しがらみを切るために
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
あ゛゛゛~……、疲れた。
グラミィあたりが聞いたら、骨のくせに疲れるのかとつっこまれそうな本音だな。
そしたら精神的疲労ってもんがあるんだと胸骨張って言い返しちゃうけど。
そのくらい、えらい密度の濃い一日だったんだから。
ルーチェットピラ魔術伯爵家トップ勢揃いの後は、魔術士隊との顔合わせがあったのだ。
しれっと伯爵家のお仕着せを着たアロイスが混じってたのには笑いそうになったけど。
護衛に紛れ込むための格好のまんまだったんだろうか、あのコスプレは。
当然のことながら、事前にアルベルトゥスくんには、仮面の上からフードをかぶって、あたしの背後にいるよう筆談でお願いしといた。
ついでにあたしの分の仮面もこっそり隠してもらって。
これならそっくりさんがもう一人、ではなく、もう一人魔術師がいた、ぐらいの認識になるだろう。
魔術師を隠すなら魔術師の中に隠せ、普通じゃない魔術師を隠すならもっと普通じゃない魔術師の後ろに隠せ、である。
久しぶりのアレクくんとベネットねいさんは、髪の毛をきっちり編んだり束ねて短くみせたりしているのもあって、いかにもなザ・平民という感じだった。
服装のせいもあるのかな。魔術士団の制服だという、ローブ姿じゃないってだけでも、ずいぶん印象って変わるもんだね。
その後ろについてた、がっちりした行商人風の男性は初めて見た。それはエレオノーラとドルシッラについてきてた女性もそうなんだけど。
いやー……、マジモンのメイドさんを初めて見た。と言ってももちろんフリル満載なエプロンなんぞしているわけではない。シンプルなドレススタイルの裾も長い。
きっちり結い上げた髪のせいか、目がキツく見える、ちょっとオバサ……いやいや、年配の女性だけどね。ってむしろこれはロッテンマイヤーさんか。
それで、なぜメイドさんと判断したかというと、エレオノーラとドルシッラの格好がいかにもな侍女風だったってこともある。
だけど、それ以上に彼女の動きがただもんじゃなかったのだ。
クラウスさんとタメはるくらいに静かで、いつどう動いたのかちゃんと見ていないとわからなくなるほどって、相当だと思う。
おまけに気配が薄い。別に魔力操作をしているわけでもなさそうなのに、ぴしっと背筋を伸ばして不動の姿勢を保ったとたんに、机や椅子なみの存在感になるってすげーや。
この二人が、どうやら魔術士隊の教育役だろう。アロイスが絡んでるってことは、暗部かな。
魔術士隊の面々が、二人が視界に入るたびにびくっとするって。
いったいどんなしごかれかたをしたんだろう?
心配だった四人の放出魔力も、おそるおそる確認したら、誓紙を焼いた後から王都でドナドナされてった時までの状態から変わっていなかった。
ということは、魔術士団に後がけで魔術的な束縛はかけられていないということになる。
これは朗報だった。
逆に言えば問題は心理的な束縛に絞られたと言える。つまり洗脳。
加えて言うと、今の彼らはまだ魔術士隊なのだよ。
身分的にもアロイスというか王子サマの意向を受けて魔術士団から出向してきた、ということになっているらしい。
魔術学院自体が学習=洗脳というカリキュラムを組んでいたのだ、その受け皿でもある魔術士団が忠誠心を高めるために、さらなる洗脳をやらかしてないわけがない。
しかも、彼らは下っ端だ。上層部のようにある程度世襲で固められていて、年功序列爵位順と決まっている地位じゃない。任務の出来不出来によって降格昇格というのはわりと頻繁に起きる階層なのだ。反逆が起きないようぎっちぎちに締め付けるってのもよくある話だったりする。
……そのわりにクビになる人間が少ないってのは、ぎりぎりまで魔術学院という設備投資費用の回収を狙ってるのか、それともまだ、かつてのジュラニツハスタとの戦いで損耗した戦力が回復していないからなんだろうか。
男性の場合はハゲたらそこでアウトという現実を知ると、魔術を悪用できない状態にまで絞って絞りきって、そこでようやく廃棄処分にしてるとしか見えないのだけども。
さて、ここで問題です。
今この状態で、彼らの忠誠心は洗脳によって養われたものだと素直に伝えたところで、彼らが信じるでしょうか?
答え。
魔術士団長からすれば潜在的仮想敵な騎士団長の配下から聞かされても誰が信じるか、ですよねー。
そんなわけで、魔術士団から彼らを精神的にひっぺがすには、いろいろやらかしてきてる彼らに――サージも含めれば自国の城砦一個ぶちこわしたのだ――賠償責任があるし、今後魔術士団内での昇進が見込めるわけがないよ、という客観的事実をぶつけるぐらいなものだ。
あと、この出向扱いって、要は飛ばされたってことだよね。つまり懲罰的人事じゃん、とか。
これくらいで魔術士団から見捨てられたと思い込んでくれればありがたいが、正直どこまで彼らの洗脳が進んでいるかはわかんない。盲信が過ぎたらどんな行動に出るかもまるでわかんないという、ないないづくしのお先真っ暗。
なので、彼らをこちらに引き留めておくに足りるものを与える必要が出てくる。落として引き上げて、もっぺん突き落とすというのは心を折るときにもやったけど、正直魔術師を無力化したり服従させたりするのは難しい。
例えば、騎士なら戦闘能力を左右する身体機能をどうにかすれば無力化できるんだけど、魔術師の無力化って、杖取り上げるだけじゃすまないんだよね。サージみたく魔喰ライになられたらこっちの安全が確保できないのだよ。
必要不可欠なのは、心を取ることだ。
このへんのことは、王猟地のお屋敷で、グラミィも交えてアーノセノウスさんたちともさんざん話し合ったことである。
お茶請けがわりにするにはヤな話ではあるが、そんな真面目な話でもないと、アーノセノウスさんてばとことんグラミィに冷たいんですもの。
だけどあたしとのスムーズな意思疎通にグラミィの代弁は欠かせない。会話に必須とあってアーノセノウスさんの冷視線もちょっとだけ抑えめになってたので、グラミィの精神的鍛錬としてはちょうどいい負荷になったんじゃないかと思う。
提示できるだろうという餌は二つに絞られた。
まず一つめはあたしだ。
特に、ベネットねいさんとアレクくんは、城砦にいたときからグラミィの魔術に関心を持ってたけど、骨がシルウェステルさんのものと知って、その興味はあたしにも分散されてた。ということはグラミィのいない今この状態ならば、興味をあたしに集中させることは簡単だろう。
エレオノーラとドルシッラも競争心に煽られてとはいえ、そこそこ食いついてはきていた。今ならもれなく魔術陣もいい餌になると思う。
そして二つめはアーノセノウスさんが言い出したことだが、ルーチェットピラ魔術伯爵家そのものだ。
エレオノーラとドルシッラは考え方も生き方も家に縛られている。その根は深い。短時間で洗脳を解くのは難しいだろう。
ならば、逆に洗脳を深めてやればいいんじゃないの?
ただし、強めるのは騎士団への忠誠じゃない。エクシペデンサ魔術副伯爵家という、かなり力を失っており、だからこそ矜恃だけは高いらしいおうちへの帰属意識だ。
魔術士団でのポカで、それ以上活躍の場は与えられそうにもない彼女らに、大貴族たるルーチェットピラ魔術伯の息がかかる、というのはいいことじゃないのか?とね。
聞いたときには貴族思考の怖さにちょっとあたしもヒいた。
だけど、とっても有効な手段ではある。
エクシペデンサ魔術副伯爵家がどう出るか、がこの策でのネックだが、クラウスさんとアーノセノウスさんによれば、ちょっと勢いのある魔術男爵家には格下扱いされそうな、わりと零落しきったおうちであるらしい。
そんな崖っぷち魔術副伯爵家なら、庶子とその乳母子である上に、魔術士団での失敗で家名に泥を塗ったようなエレオノーラとドルシッラに、王族ですら敬意を払う彩火伯の、もしくはルーチェットピラ魔術伯爵家の好意を買うという新たな活用方法を見いだすなら、多分速攻身柄を引き渡すでしょうとのことだった。
速攻突き出されるって。
居酒屋のやっすい突き出しじゃないんだからさ、彼女らも、と内心つっこんでしまった。
だけどそれだけ行動が読みやすい相手ならば話は楽だ。
もちろん、彼女らをワンセットでアーノセノウスさんなりマールティウスくんなりの愛妾に送り込もうと向こうが欲をかくのは勝手だが、それにアーノセノウスさんやマールティウスくんが応じてやるかどうかは彼らの勝手である。
別にエクシペデンサ魔術副伯爵家が、ルーチェットピラ魔術伯爵家という後ろ盾がつくと、錯覚しようがしまいが関係ない。
こちらは彼女たちをエクシペデンサ魔術副伯爵家から接触させない状態で、ゆっくり洗脳を解除しにかかればいいだけだ。
そうすれば、エクシペデンサ家にあたしのというか王子サマの策謀についての情報は流れないし、一通り物事が収まってしまえば、その後なら彼女たちは一介の魔術師として立つことができる。
これは、彼女たちにとってもチャンスなのだ。
ルーチェットピラ魔術伯爵家という後ろ盾が個人で取れるかどうか、価値を見せることができるものならやってみろ、というね。
ついでに言うならその後エクシペデンサ魔術副伯爵家と仲が悪くなろうが、よりを戻そうがあたしたちには関係がない。好きなように生きればよろしい。
完全に魔術士団からひっぺがしてからならば、王子サマの手駒の下っ端として使えなくもないだろうし。
そのあたりは、教育役の方々に監視……もとい、見守っていただければ大丈夫だろう。
あたしは魔力を確認した後は、基本黙って立ってただけだった。
けど、はっきり言ってアーノセノウスさんの口のうまさには、感心を通り越して呆れたね。
これが大貴族の政治能力の一つってことかもしれないけれど、魔術士隊の彼らがすっかり魔術士団を離れた方がメリットあるかも、ぐらいの顔つきになってるとね。どんだけ人たらしなのかとつっこみたくなる。
つか、あたしもいつアーノセノウスさんのどんな口車に乗せられるかわからんな。用心しよっと。
彼らが退室した後でアロイスともちょっとした打ち合わせをした。
アーノセノウスさんが言ってた、王子サマのもとへのお礼言上の使者もアロイスがやるんだそうな。コスプレ維持はそのせいか。
バレバレのような気もするが、こっちの情報伝達という意味では内容を理解していて戦闘能力の高い彼は最適だろう。
そしてそのまま原隊に復帰すると。こっちに顔を出すことはしばらくないそうな。
アロイスとカシアスのおっちゃんにとっては、それが復讐の始まり、ということになる。
彼らの復讐だから彼らがやるべきことだというのはわかってるけど、ちょっと心配ではある。
なので、がんばれ、という心を込めて書き込んだ筆談用紙を見せたら、感動のあまりか口元を押さえて肩をふるわせていた。
のぞき込んでた、魔術士隊教育役の人たちまでね。
その後は全員イイ笑顔になっていたから、きっと大丈夫なことだろう。
そしてあたしとアルベルトゥスくんは『ボニー』と『ウヌスラピス』と呼ばれることに決まり、もとのシルウェステルさんの部屋に放り込まれて終了、と。
……うーむ。
とっくに日は暮れて、今は灯りも何も消してしまっている部屋だが、すんごい調度ばっかりだってのはよくわかった。
寝室と居間で一部屋扱いだが、その広さたるや、1LDという表現じゃ追っつかない。単なる一般庶民枠なあたしの感性からすると少々落ち着かないくらいだ。
もとのシルウェステルさんの部屋をそのままにしていると言われたけれど、それにしては、生活感はゼロに近い。綺麗に片付けられていているとかってレベルじゃないよこれ。私物らしいものがほとんど見てとれないからだろうか。
机の中身とかいろいろ探ってみないとわかんないけど、これほんとに魔術学院から戻ってくることも、ほとんどなかったんじゃなかろうか。
よっぽどシルウェステルさん、アーノセノウスさんの兄バカっぷりに危機感抱いてたんだね……。
扉の向こうからはアルベルトゥスくんの寝息が聞こえてくる。
やっぱりというか、体力はまだリアルお子さまレベルのまんまか。
にしても、この世界に来てからこのかた、夜はたいてい一人で過ごすことが多かったから、隣室とはいえ扉越しに人の気配があるのはちょっと落ち着かない気がする。
人がいない方がなんか安心できるってのも、我ながらどうかと思うが。
そう、アーノセノウスさんは『隣室』って言ってたけど、アルベルトゥスくんが寝てるのは、あたしがいる、シルウェステルさんの部屋の『控えの間』なのだ。
……隣の部屋というより、ほぼ同じ部屋じゃねーか。
従者――名称としては、侍従とか、小姓になるのかな?
夜も主の間近に仕えるお付きの人が、いろんな用事をするために寝起きする付属の部屋にすぎないのだ、アルベルトゥスくんの部屋は。
ちらっと見せてもらったけど当然のようにこっちより狭かったんで、思わず交換しない?とアルベルトゥスくんに訊いてみたが、後ずさりで拒否されちゃいました。
あたしは眠れないから、ベッドを使わない。
なら、体力がただでさえ常人より少ないアルベルトゥスくんに良質な睡眠を取ってもらったほうが効率がいい。そう思って譲ろうと思ったんだけどなー。
しかたがないので、疲れてるアルベルトゥスくんを酷使したうえに驚かすという虐待をしてみた。
控えの間で結界を顕界してもらって、その中でベッドのマットに熱風を通し、殺虫殺菌のついでにふっこふこにしてやったのである。はっはっは。
……クラウスさんが飛んできて、つまんないことで魔術を使わないでくださいと、ぴっしり叱られましたけどね。はっはっは。
いや。もちろんあたしが無茶言ってるのはわかるんだけどね。
シルウェステルさんやってるあたしが、シルウェステルさんの自室にいないでどうすんだとか。
部屋を訪問する人間は必ず控えの間にいる従者に案内を頼むものらしいから、あたしの顔が万が一にでも見えちゃいかねんのはまずいだろとか。
ちなみに、シルウェステルさんの部屋も、廊下から直接つながっている。控えの間を通ることはまずない。従者のプライベートルームに近いからね。
そんなわけで、部屋の訪問者は控えの間の従者を呼び出す→従者は主人の居間に通じる扉から中に入り、来客を伝えて身支度などを手伝う→従者が主人の居間の扉を開け、廊下に待たせていた訪問者を請じ入れる、という手順を踏むものらしい。
でもそんな慣例に関係なく、クラウスさんてば控えの間に瞬間移動したかって勢いで入ってきて、みっちり叱ってくるんですもの。
……明日からは大人しく、アルベルトゥスくん用には、焼石でも頼んで作ってもらおう。布を撒いて身体を温めるのに使う、いわゆる温石ってやつだ。使い捨てない石カイロである。
なにせ石造りの建物じゃ、火の気のない部屋は冷え冷えに冷え込むそうなので。
タクススさんが布の巻き方とか熱のかけ方が上手だって、グラミィが言ってたな。そういや。
……どうしてるかな。今頃アダマスピカ副伯領に入ってるかな。ボロ出してないかな。いろいろ注意とかしといたけれども。
やべえ、数日しかたってないのにホームシックっていうか相棒シックですか自分。
こんなに心配性になると思わなかったよ。おおお落ち着け落ち着け。
まずは素数を大きい方から数え……って、無数にあるから無理だっつーの!
……あー、セルフボケツッコミも虚しいから、ちょっと頭を冷やしてこよっと。
あたしは音を立てないように、そっと廊下に足の骨を踏み出した。
可能な限り部屋を出ないでほしいとはクラウスさんにも言われたけれど、これは必要な行動の範囲内ですと主張しておきたい。
なにより、屋敷の構造がわかってないと困るしね。
緊急事態発生って時に人に言われて動かざるをえなくなるってのは一分一秒一瞬を争う場合に致命的だ。
構造解析の術式を顕界すれば一瞬でわかるのだろうけど、それやってシルウェステルさんが帰ってきたーって騒がれるのもイヤだし、またクラウスさんに折り目正しく叱られるのもイヤだしね。
後付けの理由をでっち上げはしたが、もちろん、奥棟の外には出ないし、一階にも降りない。
奥棟の一階は使用人もよく出入りする、屋敷のバックヤードである。あたし入り長櫃が運びこまれたのも、たぶんそこの裏口経由だったんだろう。よく見えなかったけど。
表棟は社交の場であるので、基本的にはいつ誰が来てもどんなアラも見せやしまへんで、という感じにぴっしりセットしてあるものらしい。
そのへんの事情に慣れたのは、王猟地のお屋敷体験のおかげだろう。
あそこも玄関ホールが吹き抜けだったり、麗々しく剥製の生首が――というとなんか言葉に矛盾を激しく感じるが――飾られてたしね。
そしてこれでもか!と広大なスペースを取るのが、贅沢という言葉を表現するのに必要不可欠なのかってくらいの大きさの、大広間兼晩餐室があって。
あれをアーノセノウスさんが『質実剛健』という言葉を使って褒めたのには驚いたっけ。言い換えれば質素、ってことでしょうがと。
なぜかというと、ティールームっぽいお部屋は、朝の軽食やお茶を摂るためのこじんまりした私室みたいなもので、ホントはそれ以外に応接室が複数あるのが当たり前だから、らしい。
二階以上は客室だらけだった王猟地のお屋敷とは違って、このお屋敷の奥棟の二階より上は、完全に一族のプライベートフロアって感じみたいだ。
家族の一人一人の部屋に加えて、バスルームとか書斎とか図書室がある、って感じなのかな。
ほいでもって、クラウスさんとプレシオくんが家宰として、表棟との境とか、使用人たちを監督できる位置にある部屋に住んで差配をしてる、と。
そっちには近づかないよ、うん。
フードを深く傾けたまま、二階の廊下をそっと歩く。
板戸で閉じられた左右の窓は、きっと天気の良い日は開け放たれて、明るい雰囲気になるのだろう。
いくつか部屋の前を通り過ぎるが、パッシヴソナー的に魔力を感知しても、人の気配はまるでない。
閉まってる部屋まで開けて確認しようとは思わないが。
……そういや、アーノセノウスさんやマールティウスくんてば、結婚してるのかな。
いや、マールティウスくんがいる以上はそのお母さんもいるはずなんだけど、この階に気配はなさそうだ。
うん、上階には行かないけど。
アーノセノウスさんたちが御家族を紹介したいと思えば、いつかはしてくれるだろうし、そもそもこっちは押しかけ居候状態の骨でございます。挨拶に押し込む意味がない。
……を?
廊下の突き当たりの扉が開いている。
イヤイヤ、いくら人の気配を感じない、開きっぱなしの部屋とはいえ、入る気はございませんよ?
興味はあるけどね。
ちょっとだけ、戸口からのぞくだけ。
んじゃ失礼して……。
戸の隙間からは、物置部屋のように見えた。
いくつか立てかけてあるのは、巨大な絵画だった。
これって、テンペラなのかな、それとも油絵なのかな?
油絵の具に使われるような乾くような油があるってことは、原理的には印刷インクが作れるってことになるのかなー?食べられる油だといろいろ使えそうだよなー。
……いや、現実逃避はよそう。
一番手前にこっち向いて立てかけてあるのは、家族の肖像画らしき、複数の人が写実的に描かれたものだった。
真ん中にいるのは髪の毛黒いし若い顔だけど、アーノセノウスさんだなこれ。
隣にいる若い女性は、ふくふくほっぺの赤ちゃんというか、美幼児を抱いていて、聖母子像のような笑みを浮かべている。
……みんな黒髪だね。
そして、アーノセノウスさんに肩へ手を置かれて、緊張した顔つきの、ふわふわ巻き毛の金髪に、青い目の男の子。
これは……。
「眠れないのですか?」
振り向くと、そこにはマールティウスくんが立っていた。
今のあたしに匂いはわからない。
だけど、上気したような顔色といい、目の血走り方といい、しっかり酔ってますね。いったいどんな酒を何杯飲んだのだか。
彼はあたしが何を見ていたのか見やると、納得したように頷いた。
「代替わりした際に、この絵は変えたのですよ。今は応接間にはわたしの代のものがかけてあります」
ご存じでしょうね、といわんばかりに言われてもなぁ。
……でも、これがアーノセノウスさんの家族、ってことは。
あたしはふくふくほっぺちゃんに指の骨を向けて、マールティウスくんを指してみた。
「ええ、わたしですよ」
つーことは、消去法で答えは一つに絞られる。
金髪巻き毛くんを指して、あたしを指してみると、当然という表情でマールティウスくんは頷いた。
……やっぱり、これが子どもの時のシルウェステルさんか。
合法ショタことアルベルトゥスくんより幼く見える、ってことは、十歳かそれよりもっと小さいか。
いやぁ、めっちゃかわええ。マジ天使。
こりゃあアーノセノウスさんがだだ甘おにーさんになっても不思議はないか。
にしても、黒髪一族の中で、一人だけ金髪ってことは。
……若い母親、の方なのかな。
「あー…、もし眠れないのでしたら、少々わたしにお付き合い願えませんか、おじ」
言葉が止まったのは、マールティウスくんの顔の前にあたしが人差し指の骨を立てて見せたからだ。
ちーがーうーでーしょ?
「そうでした、ボニーどの」
わかればよろしい。喜んでお付き合いしましょ。
頷いてみせるとマールティウスくんはふと視線を外した。
「クラウス」
「承知いたしました。マールティウスさまの部屋にお連れするのですね」
うお?
いいいいきなり背後から、返事が聞こえてくるとか。びっくりするんですけど。
魔力感知ができるこのあたしに気配を悟らせないとは。
やるな、クラウスさん。
「ですが、夜明け前にはお戻りなされますよう」
はい。ぶっとい釘いただきました。
ややふらふらしているマールティウスくんの後に続いて三階に上がると、……ああ、アーノセノウスさんの部屋もこっちなんだ。
「父にご用でも?」
いや。あたしは頭蓋骨を振ってみせた。
ちゃんときみに付き合うよ、マールティウスくん。
マールティウスくんの部屋には、プレシオくんが控えていた。
やっぱりあたしたちの存在を隠すのに、家宰と近習の二足のわらじ状態でしたか。
すでに酒器が二客用意されている、が、悪いな。添えられてた紙に書き書きと。
『すまないが、わたしは飲めない』
飲んでも床にこぼれるだけです。
「それは失礼をいたしました」
いや、それはどうでもいいけど。
マールティウスくんや、あたしにどんな用があるのかな?
あたしが素直についてきたのには、クラウスさんから聞いてたことで、マールティウスくんにちょっぴり同情心が湧いてたってのもある。
だけど、これまであたしが聞いているのはアーノセノウスさんやクラウスさんの話だけだ。
少なくともルーチェットピラ魔術伯爵家当主というほぼ同じ立場でありながら、マールティウスくんには違う意見があるならば、聞いとくべきだとも思ったってのもあるのだよ。
座るなり空にした酒杯をもてあそんでいたマールティウスくんは、思い切ったように顔を上げた。
「率直に申し上げましょう。なぜ、『現ルーチェットピラ魔術伯を頼る』とおっしゃったのですか?なにゆえ『マールティウスを』ではなかったのですか。わたしが当主でなくば、頼るにも値せぬ相手ということだったのでしょうか」
ああ……。
あたしの責任者、という肩書きを押しつければ少しは重石になるかと思ったんだけど、それじゃ足らなかったのか。
『他意はない。この身になって、記憶を失って、会ったのは二度目』
『現ルーチェットピラ魔術伯という身分は、クウィントゥス殿下にそなたを従わせる』
君の人格に信頼を置いてないわけじゃないの。
ただ、信頼関係を築くには時間が足りてないだけなのだよ。
その意味を汲んだのか、マールティウスくんは深く息を吐き出したようだった。
……まあ、頼りにしたいのが、その身分に保障されてる財力とか人脈ってこともあるのだけど、それは今わざわざ伝えるようなこっちゃない。
マールティウスくんは、基本的にすっごい生真面目な人なんだろうな。
そして努力することを知っている。
その一方で、自分に足りていないところがないかどうか、不安で不安でしょうがないんだろうな。そこが問題だ。
……アーノセノウスさんめ~。あの兄バカ、しっかり子育てに失敗してんじゃねーか!
『そなたは、優秀』
「……お世辞ですか。あなたの方が優秀でしょうに」
いや。お世辞でも嘘でもありません。
マールティウスくんは努力で才能を伸ばしていく、いわゆる秀才だとあたしは考えてる。決して凡人でも非才の人でもないのだよ。
ただ、周囲にいたのが規格外だったんだよね。
アーノセノウスさんは『彩火伯』と二つ名で呼ばれる火球の魔術師だ。その息子ということでマールティウスくんに大きなプレッシャーがあったのは間違いじゃない。
シルウェステルさんも、まあ、相当に優秀だったんだろうね。ぶっこわれ機能ローブの開発とかを見るだに。
でもね、きみはただの魔術師じゃない。魔術伯、なんだよ。
一介の魔術師のように誰かに使われるんじゃない。王族というさらに上の地位の存在に使われることはあっても、他の魔術師に対しては使う立場なのだ。それが天才であろうとなかろうと。
それに慣れなきゃいけないのだよ。これからも、天才というべき魔術師はどんどん出てくるのだろうし。
そのいい例がアルベルトゥスくんだ。彼は独自の発想があるから天才なんじゃない。これまでにない理論を打ち立てるだけの努力ができる天才だ。
だけど、彼らの力を引き出して、使えるのは、現ルーチェットピラ魔術伯爵家当主の、きみなんだ。
『今の我身は死者。可能な事より不可能が多い』
ええ、骸骨外見なあたしじゃ、何をどうやったってできないことが多すぎるんです。
『頼らせてくれ、マールティウス』
紙に目を落としていたマールティウスくんは、ゆっくりと酔いの抜けた顔をあたしに向けた。
「何をなさりたいのですか?わたしに求めることとは、何なのでしょうか?」
あたしは一言だけ返事を書いた。
『噂』
今のあたしにゃ、決してできないことだ。
裏サブタイトルは「マールティウスくん、くだを巻く」。
きっちり逆手に取られて、骨っ子に利用されそうです。
お酒はほどほどに。




