冬の花に咲いた腐った真実(3)
夜更けにビールの缶を傾ける。コルクはあけていない。手に持ち、中身の液体を揺らして、重さを感じる。海の波をいじるようで、心地いい。たまに液体が跳ねた音がして、耳奥がこそばゆくなる。そして今度は畳の上に転がしてみる。今度はいったりきたりを繰り返す。その仕草が歪な人間っぽくて愛らしかった。
「ね、ナオヤ」
寝転がりながら缶を転がし、いじるの俺を彼女が背後からゆさゆさと転がす。まるで今転がされている缶になった気分だ。鬱陶しいし、冷たくも透き通る肌で触られると、お酒を酔った感覚に襲われて気分が悪くなる。幽霊に触れられると存在がぶれてしまい、視界も気分もぶれるらしい。視界が何十にも重なる。パラレルワールドを見ているみたいだ。
「聞いてる? 冬花さんのことなんだけど……」
「いかない」
「まだ何も言ってないんだけど」
「行ってどうするんだ。
もう大家さんは見えない。しかもトーカが待っているのはお父さんの方だ。何を言えっていうんだ。何をしろっていうんだよ。もう彼女にはお父さんを諦めて成仏するほかないんだよ」
冬の蠅を払う。それとともに、冬の花を枯らせる。そのままでいい。俺は関わりたくはない。
でも少女の凍えるような涙が俺の頬に落ちて、何も言えなくなった。間近にある彼女の顔がぐずぐずに崩れている。彼女も自覚がないのか、きゅっと口を引き締めてただ俺の瞳を覗いているだけだった。黒くぽっかりとした瞳の穴を見つめる。どこにも行けない空しさだけが彼女達、幽霊にはある。どうしようもないのに、どうにかしろと言ってくる。
「……わかったよ」
畳の上をころころと缶が転がっていく。みしみしと畳を唸らせる。そこに立つと畳が同じように俺の体重で歪むが、彼女の重さはない。
大家さんに見つからないように、こっそりとアパートを抜け出して、駅に向かう。最寄り駅のベンチがトーカの居場所だ。まだ成仏していなければ、まだそこで待っているはず。
駅にはまだまだ電車がやってくる。終電までは時間があった。駅のホームに立ち、こっそりとベンチを見る。赤いサビが蔓延っている、あと数年すればそのベンチは撤去される見た目をしている。そこに腰をおろし、横を見る。電車がやってくる。いくつもの窓の四角い電灯がベンチを彩る。それが止まった時に、数珠をしっかり握りしめ、息を吐く。
凍える声で、ぬくもりのある息を止めた。
「おい、まだそこにいるんだろ」
「女の子にそんな言い方ダメ」
少女はぷんぷんとする。
「別にいいだろ。幽霊なんだから」
するとぼやぁっとした光が横のベンチに集まり、固まって、形作った。土の汚れや、枝で切り裂かれたであろう傷がコートや肌にはついていた。夕方よりもそっちの方が死体っぽかった。
トーカの首筋から目をそらす。
「確かに女の子以前に私は幽霊だったわ」
また明るくトーカは笑った。額に浮かぶ汗が夜の蛍光灯に映えた。
「何しに来たの? おしゃべり?」
トーカはにやにやと俺達を見る。その瞳に映る俺達はひどく滑稽なのだろう。
「違う。お前、もう成仏しろよ」俺はそっぽを向く。
「そうだよ」と少女が乗ったが、すぐに「え」と俺に向き直った。
俺が吐きそうなのを我慢してここにいることを彼女たちは知らないだろう。俺がいつも大家さんの話を耐えながら聞いているのも知らない。
それは一見して単純な真実だけれど、知ってしまえばどっちも傷つくことになる。死んでまで辛いことに向き合うなんて考えただけで嫌になる。それを突き付ける俺自身に残るものもこのセーラー服の少女は考えないのだろうか。
「どういうこと?」
少女は頭をかしげて、空しいほど美しい黒髪を風になびかせた。
「いいんだよ。これで。何も言わずお前は成仏したほうがいい。もうあきらめた方がいい」
「そうじゃないじゃん」
「じゃあ、どういえばいい。
お前は失踪したことになっている。まだ母親が帰ってくるのを待っているっていえばいいのか。
それとも父親の方か。こうして待っているけれど、父親何て帰ってこねぇって。母親の見える力は悪霊化した父親が全て持っていって父親は消えたっていえばいいのか」
思ったことを全て漏らしていたことに気づいたのは、彼女の瞳から涙が枯れた時だった。潤んだ瞳にするすると涙が枯れていく。川は小川になって萎み、砂漠になっていく。また開けた虚無感の穴が双眼にともる。
ーーどういうこと?
途端に体が強い力で引かれる。俺の体の所有権が彼女達二人に乗り移る。
その最悪のタイミングで電車が来るアナウンスが鳴る。俺の体はいうことを聞かない。行きたくないのに、立ち上がる。
俺の中でトーカと少女が戦っているらしくあっちへいったりこっちへ来たりする。周囲の人は俺が酔っぱらいにでも見えたのか怪訝そうに見つめ、「駅員に教えた方がいいんじゃない?」と言い、群衆の中から一人だけ駅員を呼びに行った。
体だけが効かないだけで思考ははっきりとしていた。脳内でトーカが金切り声交じりに「教えろ」と叫ぶ。今までの思念の力を取り入れただけあって力が強い。だが数珠でなんとか制御できていた。だから意識は乗っ取られずにいる。
もう片方の少女はただただ泣いていた。しとしとと。そしてトーカと共鳴しあっている。とぎれとぎれに意識が飛ぶのはこいつのせいだ。
トーカだけだったらなんとかできる。いや、これまでなんとかしていた。思念の力がトーカに加わろうと、何にもせず放っていたのは、関わりたくなさと、ただ俺がトーカは何も知らずに逝ってほしかったというエゴにすぎないのだから。エゴを振りかざすだけの余裕があったのに。
ふらりふらりと意識を途切れさせたり戻ったりが続く。足取りが悪い。ホームを行ったり来たり。
――そうして気づけばホームの黄色い線の外側だ。
電車がやってくる。そこへ向かっている。その線の向こう側に行って、飛び出してはいけない。それなのに言うことをきかない。きいてくれない。何度も何度も叫ぶ彼女の声。それにけたたましくなるサイレンの音は、精神を削ってくる。そして、途切れた地面に足を踏み入れた。
瞬間圧迫された緊張感と霊達の追い打ちにより意識がはじけた。