第十五話:村の影に潜むもの
峠を越えた先、霧の切れ間に現れた村は、静かすぎるほどに整っていた。
木造の家々は並び、畑は整備され、人影もちらほら見える――のに、何かが足りない。
「……変だな。普通の村みたいに見えるのに」
「空気が違う。張りつめてる。夜になる前に、理由を聞いておきたいわね」
エリスの目は、村の中央に立つ石塔――鐘楼をとらえていた。
荷を宿に預けた後、僕たちは通りに出た。
年配の村人に声をかけると、彼は周囲を確認してから、ひそひそと囁いた。
「旅人さん……夜、鐘の音がしたら、決して外に出ちゃいけませんよ」
「どうして?」
「理由は……言えません。昔からの決まりでな……」
「それは“昔”から今も、ですか?」
エリスの問いに、男はうなずいた。
まるで、何かを語ればそれが現れるとでも言うように。
「村の外れに、古い廃聖堂があります。……あれも、もう触れてはいけないものです。どうか、関わらぬように」
そう言うと男は足早に去っていった。
夜が来た。
村は一転して、まるで息を潜めたかのように静まり返っていた。
灯りの落ちた家々。扉と窓はすべて固く閉ざされている。
宿の部屋から外を見ていたそのとき――
カーン……カーン……
遠くから、ゆっくりと鐘の音が響いた。
僕は立ち上がろうとした。だが、
「待って」
エリスが手を伸ばし、僕の手首をそっと止める。
「何が出るかは、まだわからない。でも、何かが“出る”……それだけは、確か」
「……見に行くのは、ダメ?」
「見に行くなら、一緒に」
エリスは外套を羽織り、静かに扉を開いた。
村の外れ。鐘の音は止んでいた。
だが、その代わりに――
廃聖堂の奥から、ゆらりと、黒い影のようなものが現れた。
背丈は人ほどだが、輪郭はぼやけ、目も口もない。
地を這うように、音もなく村の方へ進み始める。
「……見たことないタイプね」
「魔物……じゃない?」
「分類できない。けど、瘴気に近い気配」
エリスは魔力の流れを読み取るように目を細めた。
その影は、何かを探すようにうろついていた。
やがて影は立ち止まり、頭のない像の前でぴたりと止まる。
そして――煙のように、跡形もなく霧に溶けた。
「……今のは……?」
「まだ“探してる”だけ。けれど、放っておけば……」
彼女は言葉を濁す。
「明日、もう一度確認しましょう。あの影……次も来る」
翌朝。
村の空気は、昨日よりさらに沈んでいるように感じられた。
宿の主人に話を聞こうとしたが、彼は顔を伏せ、何も言わなかった。
まるで、昨夜の鐘も、影も、すべて“無かったこと”にしたいかのように。
「……隠してるんじゃなくて、蓋をしてるのね。村全体で」
エリスはそう呟いて、宿を出た。
村の外れにある廃聖堂は、苔むした石と崩れた瓦で半ば埋もれていた。
かつて祈りの場だったはずの空間には、今は風の音すら届かない。
「ここ……結界の痕跡がある」
エリスは、扉の縁に残されたかすかな術式を指差した。
複数の魔力が編まれたような痕。だが、今は力を失っている。
「瘴気を封じてたのかな、それとも……?」
僕が口にした疑問に、彼女はうなずいた。
「たぶん、もとは封印の場。けど今は“中身”がいない」
「いない?」
「昨夜の“影”はここから出た。でも、あれ自体は本体じゃないわ。痕跡だけ……ある意味記憶みたいなものね」
エリスが石床に手をかざす。そこには黒く煤けた跡が、うっすらと残っていた。
「……燃えた?」
「魔力による暴走痕。しかも普通の魔物じゃあり得ない密度」
「つまり……」
「この村は一度“何か”を封じて、それを忘れた。あるいは、忘れさせられた」
帰り道、僕はぽつりと口にした。
「このまま放っておいたら、あの影はまた来る?」
「来るでしょうね。昨日の反応を見る限り“探してる”何かが、まだここにあると感じてる」
「止められる?」
「手を打てば止まるかもしれない。でもそれは明日、今夜が――本番よ」
エリスは空を見上げ、つぶやいた。
「今夜、影の“本体”が現れる可能性が高い。仕留めるならそこね」
僕は、剣の柄をそっと握った。




