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メメント・モリ

作者: 試作439

 その男は、常に周囲から存在をうとまれつつ生きてきた。

 男は決して下を向かない。道を歩けば、誰もが男から目を逸らす。

 男と目を合わせても目線を下げない者に対して、男は簡単に暴力をふるった。

 そうして起きる争いを、男は全て勝ち続けた。

 男は考える。俺を恨んでいる奴は多いだろうと。

 男は自身の強さに磨きをかけた。力を示し続けるために。

 憎しみの視線を浴びるたびに男の感情は刺激され、緊張の日々は男の心をより意固地なものにした。

 他者と同調しない者に対して、社会は無常だ。

 世界には弱い奴らしかいないと決めつける男は、孤立した。

 物心ついた頃から、男はいつも孤独だった。

 孤独とは孤高の隣にある。

 男は自身が強すぎるから孤高なのだと思い込んでいた。

 法や規則では拘束不可能なほどに強かった男は、暴れる時にも容赦をしなかった。

 だが、肉体もいつかは衰える。

 戦いながら進み続けてきた男は、負ける姿を誰にも見せたくなかった。尊厳という熱病だ。

 それは男にとって強敵だった。自らの衰えを認めさせない病魔。心臓をチクチクと痛め続ける寄生虫だ。

 尊厳に背中を押された男は、ケンカの敗北が増えた。

 敗北は精神力を男から削りとっていった。

 尊厳と卑屈。

 その天秤が逆側に傾いた時、男は逃げ始めた。

 かつて男が痛めつけた弱者のように、尻尾を巻いて、肩を落とし、陰から陰へと隠れながら過ごす日々。

 屈辱にまみれて生きるうちに、男は死を望むようになっていた。

 死に方にはこだわらない。火に焼かれるとか水で溺れるとか、苦しみ過ぎない最後ならば。

 死んだあとの体の扱いは更に興味が無い。男は輪廻を信じてなかった。

 蛆がたかって泥のように半ば溶けていようとも、死肉をあさりに集まった烏の群れの糞を浴びようとも、俺の死体を見たり近寄ったりしたことで頭を病む奴がいたとしても、それはそいつの責任だ。俺には関係ない。

 それが男の死生観だった。

 どうでもよかった。全ての未来が。

 自然に任せよう。なりゆきのままに。

 考えた男は、森に足を向けていた。


 山を越え橋を渡ると、道はアスファルトから砂利になった。

 林道の先が途切れた所で、男は更に道なき道を選んだ。

 もはや太陽すら見えない。空全体を背の高い木々が隠している。

 土と同化した枯葉の臭いと自己主張の強い虫の鳴き声が男の頭を締め付ける。

「もっとだ。もっと先に進めば、俺は死ねる。消えることができるんだ」


 小高い丘に差し掛かり、軽く勢いをつけて駆け上がった。そしてそのまま下り始めた時。

 男の目の前に大きな段ボール箱が落ちていた。

 無心に近い異常な精神状態にいた男は、突然日常に引き戻されたかのように感じて、箱に対して無性に腹が立った。完全な八つ当たりだ。

 男は段ボール箱を怒りのままに蹴り上げた。

 その時。

「ふがっ!」

 と、中から悲鳴があがり、男は心底驚いた。

「な、なんだあ?」

 男は段ボール箱に近づき、おそるおそる耳を澄ます。山奥の森の中に落ちている箱の中に、生き物なんているわけがない。

 だが直後、男の考えは裏切られた。

 ごそごそと箱の中から音がして、突然頭が飛び出し、黒い目が男を見上げたのだ。むにゃむにゃと呟く声は高い。女だ。

 女と目を合わせた男が、息を止めて数秒固まる。

「おまえ……なんだ? どうしてこんなとこでダンボール箱の中に入ってる?」

 段ボール箱からモグラのように首だけを出している女は、まばたきを数回した後、目をカッと開いた。寝ぼけていた状態から覚醒したらしい。

「はう。本日はお日柄も良く真に大変申し訳ございません。私はその、ええとですね、ピクニックでございます。そう。山にピクニックに出かけられてて、そのまま野宿していてですね、今に至るわけであります」

 女は口をもごもごさせつつ、馬鹿丁寧な口調で言った。

「ピクニックだあ? 嘘をつくんじゃねえ。こんな山奥まで来る物好きがいるかっての。人里から離れてるし、道だって無いだろうが」

「ぐぬぬ不覚。のたまうとおりっす。ピクニックは変ですよね」

 男は滑稽な女を値踏みする。雰囲気は生真面目だが、頭はそれほど良さそうではない。奇妙で下手くそな謙譲語は癇に障るが、敵意は全く感じない。

「その、ううんと、これは私の邸宅なのであります」

「邸宅? その段ボール箱があ?」

「はい。これで中々快適なのです。雨や風も凌げますし、静かでそれなりに暖かい。くつろぎとやすらぎの新空間です。新空間とは新しい空間のことで、真空な管の真空管ではないですよ」

「それくらい分かる。真空管では息ができないからくつろげない」

 女は首を独楽のように一回転させた。戦車長が他の敵を警戒しているかのような動きだ。

 女が体を入れている段ボール箱は陽の当たらない土の上にあり、不潔に湿っている。駅の地下通路や橋の下ならば段ボール箱の家に住む者もいるが、ここは山奥だ。雨風を凌ぐ屋根や床は無い。

「そのザマでおまえは、この場所に住んでいると言いはるのか?」

「その通りです。不法滞在ですが、ゆくゆくは土地をのっとり地主になるつもりです」

 女はとぼけた態度を崩さない。だが、頑なに意地を張っているようにも見受けられる。

 真意は知られたくない。そんな考えがもぞもぞ動く口元に出ていた。

「変な嘘つくなよ……。おまえの邸宅、ドア閉められないじゃん。ダンボールだよなそれ」

「とんでもない。きちんと出入り口の閉まる立派なハウスです。安心安全のセキュリティです」

 女は段ボール箱の中に頭を引っ込めると、開いていた上の部分を内側から折りたたみ、元通りの四角い立方体に戻した。器用だ。

「……ほしいのでしたらお譲りしますが」

 箱の中から女は言った。相撲取りのように声がこもっている。

「いらねえよっ!」

 男が段ボール箱を蹴ると、女は箱ごとひっくり返った。逆さまになった箱の下から女がヤドカリのように顔だけを覗かせる。

 若く見えるが痩せており、全身がくすんでいてみすぼらしい。

 女は家出中なのかもしれないと、男は思った。

「小汚い奴だな……。まあいい」

 男は女を無視して歩き出した。

「あの。どちらに行かれるのですか」

「うるせえな。おまえには関係ねえだろ」

 男は腐った大木をまたぎながら怒鳴った。

 女の視線が男の背中に刺さる。男の背後で、女の目が光った。

「山奥を一人進む男性……。ひょっとして武者修行ですか」

「俺が山伏にでも見えるのかっ!」男はため息をついた。「自殺だよ。俺は死にてえんだよ。誰もいない遠くまで行き、一人になりたいんだ」

 口に出した途端、男は失敗したと思った。

 自殺を考えるような奴は弱い奴だ。

 女から腑抜けた奴だと見下されてしまう。

 立ち去る俺の背中を見て笑いやがるんだ。あの負け犬めと。

 男の被害妄想が、男の頭を締め付ける。

 だが、女は男が予期していない事を口にした。

「そうだったのですか……。それならば、私と目的が同じですね」

 寂しそうだが、どこか安心したような女の声。本音を語った、飾らない声だ。

 男は振り返り、女の目をじっと見つめた。

「てことは、おまえも自殺するためにここまで来たと?」

「はい。昨日一日では死にきれなかったのです。山奥を目指すうちに眠くなったので、とりあえずこの中で寝ていた次第です」

 男は女に興味をひかれた。同時に、女も男を見つめてくる。互いが相手の心を測りあう。

 山奥で偶然出会った自殺志願者。

 男は女がまとう雰囲気から、言葉に偽りが無いことを察した。それと同時に、妙な共感の感情が男の心に芽生える。

 対して、女の目には好奇心と喜びの色が生まれていた。

 その目を見た男は直感した。女に依存されかけていると。

 男は女から視線を逸らした。これから単独で自殺するつもりだというのに、厄介な荷物を背負い込んでも仕方ない。

「あの。よろしかったら、私と一緒に行きませんか。旅は道連れといいますし」

 女は言った。

「ああん? 冗談じゃねえ。なんでおめえみたいな変な奴と……」

 男は親しげに接してくる女を嫌い突き返す。

「一人より二人のほうが自殺も楽になるはず……」

 女が被っている段ボール箱を地面に捨てた。

 それと同時に、けたたましい警告音が段ボール箱の中から響き始めた。

「うおっ、うるせえっ、なんだそれ!」

「おふ。しまった。決められた手順で箱から出ないと防犯ブザーが鳴るように備えておいたのでした」

「なんだそりゃあ。山奥で何を警戒してるんだおまえは」

「マイホームには防犯装置。プロボクサーにはローキック。それが私の信念です」

 女はよくわからないことを叫びながら、防犯ブザーを止めようとした。だが止める方法を知らないらしい。あたふたと色々試すが、警告音は鳴り響き続ける。

 結局、男が防犯ブザーの上に土をかぶせて音量を小さくした。

「ったく。えらい目に遭ったぜ。本当に安心安全のセキュリティが完備されてたとはなっ」

 男が大声で叫ぶ。巨大な警告音を長い時間耳元で聞いたため、耳の機能が落ちている。高齢者のように声が大きい。

「私のドジでお手間を取らせてしまい、もうしわけありません。お詫びに私の邸宅にこのあたりの土地をお付けしましょう」

 女が段ボール箱を男に押し付けた。

「いらねえっ」

「税金重いですもんね。最近」

「どうでもいいっ。というか、そもそもおまえは自殺するためにここまで来たんじゃねえのかっ」

「はっ、そうでした。あまりに居心地が良かったので、ついつい忘れかけておりました」

 終始ぼんやりしていた女の目に、決意のようなものが宿った。

          



 男は結局、女の同行を認めた。

 決して寂しいわけではない。細かいことにこだわるのが嫌なだけだと、心の中で言い訳をする。

 すぐ後ろを歩く女の足音を、男はあえて無視した。自分の事だけで手一杯なのだ。

 これから山で死のうって時に、女のことをあれこれと気遣っても意味が無い。

 男は広い歩幅で歩き続けた。女は遅れまいと数秒おきに小走りになりながら付いてくる。

「あの、もしもし」

「なんだ。おまえに合わせて歩くつもりは無いぞ。付いてこれないなら先に行く」

「いえ。そうではなくてですね。とりあえずはお互いの自己紹介でも済ませてみてはどうかと思う所存です」

「そんなのどうでもいい。大体、これから死ぬって時に名前を教えあって何になるってんだ」

「そうですね。ええ。おっしゃる通りです。意味がありません。しかし、声をかける時に、いちいち『あの』や『もしもし』と口に出すのでは、どうしても意思の疎通に遅れが生じてですね……」

「おまえなんかとあれこれ話すつもりはねえよ」

「あの、もしもし」

「なんだよ、うわっ!」

 女との会話に気を取られていた男は、獣道のぬかるみに足をとられてしりもちをついた。

「なんだ、このあたりの泥くっせえな」

「不法投棄されたゴミから謎の液が染み出しているのですよ。それをお伝えしようと思ったのですが……」

 男は女の視線の先に顔を向ける。そこには家具や家電製品、段ボール箱などが山積みされていた。流れ出た油のようなものが男の足元で虹色の渦を巻いている。

「遅えよくそっ。風上だから臭いに気付けなかった。きたねえなっ」

 男は手近にある比較的きれいな段ボール箱に体を擦り付けて、油混じりの泥を落とそうとした。

「ちなみに私のマイホームも、ここに落ちていたものです」

「へえ。そうかよ。どうりでお前もゴミのように汚らしいと思った」

「……私も汚れておりますが、これでもレディーです。そういう風に言われると多少は傷つきますよ」

「何がレディーだ。ったく」

 その時突然、男が体を拭いていた段ボール箱が破れた。

 同時に中から何冊もの本が崩れ出てくる。

 地面に落ちた本が偶然開き、中が丸見えになった。女の裸体ばかりを集めた、いかがわしい本だ。

 落ちているそれを、女が食い入るように見つめる。

「なるほど。あなたはこういった性癖があるのですね」

 女が示した本のページには、首に縄をかけられた女が興奮して喜んでいる写真が写っていた。

「うるせえ馬鹿野郎。そんなものっ、ちっとも興味なんてねえし。くだらねえっ」

 男は歩き出した。女はページを開きながら男の前を素早く左右に動き続けたが、男が無視を続けると、やがてつまらなそうに本を投げ捨てた。

「で、おまえの名前は?」

「は?」

「名前だよ。おまえが自己紹介しようつったんだろ。だったらおまえから名乗れ」

 男が尋ねると、女は少し困った顔をした。

「私はですね、そのう、よく思いだせないのですよ。自分の名前が」

「あん? 記憶喪失ってやつか」

「そのような解釈で結構です。せっかくですから、あなたのお好きなように名前をつけていただけますか」

「そうだなあ……」

 男は改めて女を観察した。

 汚れたボロボロの服を着ており、とぼけた雰囲気だが愛嬌がある。小柄だからすばしっこいイメージもあって、全体的に利発で聡そうだ。

 伸び伸びとした感じにしよう。男は一拍置いて口を開いた。

「ブランカ」

 女はその名前を聞くと、微妙に首を捻った。

「ガチなネーミングですね」

「悪いか! 不満かよ! おまえが好きなようにつけろって言ったんじゃろが」

 男が目くじらを立てると、ブランカは木陰に隠れて、顔を半分だけ覗かせた。

「それで、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」

「俺は……」男は少し考えた。ここで素直に名乗るよりも、女のネーミングセンスをからかって意趣返しを果たしたい。「俺がおまえにブランカって名前を付けたんだ。おまえも俺に好きな名前をつけやがれ」

 男が言うと、ブランカは男の周りをぐるぐると歩いた。

 ブランカの匂いが男の鼻に届き、男の心拍数が少し早まる。

「ロボ」

「ロボ? はっ。なんだその変な名前。却下だ却下。バーカバーカ」

 男が抗議すると、ブランカは残念そうに肩を落とした。

「気に入りませんでしたか。すみません」

「正気を疑っちまうぜ。何をどう考えたら、そこまでセンスの無い名前が浮かぶんだよ」

「ロボットから取ってロボにしたんです。ほら。ロボットって強いでしょう。あなたもとても強そうに見えたものですから」

「んなあっ!」

 ブランカの言葉を聞き、男の口元が緩む。にやけそうになるのを耐えている。

 こいつ良く分かってる。俺のことが強そうに見えるだってよ。見る目があるじゃないか。男の頭の中でヨーロッパ的な鐘が鳴り響き、羽根をはやした肥満気味の子供達がラッパを吹きながら空を飛び、ブランカに対する評価がぐいっと上がる。

 ロボは己のたくましさを持ち上げられることに弱かった。

          



 ロボとブランカは、森の奥へと足を進め続けた。

 いつのまにか日は傾き、太陽が半ば隠れ始めていた。

 ロボはまだまだ体力を残している。だが、ブランカから執拗に話しかけられるうちに、歩く意欲が薄れつつあった。

「太陽が眩しいですね。あいつなんとか始末できませんか?」

「俺には難しいな。ちょっと遠すぎる」

 高台の上は視界が広い。森全体が小豆色に染まっているのを遠くまで見通せた。西日が全身に突き刺さり、肌が熱を蓄える。

 ロボは早く死にたいと願い、町を離れて山奥まで来た。だが体力はまだまだ余っていて、すぐには死ねそうにない。

 先は長いだろうなと考えつつ目を細めた。

「あのう、ロボさん」ブランカが下からロボの顔を覗きつつ言った。「あなたはなぜ死にたいと思ってるのか、聞いてもよろしいですか?」

「生きるのに疲れた。それだけさ」

 ロボが素っ気無く答えると、ブランカは唸るような返事をして、そのまま黙りこんだ。

「なんだよ。もっと壮大なことを言うとでも思ったのか?」

「はい。悪事に手を染めて後悔してるとか、家族を亡くしてしまったとか、絶望するような話が聞けると思ってました。淡白すぎてがっかりであります」

「期待に沿えなくてすまねえな。悪事を後悔か。起こした暴力沙汰はちっとも後悔してないし、元々家族もいねえ。……ただまあ、俺自身は絶望している。ケンカで勝てなくなった自分の体にな。強くない男は生きる価値がねえ。俺は戦いに疲れたから死にたくなったんだ。女には理解できねえだろう」

 ロボはなんとはなしに本音を口に出したのだが、直後に失敗したと思った。

 ブランカに自分の事を話しすぎている。これではまるで悩みを相談しているようではないか。

 これ以上ブランカのペースに飲まれてたまるかと、ロボは沈黙した。

 ブランカは黙り込んだロボをじっと見つめてくる。

「ブッチャーづらですね」

 仏頂面だろと叫びかけて、ロボは耐えた。

 反応してしまうから調子付かせてしまうのだ。

 心を乱すと、すぐブランカに会話の主導権を握られてしまう。

 ロボは今日の午後だけで直近数ヶ月分に等しいほどの言葉を交わした。口数の減らないブランカに巻き込まれる形で。

 なにか別のことを考えて気を紛らせよう。

 ロボは一計を案じると、ケンカでの敗北を思い返して、自身の心を自らの意思で傷つけた。屈辱感が死への願望をむくむくと膨らませる。

 だが、ブランカは容易く、ロボの暗い感情を踏み越えてくる。

「ロボさんに家族がいないのでしたら、これから死ぬまでの間だけでも、私のことを家族のように考えて頂き結構ですよ」

「んなあっ。何を言ってんでえ。なんで俺がおまえのことを……」

「配偶者役でよろしいですか」

「いらねえよっ!」

「では母親……?」

「そんなの望んでねえから!」

「両方ともお嫌い。すると妹ですか。このブタやろう」

「違う! 俺は家族なんていらねえしっ!」

 ブランカはやいのやいのと話しかけて、ロボの口を閉じさせない。

 抜き身の刀のように他者を寄せ付けなかったロボの風格は、ブランカとの交流によって、少しづつ砕かれていった。

          



 翌日。

 森の中で野宿をしたロボは、目を覚ますとブランカがいないことに気付いた。

「あいつまさか、一人で行っちまったのか?」

 ロボは周囲を歩いてブランカを探した。朝の太陽が昇っているとはいえ、森の中は薄暗い。何らかの事故で気を失っている可能性もある。念のために、草むらの中や崖から滑落した痕跡の有無にも注意を向けながら、慎重にブランカの名を叫び歩く。

「むにゃあ。やかましいですねえ」

 するといきなり、巨大な木の洞の中から、のそのそとブランカが出てきた。

「こらブランカっ。探したんだぞ。勝手にいなくなりやがって」

「ぉう。ええと、おはようございます……トランプさんでしたっけ」

「ロボだ! だれと間違えてんだ!」

「ああ、そうでした。ロボさんおはようございます。本日は晴天に恵まれた絶好の行楽日和で、虫のさざめきと小鳥の鳴き声が見事なハーモニーなのですね。ええ」

 ブランカの寝起きが悪いことは、昨日の段ボール箱に入っていた時の様子から学んでいた。今も昨日と同じように、まぶたを半分閉じながら、もにゃもにゃと意味の通らないことを言っている。

 ロボは昨日のように蹴りつけて目を覚まさせようかと考えた。だが、ふらついているブランカを見て思いをとどめる。

 夜遅くまで歩いたため、疲れが溜まり始めたのかもしれない。

 ロボはそのまま、ブランカの頭が冴えるのを待つことにした。

「あのなあ、勝手に離れるんじゃねえよ。遭難したんじゃねえかと心配しちまったじゃねえか」

「んあ。すいませぬ。私は暗いところでなければ眠れない性質でして。ロボさんが眠られた後に周囲を探していたらこの洞を見つけたのです。森の香りに包まれた素晴らしいキャッスル。私はここいらの地主になり素材を活かした開拓を進めて店貸たながしの不労所得で生活をば……」

 ブランカが前日と同じように、くたびれたOLが抱きそうな夢を語っていると、腹が盛大に鳴った。

「今日で森に入って三日目。さすがに飢えてきたのです」

「そうか。おめえは俺より早く森に来てたんだったな。まあ、俺も腹は減り始めたが、まだまだ死ねそうにはねぇや」

 ロボが腹をさすりながら喋っていると、ブランカが服の中から小さなものを取り出して、中のものを口の中に放り込んだ。

 ポリポリと咀嚼する音が森の中に響く。

「なんだいそりゃ」

「ゴミの山のところで見つけたんです」

 ブランカがロボに向けた小物の表面には、シャープペンシルの芯と書かれてあった。

「それ、食べ物っぽいけど食べ物じゃあねえだろ」

「食感だけなら結構いけますよ」

 ブランカがタバコを一本渡すかのように、シャープペンシルの入ったケースの底をトントンと叩き、ロボに向けて差し出した。

 それをロボはケースごと叩き落して足で蹴った。

「そんなもん食うな馬鹿。向こうに川があったから行ってみようぜ。魚とかいるかもしれねえ」


 歩くこと数分。ロボとブランカは、澄んだ清流のそばに立っていた。

 川の中には中型の魚がたくさんおり、時折跳ねて水しぶきを立てている。

「自殺が目的なのに、腹を満たすため狩りを行うというのも何か矛盾してると思いますが」

「まあそう言うな。俺は魚を捕らえることに関しちゃあ、子供の頃から得意だったんだぜ」

 ロボは明らかに浮かれていた。自分の優れた点、強さやたくましさを他者に見せ付けることは、ロボにとってのアイデンティティであった。

「おらっ!」

 ロボは川に飛び込んだ。しかし、魚はロボをからかうかのようにロボの鼻先から逃げていく。

「くそっ。すばしっこい連中だ」

 続けてロボは、川の深いところを素早くジグザグに動き、魚の群れを少しずつ浅瀬に追い込んだ。

「そこだっ!」

 そして、背びれの塊に向かい飛びかかった。だが、それでも逃げる魚のほうが早かった。

 この時点で、ロボの心の中では、悔しさよりも楽しさのほうが大きく膨れていた。

 その心をブランカが無慈悲にへし折る。

「ロボさん、全然駄目じゃないですか。その程度の腕で魚捕りが得意だと自称してしまうとは。恥ずかしいと思わないのですか」

「う、うるせえよっ。今日はちょっと調子が悪いだけだ。あとちょっと、もう少しで捕まえてみせる!」

 冷や水を浴びせられたロボは、心を入れ替えて狩りに取り組む。

 水しぶきをあげながら川の中に頭を突っ込ませるロボと、その様子を離れた岩場の上から見下ろすブランカ。

「がんばれー。まけるなー」

 ブランカの気の抜けた声援を受けて、ロボは更に奮い立った。

 しかし、太陽が真上に来る時間まで奮闘したロボが捕らえたのは、小魚が数匹だけであった。

 冷たい目をしたブランカが、寂しげに魚を見つめる。

「なっ、なんでえ。もうちょっと褒めてくれてもいいじゃねえかい」

「わあ。素晴らしい大漁ですね」

「そうだろうそうだろう。なんたって俺はサバイバルの達人だからな」

「皮肉ですよ。この釣果でよく誇れますね。私を炎天下の中で何時間も待たせたというのに」

「なっ!」

 ロボはブランカの冷たい言葉に衝撃を受けた。腹を空かせているブランカのためにと体を張ったのに、ブランカの態度はつれないままだ。

 ロボはさすがに言い返そうと考えた。

「そこまで言うのなら、ブランカが魚捕りの手本を見せてくれよ」

「私は水に濡れるのが苦手なのです。そもそも、そんな子供じみた行為をするつもりはありませんよ。まったくあさましい。飢えていようとも、気位を崩すつもりはないのです」

「ふん。ダンボールの家で寝泊りしてた奴が、気位も何もあったもんじゃないだろ」

「なっ、なにおう!」

 にやにやしているロボを、ブランカが下から睨みつけた。

「そこまでおっしゃるのならば、かつては疾風の狩人を自称してたこの私の有り余る才能を見せてあげましょう」

 ブランカは川の中にある岩場を飛び跳ね、中洲の近くまで渡った。足元はおぼつかないが、ロボが川の中に入って魚を追いかけ回した時よりも速い。

 魚の群れは川の最も深い場所にいて、上から狙うブランカの姿に気付いていない。これはいけるのではないかとロボが考えた瞬間。

「てりゃっ」

 川の中に手を突っ込んだブランカが、バランスを崩した。

 岩と岩の間に手足の先をかけて体が弓なりになり、ブランコのように揺れている。

「疾風の狩人さん、たすけましょーかー?」

「結構です。これはブランカ体操という運動なのです」

 ロボの目に映るブランカは、明らかに強がっていた。手足を震わせて、声に恐怖が混じっている。

 ただ、助けるなと言われて助けに行くほど、ロボもお人よしではない。そのまま放置して様子を見た。

「あああー、背骨が伸びて快適ですー。血流が増えて関節痛にも……」

 さりげなく言い訳を述べながら岩の上に戻ろうと奮闘していたブランカが、直後に川に落ちて、手足をバタつかせながら流され始めた。

「すみません。手間をかけさせてしまいまして」

「最初から素直に助けてくれって言えばいいものを。泳げないのに意地張ってどうする。そりゃあ、俺たちは死ぬためにここまで来たんだけど、捕った魚を食べる前に死ぬのは不本意だろ」

「ごもっともです」

 ロボに浅瀬まで引き上げられて、意気消沈しているブランカからは、持ち前のふてぶてしさが失われていた。体を乾かしながら反省している。

 ロボはすっかりしおらしくなったブランカの前に、捕った魚を一匹ずつ並べて見せびらかす。

「くっくっく。どうだ。これで魚捕り勝負は俺の勝利だ」

 ロボが煽ると、ブランカの態度に再びふてぶてしさが戻った。

「私は別に勝負する気でいたわけではありません。ただなんとなくロボさんに乗せられてしまっただけです。ですから、決して負けたわけではありません」

「意地っ張りな奴め……」

 ブランカの負け惜しみを聞きながら、ロボは顔を上げて青空を見上げた。

 結局、午前中は死についてほとんど考えなかった。

 ロボは思う。自分ひとりだったならば、きっとここまで感情を保てなかっただろうと。肩を落として下を向きながら黙々と山奥を目指し、川を見つけても水を口に含む気力すら無かったはず。

 全てはブランカのためだ。

 偶然出会ったブランカに尽くしてみたい。

 孤独に生きてきたロボの目には、世界は灰色に映っていた。ところがブランカが対等に接してくるうちに、いつのまにか世界に色が戻っていた。

 魚捕りであろうと、隣にいる者と気心が合うというだけで、遊園地で遊ぶかのように輝いた時間となる。

 ロボはブランカに感謝していた。

 その情動が後々自身を悩ませることに、ロボは未だ気付いていない。

「さて、この魚をどうやって食べようか」

「調理器具が無いのだから、生以外に無いでしょう」

「いや、それはさすがに腹を壊すんじゃ……」

「水がきれいだから問題ありませんよ。全て小魚だから骨も柔らかい。ロボさんは刺身を食べたことが無いのですか。生魚と焼き魚の違いは味だけですよ」

「それは色々と違うと思えるぞ」

 ロボとブランカが知恵をしぼっていると、側面に黒い斑点がある小魚が元気よく飛び上がった。

 すると、岩の上に落ちた魚から、焼け焦げるような音が上がった。

「これは……、そうか。日差しが強いので岩が熱を持っている。これならすぐに天日干しにすることができます」

「天日干し?」

「魚を乾燥させて干物にするのです。少なくとも生のまま食べるよりは安全でしょう」

 ロボは半信半疑のままブランカに従い、捕らえた小魚を熱を蓄えた岩の上に置いた。


 数時間を日陰で過ごして時間を潰した後。

「丁度いい感じになりましたね。見た目はめざしみたいなのです」

「食べられそうだけど、噛みたくはないな。腹を壊さないよう祈りながら丸飲みするか」

 岩の上に並べた小魚は日光で乾燥して、虫が周りを飛んでいた。加工食品には見えない。ただのしかばねのようだ。

 しかし、ブランカは口からよだれを垂らしていた。

 ロボ一人ならばそのまま食べずに去るところだが、ブランカが食べるというのなら、自分も食べないわけにはいかない。

「ほら、ブランカ。こっちのほうがでかいぞ」

「ありがとうございます。ロボさんも遠慮せずにお食べください」

「全部俺が捕ったものだから、そのセリフは俺のセリフだ」

 ブランカが小魚の頭にかじりついたのを見て、ロボは魚を飲み込んだ。

 一匹食べると胃袋が刺激されて、逆に空腹が刺激された。あと一匹、もう一匹と、次々に小魚を口の中に放り込む。

 ロボの横では、ブランカが一匹ずつ、ゆっくりと大切そうに咀嚼している。味付けをしていないので食べ難いはずなのに、ブランカは文句を言わなかった。

 あっという間に小魚は減り、最後に残った一匹を見て、ロボとブランカは見つめ合った。

「俺は別に魚が好きでもないからな。捕っただけで満足なんだ。十分に楽しめたから、後はおまえが食べればいい」

 ロボは嘘をついた。本当はロボも魚を食べたい。だが、ブランカに喜んでもらいたいという気持ちが、食欲を上回ったのだ。

 これを食べた後は、二度と食べ物が手に入らない可能性もある。

 もしかしたら、この食事が最後の晩餐になるかもしれない。

 それでもロボは、ブランカに干物を食べてもらいたかった。自分よりも先には死んでほしくないと考えたからだ。

 それは、心に開いていた死の欲求を、一時であろうと埋めてくれたブランカへの感謝。優しさの芽生え。

 死ぬための行進を続けるために、体力をつけさせる。

 矛盾した行動だと分かってはいるが、ロボは複雑な自分の心に従い、食欲を無視した。

          



 日が沈むまで山奥を進み訪れた夜。

 いつのまにか、ロボは歩く早さをブランカに合わせていた。

 出会った頃よりも、ブランカのペースは落ちている。口数も減っており、ロボはブランカが限界に近づいていることに気付いていた。

「今日はこのあたりで寝るか。もう進めそうにはないだろう」

 ロボは闇に包まれた森の中で、隣にいるはずのブランカに声をかけた。

 だが、ブランカはロボに返事を返さなかった。

「おい、ブランカ?」

「えっ? 何かおっしゃいました?」

「……声に力が無いぞ。疲れてるんじゃないのか?」

「まあ、そうですね。足にも力が入らなくなってきました」

 空は曇っていて、星の明かりが少ない。ロボが目を細めても、ブランカの小さな体はぼんやりとしか確認できなかった。

「あの……ロボさん」

 急にブランカは、怯えたような声をあげた。声が緊張を帯びている。

 自然とロボも緊張で固くなった。

「なんだ。トラブルか」

「実は私はですね、霊感があるのです」

「は? 霊感? 霊が見えるとかいうアレ?」

「はい。私は近くにいる良くないモノを呼び寄せてしまう体質なのです。子供のころからこの霊力のおかげで酷く苦労をしてきました。この暗闇はまずいです。極めてワーニングなのです。どうかここは、ロボさんだけでも先に行って、できるだけ私から離れてください。でなければロボさんまで危険な目に遭わせてしまう」

 老婆のようにしゃがれたうめき声を出すブランカ。大げさで禍々しい。

 生来、腕力だけに頼って生きてきたロボは、霊のようにあやふやな存在を疑ってかかる。普段のロボならば、一目でブランカの嘘を看破できていただろう。

 しかし、今のロボはやや疲れていた。さらに刺激の濃い時間を過ごし続けたせいで、冷静に物事を判断できない。

 そのままブランカの大根な演技を鵜呑みにしてしまった。

「まっ、まじなのか!」

「くぅ。我が魔眼がうずく。いるぞ。漆黒の闇の中に。彼岸を彷徨う邪なる者どもが、我々の魂を奪おうと跋扈ばっこしておる」

「やいやい! ブランカから離れろ! こいつに指一本触れてみやがれ。俺様が地獄の果てまでぶっとばしてやる!」

 ロボが暗闇でブランカを守るために、肉体のアピールを始めた。

 その姿を見たブランカが鼻を鳴らしながら笑い出す。

 戦いの熱をまとっていたロボは、ブランカの笑い声を聞き頭が冷えた。

 そういえばと、ロボは出会いから思い返す。ブランカは段ボール箱の中や木の洞で寝泊りするほどの暗闇好きだ。日ごろから霊を恐れるような奴が、暗い場所を自分から探して寝るわけがない。

「なんだよ。今のは冗談だったのか」

「冗談というか、一人になりたかったので、ロボさんに離れていただきたくて話を作りました」

「唐突だな。どうして俺を追い払おうとしたんだ。ウンコか」

 ブランカに蹴りあげられ、ロボの尻が浮き上がった。

「私は夜は一人で眠りたいのですよ。他人がいると寝付けないので。恐がらせたらロボさんは離れるかと思ったのですが、作戦は失敗でした」

 ブランカの動機を聞いたロボは安堵した。何らかの理由でブランカに嫌われたのではないかという、マイナスの考えもあったためだ。

 森に入ってから長い時間を過ごすうちに、ロボはすっかりブランカに心を許していた。

 自殺という共通の目的を持つ者として、最後まで一緒にいたい。

 出会ったばかりの頃は、冷たいロボに擦り寄る弱いブランカの構図だった。ところが今では力関係が逆転しており、ブランカを見失いかけると、ロボは平常心を保てなくなる。それほどまでに、ロボにとってブランカは必要な存在となっていた。

「何か要求があるのならちゃんと言えよ。俺だって一人になりたい奴の気持ちは分かる。ただなあ、この暗闇だ。一度はぐれたら迷子になっちまうだろう。一人で眠るにしても、俺が察知できる範囲にしてくれ」

 ロボはやや厳しい声で言ったが、ブランカは返事をしなかった。やや焦りを感じたロボの喉に力が入る。

「おいっ、ブランカ! 大丈夫か!」

「残念。私は君の後ろだよ」

「きゃあっ!」

 急に近くの背後からブランカに声をかけられたロボは、女子のような悲鳴をあげて飛びのいた。

「すみませんロボさん。私は夜目が利くので、ロボさんを見失うことはありません。このように暗いほどパワーの増すタイプなのです。闇討ちを特技としています。ですので、決して私が迷子になることは無いと誓っておきましょう。むしろ、私を探すためにロボさんが歩き回ることのほうが不安です」

「そっ、そうだとしてもよお、万が一ってことがあるじゃねえか馬鹿野郎」

 恥ずかしさをごまかすかのように、ロボが大声で怒る。

 その態度を目にしたブランカが、薄く溜息を吐いた。

「やれやれ。ロボさんが案外寂しがり屋だということが分かってきました」

 ブランカが突然、ロボの胸に自身の頭を埋めてきた。

「なっ!」

「今晩はもうここで野宿しましょう。安心してください。これならロボさんが私を見失うことも無いでしょう」

「そんな急に……俺だって心の準備がっ」

「何をわけのわからないことをおっしゃってるのですか」ブランカは地面にロボを引き倒した。「私は暗い場所でなければ眠れないのです。ロボさんの体でしっかりと包んで下さい」

 その時。雲が少しだけ晴れて、雲間から月明かりがブランカを照らした。

 短い夏草のカーペットが広がる空間。その中央で、ロボの広い胸にブランカが小さな体を押し付けている。

 ロボは呼吸を浅くした。自分の鼓動が早くなるのを抑えるためだ。動揺をブランカに悟らせたくない。戦いながら生きてきた男は、気配を殺す技にも長けていた。

 だが、そんなロボに対して、ブランカは邪気無く身を重ねてくる。

「中々暖かくて居心地が良いのです。もう少し早くこの場所を知っておけばよかった」

「そりゃあ光栄だ……」

 ブランカの吐息を胸に浴びながら、ロボは少しずつ落ち着きを取り戻していった。緊張していた手足から力が抜けて、頬に溜まった血液が頭に循環していく。

「なあ。聞きたいんだが。おまえはなぜ死のうとしているんだ?」

 ロボの問いに、ブランカは答えない。既に眠ってしまっているのかとロボは考えた。だが、月が雲に隠れて夏虫のさざめきが絶えた後、ブランカが顔を向ける気配を感じ取った。

「私はですね。病気なのですよ」

「病気?」

 ロボが少し体を動かした。だが、ブランカはそれを、ロボが逃げ出そうとしているかのように勘違いしたらしい。

「大丈夫です。感染するようなものではありません」

「いや、離れようとしたわけじゃねえよ」

 ロボが言うと、ブランカは肩を縮めた。勘違いを恥ずかしく感じたようだ。

「体が弱いのですよ。そして、この病気はもう止められそうにない。みっともない話ですが、意識していないのに口や下から不潔な液が垂れてたり、戻るべき床を忘れてしまったりしてしまう。はしたない姿を人に見せてしまうのが嫌なので、山奥でひっそりと死を迎えたいと望んでおりました。そんな時にロボさんと出会ったのです」

 ブランカの口調は神妙で、本当の事を言っているとロボには分かった。

 自分の体が思い通りに動かせない苦しみならば、ロボもよく分かる。ロボが自殺を望む理由もほぼ同じなのだから。足がもつれる。力が出ない。過去にできたことが少しずつ不可能になっていく喪失感は、じりじりと首が締まっていくかのようで、心すらもささくれていく。

 ロボはブランカにかける言葉を探したが、すぐには思い浮かばなかった。自信を失っている時にかけられる慰めの言葉は、逆に傷つけてしまうこともある。

 ロボは悩んだ末に、素直に共感の言葉をかけることにした。

「そうかあ。そうだよなあ。自分の弱ってるところを見られたくはないわなあ」

「ええ。特に愛する家族には見せられない。いるだけで周りを悲しませてしまうのは、あまりにも無念です」

「愛する家族かあ。たしかに顔見知りに無様な姿を見られるのは苦痛だろうなあ……。って、おいおい。俺もおまえの家族になったんじゃなかったか」

「先日の約束は、ロボさんに私を家族と思う権利を認めただけです。私はロボさんを家族と考えてはおりません」

 ブランカの声を聞き、ロボも会話の内容を完全に思い出した。

 ブランカの言う通りだ。それに俺は自分から家族はいらないと言い切ったのだった。ここにきて自分の望みだけを押し付けるのは虫が良すぎるとロボは考える。

 しかし、今のロボはブランカの事を大切に思っている。今更、気が変わったので家族になってくれとは、ロボの口からは言い出せなかった。

 草の上に頭を落としたロボの落胆を、ブランカがすぐさま読み取ったらしい。

「ロボさん。おもてをあげてください」

「……なんか偉そうだな」

「寂しがり屋のロボさんのためです。特別に、今から家族になってあげましょう。そのかわり条件があります」

「条件?」

「繰り返しになりますが、私は自分の死ぬ姿を愛する家族に見せてしまいたくないのです。ですから私に先にロボさんの死を看取らせてください。その後に私も後を追う。それが守られるのなら文句はありません」

「……ああ。それでいい」

 家族。

 それは、戦いに生きたロボにとり、最も縁の遠かったぬくもりであった。

 望んだことの無い心の結びつきが、胸の中で小さく息をしている。横になるロボの頭の中を、ブランカが埋め尽くしていく。

 ロボは思い出していた。ブランカの変な行動や発言も、病気が原因だったのだろうと。

 初めて会った時、ブランカは自分の名前を忘れていた。記憶喪失という話も含めて、体の不調は心にも影響する。

 絶望の共有。

 自殺を願う者同士だからこそ分かることもあるのか。それとも、家族になったから理解が深まったのか……。ロボは目を閉じブランカを哀れんだ。そして、まどろみの中、ロボの悲しみを覆い隠してくれる暗闇に感謝した。

          



 翌日。朝方から降り始めた雨は、昼近くまで続いた。

 ロボとブランカは、いのちの幕を引く場所を求めて、今日も霧の深い山の中を歩き続ける。

 町から遠く離れて、既に人の営みの痕跡は何も無い。雑草に足を取られつつ、平坦で歩きやすそうな場所を選んで進み続ける。

 視界がとても悪く、蒸し暑さが体力と思考力を奪い続けた。

 湿った空気を嫌うブランカの足取りは重い。ロボが気付くと距離が開いていることが多くなっていた。

「ブランカ。大丈夫か」

 ロボが声をかけると、突然ブランカが吐いた。

 黒っぽい塊が混ざっている。固まった血のようだった。

「ブランカ!」

 ロボがあたふたと側に寄り見守っていると、口を拭ったブランカが苦しそうに立ち上がった。

「ロボさん。昨日の今日で申し訳ありませんが、家族関係を一方的に解消させていただきます」

「なっ、なんだよ急に。突然すぎるぞ」

「私の体が持ちそうにありません」ブランカが頭を振り、ロボを見つめる。「餓死が先だと思っていたのですが、病魔が待ってはくれないようなのです。このままでは私が先に力尽きるでしょう。そうなると、家族であるロボさんをやり切れない気持ちにさせてしまう。ここで別れましょう。心をかき乱してしまいすみません」

 ロボは開いた口が塞がらなかった。我がままで気まぐれなブランカの言い分は、ロボに怒りの眩暈を起こさせた。

 しかし同時に、ブランカが自殺を選んだ理由、己の死ぬ姿を家族には見せたくないという望みを思い出し、すぐに別の提案を思いついた。

「だったら、俺がこの場でさっさと死ねばいい。それなら別れる必要は無い」

 ロボの言葉を聞いたブランカは、目を細めて視線を逸らした。

「そういった、私のために無茶をさせてしまう行為も嫌なんですって」

「俺が無茶だと考えなければ無茶じゃない。俺はおまえと最後まで一緒にいたいんだ」

 ブランカから拒絶されている。ロボはその意思を感じ取ったが、引くつもりは無かった。

 直後にブランカは何事かを決意したらしい。背筋を伸ばして、目つきが締まる。今まで見せたことの無い態度だ。

「では、強引に離れることにしましょう。ロボさん、さようなら。これでも私は、すばしっこさには自信があるのです」

 ブランカが俊敏な動きで霧の中に飛び込んだ。本当に病魔が体を蝕んでいるのかと疑ってしまうほど早い。

 ブランカが逃げ出すなどと考えてなかったロボは、反応がかなり遅れた。

「おいブランカ、そりゃねえよ!」

 ロボはブランカを追って駆け出した。だが、雨でぬかるんだ地面と深い霧が、ブランカの追跡を難しくさせる。

 ブランカは素早い上に、忍者のように足音をほとんど立てない。ロボは足跡を追いかけようと考えたが、ブランカは草を狙って踏みながら走っているようで、それらしい跡が見つからない。

「おいっ! ブランカ! くそっ、返事をしろっ!」

 このままでは再び独りになってしまうと、ロボは焦った。

 ブランカと過ごしたことにより、ロボは孤独を恐れるようになってしまっていたのだ。

 闇雲に走るロボは、普段ならば絶対にありえないようなミスをした。

 突然目の前に現れた崖から足を踏み外したのだ。

「危ない、ロボさん!」

 背中を岩に打ちつけながら転げ落ちる直前、空中のロボに、ブランカの手が伸ばされた。

 そして、直後に崖の端が崩れて、ブランカの体がロボの上に滑り落ちてきたところで、ロボの意識は途絶えた。

          



 水溜りの中に顔をつけていたロボが激しく咳き込む。口から垂れたよだれには赤銅色の泥が混じっている。

 息を吸い込むと背中の痛みが全身に響き、ロボは完全に覚醒した。

「うっ……。ここは……」

 上半身を起こして左右を見る。足元の水溜りから数歩ほど離れた周囲には、丈の高い草木が密集していた。全く日光のあたらない、暗くて湿った地下牢のような場所。ロボの背後には崖があり、途中の土が削れている。ロボはそれを見て、自分が崖の上から滑落したことを思い出した。

「……ブランカ」

 ロボはすぐさまブランカを求めて走り出した。草を踏み越えるたびに、見たことの無い羽虫が口の中に飛び込んでくる。腕や耳が痒くて仕方ない。

 巨大な毛虫が肩の上にいることに気付いたロボは、たまらず草むらから飛び出し、崖の手前に戻り虫を払う。落ち着きを取り戻して顔を上げると、すぐ横の木陰で失神しているブランカの姿をあっさり発見した。

「おいっ、ブランカ、しっかりしろ。返事をしてくれ」

 ロボが耳元で声をかけると、ブランカは力なく目を開いた。生気が薄く、夢うつつといった様子だ。

「私を見ないで下さい。今までお世話になりました。これ以上、迷惑をかけて、あなたに無理をさせたくはない……」

「おい、ブランカ! 何を言ってるんだ! 寝ぼけてるんじゃねえぞ!」

 ロボが更に大声で言うと、ブランカの目の焦点がロボをとらえた。

「ああ、ロボさん。面目ありません。ちょっと夢を見ていたもので……」

 夢といっても、悪夢や走馬灯に近いものを見てたんじゃないのか。ロボは心配と不安に胸が締め付けられる。

 ブランカが立ち上がった。だが、直後によろめいて木に体を預けた。

 満足に動ける状態には見えない。ロボはブランカを地面が濡れていない場所に横たえさせた。

「ここは水はけが悪く、日が当たらないから肌寒い。ちょっと待ってろ。崖の上に登れないか試してみる」

 ロボは勢いをつけて崖を駆け上がろうとした。しかし、脱出までは遠い。土も脆くてすぐに崩れる。結局、崖の半分も超えられずに元の位置まで戻された。

「くそっ。昔の俺ならこの程度、簡単によじ登れたってのに」

 ロボの体調も決して良くはない。満足に食事をとっていない上に、崖から落ちた時に打撲傷を負っている。

 だがロボは、己の苦しみよりもブランカを優先した。

 それは、他者を傷つけながら生きてきたロボが、かつて弱さと形容した感情。おもいやりだった。

 これ以上ブランカを苦しませたくない。心に炎をともし、ロボはひたすら崖に挑む。

「ロボさん。あなたも怪我をしてるでしょう。少し休んだらどうです」

 体中を泥で汚したロボの横に、ブランカが立った。

「ブランカ。やっぱり俺たち、自殺止めようぜ」

 ロボの放った言葉に、ブランカは返事をしなかった。無視をしたわけではない。ロボがそれを口に出すことをあらかじめ予想していたかのような落ち着き方だ。

「俺が甘ったれだった。ちょっと体が思い通りに動かない程度で、弱気になってこんなとこまで来ちまった。ブランカ。おまえもだ。もしかしたら、おまえの病気も、粘り強く生きていたら回復するかもしれねえだろ。だから、な」

 ロボが喉から声を振り絞ると、ブランカは小さく首を振った。

「ロボさん。あなたが荒れた生き方をしてきたことは、私も察することができます。ここから脱出した後に、運命を立て直すことも、ロボさんならばできるかもしれません。しかし、私は常に恵まれ過ぎた生き方をしてきた。食べ物に不自由をすることもなく、雨風に打たれることも無く。私は相対的に、既にこの世から多くのものを貰いすぎているのです。あなたから見て、今の私は不憫に見えるのかもしれませんが、私は既に、満ち足りているのです」ブランカはロボから少し離れて、地面に体を伏せた。「だから、私は病気を受け入れる。そして、私の死を目にして心を痛めてしまう方を出したくはない。ああ。私達は出会うべきではなかったのでしょう」

 ブランカは後悔の念を隠そうとしていない。こんなことになるならば、ずっと単独で行動するべきだったと小声でつぶやいている。

 それを見て、ロボはやりきれない気持ちになり、足元の小石を蹴り上げた。

「出会うべきじゃなかったとか、寂しいこと言うんじゃねえよ。大切なのは過去や今じゃなくて、これからだろう。少なくともおまえは、こんなところで死ぬべきじゃねえ。病気を受け入れるってのも構わない。ただ、おまえ一人でなんでも決めるんじゃねえよ。俺の意見も受けとめた上で考えて決断してくれや」

 声を荒げるロボを、ブランカは駄々をこねる子供を見つめるかのように眺め続けた。しかし、完全には拒絶していない。

 ロボが剥き出しにしている感情に対して、喜びと呆れの混ざった様子で黙り込んでいる。

「もっと足掻けよ。醜くたっていい。無様だっていい。生きるってことはそういうことだ。この世に生まれてきちまった以上、大なり小なり周りに迷惑かけてんだ。おまえが死んでいる姿を見て悲しむ者を作らないために姿を消すだあ? そいつあ立派な考え方ですよ。だけどなあ、今の時点でおまえは既に、俺にやりきれない思いをさせちまってんだ。今からそれが更に足されることになろうとも、そんなもんは誤差ってもんよ」

「ロボさん。あなたはやはり絶望が足りない。生き続けるべきですね」感情表現の少ないブランカが、心を溢れさせるかのように声を張っている。「あなたは完全に変わられた。自殺を望んでいたロボさんは既にこの世にはいません。ならば町に戻るべきです。しかし、ここはかなりの山奥。今から戻るとしたら、いかにロボさんといえど、体力的にはギリギリになると思われます」

「戻るのならば、ブランカも一緒に……」

「私を連れて戻ることは、絶対に無理でしょう。私には体力が無い。それにあなたの足手まといには……」

「俺をナメるな。体力には自信がある。おまえの足りない分は、俺が補ってやるさ。少しだけ待ってろ。ここを脱出するための楽な道を見つけてくる」

 ロボは頭を働かせる。崖を登ることは無理。ならば崖下を進み、その先に道を見つけて、ブランカと共に進めばいい。

 慌てず慎重に、苦境から脱するための糸口を模索する。

 ブランカにはまだ生きようとする気力が足りていない。だが、それは町まで戻り、メシでも食べさせたら体力が復活する。そしたら気力も溜まり、病気だって跳ね除けられるかもしれない。

 ロボは楽観的に考えた。そうすることにより、希望を脚力へと変えて走り続けた。

「くそっ。どこに行っても、先が塞がってやがる!」

 ロボは血眼になり、四方八方をかけずり回って調べた。しかし、どうしても脱出路は見つからない。

 町に戻るどころか、崖下から抜け出すことすらできない。

 人里から離れた未開の森。そこは、完全に脱出不可能な窪地だった。

 陽もあたらず、希望も無く、まるで墓穴のような場所。

 ロボはその事実を認めまいと、生命力を気力で燃焼させて、必死に這い上がる術を見つけようと努力した。

 孤独に、ブランカのため戦い続けた。

          



 半日が過ぎた頃。夜気が冷えた気配を運んできた。

 乾いた草の上で身を寄せるロボとブランカを夜露が苦しめる。

 明かりは無く虫すらも寄り付かない、固く冷たいその場所を、ロボは死神の膝の上にいるようだと感じた。

「ロボさん……私はとても、後悔しています……」

 闇の中で、ブランカが口を開いた。

「ロボさんの愛情は、痛いほど伝わってきます。その感情が、あなたを苦しめていることも。しかし、私は今、満足もしている。それは、ロボさんが私と出会ったことにより、生きることの素晴らしさを認識してくれたから。ちっぽけな私でも、他者に生きる意志を与えることができるのですね。ああ。どうしたらこの感覚をロボさんに伝えることができるのでしょう」

 ブランカの息は浅い。一つ一つの言葉を振り絞る度に生命力が消えてゆくように思えて、ロボはブランカを胸の中で包み直した。

「もういい。もういいからよ。お前は頑張った。俺も今は同じ気持ちだよ。後悔しているし、満足もしている。もういいんだよ」

 ロボはブランカが眠りにつくまで見守ろうと決めていた。だが、ブランカはそれを拒む素振りを見せている。

「ロボさん。あなたが先に眠ってください。気にしてしまうのです。最近の私は眠ってしまうと、そのまま起きることが無いように思えてしまうので……」

「はは。おまえは暗くて狭い場所を好んでたもんな。大丈夫。おまえは目を開けたままでいいし、隠れようとしなくていい。不安を感じる必要は無いんだ。決して死なないんだからな。俺がここから必ず連れ出してやる……」

 小さく囁いたあと、疲れていたロボの意識は途絶えた。


 翌朝。ロボは窪地にかすかに差し込む光で目が覚めた。周囲が朝陽でうっすらと明るく照らされている。

 ロボの胸の中で、ブランカの体は冷たくなっていた。

「おい……」

 ロボは短く声を出してから、しばらく呆然とした後、ブランカを草の上に横たえた。

 ブランカは最後、どのような気持ちだったのか。

 無念に感じたのだろうか。怒りを感じたのだろうか。

「後悔、してたもんな。俺と家族になったこと」

 納得のいかない想いを抱いたまま、ブランカは眠ったのだろう。ロボは申し訳ない気持ちになり、ブランカの前で膝を地に付けた。

 その時。ロボの背後から、陽の光がブランカの表情を照らした。

 ブランカは、笑いながら死んでいた。

 子供を見守る母親のように晴れやかで、慈愛に満ちた顔をしている。

 ブランカは苦しんだろう。病気が体を蝕み、複雑な感情が胸のうちで絡まり、心も体も荒れていたはず。

 しかし、最後の瞬間だけは、笑顔を作っていた。

 ロボは笑顔の意味を考える。そして、すぐに答えを理解した。

 ブランカは自分の死後、周りにいる者が悲しみに暮れることを誰よりも嘆いていた。

 この笑顔は、自身の死後、最初にその姿を目にする者への気遣い。

 愛する家族、ロボへ向けた笑顔。

 ロボを悲しませたくない。その一心で、苦しみに耐え、笑顔を作り、息を引き取ったのだ。

 ロボはブランカを自身の胸に抱きしめた。

 そうしなければ、自分の胸が張り裂けかねないと思えたから。

          



 そのまま、数日が過ぎた。

 ブランカを抱きしめながら生きるロボには、既に立ち上がる体力は無い。

 喉は枯れ、目は乾き、老木のように朽ちている。その姿は長く放置された土嚢のように汚れていた。

「もうじき、俺も、死ぬな」

 ロボは既に達観していた。平穏な心だけが泥を被らずに美しいままだった。

 ロボは考える。ロボだけで山奥に進んでいたならば、怒りを心に宿らせたまま死んでいただろう。しかし、ブランカと出会うことにより、自身の心に安らぎが芽生えた。

 まさかこの世に感謝をしながら死んでいくことになろうとは。

 ロボは動かないブランカを見た。その顔は今も笑顔のままだ。

 ロボの思考は何日も同じところを往復した。そして、夢と現実、現実と夢の境が、ひどくにじんでいることに、ロボ自身は気付いてなかった。

 だから、その声が聞こえてきた時にも、それが夢か現実かの区別がつかなかった。

「いたぞ。あそこだ」

「あら、ほんと、すごいわね。契約しておいて良かったわあ」

「最新の電波通信機能を内蔵した首輪だ。古いやつなら電池が切れたりしてて、ダメだったかもしれんな」

「ちょっと、お爺さん、シロちゃんがでっかい熊に包まれてますよ」

「……しっ。ありゃあ、でかいが犬じゃ。野犬じゃろうか。眠っているのか動かんぞ」

「どうします? 追い払いますか?」

「いや。こっそり近づいてシロだけ取り戻そう。婆さんはそこで見ていろ。わしが一人で行く」

 ロボはその声の意味がわからなかった。ただ、二人の人間が崖の上から降りてきて、こっそりと近づいてくる気配だけは気付くことができた。

 ただ、それが分かったからといって、ロボには何もできなかった。既に起き上がる体力すら無いのだから。

「……ダメじゃ。既に死んでおる」

 片方の人間がブランカに触れていることがわかる。ロボはまぶたを動かした。目と鼻の先に、優しそうな高齢の男がいる。ブランカを見つめる目は悲しそうだ。

「まあ。そっちの大きな犬はまだ生きてるみたいですよ」

「むっ。でも既に瀕死じゃな」

「まるでシロちゃんを今まで守っていたかのようですね」

「まだ助かるかもしれん。とりあえず、婆さんはシロの遺体を運んでおくれ。わしはこっちの犬を運ぶ」

 ロボは、ブランカの体を大切そうに布に包む高齢の女を見て、それがブランカの飼い主であると察した。

 二人はとても温厚で、声が柔らかい。

 ブランカはきっと、丁寧に扱われることだろう。

 ロボの意識は、そこで途絶えた。



     エピローグ



 結局その後、ロボはブランカの家族の元で、六年を生きた。

 山奥での初対面後。ロボとブランカは、老夫婦の手により町まで運ばれた。

 ロボが動物病院で治療を経て、退院した頃には、ブランカは裏庭に作られた墓の中にいた。

 ブランカ。シロと呼ばれていたらしい白猫は、ロボよりもずっと年上だった。

 普通の猫の平均寿命を超えて、体や記憶の障害に毎日を苦しめられるほどに。

 ロボから見ると、ブランカは小柄だ。更にブランカは服を着ていた。年齢や体調が分かり難くて当然だったと、ロボは思い返す。

 ロボは二人から、たくさんの写真を見せられた。そこには、ブランカとブランカの家族、今はロボの家族となっている老夫婦が写っていた。

 写真から幸せが伝わってくる。それらを見て、ロボはブランカの気持ちをより深く理解することができた。

 ブランカの飼い主は優しかった。そして、二人に悲しい思いをさせないためにと、山奥での自殺を選んだブランカの行動は、必然だと思えた。

 だが、本人が家族のためを考えてとった行動でも、家族はそれを望まないこともある。

 それをブランカとの経験で学んだロボは、老いた後も懸命に行き足掻いた。

 そして、長い闘病を経て、寿命を全うした今。

 ロボはブランカの隣に作られた墓に入れられようとしている。

「一生懸命生きてくれたのですね」

「ああ。しんどかったがな。おまえの分まで頑張ったよ」

 ブランカとロボは、墓の上で再会した。両者の近くには、抜け殻となったロボの頭を撫でながら別れを告げている老夫婦がいる。

「二人とも優しかったでしょう」

「ああ。最高だった。愛する人々より先に死ぬことがここまで無念だったとはな」

「私の気持ち、分かってくれました?」

「ああ。おまえは間違ってもいたし、正しくもあった」

 ロボの巨大な肉体に土がかけられていく。足と胸が隠れて、最後に頭が見えなくなった時、墓の上に花が供えられた。

 それと同時に、ロボの意識も薄れていく。

「来世でも、出会えたらいいな」

「そうですね。できれば私は、この二人を守れる存在になりたいです」

「俺のことも忘れるなよ」

「当然、忘れませんよ。決して」

 ロボとブランカは見つめあった。

 墓の前で手を合わせる老夫婦を眺めながら、ロボとブランカの魂は空を流れる光となり、やがて一つの流れになった。




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