第22話: 静かな森と囁かれる名
木漏れ日が降り注ぐ緩やかな坂道。風が枝葉を揺らし、森はどこか穏やかな気配を纏っていた。
エリスが先頭を歩き、僕とメルフィがその後を並んで進んでいる。港町を出てから半日ほどが経ち、道は次第に開けた林から深い森へと変わりつつあった。
「……この森、前に通ったことある?」
僕が何気なく尋ねると、エリスは振り返らずに答えた。
「ええ。昔、この先の都市で一度だけ仕事をしたことがあるの」
「都市って、名前は?」
「――“セレフィア”。〈眠れる古都〉って意味よ。かつては魔術研究の拠点だったけど、今は人も少なくて……静かな町よ」
「セレフィア……」
その響きはどこか懐かしくて、でも聞き慣れない。不思議な感覚が胸に残った。
「その町、今も魔術師が住んでたりするの?」
「どうかしら。少なくとも、研究塔はもう動いてないわね。古文書の保管庫があるくらいかしら」
「はぇ〜……なんだかロマンありますね」
隣でメルフィが小さく笑う。彼女は相変わらず軽装のまま、小さな鞄を両手で抱えて歩いていた。
「でも……この森、ちょっと静かすぎませんか?」
ふと、メルフィが声を落とす。たしかに、鳥の鳴き声すら途切れがちで、風の音ばかりが耳に残る。
「このあたりは“静穏の森”って呼ばれてるわ。昔、結界が張られたらしくて、音や気配が外に漏れにくいの。魔術師たちがこもるには都合のいい場所だったんでしょうね」
「結界……って、まだ残ってるんですか?」
「部分的にね。完全じゃないけど、少なくとも“外からの視線”は避けられるわ」
エリスの言葉に、僕は少し背筋が伸びる思いだった。結界が残っているなんて、それだけでもこの場所がただの森じゃないことがわかる。
「……でも、なんで昔の魔術師はこんなところに集まってたんだろうね」
「……ルシアス、何か気になるの?」
メルフィが小声で問いかけてきた。
「うん。理由がある気がしてさ。たとえば今もその研究の“痕跡”が残ってたり……とか」
「ふふっ、まるで冒険家さんみたいですね」
メルフィが微笑んだとき、森の奥からかすかな水音が聞こえた。
「川があるわ。ちょっと休憩しましょうか」
エリスが立ち止まり、手で草をかき分けると、小さな清流が顔を見せた。澄んだ水が岩肌を滑り、陽にきらめいている。
「うわぁ……きれい」
メルフィがしゃがみ込み、手を水に浸す。
「冷たくて、気持ちいい……」
「少しだけ、ここで昼食にしましょう」
エリスが腰を下ろし、荷物から簡易マットを取り出す。僕たちもそれに倣って腰を落とした。
メルフィが持っていた布包みから、パンと干し肉、少しの果物を取り出して並べる。その所作はすっかり慣れたもので、彼女の世話焼きな一面が垣間見える。
「ルシアス、はい。どうぞ」
「ありがとう」
手渡されたサンドイッチを受け取りながら、僕はちらりとエリスの方を見る。彼女は静かに水面を眺めながら、何かを考えているようだった。
「エリス、どうかしたの?」
「……いえ、ただの直感だけど。この森、誰かに見られてる気がするの」
「えっ……」
メルフィがぴたりと動きを止める。
「魔物の気配はない。でも……“人の視線”って感じかしら。魔術師の残留思念、あるいは……廃墟に住み着いた何者か」
エリスは視線を森の奥に向けた。
「警戒はしておいた方がいいわ」
「う、うん……」
メルフィが少し怯えたようにこちらに寄ってきたので、僕はそっとその肩を抱いた。
「大丈夫だよ。エリスがいれば、きっと平気」
「……ルシアス、ありがと」
ほんの少しだけ、彼女が頬を寄せてくる。
そのとき――。
「……誰かいるの?」
メルフィがつぶやくように言った。
エリスがすぐに立ち上がり、森の茂みに目を向けた。
「……隠れてるつもりかもしれないけど。出てきてもらえる?」
数秒の沈黙のあと、茂みがかさりと揺れた。
現れたのは、ボロボロのローブをまとった老婆だった。髪は灰色に乱れ、瞳は鋭く光っている。
「……お見通しかい。さすがは“夜の女王”」
「……あなた、どうしてそのことを」
エリスの声に、僕も思わず息を呑んだ。
「ふふ……“目”が見えるのさ。お嬢ちゃんの背中に、古き血の残滓がまとわりついてるのがね」
老婆はにやりと笑った。
「安心しな。あたしはもう、過去にすがるほど若くない。ただひとつ、あんたらに伝えたいことがあってね」
「伝えたいこと……?」
「“セレフィアの塔”には、まだ火が灯ってるよ」
その一言を残し、老婆はすっと身を翻して森の奥へと姿を消した。
その場に残ったのは、ざわりと揺れる風と、少し冷たくなった空気。
「……セレフィアの塔?」
「……何かが、動き出してるのかもしれない」
エリスの声は、かすかに震えていた。




