EX.封滅
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
すでに幼児のものではなくなった両の手が内側から裂け目にかかり、押し広げてゆく。
「「「「「ヴヴヴう゛う゛ぁあああっっ」」」」」
文字通りに身を裂かれる苦痛と憤怒は、もはや獣の咆哮だ。
叫びながらも女怪は二つの手を掴んだ。なんとか腹の中へと押し込もうというのか。一度は異物と感じて引っ張りだそうとしていたものを、これ以上身体の損傷を進めないために。
傍目には滑稽な独り相撲のようにも見えた。が、まぎれもなくそれはひどく凄惨な、異形の胎児と母胎の生存を賭けた闘争だった。
しかし、趨勢は明らかに傾いていた。
内側から女怪を裂こうとする手は、噛みつく牙さえ小動物の甘噛みでもあるかのように、母胎の抵抗をものともせぬ。母の手よりもまだ小さい血まみれの手が二度三度と左右に動くたび、ぶちぶちという異音がヘイゼルの胸の間を駆け上がっていく。
「「「「「あああああああっっ」」」」」
生きたまま真っ二つに引き裂かれる恐怖に、我が身を抱きしめ防がんとする。その女怪の腕をかき分けるように――丸いものが裂け目から突き出ててきた。頭だ。
血まみれゆえに髪ももとの色はそれとわからない。が、ヘイゼルのそれよりも淡いことを、ここにいる誰もが知っていた。
「「「「「あ゛~~~~っ!」」」」」
首まで出た頭が大きく振られた。
貼りついていた髪が飛ぶ。露わになった顔は少年のものだった。
無表情なその顔を見た途端、激痛の汗に濡れていたヘイゼルの顔が激しく歪んだ。
「裏切るのね、あたしを!」
「裏切ったのね、このあたしを!」
それまでただ一斉に絶叫していた体中の口がてんでに叫ぶ。血珠のマスカラをまばたきで弾き飛ばし、見返した少年の目は無表情に揺れた。
「「「「「あんたなんて大っ嫌いよ、イニフィティアヌス!」」」」」
闇濃くなりまさる空間が、ぞわりと波立ったような気配がした。
「おっと」
それを握り潰したのは黒ローブだ。
はっと振り向いた血まみれの妖女が叫ぶ。
「なにをした、くそばばあ!」
「同じ事を聞いてやる。今いったいなにをしようとした。――いや、闇黒月になにをした」
怒りにさらに強い怒りを返されるなど、思ってもみなかったことだったのだろう。
気圧された女怪の表情に、黒ローブは頷いた。
「……ああ。その身体の作り直しをしようとしたんだ。因子の排除とやりなおしね。なるほど」
「なんで」
「なんでわかったかって?あんたはあたしを喰らった。だけどあたしもあんたを喰らった。全体に比べりゃ、ほんの疑似餌程度だが、あんたがその疑似餌こそ、自分の根幹であると認識してるってことぐらいはわかる程度には喰ってんのよ。――闇黒月の操作方法も。あんたが闇黒月を操作しようというのなら、それを妨害できるくらいには。その内容から意図を推測できるくらいにはね」
「…………」
さらりと証されたが、しかしそれは実質的に闇黒月の掌握を果たしたという勝利宣言ではなかったか。
黒ローブはいまいましげに唇を噛む女怪を冷ややかな目で見た。
「だけど無駄。無駄無駄。やってもすでに手遅れだよ」
「なんでよ!」
「当然じゃないの。だってとっくにあんたが一度は産んだ子なんだから。――最初っから、その子はあんたのなかにいたことがあるという事実は観測されてしまってた」
「でも!出てったんだから!水子といっしょでしょ!」
「……むちゃくちゃなことを言い出すねえ。だけど名付けられる前に失われた水子ですら、ありえたかもしれない可能性を潰された者の無念や恨みのかたちだとして観測されてるのは知ってるでしょうに。生まれ名付けられ、すでにありえた者、実在を獲得した者なら、生まれ出ようとする可能性を潰そうとする者には抗って当然でしょうに。それを簡単に潰せると思う方がありえない。自分の子をその父親と見間違えるのと同レベルでありえない」
絶望の色にばっと血しぶきが上がり、裂け目は鎖骨まで到達した。
「しかも『裏切るのね』とか。まだわかってないのか、それとも人生何億周分だかループをわざわざ発生させて無限愛され生活気分を味わってた余波かは知らないけど。洗脳しまくってたからといえ、ずっと献身を捧げてくれた相手をよくまあバカにできるもんだね」
黒ローブの言葉に押されたように、べきんというこれまでの異音とは質の違う音がした。
途端、女怪の上半身がのけぞり、後ろへ倒れていく。
上下にへし折れ、そのはずみでさらに身体が左右に裂かれた激痛より、さかしまになった視界より、しかし女怪を混乱させたのは、仮面の上からさらに手で覆いながらも隠しきれない黒ローブの目だった。
これだけ毒と棘にまみれた言葉を吐き散らしているのだ。ざまあみろというような嘲笑を満面に浮かべているのなら納得がいく。無表情でもまだ理解ができる。
しかし、その哀切な表情は、まるでヘイゼルを惜しむようなものだったのだ。
どうしてそんな顔をしているのか。
いや、そんな表情をするくらいならば、助けてくれはしないかとすがりつきたくなってしまう。
「なんであんたが産まないの!あたしはアンタなんでしょ?!」
「できないから言ってんだよ」
悲鳴というより罵声のような懇願は、しかし一瞬で叩き落とされた。
哀切さも同情も見間違いだったかのように完全に表情の抜け落ちた顔で近づいてきた黒ローブは、地面に金髪を這わせるほど低い位置になったヘイゼルの顔をのぞき込んだ。
「この闇黒月に取り込まれ、あんたが喰らった犠牲者のことなら、少しはあたしにもわかるようになってきた。どうやらifによって大量に平行世界が分かたれたのは、高校でのこと、あの襲撃の時らしいと」
女怪の顔におびえが走った。
あの襲撃。
それは、確かにヘイゼルにとってもトラウマの根源だった。
異物として排斥され、貶められ、傷つけられた上に、さらなる疵を負わせられかけた苦痛の記憶の最大値。
「グラミィは、反撃した。結果自分の身はなんとか守り切れたらしいが、相手にも重傷を負わせることになった。そのせいで純粋な被害者とはみなされず、ありもしない喧嘩両成敗を事なかれ主義の大人たちに押しつけられた。同級生の中ではかえって悪として扱われさえもした。トラウマを起こして引きこもりたくなるのには十分さね」
「あんたは」
「ん?」
「あんたは、どうなのよ!」
平行世界のもう一人、同じ名を持つ者だと言うならば。
「……やっぱりそこまで到達しなかったか。そうだよなあ。あたしが徹底して隠してきたんだもの。自己催眠まで使ってね」
黒ローブは笑った。それはまだ塞がり切れていない傷口に指を突っ込まれ、引っかき回されたものの笑みだった。
「あたしは愚かで甘すぎた。グラミィほど容赦なく相手を戦闘能力を奪っておけば、それも一つの決着のつけかただったんだろうけど、同級生を傷つけるということにためらった。――むこうは同級生どころか、同じ人間ともこっちを見てなかったようなのにね。だから」
「……だから?」
「反撃は失敗した。それどころか舐めてた相手に一発もらって、逆上した連中にさんざんにやられたよ。顎を殴られてからは立つことすらできなくなった。たぶん脳震盪を起こしてたんだと思う」
黒ローブの合わせ目にかかる手に不吉を感じたのか、ヘイゼルはかすかに身震いをした。
「文字通りサンドバッグにされたよ。ただでさえろくに動けないってのに倒れた腹を踏まれ、蹴られ、引きずり上げられて腹をさらに殴られた。庇った腕も折られた。だけどそれより問題だったのは、――やつらが短いとはいえ、ナイフを持っていたことだった――見えるかい?」
前を開き、近づけられたローブの中身に、女怪は悲鳴を上げた。
「なんで、なんでそんなもんがその身体に残ってんのよ!」
「――たしかに、お骨は借り物で、その上に魔晶で構築したかりそめの身体だよ、これは。だけどこの傷痕が本物だってのはわかるだろう?なんせ、記憶をもとに構築してるんだから。――逃げるんじゃない」
黒ローブは弱々しく払いのけようとする手を杖で叩き落とした。
「生きているのが不思議だと言われたよ。大動脈や肋骨が無事だったのが奇跡だともね。だけど卵巣も一つは破裂してたよ。腸は短くなり、斬り裂かれた子宮は摘出された。――そしてあたしは、子どもが産めなくなった。神も仏もあるものかと思ったよ。この世にいるのは人間ばかりだと」
元通りに閉じた黒ローブはゆっくりとしゃがみ込んだ。
背けた顔の、その耳に囁くように憎悪と憤怒を滴らせていく。
「わかる?産めないってのはこういうことだ。――だけどあの襲撃で起きた事はそれだけじゃない。あたしは入院中に通信制高校に転校した。一人をスケープゴートに切り捨てたあの集団に復讐もした。母親は泣いたよ。あたしを心配しないで、地域社会を荒らしたせいで、自分がコミュニティからはじき出されることを畏れてね」
はっと向き直る顔にうなずく。
「あんたは、あたしたちを妬んでたね?もといた世界で暮らしてたって。――だけど、あんたの方が恵まれてたってことは、これでわかったでしょうよ」
「どういう意味」
「グラミィが引きこもったのはトラウマからだけじゃない。いじめを、犯罪行為をしていたことを否定し、グラミィの正当防衛を認めようとしなかった連中に追撃されたせいもある。あたしの親は離婚した。もともと離れれば心も離れる二人だったのか、それともとっくに別れていたのかまでは知らないが、あたしは、父親のもとへ行った。そっちもろくでもない人間だったが、周囲が敵より無関心な方がまだましってこともある。それから母親には二度と会っていない。あんたの喰らった犠牲者も多かれ少なかれ、その人生に巨大なクレーター、いやブラックホールが刻まれてた。――あんただけなんだよ。親とも決定的な断絶を生じず、あの襲撃から心も身体もほとんど無傷で逃げ出せたのは」
それが、異世界に落っこちるという羽目になっても。
絶句する顔に向かって黒ローブは吐き捨てた。
「産めるのはこの世界に逃げ込めたのはあんただけだってことも。そこまでわかっていても被害者面しようってえの?!」
自己嫌悪――いや憎悪の波を直接ぶつけられてヘイゼルは震えた。
それでも初産の記憶を思えば、激痛は死の恐怖ですらあった。
あの時すがった手はどこにもない。
「でも産めるのはあたしだけじゃない。古着泥棒だって産めるはずなんでしょ!」
黒ローブは無言だ。それは肯定だとヘイゼルは理解した。
たとえ人生に大穴が開こうが、心に大きな疵を負っていようが、あの古着泥棒は自分の身を守り切れたとその口からたった今聞いたばかりだ。
おまけにもとの世界に送り返した――それもあの襲撃を味わう前にだ――以上、その身体はさらに新しいものになっているはず。
だったら。
「呼び戻せばいいんでしょ!送れたんだからできるでしょ、あの古着泥棒を呼び戻してよ!あたしの代わりに産んでもらえばいいじゃん!」
「断る。ていうか、無理」
「嘘」
「嘘だと思うのなら、自分で確認してみればいい。グラミィのいた平行世界はとうに闇黒月から離れちまった。そりゃそうだ。むりやりあんたがこの世界に近づけていたんだもの、反動でどこへ行ったかなんて、もうわかりゃしないよ」
「いや」
牙だらけの口のまま、女怪は赤ん坊のようにかぶりを振った。
「どうしてそんないじわる言うの」
「いじわるって」
黒ローブは絶句した。
とうとう幼児後退したか。それともそうみせかけた我意を通すための手段か。理解ができないのか、理解を拒絶したのだろうか。
「あたしはずっと生きてきただけ。ずっとずっと生きてきただけ。死にたくないだけ!」
「……ずっと生きてきたというなら。何をしてきた」
「なにって」
きょとんとした顔に、うんざりと黒ローブはかぶりを振った。
「その何千何万何億回と繰り返した生涯に価値はあったのか、と聞いてるのよ。あったというのなら、なぜ繰り返しループしたのかと」
「…………」
「つまりあんたは、あんたをとうに殺してるんだよ。何度も何度も人生をご破算にするってのはそういうことでしょうが。殺して戻って、また殺して。楽しかったでしょうが?惨めで、哀れな自分が愛され人生を送るのは。だったら、ついでにもう一回死んどけって話でもある。ふつう、新しい命を産んだら生物は必ず死ぬもんなんだし」
昆虫も魚も子孫を残して死ぬ。それは自然の営みではあるけれども。
「ヘイゼル・ナッツ。あんたはシルウェステル・ランシピウスを産んだ。『彼を産んだから死ぬ』。それがこの場で観測されるべき事象だ」
「いやだ、そんなのいやあっ」
女怪は泣き叫んだ。
「あんた以外の自分自身を喰らい尽くし、犠牲者のバッドエンドにしてデッドエンドの上に築き上げた生き方を、ヘイゼルと呼ばれ続けたありかたを投げ捨てるつもり?」
「そんなのいらない!あたしは死にたくないだけ!」
「…………だったら、あんたに別の価値をあげようじゃないの――悪役という立ち位置とともに」
「あく、やく?」
「愛されそして幸せに暮らしましたというハッピーエンドを拒絶するにしても、別の役はもうあらかた埋まってる。悪役ぐらいしか空きはないのよ」
黒ローブは杖の先で女怪の顎を持ち上げた。
「そして悪役ってのは打ち倒されるためにいる。くりかえされるならなおのこと。つまり、倒される方が邪悪なんだよ」
「そんなのはいや!」
女怪は叫び、杖から逃れようとした。
だが、その左右に裂けきった身体はとうに変質を始めていた。
若い女性のものだった肉は血を流しきり薄くたるみ、少年の肩を、胸を、腰を足をあらわし、くたりと投げ出された。
それは拾い上げた少年の手の中で、白っぽいチュニックへと替わっていった。
ずっしりと赤黒く濡れそぼったワンピースは、完全に漆黒に染まりきると水気を失い、フード付きのローブやボトム、靴へと変化してゆく。
それでも、女怪はまだ諦めようとはしなかった。
「ねえ!あたしは、あんたでしょ!あんたはあたしなんでしょ!」
自分のものであった魔力がどんどんと食い尽くされ、よく似た色合いとはいえ別人のものに変わっていく恐怖に、恥も外聞もなく泣きわめきながら。
訴えさえ通せば、誰かがなんとかしてくれて当然だというように。
「……確かにあたしとあんたとは、お互いありえたかもしれない可能性なんだろうさ」
「だったら」
「だけどあたしはあんたじゃない。平行世界存在であっても同一存在じゃない」
「違いなんてないじゃない!」
「差異はある」
冷然と言い切ったその顔をヘイゼルは伺う余裕もなかった。だから気がつくことはできなかった。
こうもしつこい問答に、なぜ相手が根気強く相対してくれているのかを。
「何を選んだか、何を選ばなかったか、いらないと思ったのはどの世界だったのか。どの自分だったのか。差異はそこだ。都合のいいように同一視を強いるな」
その目に、複雑に入り混じった感情の色がまた戻ってきていることを。
「それでもあんたがあたしだと主張するなら、いっそのこと古式ゆかしいファンタジーにのっとってやろうじゃないの」
「あ……!」
助けてもらえるとでも思ったのだろうか、女怪の顔はさかしまのまま希望に染まった。だがその喉まで裂け目はすでに伸びてきていた。
「ところでヘイゼル。あんたは、お父さんの実家へ行ったことはあるかい?父さんの母親――おばあちゃんに会ったことは?」
女怪の首がさかしまに左右に振れた。
「母さんと暮らしてたということは、付き合いはほとんどなかっただろう。あたしもそうだと思ってた。だけどね。赤ん坊の時に、父さんたら母さんに無断でおばあちゃんに会わせに連れてったんだとさ。誘拐かもしれないと、母さんは警察に通報して大騒ぎした。連れ出した父さんは、自分のしたことを棚に上げて、犯罪者扱いされたと腹を立てた。息子を犯罪者扱いされたおばあちゃんもだ。そりゃ嫁姑の間も険悪になったわけですよ。そのせいで発覚が遅れたとかなんだろね。――あたしは、洗礼を受けてた。もちろん、あたしの意思じゃない。おばあちゃんから見れば異教徒の母から生まれたあたしは天国には行けないかわいそうな子というわけ。だからその運命から救ってあげるという理由で、勝手に洗礼を受けさせた!」
それが、断絶の最後の理由。完全に関係はこじれ、嫁姑は不倶戴天の仲となった。
「榛グランマリア美野里。そいつはかつてのあたしの名前でもあった。そいつじゃつながりが弱すぎるというのなら、悪意の産物をあんたにもあげるよ。――あんたをあたしの影として封じるために」
危機感を覚えたのだろう。女怪は暴れ出した。けれどそれはもはやただの、服のはためきにしかならなかった。
「榛グランマリア美野里。あんたはコロナ・アフラ・レギナ・アポロニア・バティルディス・エウラリア・ヴィボターダ・コルンバ・ブランディナ・アガタ・ウァレリア・エウファミア・シンフォローサ・ユスタ・ペトロニラ・エメリータ・プリスカ・アンナ・エレメンティアでもある。それがゆえにかくあれ」
長い長い呪文のような洗礼名に、少年の身を覆う衣服と化した身体から真っ二つに裂けた首が転げ落ちる。
掬い上げた少年の手の中で、何を見たのか。割れたくちびるがかすかに動き、タスケテと呟いた。
タスケテ、イニフィティアヌス、と。
最後の最後まで、自分の都合良い相手を求めるのか。
少年は眉をひそめ、黒ローブはこぶしを握ったが、どちらも何も言わなかった。ただ少年の手の中でヘイゼルの名残が灰塵に帰し、ざらりと風に溶けて消滅するのを見守っていた。




