月が昇っていた。
あの夜と同じ色。だけど、見え方が少しだけ違っていた。
怖さではなく、何かを思い出すような......そんな不思議な、あたたかさ。
僕は、剣を胸に抱いて空を見上げた。
明日、また振ってみよう。
たとえ今は届かなくても、きっと。