第十三話:手の届かない距離
北東の空は薄く曇り、風が山の匂いを運んでいた。
「……こっちで間違いないの?」
馬車の荷台に揺られながら、僕――ルシアスは隣に座るエリスに尋ねた。
「ええ。ラウヴェンの話だと、同じ瘴気の気配が、この先の村で確認されたって」
エリスは地図を折り畳みながら、軽く首を傾ける。
「まだ確証はないけど、瘴気石と同じ波動なら、無視はできないわ」
瘴気を帯びた宝石。ラウヴェンの屋敷でエリスが受け取ったそれは、明らかに“普通の魔石”ではなかった。
ただの魔物の力ではなく、もっと深い、重い何かが込められているような気配――。
「やっぱり……あの石、危ないものなんだよね?」
「そうね。“ただの魔力”じゃないもの」
エリスはそれ以上を語らず、視線を前へ向けた。
僕は小さくうなずいて、剣の柄にそっと手を置いた。
山道を抜けた先、小さな村が霧の中に姿を現した。
村は静かだった。建物の影に人の気配はあるものの、通りは閑散としていた。
「人が……出歩いてない?」
「夜中に魔物が現れるって話があるの。村の外れの森で、何かが目撃されたって」
宿に荷物を預けると、僕たちはそのまま村の北端――森の入り口へと向かった。
森は思ったより深く、湿った土と苔の匂いが鼻をかすめる。
「エリス、ここ……なんだか空気が」
「瘴気が少しだけ残ってる。注意して」
足音を潜めて進む。
すると、奥の茂みから、低い唸り声が響いた。
「……来る」
木々の間から現れたのは、漆黒の甲殻に覆われた魔物――二足歩行で、体高は人間の倍以上。
背中から突き出す棘と、紫に濁った眼。
《ダスクリーパー|ランク:D|夜行性。瘴気の濃い地に現れ、群れでの奇襲を得意とする。毒性の爪を持つ》
図鑑で見たことがある。でも、目の前に現れると、まるで別物のように見えた。
「僕がやる……!」
「待って。これは――」
僕は聞こえないふりをして、剣を抜いた。
身体が強張る。でも、逃げたくなかった。
「はああっ!」
一閃。刃は確かに届いた……はずだった。
だが、甲殻は予想以上に硬く、剣が弾かれる。
「っ……!」
魔物が腕を振るう。避けきれず、空気を裂いた衝撃が体を揺らした。
その爪先が、わずかに僕の腕をかすめた。
「……っ!」
地面に転がり、肺から息が漏れる。じわりと広がる熱に、僕は眉をひそめた。
(少し……当たった……?)
歯を食いしばって立ち上がる。でも、足が震えていた。
魔物は低く唸り、今度は跳びかかってきた――
その瞬間だった。
鋭く空気が裂けた。
「もういいわ、下がって」
淡く輝く魔法陣が、エリスの足元に広がる。
周囲の温度が下がったような錯覚とともに、空気が凍りついた。
詠唱もなく放たれた光の槍が、音もなく魔物の額を貫いた。
ダスクリーパーは断末魔も上げぬまま、その場に崩れ落ちる。
「……!」
僕は息を呑んだまま、動けずにいた。
エリスはゆっくりと近づき、倒れた魔物を一瞥する。
「今のルシアスには、まだ早い相手ね。」
その言葉は責めるようではなかった。
けれど、それが返って僕の胸に刺さった。
「……ごめん。」
「気持ちは嬉しい。でも無茶は無謀とは違うわ」
淡々とした声だった。だけど、そこには確かな優しさがあった。
「それに......ルシアス、腕、見せて」
「え……ああ、さっき……少しかすっただけだよ」
エリスは僕の袖をめくり、傷を見つけるとそっと腕を引き寄せた。
「あの魔物には爪に毒があるの。放っておいたら動けなくなるわよ」
言葉が終わる前に、エリスは静かに顔を近づけた。
唇が傷口に触れ、わずかに吸うような圧がかかる。
「……っ」
僕は驚きながらも、そのまま動けなかった。
やがて、彼女はそっと唇を離し、口元に手を添える。
「っ......これで大丈夫。毒はもう残ってない」
「ありがとう……吸ってくれたの、毒のため……だよね」
「ええ。でも――」
一拍の沈黙のあと、エリスは静かに続けた。
「本当は、もう少しルシアスの血も吸いたかったかも」
それだけを残し、彼女はすっと立ち上がる。
冗談なのか本気なのか――僕には、わからなかった。
(……全然、歯が立たなかった)
目の前で魔物を倒すエリスの姿が、遠く見えた。
(もっと、強くなりたい)
はっきりと、そう思った。




