第二話:月影の村へ
霧が出てきていた。
朝日が森を染める頃には、空気は白くにごって、吐く息まで冷たくなっていた。
それでも、僕は歩けていた。さっきまでは、まるで立つこともできなかったのに。
エリスの後ろ姿は、変わらずまっすぐだった。
黒いマントが揺れるたびに、その背中はすごく遠く見えて、でも、なぜか追いつきたくなった。
「ねえ、エリス」
「なに?」
「その……ありがとう。助けてくれて」
「気にしないで。でも君があんな状況になってなかったら、通り過ぎていたかもね」
「そっか……でも、助けてくれたのは事実だし……」
「ふふ、素直ね」
エリスはまた、あの少しだけ哀しげな笑みを浮かべた。
どうしてそんな顔をするのか、聞けなかった。
きっと、それを聞くには、僕はまだ何も知らなさすぎた。
森を抜けた先に、小さな村があった。
木造の家が並び、畑の横を子どもたちが走っていた。
まだ朝早いせいか、人の気配は少なかったけど、生活の音がする。
焚き火の匂い、パンを焼く香ばしさ、鍋の煮える音――
全部、やけに懐かしかった。
(懐かしい……?)
記憶がないはずなのに、そんな感情が浮かぶのが不思議だった。
「ここが月影の村。商隊が通るくらいの小さな集落よ」
「月影……」
「旅の途中、何度か立ち寄ってるわ。顔見知りもいるから、しばらく休めると思う」
「ありがとう……!」
僕は自然と、言葉がこぼれていた。
命を救ってもらって、名前をもらって、そして......居場所まで。
出会ってまだ半日も経ってないのに、エリスに対してどこか懐いてる自分がいた。
「名前は?」
村の入り口で、見張りの男に呼び止められた。
背は低いが、腰にはちゃんと短剣がさがっている。
「私はエリス。旅人よ……この子は保護したの。森で倒れていたから。」
「そうか……まあ、あんたの顔は知ってる。通していい」
彼は僕の方をちらりと見たが、あまり追及してこなかった。
エリスは、表情ひとつ変えず、黙って礼をして村の中に入っていった。
「……すごいね」
「何が?」
「なんていうか……堂々としてる」
「演技よ。私は“普通の旅人”として、通ってるから」
僕はその言葉に少し引っかかった。
「吸血鬼」って、そういう意味か......と。
エリスの秘密。
それは、僕にだけ知らされた事実。
「私が吸血鬼だってこと、誰にも言っちゃだめよ?」
「うん。ちゃんと約束は守るよ」
エリスは微笑まなかった。ただ一瞬だけ、僕の顔を見てから、歩き出した。
宿屋は村の端にあった。
古びているけど、ちゃんと清潔にしてあって、ベッドも思ったよりふかふかだった。
「ここで、一日休んで。身体がまだ不安定でしょ?」
「でも……お金あるの? 宿代とか」
「心配しないで。あなたを助けるって決めたのは私だから」
彼女はそう言って、カバンの中から何枚か銀貨を取り出して、宿の親父に渡した。
(助けるって、どうしてそこまで……)
そう尋ねようとしたけど、そのタイミングでエリスは部屋のドアを閉めてしまった。
僕はひとり、ベッドの上で空を見上げた。
紅い月は、まだ空にあった。
しかしあれが僕と彼女の“出会い”の象徴になるなんて、今はまだ想像もしてなかった......。
目が覚めると昼過ぎだった。
ベッドの下には果物が用意されていて、ありがたくいただいた。
部屋を出ると廊下にエリスが立っていた。
いつものように無表情で、けれどなぜか、僕を待っていてくれたように思えた。
「体調は?」
「うん。だいぶ良くなった」
「それは何より」
彼女はそれだけ言うと、ゆっくり歩き出した。
僕はそれに黙ってついていく。
広場には、子どもたちが木の棒を振り回して遊んでいた。
何人かは、僕を見て「見慣れない顔だ」と言っていたけれど、深く詮索する様子はなかった。
「エリス。……これからどうするの?」
「私たちは旅を続ける」
「“私たち”? ……僕も、ってこと?」
「名前を与えたのは私。助けたのも私。だから、責任は持つわ。あなたの記憶が戻るまではね」
「……ありがとう」
本当は...それだけじゃない気がした。
でもエリスが何も言わないなら、今はそれでいいと思った。
「ルシアス」
「ん?」
「君は、剣を握ったことある?」
「え?」
「旅をするなら、武器は必要よ。魔物も、盗賊もいる」
「……やったこと、ないと思う。でもやってみる」
「素直ね。……なら、あとで広場の裏に来なさい。少し見てあげる」
そう言って歩いていくエリスの背中を見ながら、僕は小さく息を吐いた。
――記憶も家も、何もない。
でも今は、それほど怖くなかった。
隣に、エリスがいてくれるなら。