第24話: 塔に残された記録
薄曇りの空の下、僕たちは再びセレフィアの塔の前に立っていた。
昨日とは違い、塔からは魔力の気配がほとんど感じられない。だが、その静けさが逆に不気味だった。まるで何かが、呼吸を潜めてこちらを窺っているような……。
「今日は、入るんだよね?」
メルフィが不安そうに僕の袖を握る。
「ええ。もう逃げ場はないみたいね。……昨夜の“視線”が、消えてない」
エリスはそう言いながら、塔の扉に手をかけた。ゆっくりと、重たい音を立てて開かれる扉。その奥に広がっていたのは――
「……うわ、真っ暗」
「灯り、用意するわ」
エリスの手から淡い赤光がふわりと灯る。吸血鬼である彼女の魔力によって生まれた魔灯が、古びた石の階段と、壁に刻まれた奇妙な紋様を照らし出した。
僕たちは慎重に、塔の内部へと足を踏み入れる。
……。
「これ……全部、魔術式?」
壁一面にびっしりと刻まれた紋様は、どれも異なる形をしていた。魔方陣、封印術式、転送陣――どれも高度な知識を要するものばかりだ。
「セレフィアの魔術師たちは、戦いじゃなくて“体系化”に重きを置いてたらしいわ。だから、遺された術式は今でも通用するものが多い」
エリスが足を止めて、ひとつの紋様に指を這わせる。
「……これは、“記憶封印”ね」
「記憶、封じる……?」
思わず胸がざわめいた。
――まさか僕の“記憶喪失”と、この塔が……?
「まだ断定はできないけど、少なくとも、ここの術式は誰かの“意志”によって維持されてた。魔力の残留も新しい。……つい最近まで、誰かがここにいた」
エリスの声が低くなる。
そのとき――
カンッ……
金属音が響いた。上階から。僕たちは思わず顔を見合わせる。
「行きましょ」
エリスが前に出て、僕とメルフィもそのあとに続く。
……。
二階、三階……と階段を上るごとに、空気が重くなっていくのを感じた。
壁に刻まれた術式の精度も、階が上がるほどに洗練されていく。単純な記録ではない。これは……誰かが“今も使っている”魔術だ。
「ここ……開いてる」
最上階――と思われるフロアの扉が、わずかに開いていた。中からは、淡い光が漏れている。
エリスが手をかざして、そっと扉を押し開ける。
そこには――
「……部屋?」
書斎のような空間が広がっていた。本棚に囲まれ、中央には石の机。その上には無数の古文書、魔石、そして――
「鏡?」
小さな、手鏡のような魔具がひとつ、机の中央に置かれていた。僕が手を伸ばしかけたとき。
――カチリ。
鏡が、ひとりでに揺れた。
「触れないで!」
エリスが僕の腕を掴んで引き戻す。直後、鏡から黒い光が放たれ、部屋の空気が一瞬で変わる。
「結界……! これ、情報記録型の魔具よ。……誰かが残した“記憶”が、ここに刻まれてる」
光が揺らめき、映像が空中に浮かび上がる。
そこに映ったのは――
「……あ……」
僕は声を失った。
そこには、僕と誰かが立っていた。
――いや、“僕”だった。けれど、その姿は今の僕よりも遥かに大人びていて、背も高く体つきもがっしりしていた。
まるで、10年後の成長した僕自身のように。
その姿を見た瞬間、エリスの瞳が揺れた。
「……ルシアス……あなた……」
震える声。懐かしさと切なさが滲んだ、少女ではない女性の眼差し。
そして隣には、黒い影。顔は見えなかったが、少女のような声が響く。
『……あの時、あれが起きたのは偶然だった。けど……もう、同じ過ちは繰り返させない。
五十年後、ここに戻った“僕”がきっと道を選びなおす』
映像が途切れた。
「……未来の……あなた」
エリスのつぶやきは、今の僕に向けられたものではなかった。
僕は答えられなかった。頭の中が混乱していた。未来の僕が何かを知っていて、それを……ここに残した?
「わたし……何も知りませんでした……」
メルフィが僕の腕にしがみついて、顔を伏せる。
「いいんだメルフィ……。僕も知らなかった。これが……僕の未来?」
そして同時に、理解した。
――あの影は、“未来の僕”に関係している。
……。
「記憶を奪ったのも、飛ばしたのも……全部、自分自身だった。そういうことかもしれないわね」
エリスの声は静かだったが明らかにそれまでと違っていた。胸の奥に触れる何かを、抑え込んでいるような響き。
「戻ろう。……これ以上は、今のルシアスには負担が大きすぎる」
「……うん」
メルフィとエリスと共に、僕は塔をあとにした。
セレフィアの風が、どこか懐かしく吹いていた。
……。




