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EX.シュレディンガーの箱の中、軽い機微な子猫何匹いるか

本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。

「なにが……」


 不審そうに、顔を向けた女怪の口がすべてぽかりと開いた。

 白いワンピースの腹部を突き破って出てきたのは、小さく、肉の薄いこぶしだったのだ。まるで新生児のもののような。


「なに……これ……」


 呆然と向けた顔の口がてんでにぱくぱくと開閉する。


「そいつはあんたが蒔いた種さね。正確には蒔かれた種というべきかな」

 

 女怪がはっと顔を上げれば、いつの間にか黒ローブは距離を取っていた。砕いてやったはずのその額を手で押さえながらも、よろめくわけでもないその姿に女怪の意識は奔騰した。


 そうか。こいつが。諸悪の根源。

 こいつがいるからなにもかもがうまくいかない。すべてが狂いだしたのは。


「あんたのせいなの!」

「ひとのせいにすなや。学習能力に疑問を抱けば、出てきた推論だと思うんだが」

「……は?学習能力?わけのわかんないこと行ってごまかす気?」


 どちらが先に手を振り払ったのかは記憶にないが、黒ローブの意図は喰らいあっていた時のようには聞こえてこない。

 腹部の痛みはまるでないものの、ヘイゼルの眉間にはもう一つ口がしわめられているかのような縦皺が深くなっていた。


「そうじゃない。聞きたいというのならわかりやすく説明してあげようってだけだ。――まずは会話からいこうか」


 黒ローブは額から手を離した。いつしか血涙の痕は消え失せていたものの、その額から左目にかけては、小さな仮面で覆われていた。


「言葉が通じなくてもジェスチャーや物を使えば意思は通じる。喜怒哀楽、感情もわかりあえる。これはむこうの世界でもあったことだ。だからわかるでしょう。非言語的コミュニケーションによる相互理解なんてものは、大量に情報を――明確に定義された概念をやりとりする場合、言語的コミュニケーションに及ぶものじゃないってことは。だけど、あたしとグラミィはこの世界に落ちてきた直後、最初に出会った人たちの言葉から、まったく母語同様に理解できていた。文字は無理だったけど」


 それは異世界ものの創作には転移転生を問わず、よくある設定によく似た状況だった。

 そのような設定が作品のテンプレとなるのは、意思の疎通という、通常意識すらしない、できて当然の行為に付随する情報量を無駄に増やせば、作り手にとっても、読者や視聴者にとっても大きな負担となるからだ。

 理解しづらい作品は受け入れられづらい。だから削られる。当然の理由だろう。


「だけど、そこがまずおかしい。つごうがよすぎるのよ」


 黒ローブの言葉に気を取られた女怪は気づかぬ。

 その腹から生えたこぶしが、見るからに華奢で脆そうなそれから、次第に乳児のぷくぷくしたものに変わっていくのに。


「実際、落ちし星(異世界転移者)――マグヌス=オプスは、言葉がわからなくて、覚えるまでひどく苦労したと言ってた。幻惑狐(アパトウルペース)たちに届けてもらい、肉声のように誤認させていたあたしの心話はたやすく聞き取ったのにだ。この違いはなんだ?」


 杖を拾い上げながら黒ローブは静かに続けた。


「あたしとグラミィ、そしてマグヌス=オプスに共通していたのは『日本語ベースで思考していた』ということ。そしてあたしは、心話で会話――外へ向けて放出する魔力(マナ)に、意志をのせることも、放出された魔力から意図を読み取ることもできた。あたしのやりようを受け、学んだグラミィもだ。一方マグヌス=オプスは聞くことはできたけれど、心話を発したことはない」


 杖を撫でながら、独り言のように黒ローブは言葉をこぼし続ける。


「だけどそれだけが違いの理由だろうか。――そもそも、心話が通じれば言葉が通じるかっていうと、そこも断言はできない。なぜなら言語が違えば、扱う概念、世界への理解のしかたそのものが違う。ある言語でしか認識されていない事象は、他の言語では存在すらしていないのも同然ってことになる。『肩凝り』って意味の言葉が日本語にしかないってのは、あたしの世界じゃわりと有名だったんだけど」

「は?じゃああんたのやってたことはなんなのよ」

「そこだよ。あたしがさらに疑問に思ったのは」


 女怪は気づかぬ。

 腹から生えたこぶしが成長していくにつれ。それとともに白いワンピースに、緋く紅い染みが広がっていくのにも。

 だがそれにも反応すら示さぬさまは、ここに第三者がいれば、これまでの怪異のような外見ですら及びも付かぬほど不気味なものに思われたろう。

 

「言語が違い、概念が違う以上、この世界についての知識をネイティブレベルで自分のものにすることはできない。ということは、魔術だってそう簡単に使えるわけがない。――だのに、あたしはあっと言う間にこの世界の文字も、文法も、それどころか古典文字までマスターした上に、魔術陣の構築までほいほいできるようになったのよ。いくら心話というアドバンテージがあったとしても、おかしくね?あたしゃ言語理解能力は高くない。自分の世界じゃ並、というか二言語ぐらいはまだしも三言語ぐらいになるとひーこら言ってたレベルだよ?まあ共通項のある同じ言語群のものだとわりと覚えやすくはあるんだけど、それでも混乱必至だった。――ヘイゼル・ナッツ、あんたは変だと思わなかった?」

「覚えてないもの!そんなの考えなくっていいって、あの人は言ってくれたし!」

「……ああ、そういうこと。イニフィティアヌスが余計な知恵を付けさせないよう、学習の機会を取り上げてどっぷり甘やか(スポイル)してくれてたと」

「あの人の名前を、呼び捨てにしないで!」

「と言われてもなあ。あたしにしてみれば顔すら直接見たことのない、歴史上の人物の名前を呼ぶようなものだし――まあいいや。愛されてなかった相手にあんたがすがろうがどうでもいい」


 一瞬視線を下げると、黒ローブはさらに疑問を投げた。

 

「学習能力ってのは知的方面だけじゃない。運動方面にでも言えることだ。というか、そもそもだ。肉体持ち込み組の落ちし星たち、憑依というか他人の身体に入ってたとはいえ、肉体ありだったグラミィはともかく。お骨なあたしが、なんで今に至るまで狂っていないと思う?――とうに狂ってるって可能性はとりあえず置いといて」

「はあ?!」

「未成年だったみたいだし、あんたにゃ車を運転した経験はないか。けれど自転車にのったことはあるでしょ?もしくは、VR――いや、3Dのゲームで遊んだ経験は。身体感覚――主に身体の大きさに関して、ぶれを感じたことは?」

「なによそれ」


 ワンピースに紅をさらに広げながら、ヘイゼルは知らず知らずのうちにじりじりと後退していた。


 喰らい合いのさなかには、相手の思考、感情、記憶が伝わってきていた。それが当然だった。

 しかしつながりが途絶えてしまった今、黒ローブの人物が何を考え、どうしようとしているのか、まるで読めない。

 ただ、不吉な黒影を意識すればするほど、警報のベルが遠くで鳴り響いているような焦燥感が強まっていく。


「身体感覚というのは当然のことだけど、基本自分の身体そのものの認識から形作られる。成長による身体機能や体格の変化は、それだけの時間をかけて成長する意識と同化しているからこそ、違和感なく受けいれられていく。だけどぽっと出の身体イメージに馴染むのに、そんな時間はかけられない。当然違和感が仕事をしまくるわけですよ、苦痛レベルで。だからあたしの世界で3Dゲームの視点というのは、ほとんどがアバターそのものの視点ではなく、アバターのちょっと後ろからの映像になってた。三人称視点というやつだ。客観的に見ていれば、まだしも体感は狂いづらいからね」


 それでも3D酔いというやつは抑えきれない。だから、さらなる対策も取られた。


「アバター視点のVRゲームが増えてきてからは、ユーザの体格から極端な変更は不可とか、条件がつけられるものが多かった。それも、生身との落差に体感を狂わせないためでしょうね」


 身長が150cmしかない人が2m越え設定のアバターを操作しようとすれば、おそらくは視点の高さにまず戸惑うだろう。しかし背の高さが大きく違うということは、見える物が変わり、頭をぶつけないよう注意を払うものが増えたりするだけではすまない。

 背の高さが変われば、手足の長さも変わる。それは一歩の感覚が違うだけでなく、歩いたり走ったりする速度が変わることにもつながる。腕の届く範囲も重心移動のしかたも関節にかかる負荷も変化するのが当然で、それらは生身であれば無意識に処理される視点の上下動によるブレ、手足の先端にかかる遠心力、動き始めから動き終わりまでの加速変化、それらすべてを感覚しなおし、慣れでもしない限り、ただの歩行でさえままならなくなるか、それとも毎回ジェットコースターで振り回されたような重度の乗り物酔いに悩まされるか、どちらかの状態に陥るだろう。


 むろん、VRであれば、それらすべてが完全に現実準拠ということはありえない。操作性向上や情報処理負荷の軽減など、さまざまな理由である程度単純化されているのが当然だろう。

 が、あくまでもVRMMORPGなどがリアリティある異世界を謳っている以上、すべてを簡易化させることはかえって現実との切り替えに混乱を招く。だからゲームの世界からログアウトできなかった的な作品以外では、脳にかかる負担への配慮として、一日の内にログインできる時間が制限されている、などという設定のものも少なくはない。


 ましてや、現実においてはどうか。


「自動車の運転も同じこと。身体感覚同様、車体感覚というものを構築するのには慣れがいる。だから通常軽自動車しか乗ってない人がどんなに上手でも、車体の幅や奥行きの違うスポーツカーやリムジンにいきなり乗せられたら、車体を擦ったり、巻き込み事故を起こしたりする可能性は、それらの車種に慣れてる人より高くなるわけだ。――さてここで問題です。ならば、なぜ星屑(異世界人格者)たちは、そしてあたしやグラミィは、自分の身体じゃないものに搭載されて、すぐに平気で我が物のように動けたのでしょう?」


「?!!!があっ?!」


 問いに答えたのは絶叫だった。

 突然痛みを感じたように身を丸め――女怪はかっと目の位置にある口を大きく開いた。

 もう一本、こぶしが生えてきている!


「魔力を使えない星屑たちも使えるグラミィも、深く考えた様子はなかった。星屑たちは搭載された身体をアバターと認識していた。おまけに召喚陣では深く物事を考えないように思考を削られてた痕跡もあった。グラミィも、いきなりばーちゃんになった衝撃の方が強かったってのもあるのかもしれない。――だけど、他人の身体に入れられた者が、違和感を覚えないわけがないのよね。自転車に乗るのにも、ゲームの操作方法を覚えるのにも慣れと時間が必要なように。おまけにあたしもグラミィも、もともと魔力知覚能力など持ち合わせていたわけではない異世界人だ。異世界人というのは転生者でもない限り、この世界の魔術師さんのように幼い頃か魔力の操作方法を集中して学んだりすることはできない。なのに、あたしたちは精度の差はあれ、わりとあっさり魔力を知覚することができ、魔術をすんなり使えるようになっていた。明らかにおかしいでしょうが」

「イタイイタイイタイイタイ!」


 女怪の苦鳴をよそに、黒ローブは淡々と言葉を紡ぎ続ける。


「それでも、生身がまがりなりにもあるグラミィたちが動ける理屈は、生身であるがゆえにつけられなくもない。むこうの世界でも臓器移植を受けた患者の中には、提供者(ドナー)の生前の嗜好や感情、そして一部の記憶を継承する者が出たと言われている。いわゆる記憶転移というやつだ。身体の一部なりとも生きていれば、それなりに情報の伝達が行われるというのなら、星屑たちはわかりやすい。身体そのものは完全に生きていて、喪心陣で意識レベルを低下させられているとはいえ、身体の持ち主の精神も抹消されてはいないのであれば、手続き記憶程度の身体の操作は無意識でもできて当たり前じゃないかとね。グラミィの場合、身体の持ち主であるあんたはこの闇黒月(アートルム)の中にあったようだが、存在していたことに変わりはないわけだし。……だけど、それだけではどうしても説明の付かないことがあった。このあたしの存在だ」

「なんでっ、こんなのっ!出てくるの!いらない!のに!」


 こぶりと顔の口から血を吐きながら、懸命に両のこぶしを引き抜こうとする女怪に黒ローブがゆらりと近づく。


「やだ!こないで!あっちへ行って!」

「わりと最初からあたしの中に疑問はあった。あたしは生身じゃない。だのにこのお骨の状態で、なぜあたしは靱帯や筋肉の支えもなく、心臓や肺といった酸素供給源や動力源もないのに動けるのか。そもそもむこうの世界では、あたしゃ魔力なんてものは知覚したことがなかった。いくら感覚器で捕捉できる範囲内にある刺激でも、知覚していると認識できなければ、意識はできない。……このあたりは概念と同じだね」


 ほとんどすべてを深紅に染まりながらも、ワンピースは地面を転げ回った。

 この不気味で、理解できない言葉を発し続ける存在から少しでも離れようと。


「そんな、自分が知覚しているものがなんなのかわからない状態で、なぜあたしが魔力知覚を五感に疑似変換し、何不自由なく見聞きできているのか?もともとあったはずの物理的脳味噌とやらを置いてきた、空っぽの骨頭で物を考え歩けるのはなぜか?眼球もなく、鼓膜もない状態で、なんであたしはこの世界の事物を認識できる?そもそもあたしという自我がこの状態で存在できていることがおかしい。感覚器と脳、センサと情報処理システムの両方によって世界の見え方は変わり、それに伴って自我は変容するものだから。たとえ、何らかの理由で別人の身体にあたしの意識が憑依したとしても、これまで持っていた肉体にある程度相似の身体でない限り、意識は適応しきれず、発狂してもおかしくはない」


 それは、『お前は何者だ』という問いにたやすくゲシュタルト崩壊を起こしかけていた遠因でもあったのだろう。


「だけど森精(ドミヌス)に、あたしのおでこに魔術陣があると教えられたことがある意味突破口になった。海森の主との邂逅は時間もなかったし、あたしに刻まれた魔術陣がどういうものか解析しきれたわけでもない。それでも、彼にあたし自身だけでは見ることのできない、その魔術陣の形を教えてもらえたおかげで、解析は進められた」


 懸命の努力も無視するかのように、悶える女怪のそばにしゃがみ込むと、黒ローブはぞっとするほど穏やかに言葉を紡ぎ続けた。


「魔術陣の一部は星屑たちのそれとも類似性が高いと見えた。だから当初は『運営』――ラドゥーンたちのたくらみの一つかとも考えた。あたしもまた生身ではないだけで星屑だったのかとね。だけど、あたしに刻まれてた魔術陣には、星屑たちの精神召喚陣に相当する術式はなかった。そして喪心陣相当だと思っていた術式も、精神の抑圧や思考レベルの低下という記述はなかった。どういうわけだか、魔術陣どうしが貼りついていた部分もあったけれど、解読できたのは『防御』『守護』『生命』『維持』『意識』『安定』『静穏』『安寧』。陣の内側にあるものの生存を徹底して守り抜く、まるでシェルター機能をメインに構築された、卵の殻のようだった。――だから思ったんだよね。ひょっとして、この身体はまだ生きているのではないか。そしてこの身体の持ち主の意識もまだ生きているとするならば、とね」


 目は口になっているのに人間らしいしぐさをみせるのは擬態か、習慣が抜けないせいか。

 びくりと上がった女怪の顔に、黒ローブは頷いてみせた。


「ひょっとしたら、森精(ヴィーリ)たちの記憶の中には、物理依存度の低い生命体ってのが他にもあったのかもしれないね。お骨の身体を見てなお、彼らはあたしも生命体の一つ、落ちし星(異世界転移者)と見なした。……だけど、そんな生命体があたしだけじゃないのかもしれない、このお骨に宿っているのはあたし一人だけじゃないのかもしれない、そういう生命体が同居しているのかもしれない。そう考えればいろいろ納得はいったよ。あたしの異常な言語能力の上昇も、お骨の持ち主、シルウェステル・ランシピウス上級導師の意識もまた覚醒レベルでまだこのお骨に宿っているせいで、そのおこぼれにあずかれているせいだとしたらと。だからあたしは情報の整理もかねて、状況や自分の考えについてちょくちょく書いてはみていた。もしあたしと同じやりかたで外界を認識しているのならば、身体の持ち主の意識にコンタクトが取れないかと思ってね。結果は梨の礫だったけれど、それでもやめる気にはならなかった。閉じ込め症候群という言葉を聞いたことがあったから」


 意識ははっきりしているのに、それを表明する手段を失っている状態のことだ。

 もし、身体の持ち主がそのような状態に陥っていたならば、自身の身体のみならず能力すらも濫用する勝手な間借り人に対して、どのような感情を抱くことか。


「もしそうならば、せめてこの身体を勝手に借りていることへの謝罪がしたかったのと、これからもしばらく借りることへの許可が欲しかった。――それもひょんなことから解決できた。軍需転用っていうのかは知らないけれど、戦闘で身体を十全に使えるような手段を模索してた時にね。精神分割って方法を思いついたおかげで」


 斥候にゲリラ状態の星屑の食い止め、脅かし役だけでなく、対集団戦闘でもある程度動けるようになっている必要があった。

 だからといって、単独任務のさなか悠長に武器の扱いを一から学んでいるわけにもいかない。


「だけど分割思考なんて技ができるほど自分が器用じゃないのはわかってた。ならば自我そのものを分けちまえばいい。そしてそれぞれに右手と左手、魔術と魔術陣を刻んだ鎌杖という武器を担当させれば、それぞれを十全に使いこなし、なおかつ互いにシナジーを生み出すようなコンボというか連携が可能になるんじゃないかという発想だ。幸い、森精たちや幻惑狐たちのような、精神的群体にはずっと接してきたから、その構造をある程度模倣すればいいんじゃないかともね。だけど思いついたからってすぐに、戦闘でいきなり運用できるわけがない。まずはセルフで人体実験だ。右手担当のあたしと左手担当のあたしに分けようとしたんだけど、うまくいかずに、左手があたし自身の支配からはずれてしまった。その時だよ。躊躇なく眼窩に左手の指の骨が根元まで突っ込まれたのは。いやー、さすがにあれにはびっくりした」

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっっっ!」


 つるりと女怪の手が滑ると、それまでつかみ止めていた二つのこぶしは動き始めた。

 そのあまりの激しさは、地面にうずくまっていた女怪が飛び上がるやいないや、のけぞるほどだった。


「だけどその後は、右手の支配を受け渡せば、彼と筆談で意思の疎通ができるようになった。その後精神分割も彼の助言のおかげで、実用の域にまで達したし、怪我の功名ってやつだね。あたしが狂わずにこれたのは身体の持ち主、シルウェステル・ランシピウス上級導師のおかげさね。――あんたの息子だ」

「あた、しの?むす、こ?」

「覚えてないかい?」


 痛みに支配され、何を言われているのかまったく理解できていないのだろう。緩慢に目や頬の口を開閉し続ける女怪に、黒ローブは舌打ちを浴びせた。


「この世界で唯一、あんたが産んだ子だ。――で。あたしを喰うとき。分別しなかったでしょ?つまり、あんたの中には平行世界存在であるあたしの構成因子だけでなく、シルウェステル・ランシピウスの構成因子も入り込んだというわけだ」


 そして女怪は黒ローブの頭蓋骨を――そこに刻まれていた術式を破壊した。

 それは卵の殻を砕いて、雛を出してやるようなもの。骸骨の持ち主である、シルウェステル・ランシピウスの精神が自由に移動することもできるようになったことをも意味する。


 めち、めち、という異音とともに、二つのこぶしが突き出た穴は裂け広がり、一つにつながっていく。溢れた血はさらにワンピースを濃く染め上げ、夕焼けが夜闇に染まっていくように、どんどん赤黒く変えていった。


「さて。ここまでくれば後は生まれてくるのを待つばかり。――ご静聴ありがとうございましたと言っておこうか?」

「ま、さか」


 女怪は悟った。黒ローブの長広舌は自分の意識をそらし、いつのまにか我が身に入り込んでいた、このこぶしの持ち主がじわじわと侵蝕するのを手助けしようとという意図があったのだと。


「正解。まあここまで説明してわかんない方が困ると思うけどね。――さあ、あんたが産み捨てにしたさびしい子だ。もう一度産んでおやり」

作者「主人公が前世女現世男(の骸骨)なのに、TSタグを着け忘れているといつから思っていた?」



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