ミサの常識、貴族の常識
朝、鼻腔をくすぐるパンの香りでミサは目が覚める。
昨日の移動疲れと寝具の寝心地の良さが相まって、少し寝坊をしてしまったようだ。
ミサが急いで朝食を食べていると、ドアがノックされた。
相手は執事で、オーランドが王都での予定について説明をしたいので今から部屋を訪問しても良いかの確認だった。
ミサが了承すると、すぐにいつもの騎士服を着たオーランドがやってきた。
「申し訳ありません。まだ、お食事中でしたか……」
「私が寝坊をしただけなので、お気遣いなく……それより、朝食はお済みですか? 良かったら、話をしながらお茶だけでもご一緒しませんか?」
すぐさま部屋を出て行こうとするオーランドへ、ミサは席に着くよう促す。
これまで食事は必ず誰かと一緒に食べていたミサはその習慣が身に染み付いているので、一人の食事が続くと寂しいと感じてしまう。
「!?」
ミサからの誘いに、オーランドは顔を真っ赤にして俯く。見ると、体も少し震えているようだ。
理由がわからず困惑気味のミサは、メリルに視線で助けを求めた。
(メリルさん、何だかよくわからないけど助けてください!)
「……オーランド坊ちゃま、ミサ様からのお誘いなのですから、堂々とお受けになればよろしいのです。そのように一々感情を面に出していては、紳士失格でございますよ」
「わかった」
自分に気合を入れるように両頬をパンと軽く叩いたオーランドは、何事もなかったかのように普段通りの穏やかな表情に戻った。
席に着きメリルが淹れた紅茶を上品に飲む優雅で流れるような所作は、やはり育ちの良いお坊ちゃんだ。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
「はい、おかげさまで疲れもとれました。今日から、はりきって仕事を頑張りますね!」
こちらでも、自分の仕事をきちんと全うしたい。
拳を握り意気込んだミサを見て、オーランドがクスッと笑った。
「では、これからの予定を説明させていただきます。王都での滞在期間は二週間を予定しておりますが、場合によっては延びる可能性もございます」
二週間が長いのか短いのかよくわからないが、一日くらい自由行動ができる日があればなとミサは思う。
せっかく王都まで来たのだから、皆にお土産を買って帰りたいし、観光もしたい。
『王都でのやりたいことリスト』を思い浮かべながら、ミサはオーランドの話に耳を傾ける。
「まずは、今回の目的の一つである神殿の訪問です。ただ、貴族出身の神官はプライドが高いので、おそらくミサ様は治療には携われないかと……」
オーランドは言いづらそうに言葉を切った。
「一応、神殿のやり方を説明しますと、治療する順番は位の高い貴族からです。これは、病気やケガの程度は関係ありません。見ていて不快に思われるかもしれませんが、我慢してください」
これはミサも予想していた通りで、たいした驚きはない。
村の治療院でも、先に自分を治療しろと言ってくる人物はたくさんいた。
その人たちにトリアージの重要性を説明するのは根気がいったが、ミサの考えは徐々に浸透していき、貴族の中にも理解を示してくれる人は少しずつだが増えてきていた。
「わかりました。神殿には神殿のやり方があると思いますので、それに従います。ただし、患者さんの命にかかわる場合は……」
「はい、わかっております。私は護衛騎士になってまだ日は浅いですが、ミサ様のお考えは深く理解していると自負しておりますし、貴女ならそう仰ると思っていました。何かあれば私が全力でお守りしますので、ご安心ください」
「ありがとうございます。でも、なるべくご迷惑をかけないようにしますので、よろしくお願いします」
神殿以外の予定としては、国王陛下への謁見や騎士団・孤児院への訪問などもある。
聖女のお披露目パーティー……などという耳を疑う単語も聞こえたが、ミサとしては聞こえなかったことにしたい。
まずは目の前のことから全力投球していくしかないと、すぐに気持ちを切り替えた。
◇
神殿に向かう馬車の中、ミサはボーっと町の景色を眺めていた。
「…………」
「…………」
出発してからずっと、向かい側に座るオーランドから無言の視線を感じる。
「あの……オーランドさん、私の顔に何かついていますか?」
今朝、起きてから顔は確実に洗い、ミサの顔を至近距離で見ていたメリルも何も言ってなかった。
だから、問題はないはず……なのだが。
「あっ、つい見惚れて……いえ、ミサ様に対する不躾な振る舞い、誠に申し訳ございません!」
「ふふ……せっかくメリルさんがしてくださったけど、やっぱり、この化粧も髪型も服も、私には似合わないですよね? 私自身も何だか落ち着かなくて……」
「そんなことは、ありません! ミサ様にとても良くお似合い…です」
少し赤い顔で目を伏せるオーランドの尻すぼみになってしまった言葉に、気を遣わせてごめんなさいとミサは心の中で謝罪する。
朝食後、ミサがいつものように出かける準備を始めたところ、その様子を見ていたメリルからたくさんのダメ出しを受けてしまった。
「若い女性が化粧無しで外出するなんて……」に始まり、背中辺りまで伸びている髪の毛をいつものように適当に束ねたら、「聖女様の威厳に傷が付きますね」と言われ、ネグリジェを脱いでそのままワンピースを着ようとしたら、「補正下着も無しでは、体の線が崩れてしまいます!」と悲鳴をあげられたのだ。
結局メリルの手により顔はナチュラルメイクで化粧が施され、髪は仕事の邪魔にならないように編み込みで綺麗にまとめられ、ワンピースの下にはコルセットを着用させられてしまう。
しかも、仕事着のワンピースは知らないうちに新調されており、上等な生地を使用した高級ワンピースに様変わりしていた。
さり気なく襟と袖口、それから裾にもレースがあしらわれているのがとても可愛らしいが、仕事着にするのはもったいないなと思ってしまったのは、ミサだけの内緒の話。
◇
神殿は、十年前と変わらず街の中心に威風堂々と立っていた。
神官服を着た若い男性が、二人を出迎える。
「聖女様、神殿へようこそおいでくださいました。私は、神官長のグレドと申します」
「初めまして、グレド神官長。私はミサと申します。本日はよろしくお願いします」
さあ、いよいよ始まるとミサが空を見上げて深呼吸をすると、オーランドと目が合う。
静かに微笑んでいる彼の顔を見たら、自然と気持ちが落ち着いた。
(私はひとりじゃない。オーランドさんも一緒だから、きっと大丈夫!)
気を引き締め、ミサは入り口の扉を潜った。