推断
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
「…………なぜ気づいたのか、聞いてもよいか?」
「理由はいくつかあるんだが」
ぽりと仮面を掻き、あたしはスツールに座り直した。
「一つ目は、あなたがあたしの自己定義を自分のそれに必要としたこと。さんざんあたしを訳のわからぬ自己犠牲に向かう者呼ばわりしてくれたが、そのあたしの存在定義を取り込んだということは、あなたもまた自己犠牲を行うつもりだということになる」
「そなたを反面教師にするとは思わなかったのか」
「そうは思えなかった。それが二つ目の理由だ」
あたしは頷いた。
「シルウェステル・ランシピウス上級導師。あなたは急激に概念汚染を起こしてるね。その『反面教師』という言葉がいい例だ」
あたしやグラミィは、星屑たちは、この世界の人と意思の疎通ができる。
マグヌス=オプスのように純粋な異世界転移者は、当初会話すらままならなかったというから、おそらく心話が使えたから、あるいはこの世界の人間の精神をコンバーター代わりにしていたからという理由で納得できる。ように見える。
たしかに心話なら集合的無意識というやつ、あるいは喜怒哀楽といった個人的な感情ぐらいなら通じて当然だ。けれどそれらはあくまでも言語化できない領域に留まるはずなのだ。
言語の壁をぶち抜き、無条件で意思の疎通ができるというのは、あきらかにおかしい。言葉とは世界認識の枠組みそのものなのだから。
心話は、たしかに使い勝手のいいコミュニケーションツールではある。
だが、その使い勝手が、あたしたち異世界人の世界認識を押しつけることで確保されてしまっているというのなら、話は変わってくる。それは異世界人の持つ世界認識や概念で、この世界の人々のそれを汚染しているのと同義だからだ。
それでも、星屑たちの言動の一部を、ククムさんたちこの世界の人は訳がわからないものと認識していた。
理解不能というのは理解を拒絶しているということだから、おそらくそれ以上の汚染はないだろう。
けれどもシルウェステルは、今のところあたしとの意思疎通に齟齬をきたしている様子はない。それどころか『蒼』という色の概念を含んでいないはずの『ビスマス』を『蒼鉛』と同義であると認識し、あたしが伝えたこともない『反面教師』という語彙を得てしまっている。
つまり、彼はすでにそれらの語彙が示す概念、つまりあたしの世界認識そのものを受容してしまっているのだ。ある意味、クルーシュチャ方程式の解法を見つけちゃったようなものですよこれ。
な~る~、きっとなる~、きっとニャル~。
もちろん、ニャルな危険性は、この世界を理解しつつある異世界人の方にも当然ある。だとしたら『反面教師』という言葉については、『悪い例』という言葉を、あたしが変換してしまっているのかもしれない。
が、あたしがこの世界の概念に汚染されるよりも、この世界の人間が、特に魔術師が異世界の概念に汚染される方がもっとまずいのだ。
「シルウェステル・ランシピウス上級導師。あなたも魔術師だ。概念汚染が生じた場合の危険性ぐらい認識しているのだろう。だが異世界人が魔術をどう捉えているか、理解しているかい?」
この世界における魔術とは、術者が世界の理に意思と魔力をもってわずかながらも干渉し、歪めることで、望む事象を顕界させるものだ。
つまり、求める事象という概念を具体的に描き、そのとおりにあるように万物のあり方をほんのりずらすもの。
だが、その術式が異世界の概念に汚染されてしまっていたなら?
術式がまったく顕界しなくなるくらいならば、まだ救いがあるというものだ。
「あたしのいた世界では、魔術や魔法は存在しないもの、という建前だったんだよね」
「建前?」
突然話題を変えたように思ったのだろう、シルウェステルはいぶかしげな顔になった。あたしはかまわず続けた。
「物理的にはありえない事象を発生させるもの。概念はあっても基本は神話やおとぎ話の中にしか存在しないもの。それがあたしのいた世界における、魔術や魔法の位置づけ。だから、疑似的にそれを実現してみせるまやかしの技術――奇術や手品が魔術や幻術と呼ばれてた。時代によっては同一視されてたともいうよ」
「なんだそれは」
シルウェステルは原始人でも見るような目になった。実際、あたしたちのいた魔力のない世界など、魔術師としてこの世界の魔術の理にどっぷり漬かってきた彼には、原始的にしか見えないだろう。
「占いや呪い、お呪いといったものはあったけれども、効力を持つものとはみなされなかった。でも、だからこそ、異常に魔術に対する期待値が高い」
「……それは、理論が飛躍していないだろうか」
「わけのわからないものなら、わけのわからない未知の力を持っていても何もおかしくはない。そういう理屈だよ。腕力とか武術の腕前とか、わかりやすいものでは到達できない領域のなんかすごいもの、それこそ奇跡と呼べるような力をいつでもどこでもお手軽に発揮できる万能な手段、ぐらいには考えられている」
「馬鹿馬鹿しい」
魔術学院上級導師の顔でシルウェステルは吐き捨てた。
「魔術は幻でも奇跡でもない。あくまでも人間の構築した技術の一つに過ぎん。注ぎ込める魔力にも顕界しうる事象にも限度がある」
「だよね」
あたしはうなずいた。
この世界の魔術についてはけっこう必死に学んだ。だから、彼ほどではないにせよ、多少は知っているつもりだ。
この世界の魔術は、常人には触れることもできない偉大な神秘でもなければ、単なる経験知の蓄積でもないことを。十分に実践を通じた検証が行われながら発展しつつある、論理的でなおかつ実用性の高い技術の一分野であるということを。
「だけど、事象は見方一つで意味を変える。――あたしの世界では、重さとは時空を歪めるものでもあった」
そして、その限界についても。
「なんだ、それは」
「ぶっちゃけあたしだって実感があるわけじゃない。ブラックホールの概念を知っていても、その引力が圧縮された超重量にあると理解していても、自分の身体が存在しているだけで、時空をわずかに歪めている、なんてずっと考えて生活していたわけじゃない。だけど、物事はあたしが認識している以上に複雑なものであり、終わりのない日常の続く世界は、あたしの知り得ないもので埋め尽くされている」
「…………」
「シルウェステル上級導師。あなたは落ちし星が、なぜこの世界へ落ちてくるか、彼らが膨大な魔力をなぜその身に纏っているのか、わけを知っているかな。……いや、そもそも落ちし星の存在を知っていたかな。あなたが落ちし星より生まれたことも」
シルウェステルは絶句した。
もちろん、概念汚染の危険性に気づいてから、あたしが手をこまねいていたわけじゃない。
「あたしは魔術について何も知らなかった。だからあなたも知ってのとおり、学院ではひたすら知識を蓄えることにした。新しい術式をいろんな理屈をこねて作り上げるのにその知識を使うのではなく、この世界にもともとあった術式の掘り起こしと、その組み合わせに試行錯誤するために使った」
幸い、森精たちから混沌録へのアクセス権限は得ていたから、そこからえた知識を組み合わせればそれで十分だったのだ。
複数条件をそれぞれ細かく設定して構築しているため、よそから見ればまるで新しい術式をぽこぽこ創り出しているように見えたかもしれないが。
「あたしが空を飛んだり海の上を歩いたりできるのも、ただの応用にすぎないし」
「……いや、そなたのやってのけたことは、わたしでもできないが」
「え、そう?たぶんちょっとした発想の転換でできることだと思うんだけど。あと思い切りとか」
そう言ったら、引きつった表情で彼は顔を横に振った。なんでやねん。
「……まあいいや。話を戻すけど、異世界人にとって、魔術は理想を現実にしてくれる方法だ。シルウェステル、あなたも体験したことはないかな。魔術に疎い騎士や平民が、魔術の一つで天候を変えたり、戦いを止めてしまうなど、状況を都合良く一変させてくれるよう期待してくることを。できぬと言えば途端に失望の罵声すら浴びせられるようなことを」
「…………」
「異世界人が望んでいるのは、それのもっと極端なものだと思えばいい。瀕死であろうが生きてさえいれば回復魔法で五体満足に戻れるとか。死んでいても蘇生魔法一発で全身無傷な状態で生き返るとか。戦場で星の彼方から隕石雨を降らせ、目の前の城壁を砕き、敵を全滅させても、術者とその味方はその衝撃波も、激しい隕石の雨に打ち付けられた大地から跳ね返る土砂や、強く打たれ飛んでくる岩石の欠片に当たることもない。まして宇宙から飛んできた隕石に含有されてるだろう放射能にも影響を受けないとか。世界の外から神々、あるいはそれに近い能力を持つ邪悪な者を召喚して、強制力なんてまったくなさげなただの人間の言葉に従わさせるとか」
ゲーム上の魔法の定義に当てはまるものに絞っただけでも、その荒唐無稽さがよくわかる。
ま、星屑たちのその妄想を壊さないように、あたしも彼らの前では行動に気をつけてましたが!
「そのような事態が起きかねないと」
「概念汚染が広まればね」
この世界の神は信仰の対象であって、神聖魔法とやらを行使する力の根源や、加護という名のバフを与えてくれる便利なものではない。
当然、ヘイゼルに喰われた魔喰ライの王コリュルスアウェッラーナ以外に、神に負けた邪神相当に当てはめられるような存在もいない。
けれど概念汚染が起こってしまえば、この世界に存在しなかった概念すらも持ち込まれることになる。
そこに落ちし星特有の膨大な魔力が無節操につぎ込まれたなら――鳥や蝙蝠の羽を生やした天使や悪魔といったテンプレ人外すら、召喚とかほざいて実体化させかねん。権能なぞも召喚者()の想像力の範疇にしかないから、どうせそのお人形にしかならないのだろうけれども。
「ラドゥーンたちがコリュルスアウェッラーナに魔力を注ぎ、甦らせたのも、概念汚染の結果ということになるのだろうか」
「詳しいことはあたしにもわからない。だけど召喚対象が術者の命令に従うなんてご都合主義を信じ込んだせいで、あんな真似をやらかしたのだとしたら……理由でもあり、結果でもあると言えるかもしれない」
「そなたが案じているのは、その先か。魔喰ライの王の復活以上の大惨事が起きるというのか」
「残念ながら」
あたしはうなずいた。
『万能の力』を言い換えると『望みを無制限かつ即座に叶えることができる力』ということになる。
「異世界人はあたしも含めて欲どおしい。安楽に生きられるためなら、喜んで苦労する連中だ。火のないところに水煙を立てるように、根拠のないところにトンデモ理論を打ち立てようとするくらいには」
異世界系作品の設定に、いわゆる生活魔法というやつがある。作品によってはフレーバー扱いされていることもあるらしいが、着火や飲水、清浄など、日常生活に必要だがとても面倒なことを簡単にすませてしまえるギミックとしてはごく当たり前の存在になっている。
これはかつてのファンタジー作品には存在しなかった傾向だろう。何せ煩わしいことは描写されなければないのと同じことにしてしまえるのだから。
それをわざわざ描くことで、たとえエセ中世ヨーロッパ的な世界であってもライフラインが張り巡らされ、電化製品に満ち溢れた現代日本レベル、いや一部はそれ以上にイージーモードな生活ができるようなイメージが構築されているが、実はこの生活魔法こそが、異世界における人間の行動方針をもっとも示しているように、あたしには思えてならない。
マッチの作り方はわからない。内政チートで試行錯誤するのがたるい。だから発火という生活魔術を作る。
蛇口から水が出てくるのが当然の生活をしていても、水を汲むのが重労働だということは理解している。だから浄水という生活魔術を作る。
つまり、魔術をどんな小さな事であれ、わずらわしさを消し去るもの、生活を安楽にさせるものとして、現実の、自分自身の世界にはなかった力があれば、そしてそれが自分に使えると理解したならば。
きっと、彼らは使うことをためらわない。『魔法使いの弟子』の寓話は、教訓にもならないのだろう。
それがどのような原理によるもので、どのような代償を支払わねばならぬものかも、考えることなく。
「だが、概念汚染を起こしてしまえば、魔術は暴走しかねないものとなる」
魔術が万能だと思い込んだ異世界人が、その概念を持ち込んでしまったら、そのとおりになりかねない。
けれど、そもそも万能というのは使いづらいものなのだ。『なんでもできる』は『なんでもしなければならない』でもあるのだから。
たとえば『火が欲しいな』と魔術師が思えば、術式を顕界する。それには発生させるべき火という事象の、大きさや温度、色などがきっちり定義されている。
それに対し、異世界人が魔術を、術式を顕界するのではなく、自分の考える『魔法』を使おうとしたなら。
あいまいな概念がそのまま現実のものになってしまった結果、マッチ一本程度の火を求めて、自分自身をナパーム弾直撃レベルの火力で焼き殺す、ということさえ起こりかねない。
概念汚染が広まれば、この世界の魔術師が行使する魔術もまた、そのようなものになりかねない。
ただでさえ術式の制御ミスによる魔術暴発や、魔力の制御ミスによる魔力暴発といった問題があるのがこの世界の魔術なのだ。下手をすれば魔術師そのものが、いや魔術という技術そのものが危険視されかねない。為政者の中には封印抹消という方向へ傾く者も出るだろう。
もしそうなれば、パルたちのように生まれつき魔力暴走を起こしやすい子どもたち、罪の子の虐殺や、膨大な魔力を持つ落ちし星たちへの対抗手段の喪失にもつながりかねない。
ならば、そのような事態が発生する前に、概念汚染が広まる前に、その根源を隔離または抹消すればいい。
感染症の対策と原理はいっしょだ。
「幸いにも、ここ闇黒月の中へと概念汚染源の隔離が終わっているのだから、これ以上他の人間と接触さえしなければ。自己犠牲ありきで考えるのならば、それがたしかに効率的だろうとね」
「いかにも、そのとおりだ」
「加えて三つ目が、身体の問題。あたしも、あなたも、今の身体は生まれついて持っていた生身じゃない。――さてそこで質問だ。シルウェステル・ランシピウス。あなたはなぜ、そんな少年の姿をしている?」
「……なるほど。結論は目の前にあったというわけか」
苦笑いしながら、彼はおのれの頬に手を当てた。
ここ闇黒月はテールム世界から一歩遠く、そのぶん他の世界により近い、世界の狭間ともいうべきところにある。
そのせいだろう、魔術は行使しやすく、相対的に物理的制約が緩い。
物理的な身体をほぼ持たない今のあたしやシルウェステルが、それでも生身とほぼ遜色ないレベルではっきりと存在できるのはそのためだろう。
しかし、物理的制約が緩いということは、自我のあり方を保障してくれるものがないということでもある。
水は方円の器に従い、氷は器の形に凝固する。
同様に人のセルフイメージは自分自身の物理的なあり方――一番手っ取り早いのが自分の身体だ――を元にして構築されるため、基本人間系の範疇にとどまる。
いくら異形スキーな人であっても、四足歩行得意ですと言わんばかりなケンタウロス体型だの、右手が三本あるだの、はたまた触手の塊だのといったものにはならない。だろう。たぶん。
とは言っても、外界と精神を隔絶する人間としての基本形だの、知覚系だの以外の部分――他者との関係性や承認欲求といった心性と強く関連する容貌などは、理想やその裏返しである劣等感などがこね合わされ、現実とは大きく外れた形に構築されたりもする。
おそらくはヘイゼルも。彼女があの全身口だらけという異形になった理由の一つもそれなのかもしれない。
一方、今のシルウェステルの見た目年齢はローティーンと言ってもいい。が、彼の享年は44だ。この世界じゃ初老の域に突入しかけのお年頃ですよ。
だのに、彼のセルフイメージがそのあたりで成長を止めてしまっているということは。
おそらくだが、そのくらいの時期になんらかのトラウマなどを受けたんだろう。……なんだろうね。この立体人型バウムテストは。
かくいうあたしの身体も、腕や指を見る限り、最後に肉眼で見た自分の身体とは明らかにかけ離れたものになっているのだが、これはグラミィたちへのわかりやすい見せ方というので意図的に選んだ昔の自分の姿だ。
鏡で顔を見たわけではないから確定はできないけれども、その認識はできている。
だからためしに左手に意識を集中してみれば――うん、小指だけ変化させることもできるね。
「あたしはこの状態を概念体ととりあえず呼んでいるが、幽霊でも亡霊でもまあ好きなように呼称すればいいと思う。いずれにしても、このかりそめの身体は生身より不安定だ。だから、持ち主の自己認識に大きく左右されているんだろう」
目を上げてあたしは問うた。
「シルウェステル・ランシピウス。あなたは肉の身を失ったとき、自己認識に変化を感じはしなかったか?またその経過から、進行について予測を立てはしなかったか?」
あたしは立てた。
もとの身体を失い、魔力知覚能力だの魔力操作能力だの、生身ではありえなかった感覚が生えた時に。
お骨な身体の関節には靱帯も何もなく、物理的にはばらばらだから、無茶をしようと思えばどの関節でもほぼ全方位への回転や移動ができると知ってしまった時に。
それを悪用すれば、人型とは呼べない姿にもなれてしまうと知った時に。
セルフイメージの変質。それは、自我の変容、あるいは拡散や消滅にもつながる。
今はまだいい。いくら実体とセルフイメージの間に乖離があったとしても、もともとの身体が物理法則に従っていたのだから、セルフイメージもわざわざ今の人型を崩してみようなどというような無茶なことをしなければ、慣れ親しんだ法則を常識として、無意識の線引き材料とする。
だけど、内面と外界を隔てる肉の殻もなく、いつまでこの状態を安定して保つことができるのだろうか?
何度も繰り返すようだが、人間の自我なんてものは、容器から出した氷どころかとろとろ生プリンよりもはるかに脆弱だ。
良心も、献身も、親愛も、あっと言う間に削り取られ、溶け去り、やがてただのシミとなるばかり。
オカルト系の与太話にもよくあるパターンだよね。事故に遭って死亡したということが認識できない地縛霊が、だんだん人間としての自我が欠けていくことで、同類を増やすための悪霊になってしまい、死のカーブだの呪われた家だの部屋だのを作り出す原因になる、という顛末は。
物理的依存度皆無に近い今のあたしにとって、完全な消滅は死と同義であり、ある意味救いでもあるだろう。
だが、その過程において己を見失い、ジャパニーズホラーによくある人とは呼べない存在、負の感情の塊的な怨霊というやつに成り果て、理不尽な災厄を無関係な相手にまで撒き散らす迷惑源となるのは――少なくとも、あたしはごめんだ。
「あなたも理論的に考えたなら、こうも思ったんじゃないのかな?――『ヘイゼルのようにはなりたくない』と」
「つまり、そなたもそう考えていたということか」
シルウェステルは、はっきりと眉をしかめた。
そう、ヘイゼルが平行世界の自分自身を喰らい、グラミィやあたしまで取り込もうとしたのも、イニフィティアヌスへ飽くなき執着を示していたのも、単なる魔力の消耗による飢餓だけでなく、自我を保つことができなくなり失調を起こしていたからではないかとあたしは推測している。
狂いつつある、消滅しつつあると理解したからこそ、かつての自分を外側から補強してくれていた溺愛を、自分自身のかたちを取り込むことで抗おうとしたのではないかと。
わざわざ犠牲者を恐怖に染めていたのは、単なる嗜好の問題か、それとも死にたくないという思いや絶望一色に染まった心でないと同一化しづらいとった理由があったからなのかはわからないが。
……そうでもなければ、自分自身であったかもしれないものがそう簡単に人喰いに堕しているはずがない。というか、そうであってほしい、というのは身勝手な思いというやつだろう。
が、彼女を消滅に追い込みながらも、あたしが彼女を憎みきれずにいるのは、そのせいもある。ああはなりたくないとも思うけれども。
「たしかに今のわたしは、そなたの言うように不安定だ」
「執拗にあたしの存在定義を求めたのは、それを堰き止めようとしたから?」
「そのためでもある。――そなたの言い方にあわせるならば」
ヘイゼルだけじゃない。シルウェステルは――彼もまたあたしの古傷を抉り、吐きそうにすらなりながらも、自己犠牲の中身を見たがった。
あたしがどのように自己を確立し、どのようなものとしてそれを認識し、定義してきたか、いかなる経緯で固着を生じたかを知ることで、自分のそれを保つために。
「だがそなたのおかげで、わたしが狂うまで、猶予は多少なりとも稼げた。――だから、わたしが狂いきる前に、そなたはここから出て行くといい。できるのだろう?」
シルウェステルは疲れたように息を吐いた。
「半身たる少女を送り返したように、そなたは外界への繋がりを知っている。それは、わたしには得られぬものだ」
「これのことかな?」
あたしは自分のうなじに触れた。
非実在を実在と同等と考え、観測すれば、うなじから生えたそれは極太の綱のように見えただろう。
闇黒月の探索をしながらあたしがよりまとめた、ほとんど透き通って見える白銀の魂の緒は。
「そうだ。――そなたも狂ったわたしと殺し合い、喰らい合うことは望んでいないだろう?」
「そこは同意する。だけど」
あたしは苦笑しつつも両手でシルバーコードを撫で――力を込めて引っ張った。
途端、痛みが爆発した。
「――ぅっ」
ぶぢぶぢといういやな手応え。髪をつかんで引きずり回された時のような、しかしそれとは比べものにならないほどはるかに鋭い痛みに視界が白く染まってゆく。
意識すらバラバラに切り刻まれているような、それはあたしという人間を定義してきた世界からの剥離によるダメージだ。
けれどもシルバーコードがうなじから引きちぎれるまで、あたしは手を緩めなかった。
「……っつ、ふぅっ。さすがにきついね。こりゃ」
「なにを、馬鹿なことを!」
唖然としていたシルウェステルは、ぼろぼろと崩れるシルバーコードとあたしの顔に、おろおろと視線をさまよわせた。
「そなた、何をしたのかわかっているのか!」
「賢い人間がやらないことさ」
即答すれば、さすがにシルウェステルは二の句も継げないようだった。
だがあたしはこの世界で、自分自身の自由意志と感情で動いてきた。だから今回もそうしただけにすぎない。
あたしは少年に笑いかけた。
「シルウェステル。あたしはもといた世界に戻るつもりはない。最初っから、戻れる可能性がほとんどないだろうと諦めてたこともあるけど」
「だ、だが、戻らねば」
「むこうの世界での、あたしの死が確定するだろね。それがどうした」
少年は再び絶句した。
……ああ、そこまでは知らなかったのか。




