蒼鉛
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
「……とまあ、『獅子を脅す者』というのは半分勘違いからつけられたようなもので。『煽動者』って呼び名の方が経緯としては正しいと思うんだけど……具合が悪そうだね?」
「……いや。大事ない」
「いやいやいやいや。その状態で大丈夫なわけないでしょ」
主に顔色が。
「取りあえず座ってなさい。ほら」
「……感謝する」
寝椅子を顕界してやると、シルウェステルはすぐさま崩れ落ちるように腰を下ろした。どうやら限界ぎりぎりだったらしい。
ただ、薄暗い地面に、何の脈絡もなくぽんと置くもんじゃないねこれ。とっさにイメージしてしまったものがいわゆる失神椅子とかいうやつだったせいもあって、素材が石でも実にシュールな光景だ。
「だから最初に、本当に聞くかどうか確認したんだけどな……」
話を進めるにつれ、シルウェステルはどんどんと青ざめてきていた。いくら享年いくつか知っていても、年端もいかぬ外見の子が口を押さえてぐったりしてるんですもの。いくらなんでも心配しますとも。それは。
言葉で伝えるだけにして情報を絞った上、なおかつ婉曲表現でたっぷりぼかしたはずなのに、こうもあっさりダメージが貫通するとは。警告でできる程度の心構えじゃ足りなかったっていうことか。
こうなると、あたしの話が――あたしがどんな経験をしてきたか、彼の予測以上だったってのはしょうがなかったとしても、ヘイゼルにやったような対応しなくて正解だったな。
あたし視点での経験や感情を精神直結して流し込むなんて真似してたら、下手をしなくても発狂してたかもしんない。
「少し、このまま休憩を挟もう」
声を掛ければびくりと薄い肩がはねた。
「それは、これ以上話さぬということか?」
「いや」
あたしはかぶりをふった。
ここまであたしの古傷に彼が執着する理由は、なんとなくではあるが理解できている。
「隠すつもりなら最初から話などしないさ。あたしはあなたが求めることを隠さずすべて伝えると決めた。だからこれは単純に落ち着くための時間だ。――もっとも、これ以上聞きたくないというなら止めるが」
「そうか。――感謝する」
ぐたりと力を抜いたシルウェステル・ランシピウスは、ずるずると身を倒した。
横にもなれるようにと寝椅子型にしておいて、正解だったか。
そういえば精神分析で有名な学者だかは治療の際に、たしか自由連装砲……もとい、自由連想法とかいうものを使うのに、こんな寝椅子に患者を寝かせていたんだったけか。
要はリラックスできる環境を与えようということなんだろうな。
だったら、言葉でも少し緩めてやろう。
「別にこれはどうしても受けねばならぬ苦行でもなんでもない。昔話だよ。ただの」
「……わたしにとっては意味のある試練だ」
だからそうじゃないんだけどな。あたしの古傷にどんだけ価値を見いだしてるのか知らないが、昔あたしを襲ってきた連中みたいに引きつった顔で言い張られても、ちょっと困る。
……あの輪姦犯罪者集団ときたら、あたしを裸に剥いた瞬間、向こうの方がチェーンソー構えた殺人者にロックオンされた被害者みたいな顔になったんだよなあ。
そりゃあ傷だらけの身体にどんびきしたんだろうなとは思うけど。一斉に手を引っ込め、後ずさりしながら、被害者のあたしから、必死のダッシュで逃げ出すとか。ギャグか貴様ら。
虐殺やレイプはやったことがあっても、殺人や死体損壊に興奮するような性癖じゃなかったというだけなのか、それとも平和ボケしているのがデフォな日本人に、そんな疵があるとか思ってもみなかったせいなのか。
にしても、無傷の相手でないと萎えるってのはなんなんだろね。あたしにこれから何をやろうとしていたのかと、そのよわよわメンタルぶりを小一時間問い詰めたい気分になったものだ。いやまあ疵に怯まず無駄に根性見せられても困るけどさ。
あとおかげで助かったとはいえ、あたしに傷を負わせた相手に感謝など欠片もする気にはならなかった。当然だけど。
むしろねちねちと追撃したい意欲倍増になりましたけど。輪姦犯たちのがまだ良識持ってそうとかなんだよと。
いや、あんなどうしょもない連中のことはいいとして。
あたしはローブを脱いで彼の上に放ってやると、適当なスツールを顕界して腰を下ろした。
「話はできそうかい?」
「少しは」
「なら、あなたがシルウェステル・ランシピウスとして生きて、この世界で何を見てきたか教えてくれないかな」
何も考えないようにして安静にしていた方が回復はするのだろう。
けれど、外部からの刺激を断ってしまうと、受け入れたばかりの情報に思考が埋め尽くされてしまうというのはよくあることだ。この場合は、そのぶん回復が遅れるということでもある。
ならば、別のミッションに集中させればいい。
「……わたしのことを話せと?」
「無理強いはしない。あたしの話と同じさ。喋ろうが、喋るまいが、途中で止めようがかまわない」
「そうか」
少年姿のシルウェステルは、寝返りをうつと、ローブに顔を隠した。
彼に『話をさせる』ことには、他にも理由がある。
一つは相互理解。
正直彼と意思の疎通ができるようになったのはごく最近で、しかも筆談しかなかったせいで、会話に比べ同じ時間で伝達できる情報量なんてものは限られている。
いきおい、個人的な感情のやりとりなんてごく最少限で、意見のすりあわせに必要な事務連絡的なものが中心とならざるをえなかった。
だからこれはいい機会なのだ。彼が何をどう捉え、何を考えているどのような人物なのかさらに理解するためには。
もう一つの理由は、彼をより安定させるため。
彼の生い立ちを知り、魔術学院の研究室などもいろいろ見て回っているから、彼がどういう人物であったか、多少ならすでにわかってるつもりだ。
あたしを自己犠牲前提の行動すら強行する意味不明なやつ呼ばわりしてくれた彼だが、実はある意味同類なんだろうってこともだ。
彼がアーノセノウスさんに開発した『延伸』の魔術を提供したり、ルーチェットピラ魔術伯家のために立ち回ったりしていたのは、忠誠というよりも取引だ。
これだけの利益をもたらせるのだから、庇護をくれと。
別にそれは悪いことじゃない。むしろビジネスライクな関係としてはわかりやすくすらある。
だけど、人は人間関係に感情を、承認欲求をからめてしまうものだ。
愛するから、愛してくれ。
お金をあげるから、仲間に入れてくれ、友達になってくれ。
それはむこうの世界ですら、よく見かけるものだった。
結果、どんなに名目上とはいえ平等であるはずの人間関係に、支配と服従が生じる。スクールカーストからパワハラモラハラを甘受する家族関係まで、本当にありふれたものだった。
同様のゆがみを抱えているシルウェステルにとって、おそらくあたしだけが話をし、古傷をさらしているこの状況というのは、彼自身が要求をつきつけ、あたしが対価として差し出したものだとしても、おそらくかなり居心地が悪いはずだ。
だが、それが天秤の均衡が崩れたせいというならば、直せばいいだけのこと。
「そなたや吟遊詩人のようにうまくは話せぬが」
そう前置きして彼が語ったことは、いろんな情報を裏打ちするものではあったけれども、未知のものはあまりなかった。
だけど、彼の視点から語られることに意味があるのだ。これは。
イニフィティアヌスの手記というか、遺書はあたしも読んだから、彼が両親に望まれた子ではなかったことは知っていた。ただ、国がその存在を求めたのは、力ある魔術師を得ようというのではなく、むしろ国際政治の生贄要員としてだと彼が思っていたというのは知らなかったしね。
そりゃ歪むわ。諦めもするわな、いろいろと。
つとめて客観的に、情報だけを語ろうとするのを、あたしは黙ったまま聞いていた。
すると、不意にシルウェステルが笑った気配がした。
「どうした?」
「いや」
のぞき込むと、寝返りを打った少年はローブから顔を覗かせた。
「今さらのように感じただけだ。――わたしは、恵まれていたのだなと」
「それは否定しない」
即答してやると、彼は微妙に不満げな顔になった。否定してほしかったんかい。
人間の幸と不幸は、その圧倒的大部分が相互比較でできている。誰もが他者に比べて足りてはいない不満にばかり意識を向ける。
他人の不幸は蜜の味。言い換えれば、他人の幸福は苦汁の味ということになる。誰かを妬み誰かに嫉まれることで成立する相対評価は、己の中で基準を満たしているか否かで成立する個人内評価とこね回されて、いっそう複雑怪奇なものとなる。
しかし、人は、己が満ち足りていることに意識を向けることはほとんどない。
大地がその身を支えていること、二本足で立てるようになるまで支えてくれたものがあることすら意識せず、人間が自分の足だけで立っているように勘違いしてしまいがちなように。『故郷亡き者』がどの口で言うかって話でもあるけれども。
だけど、今は、シルウェステルにこう言おう。
「あなたが不幸だと感じていたことまでは、否定できないことなんだろう?ならばそれはあなたにとって唯一無二の真実だろうさ」
利益とのバーターで人間関係を構築してきた彼にとって、人を信頼すること、信頼されていると感じることは難しいだろう。信用することされることはあってもだ。
その彼に、それでも信じてもらうためには、言葉を惜しんではならないのだ。
「だから、あたしは当然のことしか言えない。『あなたはよくがんばってきた』と」
「……。そうか……」
一言を発した後、シルウェステルは、また頭からローブをすっぽりとかぶったまま、動こうとはしなかった。だがしばらくして起き上がった時には、いくぶんすっきりとした顔をしていた。
「もういいのか」
「大丈夫だ。世話をかけた。――そなたのことを、さらに聞いてもいいか」
「では、そうだな。『イチイの実』について話そうか」
「願おう」
「イチイというのは、この世界に似たようなものがあるかは知らないが、樹木の一種だ。赤くて甘い実をつけるのだが、ちょっと変わった形をしている」
この闇黒月の中であれば、魔術で形作らずとも、イメージをそのまま形にして他者に伝えることは、とてもたやすいのだろう。
だが、あたしはあえて言葉を――言葉だけを使い続けた。
「逆さになった杯のような、その内側の壁から、黒い種がつきだしているのさ」
「なるほど。確かに変わった形だな」
「で、毒だ」
「……いや、先ほど実は甘いと言ってはいなかったか?」
「実はね」
あたしは頷いた。
「けれど、その種が毒なんだ」
「……なるほど。『イチイの種』ではなく、『イチイの実』というところに、意味があるのだな」
さすがにシルウェステルは鋭い。
「命名者いわく、『正面からあっさり腹を割るくせに、その腹の中身が真っ黒で毒のあるところがそっくり』だから、とさ」
少年は吹き出した。
「いや、失礼。だがなかなか愉快な御仁だな」
「確かに。あたしもお返しに『シャムロックマン』とつけてやったよ。嫌がられたけどね。センスがないとさ」
まんまじゃないかと言われたのは黙っておく。
「シャムロックというのも樹木なのか」
「いや、草だ。三つ葉の……まあ、牧草の一種と思ってもらえればいい」
「……毒ではないのか」
あたしの同類とでも思っていたのだろう。拍子抜けしたような表情にあたしは笑った。
「ちゃんとしたやつをつけなおしてくれ、そしたら『イチイの実』じゃないのにしてやるというから、『妖精の目』というのに変えてやったら、えらく気に入ってたみたいだ。そしておかえしに『蒼鉛』に変えられたというわけさ」
「妖精というのは、どういうものだろうか」
この世界にはいないもんな、妖精とか精霊とか。
「そうだな。簡単に言うなら人外の存在だ」
「……星と共に歩む者のようにか」
なるほど。やはりこの世界において、森精たちは人からかけ離れた存在なのか。
それでいい。
「そうだな、彼らよりもっと人から離れた、別の次元に住む存在だと考えてほしい。たぶんだいたいそれであってる」
あたしは目を細めた。妙に命名者の風貌が思い出されてならなかった。数十年絶えてなかったことだったが。
「鋭く、人の見づらい本質を突くやつだったよ。――だが正直失敗だった。あの名付けは」
「なぜ。喜ばれたのだろう?」
「その時はね」
あたしは視線を落とした。
「ぜんぜん思い出しもしなかったが、おとぎ話にあったんだよ。うっかり妖精の視力を手に入れてしまった人間の末路ってやつが、はっきりとね。――妖精の視力ごと、もともとあったその目の視力も奪われた、と」
「…………」
「そして、伝承は繰り返された」
あたしに『蒼鉛』の名を残して。
「……『蒼鉛』とはなんだ」
「鉱物の名前だよ。イチイ同様、こっちの世界じゃもともと存在しないか、それとも見つかってないだけかもしれないが、柔らかくて脆い、くすんだ銀色の金属だ」
「銀色?蒼じゃないのか」
「……ほんとにこの意思の疎通はいったいどこの言語ベースで成立してるんだろうね……」
わけがわからないとでも言いたそうなシルウェステルの表情に、つい苦笑が滲んだ。その途端余計不満そうになった顔に笑みを返しながら、あたしはひそかに慄然としていた。
これまで、あたしは『蒼鉛』を『ビスマス』と発音しているつもりでいた。
そして、ビスマスというラテン語に『蒼』の要素は入っていない。
では、どこで、シルウェステルは『ビスマス』が『蒼い』と知ったのだろう?
「はぐらかす気はないと聞いたはずだが」
「ああ。――簡単に言うと、水面に落とした油が虹色に光るようなものだ。ある一定の条件を満たしてやると、蒼鉛はあんな感じで青みがかった虹色に光るのさ」
「ずいぶんと、その、鮮やかな色合いなのだな」
「派手とはっきり言ってもいいよ。……『蒼鉛』には特徴がまだあってね。溶かして固めると独特な形に結晶化する。その色と複雑な形を愛でる者もいるくらいだ」
「そちらが理由か。そなたの呼び名の」
「いや。別の特徴のせいさ」
あたしの笑みはとてつもなく苦いものになった。
「その化合物は胃腸薬や化粧品にも使われるんだそうな。――ただし、とある処理をすると、ごく微量で万単位の人を殺せる猛毒になる」
「…………」
「彼曰く『ほっときゃ毒になるより薬となるが、下手な手出しは厳禁の危険物』らしいよ。あたしは」
「それはまた」
シルウェステルは見た目相応の表情を消し、真顔で言った。
「よい評価をもらったものだな」
「皮肉かな?」
「いや。――つまるところ、その『蒼鉛』も『イチイの実』とやらも、体内に入れねば毒として人を害することはないものなのだろう?」
「……毒である以上、そうだろうね」
「下手な手出しさえしなければ、無害、どころか薬となる、つまり優秀有益な人物。――よく見える目を持っておられた御仁は、そうそなたを評価していたのではないか?」
「……は」
あたしは愕然と少年の顔を見返した。
「御仁がそなたとどのような間柄であったかは知らぬ。しかし、敵ではなかったのだろう?むしろ味方、同輩、――そのような者ではなかったのかな?」
「なぜ、そのように?」
「『ほうっておけば』と言ったな。『手出しをしてきた』であろうそなたの敵であれば、結局理解しえなかったことだろうな。だが、味方であれば十分理解することができよう」
「…………」
「いま一つ言うならば、毒である以上、相手の体内へ取り込まれねば、その効力は発揮されぬものだ。――その目のいい御仁は、そなたが敵陣に突入せんとする、自己犠牲ありきのやりかたに苦言を呈していたのではないか?」
「……耳に胼胝ができるほど言われたね。自分の身も大事にしろとは」
あたしは笑った。笑うしかなかった。
強引な手法に文句が出るのは、負担が大きいと思うからだ。ならば誰よりももっとも負担が大きいとわかる役をやれば文句は言わせない。
そう考えての独断専行癖は……ああ、どうやら、この世界でもしっかり残っていたようだ。
だが、これは自己犠牲ではない。他人を犠牲にして生きてきた、得手勝手な罪滅ぼし以外の何ものでもない。
だからあたしは、自ら抉った傷口を押さえながらも、シルウェステル・ランシピウスから目を離しはしない。
「あたしじゃ届かぬ視点からの見方をありがとう。……それで。あなたの定義づけはできたのかい?」
どんなに他者の定義を求めたって、自己認識の最後の最後は自分で定めねばならない。
「ああ」
即答はしかし、水面の月のような表情に裏切られたままだった。
……まったく、外見詐欺とわかっていても、こうも少年めいた危うさを見てしまうと、ついついいらぬ世話を焼きたくなってしょうがない。
完全には詐欺じゃないとわかっているから、なおさらだ。
「では、あなたは、その定義づけをどう使う気かな?」
シルウェステルは、びくりとあたしを見返した。
「……気づいていたのか」
「それくらいはね」
あたしもまた、彼を見返した。
「シルウェステル・ランシピウス。あなたが狂い、人として在れなくなり、おのれが消滅することすら覚悟していることぐらいは」
イチイの種の毒は、『ハムレット』の冒頭で、叔父クローディアスが父王を毒殺するのに使ったものとして出てきます。
「庭園でうたた寝してたら耳の中に毒を注ぎ込まれて脳が煮えたぎって死にましたー、だから仇を取ってくれー(意訳)」と訴える父王の亡霊に復讐を託されたハムレット王子……という筋立て。
ビスマスは中性子線を当てると、ポロニウムという放射性元素になるそうです。
どちらもこれ以上詳しくは触れませんので、悪しからず。




