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紅月は独り夜を歩く  作者: H.BAKI
始まりの物語
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第一話:めぐりあい

森は静かだった。

いや、正確に言えば――静かすぎた。

鳥の声も、獣のうなりもなくて

ただ風が木々をなでる音だけが、かろうじて命の気配を伝えていた。


その森の一角で僕は倒れていた。

顔は傷だらけで、服は泥と血にまみれて、息をするのも苦しかった。

体が冷えている。

頭が重くて、視界がにじむ。


でも、それよりずっと――不安だった。

自分の名前が、まったく思い出せなかったから。


(……僕は、誰なんだ?)


「……目、覚めたのね」


声がした。

僕はびくりと肩を震わせて、反射的に身を起こそうとした。けれど、体がついてこなかった。


そこにいたのは、ひとりの女だった。


銀の長髪、紅い瞳。

夜の森に不釣り合いなほど整った顔立ちに、黒いマントが風に揺れていた。

肌は雪みたいに白くて、まるで月の光がそのまま人の形になったようだった。


「な、誰……?」


「名前、覚えてる?」


聞かれて僕はゆっくりと首を横に振った。


「そっか。……じゃあ、仮の名前を与えてあげる」


彼女はそう言って、僕の目をまっすぐ見た。

その瞳になぜだか妙な懐かしさを感じた。


「ルシアス。君はそう呼ばれていた気がする」


「ルシアス……?」


口に出したその名前が、胸の奥にすっと染み込んできた。

知らないはずなのに、不思議と温かかった。


「ルシアス。違和感......ないでしょ?」


「……うん」


彼女は少しだけ、笑った。

けれどその笑みはどこか哀しかった。


「とりあえず、これを飲んで」


そう言って取り出されたのは、小さな瓶だった。

中には……真っ赤な液体。どう見ても血だった。


「え……なにこれ、血!?」


「そう。だけど人間のじゃない。安心して...毒も混ざってない」


普通の人が言わないようなことを、さらっと口にする。

でも、妙に説得力があった。

目の前がぐるぐるするくらいには具合が悪くて、断る余裕もなかった。


(……信じるしかないか)


意を決して一滴だけ、口に含む。

鉄っぽい匂い。でも、なぜか嫌じゃなかった。


瞬間、身体の奥に火が灯った。

冷えていた手足が温かくなって、頭の霞が晴れていく。


「……楽になった……」


「でしょ?」


彼女――エリスと名乗った女は、すっと立ち上がった。


「立てる? 村が近いわ。休める場所まで案内してあげる」


「え、ちょっと待って。君、いったい……」


「名乗るくらいならいいわ。私はエリス。旅の途中よ」


「エリス……」


その名前を口にしたとき、なぜか胸がふっと軽くなった。

彼女の背中が、少し遠くて、でも見失いたくないと感じた。


そのときだった――


森の奥から、獣のような唸り声が響いた。


「っ、なに……!?」


茂みの陰から、黒い毛並みの魔物が姿を現した。

鋭い牙と爪。濁った目。明らかに人を襲うために存在しているような、生き物じゃない。


「危ない、逃げよう!」


「必要ないわ」


エリスは僕の前に出て、すっと右手を上げた。

空気が張りつめて、足元に紅い魔法陣が浮かぶ。


「――紅蓮光」


まばゆい閃光が森を裂いて、魔物は悲鳴すら上げずに塵と化した。


呆然と立ち尽くす僕の隣で、エリスは平然としていた。


「な、なに今の!? 君……本当に何者なの……?」


「……君にだけは、教えてあげる」


エリスは僕の目を見つめて、静かに言った。


「私は、吸血鬼。だけど、このことは――他の誰にも言わないで。これは、君と私だけの秘密」


「吸血鬼……」


さっき飲まされたのが血だったことを思い出して、僕はごくりと唾をのんだ。

けれど、怖いとは思わなかった。

彼女の声が、目が、何よりあたたかくて、信じられると思った。


「わかった。誰にも言わない。約束する」


「……ありがとう」


彼女はそう言って、ふっと少しだけ微笑んだ。

それはきっと、さっきよりも少しだけ“本物”の笑顔だった。


「じゃあ行きましょう。今日から、君の旅が始まるのよ、ルシアス」


空に、紅い月が昇っていた。

どこか懐かしくて、優しくて、だけどとても哀しい色をしていた。


――このとき僕はまだ知らなかった。

この旅が、いつか誰かの記憶に還る旅であることも。

そして彼女が、誰よりも深く僕を知っていたということも――

https://d.kuku.lu/nchcsg84c

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