めろう蜘蛛
読んでくださりありがとうございます
――高校入学の四月八日以前の話をしよう。
これは一人の少女に起きた悲劇だ。
ざっくりと説明すれば、少女が中学に上がってからすぐ、母親は三年間の出張へと旅立った。父親は自分の妻がどんな職業に就いているか知らないだろう。どっかの事務員としか把握していないだろう。妻や娘に当てにされていない。それくらい情けなく、優柔不断で、事なかれ主義で、自分にしか興味が無い。だから妻子(特に娘)から不満を集めていた。
この夫婦の最初の失敗というなら(母親がダメ男に惚れた時点で終わりなのだが)妻が「汐璃」と出生届を頼んだら、今の子は「汐瑠」くらいじゃないとイジメられてしまうと勝手に判断し、勝手に名前を変え、出生届を出した。
勿論大喧嘩となり、両家親族からも旦那は大変呆れられた。
結果、逆にイジメられるようになった。そのせいで娘の性格は内向的で、根暗で、対人関係を築くのが苦手な少女に育った。
母親はいつだって娘の味方だった。だが出張に何も知らない娘を連れて行くわけにはいかなかった。危険な仕事でもあったし。
自分の両親を頼ると言う選択もあったが、実家は北海道で、娘を転校させるか迷った。だが、旦那が「大丈夫」と言い張るので、惚れた弱みもあるので娘を託して出張先へ向かった。いざとなれば義両親が茨城に在住しているので安心だと思った。
これが失敗だった。
父親は仕事があると言い訳をし、家事を全て汐瑠に任せた。休日も父は一人で出かけ「汐瑠も遊びに行くなら、友達とどこか行っておいで」と良い父親面をするが、本当に娘と向き合っているなら、口が裂けても言えない台詞だ。だって、彼女はクラスでイジメの対象にされ心労を募らせているのだから。
毎日をロボットのように過ごした。学校に行き、大人しくイジメられ、帰って夕飯の支度をし、風呂、その後は布団に横たわり何もせず天井を見上げる。休日はずっと布団の上。
母を心配させまいと、連絡すら入れなかった。
これから起きてしまった悲しき事件について、その前に一言説明を入れるが、汐瑠は自分とは関係ない所で、よく男女の縺れの原因にされていた。女の彼氏の方が「小鳥遊さんを放っておけない」と勝手に思い込み、勝手に接触を求めてきた。当然汐瑠は彼氏のことなど知らないし、話したことも無い。あるとすれば、そいつの彼女(或いは元カノ)にイジメられていたという事実があるだけだった。
当然。元カノに成り下がった女子生徒は腹が立つだろう。嫌がらせに人の彼氏を寝取ったと勘違いを起こすのだ。そしてその日が来た。
汐瑠が中学二年生の冬の日のことだ――
三人の高校生、二人の中学生、計五名が行方不明になった。手掛かりは五人のうち誰かが残した片割れの靴のみ。血痕はあったが、致死量にまでは達していない、ポツポツと垂れた程度。離れた場所で見つかった携帯には例の女子生徒からの『マワして欲しい女がいる。好きにしていいよ』と未成年とは言え見過ごせないやりとりが出てきた。
行方不明になった男子生徒五名が何をしでかそうとしたか。レイプだ。小鳥遊汐瑠を犯そうとした。
保護され、被害者とされた小鳥遊汐瑠は、怖くて目を閉じていたら誰もいなくなっていた、としか話さない。
髪はグシャグシャで土や泥が付着していた。制服はカッターで切り裂かれていた。殴られた頬の傷が痛々しい。
――誘惑したんじゃないの?
――他のお友達の彼氏も君を好きになって別れたって聞いたよ?ちょっかいとか出していたんじゃないの?イジメの腹いせに
汐瑠は頭痛を覚える。
警察は犯人を守りたいのか、被害者を侮辱したいのか、いまいち解らない。
「私が死んでいた方が楽でしたか?」
「え…?」女性警察官が少し動揺する。
「五人も失踪したから…だったら、私が大人しく助けも呼ばず、彼等にレイプされて、寝ていればよかったのかなって。そしたら彼等は生きていたかもしれない。トロッコ問題って知ってる?」
「…やっぱり貴女、何か知っているのね?」
警察官は書類を持つと汐瑠の隣に座る。
「教えて、貴女が見た事全部」
「…助けてって、言っちゃったの。だって…処女だし、知らない男達に犯されるのってこわいでしょ?解りますよね…わかりますよね?」
重たく圧し掛かるような言葉尻だった。
彼女は黒目がちな少女だと、警察官は思っていた。一目見た時から、不思議な雰囲気を纏った子だと。その瞳に見つめられたら、目が離せなくなる。同性でもこのざまだ。異性からしたら…それはもう蠱惑的だっただろう。
「えぇ…とても屈辱よ」
「だから、助けてって、言ったんです。声に出ちゃったんです。そしたら、犬を散歩していた人が助けてくれたんです。犬が大きな口で彼等を食べたんです。一人残らず。ペロリと」
何を言っているか理解できない。小鳥遊汐瑠という少女はショックのあまり可笑しくなったのか。それとも虚言癖があるのか、空想癖があるのか。
大人を困らせるのは良くないと注意をしようと思った。何か言えないことや、家庭の悩みがあるならいつでも聞くと伝えようとした時だった。
コンコンとノック音が響く。
上司だ。警察官はすぐに駆け寄り、小鳥遊汐瑠をご家庭に返すよう伝えられた。
見つかったのだ。例の五名の行方不明者が。場所は荒川のススキが生い茂る中だった。呻き声だけを発し、助けを求めていた。その姿を見た発見者は絶句し、数秒後に発狂した。五人は片手や片足、酷い者は四肢が無かった。そして皮膚は爛れ肉が見え、酸で溶かされたような痕だった。それは顔にも付着しており、瞼が解けて目玉が飛び出しそうになっている男子さえいた。頬に穴が空き歯茎がもろ見えになっている者だって。
緊急搬送され、五人は無事だった。命も無事だった。だが、これから死ぬまで、手術やメンタルケアをしていかないといけないかもしれない。元通りになればの話だけれど。――彼等は余程怖い思いをしたのか、呂律もちゃんと回らず、恐怖を感じると叫び出す。外に出ようとすると、怯えて出たがらない。
五人を悲惨な目に合せた犯人は未だ逮捕されていない。
これが、小鳥遊汐瑠が経験した最初の事件だった。
それから春になった。
クラスでイジメられなくなった。あの事件以降、だれも汐瑠に近付かなくなった。近づかなくなっただけで、陰口は続いていたが。
高校進学を決める時期がきた。汐瑠には目標があった。小学生の頃、優しくしてくれた白咲刹那が進学していったジャンヌマリー女子学園高等部に進学することだ。成績に文句はない。先生も素行は良い、ただ人付き合いで心配な面もあるが、環境が新しくなれば気持ちも変る、あの高校は評判がいいとジャンヌマリーを強く勧めてくれた。推薦が取れる範囲にいたので、ジャンヌマリー一本に絞っての受験勉強がスタートした。
「ただいま」
自宅に帰ってきたら、家の中は空っぽだった。
「…お父さん?」
床に置かれていたのは一枚の緑の紙――離婚届だった。そして隣には汐瑠当ての手紙。
『汐瑠。父さんは本当の愛を見つけた。だから父さんは彼女と暮らすことにする。汐瑠の幸せを願っているよ』
汐瑠は肝が冷えた。父親が出ていったという事実より、逃走資金についてだ。心臓が体内から落っこちて行きそうな感覚のまま部屋中を探す。流石に母の箪笥は置かれたままだった。だが、荒らされた形跡がある。
――ここに汐瑠のための進学と結婚資金溜めてあるから。
母が教えてくれた場所にあった通帳は消えていた。
「そんな…」
震える声で、箪笥にもたれかかりズレ落ちていく。こんな時、母が居てくれたら。どうしていつも必要な時に居てくれないの。連絡をしなかったのは自分だ。今更だが、ちゃんと嫌なことや困ったことがあったら連絡をすればよかったと酷く後悔した。
そして泣きそうになるのを我慢しながらあるヒトに電話を掛ける。
プルルル、プルルルル『はい』
「もしもし、た…小鳥遊です」
震える声で、名前を言うだけで精一杯だった。喉の奥が苦しくなり、唇も微かに震える。
『どうかした?』
「た、たすけて――」
頭の中が熱くなる。助けを求めた途端、我慢できず涙が溢れ出す。嗚咽も零れ、その先の言葉が何も出てこない。どうしてほしいか伝えられない。どうしたいか言えない。
『今から行くよ』
相手はそれだけ告げると電話を切った。
汐瑠は安堵から蹲り、大声で泣いた。私は独りじゃない。
「翠蘭さん」
四月八日
結局、汐瑠は資金の都合で公立河渕中央高校へ進学した。入学式も終わり、振り分けられたクラスへ向かう。そこには中学校時代のいじめっ子もいる。初日ですぐに似たような見た目の子達とつるんで仲良くなっていたし、男子とも気軽に話している。
(何で同じクラスになっちゃったんだろう)
指定されている席に座る。
ふと、ひとりの生徒が目に入った。女子…ではない。スラックスを穿いている。だけど。彼の髪の毛はとても綺麗で、桜のようで、長い髪を暖かい風がそっと撫ぜていく。
思わず見蕩れた。
その男子生徒と目が合うと、彼はにこりと笑った。汐瑠はどうすればいいか解らず、目を逸らした。
担任の先生が教室にやってきて自己紹介が始まる。
「小鳥遊汐瑠です。よろしくお願いします」
「何かほかに伝えておきたい事とかある?」
「…いえ」
「もっと明るくしたほうがいいぞ!じゃあ次!」
余計なお世話だ。この担任が鬱陶しいと思った。このクラスは所謂リア充というか、陽キャで偏っているらしい。賑やかな紹介が次々と進んでいき、やっと彼の番になる。
「南野柚木です。よろしくお願いします」
「はいはーい!南野君は男子ですか?女子ですか?」
一人のお調子者が質問をすると、クラス内に笑いに包まれる。
「男だよ。髪の毛は家の事情で伸ばしているだけだから気にしないで」
南野はまた笑う。
――家の事情だってよ
――なんだろうね
――カルト宗教的な?
――やだぁ、コワ
コソコソと聞こえる声に、汐瑠は不愉快になっていく。
(ほっとけばいいのに)
だけど。南野は男子には見えないくらい、可憐だった。目もくりっとしていて、色白の肌、頬の血色は良くてチークを着けているのかと思うくらい。
丁寧に育てられてきた。そんな感じがした。
あくる日
汐瑠は屋上に通じる踊場に座り込んでいた。制服ではなく、体操着を着て。これから体育の授業がある訳ではない。
――あはは!汐瑠、また同じクラスだね!――汚い顔!洗ってあげるよ!――アンタまた人の男、誘惑したらしいじゃん――ビッチだぁ、うけンね!――
女子トイレにて便器ブラシで顔や髪を擦られて、バケツやホースで水をぶっかけられた。
女子生徒等が居なくなってから水で洗い流したが、精神的に気持ち悪い。何より、あのクラスの生徒等が肉の塊にしか見えなくて気色悪い。吐き気がする。生臭くて仕方がない。生理や腐った肉や卵の臭い。
「ゥェ」思い出しえづく。
「大丈夫?」
「え」
階段からひょっこりと顔を覗かせるのは南野だった。可憐という言葉が似合う彼だけは、普通の人に見えていた。クラスで唯一、普通に見える彼が救いだった。
「南野くん、どうしたの?」
「小鳥遊さんが居なかったから捜しに来たんだ。やっと見つけた」
キーンコーンカーンコーン――
授業開始を知らせるチャイムが鳴る。
「サボっちゃおうか」南野の提案。
「…うん」
聴こえてくるのは音楽の授業の歌声。先生の説明する声音。体育の掛け声。風に乗って小学校の児童の声や、車の走行音もここまで流れ着いてくる。
二人は何を話す訳でもなく、ただ隣に座り合い、時間が流れるのを待った。待ったというより、まったりしていた。この時間が終わらないでほしいと願いながら。黙っているのに、どうしてこんなにも心地が良いのだろう。安らぎを覚えるのだろう。
「ねぇ。ひとつ質問してもいい?」
「なに?」
「小鳥遊さんはどうして黒タイツを穿いているの?暑くないの?」
「南野くんがズボンを穿くように、私もスカートとタイツを穿くことにしただけ。深い意味とかは無いよ」
「そっか」
嘘だ。本当はある。イジメられた痕、傷。そしてなにより
――汐瑠はいい子だね
‘彼’が甘く囁く。額に湿った汗を拭い、目尻から零れ落ちた涙をぬぐう。そして汐瑠は見慣れぬ天井を見つめていると、彼が覗き込んでくる。
――天井じゃなくて私を見てよ
頭がぼうっとすし、身体全体に熱が籠っていく…徐々に、徐々に蝕んで。
「小鳥遊さん?」
「あ…ごめん、ぼうっとしてた」
「もしかして疲れてる?さっきも女子トイレで…」
「うん。もう、疲れちゃったかも」
「早退する?」
「どうしよう。もう、中学とは違って義務じゃなくなったから。欠席や早退が多くなりすぎると進級や卒業できなくなるのは困るかも…」
母には。今回の件を伝えていない。帰国してきたら驚くだろう。怒号と雷を落とされるかもしれない。それでも母に隠したい事があった。
「南野くんが教室にいてくれるなら、私、頑張ろうかな…」
「お安い御用だよ」
南野はにんまりと笑う。屈託のない笑み。羨ましくて、救われる。出会ってまだ数日なのに、彼だけはまだ穢れを知らないでほしいと願ってしまった。この狭くて嫌味や妬みが蔓延る菌のような学校生活で腐らないでほしかった。
「そうだ。汐瑠さんにこれあげる」
そういうと南野はポケットからミサンガに似た糸を編んだ腕輪を汐瑠に付ける。その際、リストカット痕が隙間から覗かせたが、何も言われなかった。
丸い大き目のボタンに輪っかを通す。ピンク色の濃いピンクが織りなす柄。
「友達が出来たら贈りたいなって、ずっと思ってたんだ。よかったら…貰ってくれる?」
「…いいの?私で」
「うん。汐瑠さんがいい」
汐瑠は、高校に来て初めて笑顔をほころばせた。
翌朝
教室に入ると、騒然としていた。
「ねぇ!私達昨日変な虫に襲われたの!噛まれて痣まで出来た!見てよちゃんと!」
例の女子グループが先生を取り囲み事件に会ったことを説明していた。彼女達の顔や身体には拳で殴られたほどの痣が出来ていた。腫れているようだが、パンパンに腫れている様ではなかった。
「そんな虫がいたら、先生も会ってみたいな!今日は病院に行って診察してもらえ」
「そんなのもう行ったよ!でもただ噛まれただけで異常は無いって!冷やせば落ち着くって言うから言われた通りに冷やしてたのに、朝起きたら広がってて…!」
金成声は次第に半狂乱へと変っていく。
「嫌だ、何か皮膚の下が動いた気がする!」
「私もぉ!どうしよう、ねぇ!」
クラスが異様な雰囲気に包まれていく。それを、汐瑠は黙って見つめていた。
「おはよう、汐瑠さん」
突然名前を呼ばれ振り向くと、南野が立っていた。
「お、おはよう。どうしたの?」
「今日、一緒に帰らない?なんか物騒じゃん、最近…。シスターペストって知ってる?その噂も気になるし、今回の…虫っていうのも」
南野は小声で、なるべく周りに聞こえないよう喋る。
「大丈夫だよ、心配しないで」
「僕の家の教え。女の子が危険な帰り道の時は送るべし。破ったら叱られる。だから僕に協力すると思って、送らせて?」
なんだか、複雑な家庭のようで、女性に対しては丁寧に扱っている様で。一体どういう生活様式の中暮らしているのか、想像が全く付かなかった。
女性優位の家系なのだろうか。
「わかった。友達が怒られる姿を見るのは、嫌かも」
「ありがとう」
二人の様子を、恨めしそうに見ている女子生徒がいた。汐瑠の同中出身の、イジメの主犯格の女だ。微笑ましそうにしている二人を、歯を食いしばり睨み付けていた。
夕焼けを背にし、汐瑠と柚木の影が伸びる。今日は賑やかな中心にいる生徒達が若干のお通夜モードだったのでまぁまぁ快適に過ごせた。きっと、あの痣が治っていくにつれて…いや、明日にはもう元通りになっているだろう。
「汐瑠さんはいつも歩きなの?」
「ううん。車で送ってもらっているの」
「え、じゃあ僕余計なことしちゃった?」
「そんなこと無いよ。帰りは私が連絡しないと迎えに来ないから」
「あぁ、親御さんの都合もあるもんね」
「そう…保護者の都合」
柚木はなんだか釣り針が喉の微妙なところに引っかかった気分になった。汐瑠は今、親とは住んでいないのだろうか。
「あの」柚木が深堀しようとした時だ。
「ちょっと、ブス汐瑠!」
主犯格の女子生徒がわざわざ追いかけてきたのか、息を荒げ離れた所で仁王立ちをしていた。
「アンタでしょ?!アンタがあのキショイ虫差し向けたんでしょ!私聞いたのよ、望愛から!一年前、差し向けた男達を半殺しにしたのも、アンタが足開いてる男の一人だって!その男が変な生き物飼ってて…!だからピンと来たの、あんたがあの虫を差し向けて私達のこと襲わせたんでしょ?!イジメの仕返しのつもり?!そもそもねぇ、私の彼氏寝取ってんのが悪いのよ!人の男とばかり寝てんじゃないわよ!」
「誤解だよ」
汐瑠がハッキリと否定した。
「私は、貴女達の彼氏と寝た事なんて無い。勝手に言い寄って来るの。彼女と別れたよって。頼んでいないのに、守ってあげるって言ってくるの」
冷めた目で、凍ったように動かない表情。柚木は内心肝を冷やす。まさか、汐瑠がこんな大胆な反抗をするとは想定外だった。そもそも、虫とはなんだ?
「…ねぇ、汐瑠さん、まさか」
柚木が問い詰めようとしたとき、汐瑠が急にえづきだす。オエ、オエと苦しみ吐くと、小さな口からは想像がつかない人間の頭部程ある蜘蛛に似た宇宙生物が飛び出してきた。
それを見て、柚木は確信する。――やっぱり…
涎が糸のように地面に垂れ、息を切らす汐瑠の瞳は虚ろだった。嘔吐した後みたいに。長い時間蓄積された恨みと苛立ち、殺意がドス黒く混ざっている。
「イヤアアアアアア!」
女子生徒が悲鳴を上げる。
ややこしくなる前に、柚木は蜘蛛よりも先に女子生徒を手刀で気絶させた。そして手先から煌めく牡丹色の炎を放射し蜘蛛を焼き尽くし、黒こげになりボロボロと崩れていく。死に際、もがく姿を汐瑠が黙って見ていた。
「柚木くんも宇宙人なんだね」
「気づいてたんだ…」
「あの人…翠蘭さんから聞いていたの。汐瑠と同じ高校に舎弟がいるからって」
あの人――‘彼’。翠蘭。翠蘭こそが前回同様、今回の事件の主犯であり、汐瑠の体内に蜘蛛を寄生させた張本人だった。
翠蘭は柚木が暮らす屋敷の主人の倅だった。昔から柚木のことを使いッパシリにし、素行も悪くて、ドラ息子で、家出したと思ったら地球にいるから来いと連絡が来た。柚木が地球に到着した時にはもう一人、舎弟が増えていた。植物型の人食植物種の宇宙人。人間の姿をしていたけど、どこか血生臭かった。たぶん、最初に汐瑠をレイプしようと企てたとき、男子生徒等を食ったのはこの植物型だろう。そして翠蘭と汐瑠が出会ってしまった。最悪なことに。
ヒトを簡単に殺められる翠蘭と、憎悪を溜めている汐瑠。
翠蘭がこんな少女を無視する理由がなかった。
「翠蘭は面白がって汐瑠さんで遊んでるだけだよ。宇宙生物を寄生させて、人を攻撃させて。今もどっかで笑ってるよ」
「それでいいって、私から言ったの。私はね。私を苦しめた人に同じだけ苦しんでほしかったの」
「…気持ちは解るけど」
「でも、もういいかなって思えたの。方法は違うけど、柚木くんが助けてくれたから。私のこと止めてくれたから」
汐瑠は立ち上がるとスカートの裾を直す。
確かに悪事を働いたことになるだろう。攻撃したい相手に虫を差し向けていたんだから。
汐瑠は知っているのだろうか。あの虫が付けた痣の正体を。
「皆が敵に見えていたけれど。この事、ママに伝えることにする」
「お母さんに話して平気なの?宇宙人関係って皆冗談だと思うよ?」
「それでも話さなきゃ。あのね、ママは出張中で一緒にいないの。だから、ママも敵に見えていたから連絡しなかったけど。信じてくれるか解らないけど、今の私がやらなきゃいけない大切な一つのことだと思うの」
「そっか…。そうかも。話せるなら、相談した方がいいよ。親御さんに。あと、あのさ」
「なに」
「僕達、友達だよね?」
柚木が不安そうに訪ねてきた。彼とは、友達なのだろうか。
「…友達だって、思っていいの?」
「うん」
「私が仕出かしたこととか、周りからどう思われているか、知っているのに?」
「うん。あの子を助けたくて蜘蛛を燃やしたんじゃなくて、もう汐瑠さんに暴走してほしくなくて燃やしたんだよ」
「……柚木くんもイジメられるかもよ」
「そしたら、返り討ちにしてやるよ。僕も悪い子なんだ、実を言うと」
「そうなんだ」
なんだか可笑しくなって噴き出した。
この日を境に、汐瑠の日常は喜劇へと変っていく。たとえどんな苦難や困難が待ちわびていても、柚木と、これから出会う友達となら乗り越えられていく。これが汐瑠の人生の分岐点の一つになった。
翌日
午前の授業が穏やかに進行していく。保育園児のお散歩中の声がどこかから聞こえてくる。いつも通りの日のはずだった。
柚木が黙々とノートに板書していると、斜め前の生徒が声にならない動揺を見せたのが視野に入った。その生徒の隣の席…昨日文句を言いに来た女子生徒が叫び出す。
「何、なんか生えてる!」
女子生徒のおでこからはタンポポの綿毛に似たふわふわが生えて来ていた。慌ててむしり取るが、綿毛が取れても肌の下に埋まっている種までは取れない。おでこには蓮の様な穴が広がる。そしてその穴から半透明の青い液体が流れ出る。
「いやぁああ!なにこれ!」
それは、他の女子生徒にも影響が出始めた。
「嘘、私からも出てきたんだけど!」
「先生!救急車!早く!」
どよめきが起きる。他の女子生徒も互いを見て、被害が無いか確認する。そして種が無いことが解ると、安堵する。被害が出て騒いでいる友達がいるのに、随分残酷な場面だと柚木は思う。
あの綿毛が生えている女子生徒等は、汐瑠に寄生していた蜘蛛が襲った生徒等だ。そして種…卵を植えたのだ。あともう少しすれば小さな蜘蛛が無数に産まれてくる。
柚木は誰にも気づかれないように小さく鼻で笑った。
そして汐瑠はぼんやりと思う。
(なんか…すっきりすると思ったけど。意外と煩いだけだったな)
だけど泣き叫ぶ姿は滑稽だった。