第28話:囁く声、揺れる灯
夜の風が、どこか湿っていた。
海辺の町を離れ、僕たちはさらに北へ向かっていた。次の目的地は、山岳地帯に囲まれた集落――セレン村。魔物の被害が続いていると聞いたのは、昨日の宿屋でのことだった。
「この先の村、様子がおかしいって。村人が次々いなくなるって噂」
エリスが手にした地図を見ながらそう言った。
「いなくなるって、攫われてるのかな……?」
メルフィが小さくつぶやく。
「可能性はあるわ。でも、普通の盗賊じゃなさそう。……気配が濃いの。薄く残ってる魔の痕跡。これは……」
「魔族のもの?」
僕が問いかけると、エリスはかすかに首を横に振った。
「もっと不気味。“個”があるの。意志を持った何か……そんな感じがする」
エリスがそう言った瞬間、僕の胸の奥で、妙なざわめきが生まれた。言葉では表せない、圧迫感。誰かに、強く見つめられているような――そんな錯覚。
「ルシアス?」
「……ううん、大丈夫。なんでもないよ」
笑ってごまかすように返したけど、違和感は胸の奥に残ったままだった。
……
セレン村は、静かだった。いや、静かすぎた。
日暮れ前に到着したけれど、村には人の気配がほとんどなかった。扉は閉ざされ、窓には板が打ち付けられている。
「……誰かいますか?」
呼びかけても返事はない。
「ちょっと、怖いね……」
メルフィが僕の腕をぎゅっと掴む。
「とりあえず、宿らしき建物に入ろう。夜の探索は危険だし、何か痕跡があれば明日調べよう」
エリスの判断で、村の中央にあった石造りの古い宿に入る。鍵はかかっていなかった。
埃の匂い、そして微かに焦げたような香り――何かが、あったのだろう。
「ここ、数日前まで使われてた形跡がある。暖炉もまだ新しい」
エリスが薪の残骸を指差した。
「じゃあ……急に誰もいなくなったってこと?」
僕が問いかけると、メルフィが不安げに答えた。
「攫われたとか、逃げたとか……」
「どっちにしても、ただの自然現象じゃない。何かがこの村で起きてる」
……
夜。宿の二階で眠っていた僕は、奇妙な“声”で目を覚ました。
『……ルシアス……ルシアス……』
誰かが、僕の名前を呼んでいる。
寝ぼけているのかと思ったけど、はっきりと耳に届く。夢ではない。
ベッドから静かに起き上がり、部屋を出る。
廊下の先に、揺れる灯が見えた。
誰かが――立っていた。
「……誰?」
声をかけたけれど、返事はなかった。
それでも僕は、なぜか“知っている”と感じた。
あれは……ずっと昔に、どこかで見たことのある姿。
「……まさか」
足が自然と動き出す。けれど、階段を下りたその瞬間――
ザァァァ……!
空気が波打つような音と共に、誰かの“意志”が流れ込んでくる。
――ルシアス。
その声は、確かに“僕”を知っていた。
――あなたを……迎えにきた。
誰の声か、わからない。けれど、僕の心を知り尽くしているような、やさしい、でもぞっとするほど冷たい声。
「誰だ……!」
そう叫んだ瞬間、辺りが弾けるように爆ぜ、光が消えた。
「ルシアスッ!!」
エリスの声が聞こえた。
僕のすぐそばには、咄嗟に駆けつけた彼女と、僕を守ろうとしたメルフィの姿。
「大丈夫? 何があったの?」
「わからない……でも、何かが……確かにここに……」
「気をつけて。今のは“魔の手”よ。しかも、かなり強い」
エリスが睨む先には、もう誰の姿もなかった。
ただ、そこには残されていた。
血のように赤黒く焼け焦げた、円形の跡。
そして壁には、異様な文様。
――それは、“呼び出し”の術式。
「……誰かが、君を迎えに来たのよ」
エリスの言葉が、妙に重く響いた。
……
その夜、僕はもう眠れなかった。
呼びかけてきた“何か”の正体はわからない。
でも、はっきりしているのはひとつ――
あれは、“僕を知っている存在”だった。
……
明け方、宿の外に出ると、遠くの山の方角で黒い鳥の群れが渦を巻いていた。
僕の中で、またひとつ確信が生まれた。
何かが、近づいている。
そして、それはきっと――僕を求めている。




