第十話:冒険の準備
朝、町の鐘の音で目を覚ました。
外はまだほんのり暗く、けれど人々の動きはすでに始まっていた。
宿の窓を開けると、冷たい風が頬をかすめる。
石畳を行き交う声、どこかから漂う焼き菓子の匂い。はじめて“町”に来たことを実感した。
ベッドの上に、エリスの姿はなかった。
(もう起きてるんだ……)
朝の食堂では、僕はスープを飲みながら周囲を見回していた。
エリスは壁際の席にいて、いつものように食事にはほとんど手をつけていなかった。
「おはよう、ルシアス」
「……うん。おはよう」
「今日の練習は午前中だけにしましょう。午後は少し町を見て回るわ」
「……うん、わかった」
エリスの口調は変わらない。でも町に入ってから、どこか少し研ぎ澄まされている気がした。
午前中の稽古は、町の外れにある空き地で行った。
昨日買った剣はやっぱり重く、木剣とは違って一振りごとに全身に響いた。
「肩に力が入りすぎてる。少し抜いて」
「……こう、かな?」
「そう。手首はそのままで」
言葉は短いけれど、そのぶんよく届いた。
少しずつ、自分の動きが変わっていくのがわかった。
何度も振るううちに、少しだけ、昨日より“剣を握っている感覚”が身体に馴染んできていた。
「今日はここまでにしましょう。無理は禁物よ」
「……うん、ありがとう」
昼を過ぎ、町の中央通りへと向かう。
露店には布や香辛料、干し肉や旅道具が並び、行き交う人の声で賑わっていた。
「武器以外にもルシアスの装備を揃えましょ」
エリスの言葉に頷いて、必要なものを一つひとつ揃えていく。
軽い革鎧、道具袋、水筒、火打石。ひとつひとつが、旅人の証に思えた。
「こんなに……いいの?」
「全部必要になるわ。あなたが強くなるためにね」
最後に立ち寄った小さな道具屋で、エリスが小刀を手に取った。
「これは予備の武器にもなるし、食事の準備にも使えるわ」
「流石だね……全部ちゃんと考えてるんだ」
「当然よ」
そう言ってエリスは、いつものように淡々と歩き出した。
夕暮れ時、宿へ戻る途中の道。
石畳の通りにはランプが灯り始め、行き交う人の影が長く伸びていた。
エリスがふと足を止めて、空を見上げた。
その横顔は、どこか懐かしさを帯びていて、僕はつられて立ち止まる。
「……この町に、昔の知り合いがいるの」
不意にこぼれたその言葉は、空の色に似て少し寂しげだった。
「知り合い……?」
「ええ。明日、少し会っておきたいの」
「そっか……会えるといいね。その人に」
「会えるわ。たぶん、私のことも忘れてないはず」
その言い方が妙に確信めいていて、僕は少しだけ黙り込んだ。
何かを聞きたくなる。でも聞いたら壊れてしまいそうな気がして、やめた。
代わりに僕は、思ってもいない言葉をぽつりとこぼしていた。
「……なんか、ずっと昔から旅してるみたいに見えるよ。エリスって」
「そう見える?」
「うん。落ち着いてるし、準備も完璧だし、知らないことなさそうだし」
エリスはふっと目を細め、けれど笑わなかった。
「旅をする理由は人それぞれよ。私はただ……忘れたくないことがあるだけ」
「忘れたくないこと……?」
もう一歩踏み出しそうになって、けれどそのまま口を閉じた。
エリスもそれには答えず、ただゆっくりと歩き出した。
「さあ帰りましょう。宿の娘に、洗濯物を頼んであるの」
「え、洗濯って……僕の?」
「泥だらけだったもの。剣を振るのはいいけれど、手入れも忘れちゃだめよ」
「……はい」
ちょっとだけ肩をすくめて、それでも笑いながらついていく。
宿の灯りが、もうすぐそこまで届いていた。




