第十一話:魔物図鑑
静水の町は、ゆるやかな川と石橋が縦横に巡る、美しい町だった。
水の音と舟の軋みが通りに溶け込み、白い石橋を渡る人々の足取りまで柔らかく感じられる。
「今日は、その……“知り合い”に会いに行くんだよね?」
ルシアスが歩きながら尋ねると、エリスは頷いた。
「ええ。昔、少しだけ助けてもらったの。短い時間だったけど、私にとっては忘れられない出会いだったわ」
「どんな人? 剣士? 魔法使い?」
「本を扱う人よ。知識に触れる人は、ときどき怖いほど鋭いの。言葉じゃない部分まで見抜いてくるから」
「それって……大丈夫?」
「大丈夫よ。たぶん彼は何も聞かない。でも、すべてを見ている人」
町の外れ、小さな木造の建物の前で足を止める。
くすんだ銀の看板には《夜鳴き猫書房》と記されていた。
木の扉を押すと、紙とインクと静けさの匂いが、ゆっくりと流れてくる。
扉の奥で、書棚の影から一つの影が現れた。
「……これはまた、懐かしい顔が来たな」
現れたのは黒衣をまとった年配の男だった。
痩せた体に深い皺を刻んでいるが、その瞳だけは若者のように鋭く、澄んでいる。
「ラザン。久しぶり」
「……本当に、“久しぶり”なんだな」
ラザンは数歩近づき、まじまじとエリスの姿を見つめた。
「君は……まったく変わっていない。姿も声も、あの頃のままだ。まるで昨日の続きを見ているようだ」
ルシアスは思わず隣を見る。
確かに彼女の姿には“時間”というものが、まるで触れていない。
「時間って不公平よね。私は止まったまま、あなたは進んでいる」
「いや……違うな。君は止まっているんじゃない。変わらないまま生き続けているんだ。……それが、どうしようもなく遠い」
ラザンの声に滲むのは、懐かしさと戸惑い、そしてわずかな哀しみ。
「それでいて、背負っているものだけは前よりも濃くなっているように見える」
エリスは目を伏せる。
「今日は“あの本”を借りに来たの。……覚えてる?」
「忘れるものか」
ラザンは書棚の奥へ向かい、一冊の分厚い革表紙の書物を慎重に取り出して、両手で差し出した。
《魔物図鑑》
「分類は古いが、基本は変わっていない。命を守るための記録だ。……君がそれを持ち出すというなら理由があるのだろう」
「ええ。彼に必要なものだから」
ラザンはルシアスに視線を移す。
少年は真っ直ぐに本を見つめていた。
「君がこの本を手にするのなら、覚えておきなさい」
「……はい」
「図や文字が並んでいるが、そのすべては命の記録だ。誰かが戦い、誰かが傷つき、それでもなお残した知識だ」
「わかりました。大事に使います」
ラザンは頷き、そして再びエリスを見た。
「君がこうして、再び歩き始めたという事実だけで、世界は静かにざわめいているのかもしれないな」
「私はただの旅人よ。今はね」
「そうであれば、私にできることはこの本を託すことだけだ」
その言葉に、エリスは静かに頭を下げた。
店内の光が、彼女の銀髪を淡く照らしていた。
夜。宿の部屋。
ルシアスは布団の上で《魔物図鑑》を開いていた。
蝋燭の灯りの下で、真新しいページを一つひとつなぞるように指で追っていく。
「……あった。これだ」
《腐肉喰い(グール)|ランク:G|腐敗した肉を喰らい人を襲う。墓地や戦場跡に出没。噛まれた場合は感染の危険あり》
「やっぱり……あいつ、グールだったんだ」
「そう。最下級の魔物。でも、君はちゃんと倒した」
エリスが髪を拭きながら隣に座る。
「図鑑のランクは、Gから始まって、F、E、D……上にいくほど手に負えない相手になるわ。
A以上は、国家レベルの戦力で対処するものもある」
「SSって……“存在だけ確認されている”って書いてある。そんなの、どうすればいいの……」
「戦うか、逃げるか。できることを見極めるために、この本があるの」
ルシアスは静かにページをめくる。
紙に描かれた魔物たち。誰かの戦いの記録。そのひとつひとつが、どこか現実に近く感じられた。
「……僕の名前も、いつかこういうところに載るのかな」
「載せるなら、自分の足で歩いて、自分の手で記録を刻みなさい。誰かの戦いじゃなくて、君の戦いを」
「うん。強くなりたい。ちゃんと、自分の手で守れるように」
エリスは図鑑をそっと閉じて、微笑んだ。
「じゃあ、明日からまた練習ね」
「うぅ……やっぱりそうなるか」
それでも、ルシアスの声にはどこか迷いのない明るさがあった。
その夜、少年は初めて“知識”の重みを胸に抱きながら眠りについた。
図鑑のページの向こう、まだ見ぬ魔物たちの影が、静かに彼の夢に手を伸ばしていた。




