(虫であるところの蛾である)虫+我(であるところのモザイクマン)
ここに文章という形をさせて書き出してみれば、或る限られた意味を持つそれらが何らかの物象を人々へと想起せしめるのに違いない。
たとえばそれは部屋である。
以前為された一大決心の時より更に以前のわが部屋である。
それは汚部屋とて一通りではないわが汚部屋であった。その余りの惨状に、いずれは為されねば成らぬと思われた一大決心は或る時それが、とうとう為されたのだった。今より四、五年前かと思う。あの時のお陰で今のわが汚部屋はふつうの汚部屋である。人を招かれぬくらいにふつうに汚部屋である。ああ、良かったなぁ。
(ああ、とっても、良かったんだ)
そのような部屋である。
そうしてまた此処に、別の部屋である。それは汚部屋と成り果てるよりも更に以前のわが部屋である。その頃の部屋は、あらゆる物体の充満が四隅に敷き詰めて在ったけれども、人を招かれるくらいには片付いた部屋であった。
しかし、当時は蛾に悩んだ。
蛾という虫を虫であるという理由でだけでそれを嫌うという人々ではない。その人々は虫であり且つそれが蛾であるのだから、蛾を嫌うのである。私も、蛾のことが嫌いである人々の内の一人だが、小さな蛾であればどうということはない。一匹の羽は飛び立つモザイクの一半片に過ぎぬ。しかし、その数が大量であるともなればこれは、話が必然として変わって来るのだ。
「社会復帰!社会復帰ぃぃぃっっ!!」
と肝に銘じながら強く生きて行こうとしていた或る一時期に於いて、そうして念じるのである余りに生じてしまった個人的な弊害とは自らの生活圏域へとする粗雑さであった。私は余りに省みなかった。社会に耐え、社会に耐え、という切れ目のない連続の日々に捧げていた感性が、あらゆる摂生的健康を封じ込めた。感性は磨耗し、私は私を道端にさすらうゴミのようにして社会へと参入させ、日中一頻りにゴミなりの奮闘をさせると、疲れ果てた夜、いよいよゴミ箱の中へと自らの身を投ぜしめた。ゴミがゴミ箱の中で沈黙をしているということは、ゴミ箱の中で沈黙をしているゴミそれ自体にとっての必然的な帰着である。それはこれ以上を望みようのないという適切さをして為し置かれた自身への処遇である。
それだから、ゴミ箱として在らしめた部屋のやがては本当にゴミ溜めへと変貌をして行くというビルドゥングスロマンは避け得られない。とは言え、何事も急激なる変化というものは、平静の日々に維持せられようという目論見の内に、その構造体の平静を維持しかねるという度し難い圧迫や衝撃の起こって来た場合にのみ現れるものだ。少なくともわが部屋の本当のゴミ溜めへと変わり行くという軌跡の上には、そのような圧迫も衝撃も起こり得なかった。一つ一つ、降り積もって行く雪の粒のようにして、いくつものゴミを降り積もらせた部屋は、ゴミのそのいくつものを不断の段階として、全体容貌を徐々にと変ぜしめて行ったのである。
或る時から、
「蛾、多くね?」
と思われた。明らかに多い。私は指差しながら数え上げた。七、と口を衝いて出た。七、は多いだろう、と思われた。もう一度数えると六。しかし今、目の前を飛んで行ったのがもう一つでやはり七。七だ。
「七は多いんじゃね?だろう。そうなのだろう。でも、そんなのなんにも気にしないで寝ちゃうんだもんねー」
私はぴよん、と跳ね上がると敷布団へと飛び込むつもりでそれが実際には存在をしていなかった為に、床へと激突してそのまま寝た。
仕事だ。
仕事が終わり、帰って寝た。
仕事だ。
仕事が終わり、帰って寝た。
仕事だ。仕事だ。
そうして明くる日も明くる日も、と捲る頁にその指も、オスティナート快楽を密かにしてまた明くる日も、と明け暮れて行く日の終わりには何時でも床へと突っ伏した。うつ伏せて眠る者は悪夢を見ると言うが、それはうつ伏せて眠ることが苦しいからであろう。
私は仰向いた。
額に乗っけた二の腕は例えば、思考を阻ませる重石である。頭ということは何より立ち上がって活動をせんとする身体の直下へ、影のようにして埋まって居れば良いものだ。私は働くロボットである。大いにロボット、それである私は考えるということを必要とはしない。そうして、それであるということは苦痛を私の内に産み出しはしない。事実、頭を悩ませるような苦痛はノイズキャンセルをされているという機能を持った私はロボだ。身体の痛みが心に縋り付いて来るような連動などは有り得まい。身体は痛がるだけである。そうして痛がって居る身体をただその為に痺れて居させる才覚とは、それを頭にまでは上らせぬという工夫を凝らした非才のことである。これをして、私はロボットであるとそうと自らを信じているのであるロボットとしての人である私、はやはり、その為にも必ず人ながらにロボットなのである。
そのように自らを信じるのでなければ、生きては行かれない。
穢れたような四角い模様が天井の縁に張り付いていた。あれは何であるのだとふと気にかかる寸でには、模様の穢れが忽ちに判って居るのだという直感が働いた。顔を歪めた。あれは蛾であろう、とまた忽ちに思われたかは知れない、しかし、蛾であろう、と見る内にはだんだんと思われて来て、とうとう蛾であった。蛾が二匹、尻と尻とを互いに連結せしめて、その三角の羽の接しているという形が見事な四角形を成している。校章である。或いはピンバッチである。それくらいの大きさの模様が、穢れた蛾の交尾をするその姿である。静かなものだ。獣類に有る反復頻りの恥ずかしい運動とは異なって、二匹はただ尻の接合に因って、互いに休め合うような個々の眠りを管中に交感し続けて居るだけという安らかさを湛えている。それが蛾の交尾というものの静かなる並びであった。
冷蔵庫の稼働をする音がふいに鳴った。寝やる神経を乱す電磁の流れは不快な通奏音である。私は抗うように眠るのだ。妨害に由るに容易には眠られぬという明け初めて来た朝へと挑戦をして眠る。すると、やがては眠られる。眠った。
起きた。働いた。
帰る。帰る前にコンビニへ寄って弁当を買い、茶を買った。そうして帰って明かりを付けた。床へと座して、ビニール袋を投げ置いた。一匹の蛾が、忙しく舞った。日常に一つ祝いの花をでも添えたいかのように、割れたくす玉の名残りからぱたぱたと零れ落ちて来た一片が、本当には何一つの故もなく不自由そうな舞をする。そうであろうと思うであろう、私の指が弁当を摘まもうとするのであろう、そこで、舞っていた蛾が酷く目障りだった。そうして、そうと感じるそのなりに蛾はもう既に、こちらの腕へと飛来をして来そうになった。
「ばぁっ、しゃっ」
私は不快さから手ではね除けた。あっちへ行っきゃあがれ、と振り払ったこの腕に振り払われた蛾はあっちへ行った。かと思うとまた舞い戻って来る。
「うへぃっ」
一体何処を見て飛んでいる虫だ。再び振り払われる腕である。腕の、さっと宙を叩くようにして叩かれない空無を行き過ぎた時に生じる風が、少しでも蛾を向こうへと煽ってしまわれればそれで良い。良さそうに思うのである。ところがまた蛾はこちらへと向かって来るのだ。まるで、私へ目掛けているかのようにして蛾は、確実に、こちらへと向かって来た。
二度有ることの三度有るものかどうかは詰まるところのものとしてのその三度目を、機会として得ないのであればそれは判らぬことだと言って良い。一方で、仏の顔も三度までということは如何にしてもそれを見舞われる者に承知をせられぬ害意が、知ってか知らずか、そうして行為をする者のいずこかに含まれて在るのだからだ。してみれば一度、二度と続いて来た行いの正体はどうやら、三度目へとまた更に引き続いて来たその瞬間に明らかとなって、二度目、一度目の定義を翻ってし直すものである。私はし直した。瞬く間に翻ってし直した。ばたばたとした不得手な飛行に偶然を絡ませて、私への衝突を繰り返した無様な蛾ではこれはない。一度目も、二度目もこの度も、私へ目掛けているかのようなその蛾は、確実に、私へ目掛けようという意思を持ったその蛾であったのだ。
「でも、なんでだよっ」
私は今度はもう、ぐぅで行った。ぐぅで行くとぐぅの平らな先端に蛾の当たる感触が微かにあった。蛾は向こうへホバリング退った。
弁当を食って、寝た。
耳元は眠り落ち行く意識のまどろみに浸っている遠くで、ばたばたとしたはためきを音近くに聞いた。夢の初頭である。
それから度々、蛾は帰りしなの私を出迎えてはこちらへと向かって飛来をして来た。あの日に一匹きりが寄って来たのであった出迎えは次第にその頭数を増さしめた。こうなってしまうと私は、明かりへ向かって行くというはずの虫の走光性という無性な習いへと疑いを持ち始めた。
飛んで火に入る夏の虫とは巷間、実際によく言われているかどうかは知れぬ句だ。しかし誰でも知って居ようそれは常套句なのではある。夏でも秋でも、だいたい虫は光へと向かって行く習性を持っている、とそう思われている。それが虫の走光性である。天の明かりと思わしき電灯のその真下で、天輪を描いて頻りな虫の虜囚姿はよく知られているものだと人々は思っている。余りに一般化のされたそれが凡例的光景であるが為に、私は実際にその光景を実地で見たことがあったかどうかをば多分に怪しんでいる。恐らくはあったのに違いない。凡例的即ち没個性的なその光景が私の内に独特な記憶としては定着し得て居ないということはそれ故にも已むを得ぬことなのであろう、か。いずれにせよ虫は、殊に蛾などは夜間の灯下に見られるよう、それを行き先の頼りとして光へと向かう習性の有るということを常識のように人々は認識している、か、いや、しかし恐らくは、それは誤認である。
「何故なら今しも、こうしてばたばた、めっちゃこっちに向かって来てっからぁ?」
尚言えば私は光輝いてなど居ないからだ。部屋の、狭い四畳半のその空間の中で取り分け輝き放っているものは、天井に張り付いた円い蛍光灯だけである。それを私は点けている。点けているのだからそうして輝き放つ光は私と蛾共とを満遍のなく照らし出し、明かしている。しかし明かされた私と蛾共との関係は、近寄られる者とそれへ近寄る者との一方向的な流れを今しも継続しているという関係である。それ見っせ、もう四匹目もが狂おしくはためいては近付いて来たではないか。
神である。
私はふと思った。つまり私は思うという行為を伸長せしめて更に奥へと心及ばせるに、蛾の心中というものへと俄然、突入して行った。あれくらいの蛾のサイズからして、私のサイズとのその差異分をひっくり返し、私が蛾ほどのサイズで蛾の方が私ほどのサイズであるという場合を考えてみる。見上げるような高さを持った蛾の巨躯が、ふいに目前を圧倒して迫り来た。そこに神性を感じぬ人々の全体在り得べきか、得べきではない、のであれば全体、人はそこにこそ神性ということを感得すべし、然もあれば事実、在り得ぬはずの人々の内の一人では私のような者でもそれはない、のだとすれば、信仰は忽ちにタイトな畏怖心を吸管に吸い上げやって覚せしめ、
「おお、神さまよ、神さまよぅぉっほぅ」
と気付けば私も蛾の神へとは、ひれ伏し拝み乞うているのだ。平伏とは一つのヨガである。すると眠たくなって来た。
そのまま寝た。
夢である。いや、神さまが俺で、蛾が俺を信仰しているのだったのだ。それだから奴らはばたばたと無様に俺へと吸い付いて来るのだと俺は思っていたのだ、という心情の言い訳がましくして、読者へとそれを言うという散文的な夢を見た。その夢は灰色だった。
今朝の雨。予報通りに降り頻る雨が明け方の日を淀まして、止めどない。仕事へ行き、仕事を終えた。外は台風だと言う。吹き荒んでいる風に足取られぬようにして、電車は呪わしい速度で前へとだけ進み行く。
(ゴミのように生きている)
私はのろまな車内に於いて、自ら省みてはそのように思うのだ。座席の端に小首を傾げて、肉の詰まった袋であるというだけの自身が先からずっとそこに身凭れていた。
(いや、笑顔を忘れまい)
鈍行は鈍行とても走り去る夜の明かりを向こうにして、透き通った窓は私の顔を映し出す鏡であった。私は強いて見て、強いて見るほどにそばだてた意識へと報いたい気持ちを持って微笑んでみた。驚いたことに私は見事に笑っていた。これでは偽りは止まない。私は笑んでいる表情の奥に差し挟んだ疑いの眼差しをそれ自体へと向け続けた。しかし、悲しいほどに私は笑んでいるというだけではないか。それは決して止まないのだ。
座席端の境に横たえかけた身がふと起き上がる。
(こんなに笑ってるんだったらね)
それならそれで良い。悲しみがないのではないと信じている自身がよもや、そうして映し出している当人の笑みに因って、こうも疑わしく変じてしまったことこそは悲しい。
しかし悲しむ理由はほんらい何処にもないのだろう。
私は、私を偽って生きる苦労へと私自身を差し向けて生活させていたという私で先ずは在ったのだと思う。
ところがどうやらそうではなくて、私が私と信じていたところのものである、偽りへと差し向けていた私というものが実は偽であったのだ。
何故なら、この透き通ったガラス面へ映し出された表情に浮かんでいるその笑みには、悲しみやら、怒りやら、笑みの裏に陰るであろうそうしたほんらいの感情というものがまるで見当たらないのだから。
(それなら、それで良い)
私は笑んでいる彼をもっと見たいという気がして、すると持ち直した身が更に奥へと覗き込んで来た。笑っている。私は俄に焦りだした。やはり、このようなはずはない。こんなに憂いのない満面の笑みで居られる私が何故、本心に焦燥を隠し切られぬものと予めに思い寄らせながら、こうして覗き込むという行為をして居られるものであろうか。そうであるのなら笑みは絶えず上手な嘘の笑みだ。とうとう自分自身をさえ騙し果せられるほどに発達をしたそれは、世をサーバイブする為の懸命なる嘘だ。
の、はずだ。
電車がようやく止まる。
すると立ち上がったその身はふいとそっぽを向いて彼の目前からは消えたのであろう、私は私を私と自称しているはずの根本へ宛の外れた落ち着かなさを感じ、狼狽しているはずだ。或いは全くに狼狽えることなどはなくして歩を進め、家路を辿るそのさ中であろう、手にした傘が強風に煽られては捲り上がりそうになるというフレキシブルへと疎ましさを感じて、その時にふと私と称するものの身体を引き留めようとするかのような腕の切迫から、そうして称するところのものである私をまでここに強く繋ぎ留めて居たいという把握を感じ出したかもしれない。そうであるのなら私はやがて、それ故にも彼の笑顔に奪われたはずの自分自身というものを、心深くに入った薄暗い居所へまた発見し得て、陰険ながらの確たる自信をそこにようやく取り戻すのである、か。朦朧とした言葉のようにはそれはあるまい。それは朦朧とした言葉を吐いて捨て行くという隠された自律である。
雨に叩かれて濡れ通している地面に、
「ふぁっ⚪」
と私は呟いた。
(俺はここにマジ居んぜ)
そうと心に言明をするよう、強いて思えばそれこそ内に、俺はここにマジ居んぜ感というものは広く敷衍をして来る波だ。そうですやっぱり俺は俺だった。
I want to thank you for letting me be myself again.
ありがとう、ありがとう。しかし本当は誰へ宛てるのでもないThank Youが、靴のひたひたと鳴らしめる足音として、後背に置いて行かれ続けるだけなのだった。雨風吹き荒ぶ街が男の帰路である。
帰宅した。
ドアを開け、濡れた靴を脱ぎ捨てた。手を伸ばし、次々と明かりを点けて行った。
点灯、点灯、点灯。
すると、蛾、蛾、蛾、蛾、蛾……
無数の蛾。
いや、よく見てみるのだよ。蛾は無数数多の蛾ではない。ほれ、指でも差して数えてみれば、数限りのあるそれは蛾だ。
数限りのある蛾の数が、信じがたいほどの数である。従って無数に思われる。それだからやはり蛾は無数の蛾なのであって、且つまたそれらは舞い上がっている。巻き上がっている。まるで気象衛星図の渦巻く台風影のように、それらは。
「うそぴょん」
俄に私はうさぴょんだった。
「うそぴょん、うそぴょん、うそぴょん」
蚊の渦巻くような活動の総数は蚊柱として人々に知られているものだと人々は思っている。今、目前に吹きまくっているそれが、蚊柱ならぬ蛾柱であるということは、よくは知られてはいないことだと人々は思っているか全く知れない。しかし、本当に、そう成っている。部屋の中で、である。部屋の中で外気の変化に同調をするかのような蛾々がさながらタイフーン。日本へ上陸を果たした嵐の行く手をまでそれは再現可能である。即ち一つの萎びた日本列島を体現するもののここに在し得るのだとしたならば、それは如何にも私というものを外に措いては在し得ないという独り身の、必然的な看做となっていた。
「うそぴょんっ!う、うっそぴょぉぉんっ」
そうして蛾の嵐は上陸を果たす。
目まぐるしい現象は既に私を包み込んでしまっている。目まぐるしく見えたものの只中に、凪はあるのだと人々は思うのかもしれない。しかし、実際には更に目まぐるしいというだけの目前がも早、何ものをも私へは明らかにさせようとはしない。まるで世界と認識のせられる外部全体がモザイクをかけられたかのようである。
「う、うっそ、うそぴょぁ、あ、あがっ、あがぺぇぇっ!」
おぞましい羽音は柔らかく優しい。下ろし立ての絵筆の先で、無数に描かれて行く全身は総毛立っている。振り払う腕にも、仰け反る上体にも、足掻いている全てに纏わり付いては離れぬ蛾共は数多の風の逆巻きである。私は跪き、数匹をぺしゃんこにして殺し、しかし尚止まぬ柱の空洞の中で、唾を吹きかけた。何をするにしても何も抗ったことになどはならぬのだ。私は這いつくばりながら、ガラス張りの襖窓へと突進した。
私の顔面が正に衝突をしたその音なのか、或いは外を吹いている荒んだ風が、気まぐれに叩き去って行ったその音であるのか、襖窓の建て付けは危うげに震わして、べるるるるん、と鳴動をした。私は痛みのないわが面へわが面を見せ付けるという鏡面相対を、先の車中にしたようにこの時するのであろうと人が、そうと思うであろうと今に思う。しかし実際には全く、自分自身の顔をどう見てみてもそこに、それをそれと見出だすことの出来ぬという心外、蛾共の纏わり付いて離れぬという事情が先ず有って、それでだけで見出だし得られぬという我が面ではこれはない、と直ちに感じている私はまた忽ちに、ガラス張りの枠ぶち一面をひたりと平たく覆っているスクエアをこの眼におぼろと浮かべているのだろう、もう何処に何が張り付いて居たのだとしても驚くには値しないという不感は未だこの先にそれが在り得るのだという境地に今ばかりは過ぎぬのだから、私はぎょっとして、うぶうっ、と一息をここに漏らしたのだとしてもそれは己れに偽りを働き掛けた心理作為なのだとはとても言い難い、本心からして、私は今しも紛紛に舞い盛って居る蛾共でだけで蛾の大量を構成して居るのでは無かったのだとそう知り得、あまつさえ一面に静まり止まった蛾共であるというだけではないそれらがまた特異な状態にあるという蛾共であるのだ、という、そうであるのならばそれらは、羽と羽とを接しめて、尻と尻とで互いを交感し合った、
校章である。
ピンバッジである。
もちろん、そうではないだろう。この穢れた模様の充填は、
「モザイクだ」
私はやはり自分自身の顔付きをそこに見出だしていたのだった。或いはそこに居るのだと思う。しかし居るのだということが判ったのだとしても、その目鼻立ち等の細部は満面のモザイク処理に因って一向判然とはしないのだ。私は掻きむしった。
乱れ千切れて行くモザイク片からたくさんの鱗粉が舞い散って、ハッピータンのようにいくらか指の爪の間を敷き詰まった。嵐をよそに静まり返って居た行為の平穏は破り捨てられ、するとモザイクの向こうの見えそうになる白みが、手指の脇から粒粒と立ち現れて来る。
立ち現れて来るというようなものではそれはない。まるで産み出されて来る。或いは、
(つぶつぶとは、たまぁーごっ!!)
或いは、尋常には生まれ出だせられぬ腹を割り裂いて潰しているという私の指先が次々と早産せしめている、果たしてそれらが新たなモザイクへと早やと成長をし始めているのだ。
無限、無限、無限……
無限とは数限りないということだ。
モザイクの孕み、またその身に浴びて纏う粘液こそが、産みの苦しみであり且つ産みの喜びなのであろうか。繁殖パーティーは無残に潰されたモザイク片を踏みにじりながら尚も、改まらずにそれをするという最新のモザイク片らによって、続々興ぜられ継いでいる裸身の酒宴である。一面は吹き上がり、へこみ、また再び吹き上がっては、下方へと零れ落ちるというモザイクの沸騰を繰り返した。
私はただそれを見ている向こうに、確かに、判らないけれども私に似た何者かの表情を、とうとうそれと明らめる瞬間がふと在る、或いは綿々とそれが在る、或いはそれが全く何処にも無い、といったような、結局はいずれにもやり切られぬ朦朧とした案配をさせて、ただ感じて居るだけなのであろう、感覚をさせて居るだけなのであろう、しかし、私とてただ見ているという私が既にガラスへと映ずることをしないという私であるのならば、それを感じて居る、感覚をさせて居るという私とは一体なに者であるというのか、それが判らぬと言い、するとそうと言い得たのである私は、確かに、何処かには居るのだと信じねばならぬはずの心がもう既に遠くへ置いて行かれ過ぎたかつてのThank Youなのであるとはまたこれを言い得て、張り付いた。顔面にである。いいや、顔面にのみならずして、ありとあらゆる私の蔑むだけ蔑んで来たゴミの、ロボットの、私が私であったところの者、自ら放棄された者の全てに張り付き、モザイクは繁殖をし始めた。
こんこん、ノックです。
つまりドアをノックしている。つまりこの部屋を訪ねてドアをノックしている者が今しもドアの前に居る。誰だろう。
こんこん、再びノックです。
この夜半に何奴だ、とそう思う。どうせろくな奴ではない。しかし、こんこん、三たびのノックです、と言うのであれば、それが三度と在るが為にも、確かに、私へ奴めは何をか、三度の居留守に退かれぬだけの用事を持って臨んで来たのだ。
私は開けた。
「あの、ゴミ収集の者ですけど」
「はあ」
廃棄業者がこの時間にわざわざ一戸を訪ねて来るなど聞いたことのない話だ。私は訝しんで、それを面上に隠そうとも思われない。
「今、回収して欲しい粗大ゴミってありますか?」
なんだ、こ奴、何を言う。
「はあ」
要領を得ぬ、と廃棄業者の方で思う私へ彼は相当苛立ち始めて、その姿勢が横柄尊大に傾いで来た。俺だってこんなことは聞きたくないんだ、とでも彼は言いたげにしてまた、
「だから、回収して欲しい粗大ゴミありますかって」
何が何やら判らない。わざわざ一つを訪ねてそのようなサービスを施しに来るという廃棄業者の営業など、今こうして眼にしている限りに於いてでしか知らぬのだ。
「えっ、いや」
「いやじゃなくて、だから無いんすか」
殆んど悪態づきと言えるそんな態度はサービスをする者のそれでは到底ない。私はしかし回収して欲しい粗大ゴミが或いは私にないのではない、とふとそう思われた。
それは在るのだ。
「ありますよ」
「ああ、じゃあ出して貰えます。なんですか?」
「はあ」
はあ、じゃなくて、と彼の苛立ちもとうとうマジでキレそうな路上の喧嘩自慢のようにピリついて来た。
「なんですかって言うのは、つまり何を何ですかってあなたは言うんです?」
「ゴミ!」
彼は私を見て言った。ということに隠された正体とはつまり、彼は秘密裏に、私へと向かってゴミと罵ったのだ。
すると私は心底から微笑んだ。彼の密かな罵倒など、それを知ってか知らずかにして見事に言い当てるというその見破りの為に、私の内に諧謔をされて脆く崩れ落ち去るだけのものだったのだ。
「そうですよ」
私は頷いた。と、一欠片、モザイク片がぱたぱたと、私を背から追い越して、開かれたドアの先を舞い行った。それが見えた。
「はい?」
「だから、そうです」
はい?
「ぼくです。ぼくがゴミです。ぼくがこのたびあなたに回収されたいというぼくの粗大ゴミです。ぼく自体がつまり。そう、あなた、当たってますよ」
さあどうぞ、と言って私は両手を差し伸べた。さあ、どぞどぞ、と、何処へとでも連れて行っておくんなまし、と。ゴミ収集車の回転式に呑み込まれ、ありとあらゆる骨肉の砕かれてしまう圧縮を、どうぞこの"御身"に施してくれたまえよ、と。すると伸ばしやった先や根元から、まるで手品のようにして、幾百ものモザイクの欠片が吹き飛んで行く。私は私ではないのかもしれないが、それだからと言って割れたくす玉という訳でもないであろう。それだから、わが眼にもこれは奇妙な光景だ。
見開かれた眼がそれでも未だ小さいという生来からであろう藪睨みの眼が、しかし彼の奥側に追突をする何ものかを重重しく光らせた。それが見る間に震え出す。
ああ、でも泣くなよ、兄ちゃん、街底に人知れずあるドアをノックして眠れるものを呼び覚ますという行為とは常に、こんなリスクだって背負込んでしまっているものなんだからさ。
「は、はっ」
息荒い。は、はっ。私も一緒になって、
「は、はっ。は、はっ。はっはっはっはっ」
一緒になって、
遊ぼうよ、遊ぼうよ、遊ぼうよ。
「モスマンだぁぁあぁぁぁぁあっぁぁ!!」
廃棄業者はそう叫ぶと、逃げるように駆けて行き去った。逃げるように、いいや、逃げたのだ。私は直ちにドアを閉ざした。
そうして私はモスマンだと言われてしまったので、即ちモスマンと成ってしまったのかもしれぬ私自身というものを俄然、これは確かめてみなければ済まぬと言う気持ちになった。気付けば蛾の吹き荒れていた嵐は既に止んでいる。それなら、とそうと思って臨んで見ているガラス張りには、やはり決して映り込まれぬ私の表情がチラチラと隠されているだけなのだ。まるで全身がアダルトビデオに規制をせられる陰部のように、見たかろう、見たかろう、と扇情頻りの俗物体である。
(やはりモザイクだ。奴はモスマンと、間抜けにも叫んで逃げ出したけれども、でも、どちらかと言うとこれはモスマンではなくて、モザイクマンなんじゃないか)
従って、もう二度と会うこともあるまい廃棄業者の彼へとは異議有りということになったのである。
パスタを作って、食べた。
明日は仕事だ。
床に激突して眠った。
朝。起きると私は私であった。
I want to thank you for letting me be myself again.
以来、私はほどほどに、時にモスマン、乃至はモザイクマンとして生きざるを得なかった。そのように生きることの辛さをここに告白する余地はもう無いだろう。不思議なことは、そうして生きる苦しみへと詫びるようにして有る生きる楽しみもが、モスマン乃至はモザイクマンとしての私の生にも訪れることなのだ。
たとえそれが、他者を、社会を、外部全体を脅かすようなヴィランとしての生であったのだとしても。
そうであってさえ、生は。
この作品はそんなにフィクションではないです。