冬の花に咲いた腐った真実(2)
ぼろアパートに戻ると、大家さんが呼び止めた。
「こんなに夜遅くにどうしたんですか?」
大家さんは少し小太りの初老のおばあさんだ。しかし、肌の張りも良く、年を聞かなければ初老だと判断はできない見た目をしている。よくドラマで見かけるおばちゃんみたいな気軽さがある人だ。そして祖母からのお墨付きをもらった唯一の人だった。つまりは、彼女も幽霊が見えた。
「まだ六時ですよ」
「そろそろ危ない時間帯ですよ」
「分かってます。できるだけ夜には出歩きません。きちんと守っています」
そう俺が言っている前でセーラー服の彼女はくるくると悪戯をしている。見えていないからって、大家さんの体を突き抜けたり、戻ってきたりしている。鬱陶しい蠅みたいに見えてきた。さしずめ冬だから『冬の蠅』だろうか。こいつらは確かに冬の蠅だ。彼らが傍にいると寒くなるし、力が強ければ危害が及ぶ。
早く成仏してくれないかな。
「まあ、そのスーパーの袋は?」
大家さんが指さした俺の手には、カップラーメンが入ったスーパーの袋が下げられていた。透けていて中身が丸見えだ。少女が背後でやいのやいのいうからポテトチップスとあたりめとビールが二缶もおまけに入っている。生のビールの味が知りたいと言うから少女セレクトのおつまみっぽいものと合わせて買わされたものだった。
「だめです。もっと栄養が高いものを食べないと。あなたのおばあさんもこれでは心配なされるわ。今から鍋をするから、そのビールも持って、ほら、こっちに上がって」
それよりも「おなべぇ~」と俺の耳元ではしゃぐ声がして、うるさかった。これもうるさい羽音と思うほかない。我慢して、ご厚意に甘えて大家さんの部屋にあがらせてもらった。
大家さんの部屋の中央には炬燵が敷かれていた。あとは鍋敷きと。そこへ、どーんっと鍋が置かれた。ぐつぐつ煮られた鍋の中には白菜、人参、ほうれん草、キャベツ、とありとあらゆる野菜が入っていて隅っこの方に追いやられた肉が丸まっていた。豆腐が鍋の埋まっていて、お玉を入れると小さく豆腐が顔をのぞかせた。全体的に緑だ。
確かに健康にいいけれど、男性としては物足りない。それでも少女は喜んでいる。また一層うるさく「これが他の家のお鍋ね」と珍しそうに聞いてきた。
「そうそうお鍋お鍋」
思わず言ってしまう。口を押えたが大家さんに見られた。にっこりと意味ありげに笑ってお箸を二膳渡された。
「そこにいるんですか」
「ばれちゃったじゃねぇか」
怒ると、少女頬を膨らませた。
「私のせいじゃないもーん」
「なんだそれ。お前、ただとりついているだけじゃ……」
「いるのね」
「は、い」
気まずいので、白状することにした。少女のことをいろいろ教えた。祖母の墓の近くにいたことや成仏するためにいろいろと注文をしてくること。炬燵に入って温まりながら、鍋をつつきながら、経緯を話す。魂の宴などは省きながら。
伝え終わると大家さんは目を細めて少女の方を見る。目を凝らしているがやはり見えないらしく、すぐにやめた。
鍋は既にさめてしまっている。残ったのはただの野菜の煮物だけだった。傍らには食べてもいないのに満腹そうに少女が炬燵で丸まっていた。やはり太ももの白さが目立つ。そして太ももから下は何も見えない。なにもないところに柔らかい炬燵の毛布が広がっている。
「見えません」
大家さんは悲しそうにつぶやいた。
「そりゃそうでしょ」
「昔は見えたんだ」
俺は少女にすかさず突っ込んだ。
俺だっていつ見えなくなるか分からない。もしかしたら見えない方がよかったのかもしれない。そうしたら目の前の少女にとりつかれなく済んだかもしれない。俺と幽霊たちの繫がりがなくなったら、未練をもつ幽霊もいなくなり、成仏する幽霊もいるかもしれない。
そう思う時だってある。
「そうね。昔は見えていました。たくさんのあなた達のような幽霊に出会って心を揺るがされたりしました。でも今は見えません。いっぺんに全部見えなくなったんです。夫も、娘の気持ちも。だから娘は家を出ていったきり、帰ってこないのですよ……」
この言葉の後に必ず大家さんは娘の名前を呟く。その親しみを込めて、俺も大家さんの娘のことをこう、読んでいた。
冬の花で、
「冬花」
「え、それって」
少女が驚く。
駅のベンチに寒そうに座っていた彼女の名前は、トーカだ。何度も聞いた名前で、写真を見せてもらったから知っていた。俺は最初からベンチにいつも座っていると知っていて、大家さんに一切教えていなかった。