EX.生と死の狭間
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
(卵を入れた金属の箱を落としたらどうなるかという、いい見本のようだ)
こぼりと血を吐きながら男は皮肉げに考えた。
国境を越えただけで気を緩めた結果が、顔にかかった紋章布さえ払いのけることもできぬこのざまだ。
襲撃のおそれなど、いつなんどきでもありうるもので、当然つねに備えるべきだったというに。自分も鈍ったものだ。
矢を放ったのがいずれの手の者かはわからぬ。だが騎馬で付き従っていたエクティスは、帰還の予定を知らせた兄から送られてきた警護の者だった。
その彼もまた、馬車もろともに崖から転落したのだろうとは、わずかな数瞬の気配を思い返しての推測だ。
魔力知覚をうめき声一つ聞こえぬ周囲に広げれば、馬の手綱を取っていたアウリガはこめかみから矢を生やして細流の側に倒れており、同じく御者台にいたウァッサルスは崖下に手足をねじ曲げている。どちらの魔力もすでに生者のそれではない。
壊れた馬車から振り出された己とて命こそあるものの、こうも手ひどく大地に叩きつけられていては、さて、それもいつまでもつことやら。
(帰還の時を知るのは兄上ぐらいだろう。だがこの襲撃は兄上ではあるまい。兄上ならばおのが臣を捨て駒にするようなこともすまい)
確証はないが男にはそう思われた。
そもそも警護の者の動きから帰還を察知した者がいたかもしれぬ。可能性を数え上げれば、誰の指示による襲撃かなど、むやみに考えても答えの出ようはずもない。
ただおのれの手配りより、襲撃側のお膳立てが上を行った。それだけのこと。
(誰がどう手を下したとて、この場でわたしが死ぬのはどうやら定まったことらしい。この身を葬るためだけに、なんともたいそうなことだ)
どこか他人事のように埒のないことを考えていられるのは、今なお周囲から魔力を吸い上げ、身体強化に回しているためでもある。身体能力の強化は生命力とも同義、傷もある程度ならば癒やすことができるのだ。
とはいえ、力をこめても両腕はぴくりとも動かない。吐いても吐いても喉の奥からこみ上げてくる血は内臓が砕けたか、それとも折れた骨がいずこに刺さりでもしたか。
発動した結界陣が衝撃をわずかながらも抑えたのだろうが、今意識があるのは、いや命があるのは偶然にすぎぬ重傷と男は判断した。
(――ようやく死ねるのか。何も残らぬ無意味な生であっても、終焉だけはあるのだな)
もともと、いずれこうなることはわかっていたように思う。
我が身を生につないでいたのは、血肉を与えた者たちの存在だ。
この身が始末されるということは、おそらくはその者たちも。また。
ものごころついた時には、親と呼べる者はいなかった。我が身をこの世に生み出した者たちが存在することは知らされたが、顔を見たこともない。
そのような相手を父母と呼ぶ資格は己にはなく、また向こうも己を我が子と呼ぶこともないだろう。
養育を施されたルーチェットピラ魔術伯家の者たちとて、同じようなものだ。
貴族の子息にふさわしい立ち居振る舞いができるよう、知識は与えられた。世話もなされた。
しかし、話をするということは欠片もなかった。あるのは必要な情報の伝達であり、やわらかく丁重ではあったが、拒絶であった。
先々代ルーチェットピラ魔術伯アエタースとの間にあったものも、上意下達でしかなかった。
あまりに口を開くことがなかったせいで、声がかすれ喋ることすらできなくなったことがある。
その時には医者が呼ばれ、話術の指導者がつけられた。だがそれだけだった。
それ以前もそれ以降も、おのれに与えられる評価は「よし」が最上級のものだった。狩猟に使う犬でさえ微笑みとともに「すばらしい」「よくやった」などと褒められるものを。
さもしくも羨望が顔にでていたのだろう。話術の指導者がアエタースに、苦言に近い諫言をしたことがある。
対外的には実父ということにされていた養父に褒められたいかと聞かれ、自分はなんと――ああ、たしか「魔術伯さまのお心のままに」と答えたのだったか。
「そうか」と答えた養父は、どこか安堵にも似た気配を漂わせてはいなかったか。
義兄ではなく兄と呼ぶようにと言われて引き合わされたアーノセノウスにも、結局最後の最後まで、どのように接すればよかったのか、わからずじまいだったように思われる。
憎まれてはいなかったのだろう。ことあるごとにかまい、幾度となく「よそよそしい」「おまえは使用人ではない」と言われはしていた。
だが結局のところアーノセノウスにとって、おのれは愛玩物にすぎず、対等な家族のうちには数えられていなかったのではないかという思いは、今なお消えぬ。
それでも、飢えきり、ひび割れた大地のように凍てつき乾いた心に、アーノセノウスの扱いはあたたかい慈雨のように沁みた。
だからこそ、庇護を満身に浴び、愛玩されるだけではいられなかった。
犬すら穀物を煮た乳粥でただ養われるのは、完全に乳離れするまでのわずかな期間のみ。人であればなおさら、庇護されているだけではいられまい。
なれば、何かおのれに価値を付けねばなるまい。野犬とて有用である間は、石もて追われることもないのだから。
打たれることに慣れた犬のような思考だと自嘲しつつも、男は力を蓄えるため、義父と義兄に役立つものであることを示すべく、魔術師の道へと踏み入った。
しかしアーノセノウスはすでに才人であった。
彩火伯の二つ名こそまだなかったが、火球というごくごく初歩の魔術のその深奥をすでに極めており、祭事あるごとに王都ディラミナムの夜空を彩る炎の芸術を見せつけた。
その術式制御の緻密さたるや、魔術師でありながらアーノセノウスを侮る者は、自らの無能を曝け出す者だと言われたほどである。
そのアーノセノウスの背をいくら追ったとて、ただ後塵を拝すばかり。
なれば、アーノセノウスのなさぬ事をなすべきであろう。
男は、これまでになかった新しい術式はできぬかと考えた。しかし無から有を生じるのは難事である。新しい術式という以外に目当てもないまま手を出すのは、闇夜に闇黒月へと手を伸ばすようなものだ。
試行錯誤の末、魔力操作や魔術をさらに強化する補助術式とでもいうべきものに絞ることで、構造解析の術式を開発できたのは僥倖だった。
構造解析というのは、じつは魔力知覚を精密に行うためのものにすぎない。他の魔術の術式に組み込み、あるいは魔力操作の精度を跳ね上げ、知覚した情報をより精細に受け取るため、通常ならば身体強化全般に回す魔力を五感と思考のみに割り振るものだ。
当然我が身で数百数千と試行し、たやすく発動できるものと確信していたのだが。
「発想は極めて興味深い。だが使える者がおらんのでは、主なき杖だな」
当時指導を受けていた上級導師には鼻で笑われた。
まさか他の魔術師たちが維持どころか発動もできないとは、思ってもみなかった。
たしかに魔力知覚を行いながら構造解析の術式を顕界すれば、知覚精度が跳ね上がるため、軽く混乱をきたすことはあった。だがそれも強化された思考によりすぐにおさまる。視線の通らぬ遮蔽物の向こう側も感知できるようになる、おのれにとっては十分有用な術式だったのだが。
それでも、新しい術式の開発を行ったということで中級導師の資格は得た。さらなる学びを求め魔術学院に出入りを続けていると、ひどく絡まれることが増えた。
どうやら修了後、そのまま学院で中級導師となると思われたからのようだった。
じっさい、魔術伯家の者でも導師として学院に籍を置き続ける者もいる。ただしそれもなんらかの従属爵位持ちであり、上級導師として扱われるのが通常である。
我が身は無爵。中級導師として家から追い出す予定の厄介者ならば、どのように扱ってもいいと思われたのだろう。ルーチェットピラ魔術伯家一門の中で、ランシピウスの流れを汲む者とは疎遠であったことが漏れていたのかもしれないが、
そのころの話だ。アーノセノウスが弟を溺愛する兄として名が知れてきたのは。
最初にとろけた笑みを向けられた時には、内心気でも触れたかと案じたが、しかし効き目は抜群だった。
即座に家門の外からの手出しは消えた。
この身に義兄の庇護がある以上、下手なちょっかいを出せばルーチェットピラ魔術伯家一門を挙げて報復がくるやもしれぬと判断したのだろうと納得した。
情報収集のできぬ木っ端貴族も、大元の首根っこを締め上げれば息の根は止められる。平民はいうまでもない。
哀れみと計算交じりであろうとも、次期当主があからさまに溺愛するさまに学院では静穏が戻った。
が、家門のうちはさらに面倒なことになっていた。男の出自を当主アエタースは家門の中にすら秘していたからだ。
ゆえに、ランシピウスの血を引く者にしてみれば、どの馬の骨とも知れぬ輩が、いかなる手を使ってか当主に取り入り、ついで次期当主すら籠絡したように見えたのだろう。
それも養子ではなく、実子という扱いである。魔力を知覚できる魔術師からすれば、この身にランシピウスの血が一滴も流れていないことは火を見るより明らかにもかかわらず。
義兄アーノセノウスにも血を分けた兄弟が何人かいたというが、そろって夭折したという。そこにアーノセノウスの予備とも見える立場に血の繋がりのない者を置くとは許しがたき暴挙、この身に宿る血筋による家門ののっとりを許す愚行と見えたのやもしれぬ。
じっさい、義父の蒙を啓くなどとおのが正義に酔っ払い、身勝手な忠義忠誠をわめきたててきた者も襲撃者の中にはいたのだ。
ばかばかしいことだと男は思った。この身が在ろうが失せようが、アーノセノウスがいる以上、ルーチェットピラ魔術伯の爵位は傍系のものにはならぬ。たとえこの身を弑したところで、当主の座が回ってくるわけもあるまいに。
そして理解した。
養父をいまだ父と呼ぶのは難しい。だがアエタースはたしかに庇護を与えてくれていたのだと。
幼い頃からの孤立は一門からの隔離であり、一門の息のかかった使用人を無駄に寄せぬようにという配慮でもあったのだ。
それが血の繋がりにのみ固執し、短絡的に暗殺などという手段に出るような、思慮なき者を釣り出す囮も兼ねていたとはいえ。
男が爵位継承権を放棄したことで、家門うちの騒ぎも収まった頃。隣国ジュラニツハスタとの戦いが始まった。
アーノセノウスに付き従い、男もまた戦場に向かった。役立たずの術式と笑われた構造解析を用いれば、敵軍の把握は目睫の間、指し示した急所にアーノセノウスが精妙無比な火球を放てば、それは見る間に大打撃となった。
加えていくさの直前、ようやく構築を終えた延伸の補助術式を、男はアーノセノウスに渡していた。
これもまた魔力制御をさらに精細に行うことで、術式の発動距離を伸ばすというものだが、アーノセノウスが得意とする火球の術式と併用すれば、飛距離は通常の倍以上にたやすく伸びる。
まさか、開戦直後の魔術合わせで、爆縮する火球に使われるとは思ってもみなかったが。
「シル。今日のわたしの手柄の半分は、お前のものだ」
魔術合わせから下がってきたアーノセノウスは、その魔力の大半を使い果たして青ざめていた。
影のようにつねに付き従うクラウスの手当を受けながら、しかし微笑んだその顔、その声、その情景の記憶は、天幕の布の色に至るまで、男の中でいまだに鮮やかだった。
(畢竟、わたしは誰かにとって価値のある何者かになりたかったのかもしれぬ。そうなれば、おのれにとってもこの世は価値のあるものになるはずだ、そうでなければならないと、そう信じていたのかもしれぬな)
男は吐息と共に血を口からこぼした。
家のため。国のため。家族のため。恋人のため。
戦場を駆け、迷いなく欲望のままにその力を振るう者たちの姿は、愚かしくも美しく感じられずにいられなかった。
彼らにとって、自分の生き様は意味のあるものだったのだろう。苦悶に顔を歪めながら死に逝く者すらも、目を閉じればその顔は安らかなものへと変わり、どこか満足げですらあったのだ。
(おのれにそのような、行動の核となるものはない)
何か愛するもののためこの身を賭けることができたのならば。意味ある生と言えるのだろうか。大義名分がありさえすれば、無音無彩色の廃墟であるかのような世界すべてに、あの天幕の中のように色が付くのだろうか。
しかし、愛というこれまで一度も触れえなかった学習対象は、きわめて難解なものだった。
戦場で騎士たちがおのれの愛馬をいとおしそうに世話するさまは見た。ならば小動物のたぐいをいとおしむことならできるのではと思ったが、多大な魔力に怯えられるのが魔術師のならいである。
毛を逆立てて背後の壁に埋まるほど身を縮めるさまに、慣れさせるどころか、無理に触れることすら断念した。
人ならば愛せるのか。
アエタースもアーノセノウスも、たしかに庇護は与えてくれた。感謝の言葉もだ。しかしそれとて打算ありきであることは学習済みだ。どうせならば打算なき愛を返してほしいと願うことは高望みなのだろうか。
家を愛すというのも難しい。
アエタースやアーノセノウスならこの身に代えても守るべきとは思うが、それ以外の親族など、正直死のうが生きようがどうでもよい。むしろ害になるというなら排除も辞さぬ。
ひとたびこちらを憎んできた相手を、それでも愛するということは、難しいものなのだと理解した。
民――いや、魔術師以外の貴族、騎士にもあてはまるやもしれぬ――にとって、魔術師とは畏怖すべき存在であり、時たまおのれたちのなかから現れ被害をもたらすバケモノの同類でもある。
近づけば今にも息すら止まりそうなはげしい恐怖の相を見せられて、それでもなお手を伸ばすことは、小動物にすらできないことであった。
国を愛せよと当主には命じられたものの、具体的に何を愛せばいいというのだろう。
国の組織なのか、王族なのか、王その人なのか。
そもそも、おのれのような血を持つものが、この国を、ランシアインペトゥルスを愛するなどと公言したところで誰も信ぜぬだろうに。おのれ自身さえもだ。
ならば愛することはできぬとも、愛されることもできぬとも、肯定だけは得られまいか。この身がシルウェステル・ランシピウスであり続けてもよいと認めてはくれぬかと男は考えた。
その対価がおのれの才であるのならば、すべてを捧げようとも。
幸い、ジュラニツハスタの戦いでの功績を認むというかたちで、魔術学院では上級導師として扱われるようになった。
王弟のクウィントゥス殿下にもお声がけをいただいたのは、アーノセノウスの口添えもあったのだろうか。
しかし、そのままずるずるといいようにこの身を使われるのは御免こうむる。念のためにと釘を刺したが、不敬と咎められなかったということは、つまり、そういうことなのだろう。
ジュラニツハスタともひとときの和平が成立し、ジュラニツハスタ王の末子、デキウス殿下が王都ディラミナムへと送られてくると、その傅役の一人としても任命された。
そのことに安堵した。それがたとえ、より便利な道具扱いであったとしても、これならさしあたっては処分されることはないのだろうと。
しかし多少名を上げたところで、アエタースからの使いが来た。ルーチェットピラ魔術伯家当主の呼び立てとあらば、職務をさておいても駆けつけねばならぬ。
何事かと思えばアーノセノウスへ当主の座を譲るにあたって、告げねばならぬことがあるという。
「その力量。陛下のお耳にも達した。それでよかろう」
これ以上目立つなと釘を刺された。
この身の素性は隠されている。だからこそ意味がある。アルマトゥーラの光のもとに曝してしまえば、それはむしろクラーワヴェラーレへの挑発にすらなりえてしまう。
なればこそ、可能なかぎりずっと隠匿すべきものなのだ。シルウェステル・ランシピウスという者が、クラーワヴェラーレの王族の血を引いているなどということは。
顔も名も知らぬ、この身に血肉を与えた男は、多くの民びとを害して故郷を出奔したという。クラーワには、血を同じうする一族の中で復讐を行ってはならないという不文律があるというが、恨みなどけして消えまい。
だがそれゆえにこそ、この身は贄として、ランシアインペトゥルスにおける対クラーワヴェラーレの切り札となりうるのだという。
クラーワヴェラーレにとっての大悪人当人の存在は捕獲かなわずとしても、その血を引く者の身柄は抑えた。そう伝えるだけでいい。
復讐を遂げるために、クラーワヴェラーレはランシアインペトゥルスにいかなる譲歩もするだろうと。
人が隠したことなど、人によって露わにされるもの。
注目されてしまえば、この身の素性もいつなんどき暴露されるかわからぬ。
ゆえに目立ってはならない。名を上げるなどもってのほか。
いかに賢い家畜であろうと屠殺されるさだめにあるなら、ものなど言ってはならぬということなのだろう。
いざという時その死を惜しまれてはならぬ。そのため愛も尊敬も受けてはならぬ。その理屈を理解も納得もしたが、飢えはおさまらぬ。いざという時には、おのがものではない罪咎を背負って贄として死ねと命ぜられたことよりも、その方が耐えがたく感じられたものだった。
アーノセノウスに子が次々と生まれるさまを、男はただ羨ましく見ているしかなかった。
血の繋がらぬ兄は、弟を拒むことはなかった。だが男が拒んだ。おのが手に入ることのない幸せだったからだ。
クラーワから来た淡い金髪の男は、ランシアインペトゥルスへの帰順を示し、我が身はその証として差し出されたものだというが、いくさの場でもないのに数多の者を殺傷するなど、魔喰ライにも等しい所業だ。
その血を継ぐ者を作ってはならない。ランシアインペトゥルスの切り札は増えるだろうが、おのれ以外に無辜の贄を増やす気には、魔喰ライの同輩の真似をする気にはなれなかった。
理解はしていたが、悪意はなくとも飢えた者の前に触れてはならぬ、湯気の立つご馳走の皿をこれ見よがしに並べるようなアーノセノウスの所業は苦痛をもたらした。
彩火伯の尻拭い仲間だったはずのクラウスがちかりと敵視を示すようになったこともある。もともと影のように、つねにアーノセノウスに付き従うクラウスと張り合う気など毫もなかったのだが。
男はいつしか魔術学院の一室に籠もりがちとなり、アーノセノウスがその嫡男マールティウスに爵位を譲ってからは、ルーチェットピラ魔術伯家の屋敷に足を運ぶこともなくなっていた。
魔術学院詰めの上級導師ぐらし自体は悪くなかった。
目立たぬよう毒にも薬にもならぬふるまいを心がけた。新進気鋭の研究者も上級導師になったとたん凡才に化けたと謗られるのもしかたがないと諦めていたが、そのまま書庫の埃にまみれて一生を送るも悪くはない。そう思うようにもなっていた。
だというに、なぜか中級導師や下級導師のみならず、学院生までやたらと男に接触を試みる者が増えてきたのには閉口した。
魔術学院とて清廉な学問の府と言い切れぬ以上、導師も政治とのかかわりを避けては通れぬことはわかっている。
だが、いちいち反応を返していれば足をすくわれかねぬ。ルーチェットピラ魔術伯家の新当主となったアーノセノウスに庇護を受けている身としては、家門の疵となるようなふるまいはできぬ。
たとえそこに、守りたい者がほとんどいなくとも。
とはいえ、我欲のままにどのような者がすりよってきても適切に対処できるような知識も方法も男は知らぬ。アーノセノウスのように、目に付くところに常に家の者が随従しているわけでもない。一門の中にいまだに存在する、男をしつこく目の敵にしている者を寄せぬため、当主が命じた者以外は寄ることあたわずとなっていたこともあるのだが。
ならば寄る者すべてを拒むのが最も安易なやり方だ。家と家、家門と家門の話ですめばまだしも、ランシアインペトゥルスだけでなくクラーワヴェラーレも絡む身だ。
だが無理矢理にでも知己を求めようとする者たちとの間で争いが起こるようになり、いろいろ面倒になってきた男は、もめ事が家門同士の諍いになる前にと、目に余るものについては学院長へとさりげなく話を伝えておくことにした。その判断にはいっさい容喙しなかったのも同じ理由、いらぬ騒動に巻き込まれるのはごめんだというだけのこと。
しかしそんな事なかれ主義のどこに興味を感じたのか、なぜか烈霆公のまなざしをなんとなく感じることが増えた。
とはいえそこでも事なかれ主義は機能する。
そしらぬ振りを決め込んで、居室兼研究室と書庫を往復する日々が続いた。たまたま見つけた埃まみれの古い書物に載っていた魔除けの紋様とは、どうやら侵入者よけの魔術陣らしい。研究内容を外に出さぬようにするにはちょうどよかろうと、実際に試してみたら、なかなかに愉快な効き目があったものだ。
ひっかかった者の醜態には腹を抱えた。声を上げて笑ったのは、いったいいつぶりだったろうか。
それが、魔術陣という技術に関心を抱いたきっかけだった。
星とともに歩む者たちに伝えられたという魔術陣の由来は、ほとんど神話のようですらあったが、たとえ古きものであっても今の世にも有効であるならば、ぜひとも極めてみたいものだ。
誰も読まぬ書庫の奥に通い詰め、熱心に解読に取り組んでいたら、よほど暇だとでも思われたのだろうか。一時は学院長代理なぞという責任ばかりが重く、しかも身動きもしづらい迷惑なかぶり物を押しつけられもした。
あれもまた烈霆公の嫌がらせであったのだろうか。
家やアーノセノウスのとばっちりを受けることも多かったが、王宮などクラウスの手の届かぬ場所で放縦な義兄の補佐を続けることはさほど苦でもなかった。小技の得意な使い勝手のいい調整役という扱いで十分だった。
定期的に王宮へと参上し、デキウス殿下に教養を教えることも、王都騎士団の本部におられるクウィントゥス殿下のもとへ伺候するのも、日々定められた仕事を定められたようにこなしていくだけのことであり、魔術にのみふりむけたい時間が食われる以外は、学院長代理などというばかげたものよりもずんと楽なものではあった。
クウィントゥス殿下はアーノセノウスに何を聞いていたのか、最初から魔術を撃ち放つしか能のない者と扱うそぶりを見せなかったことも、この安楽で定められた日々を居心地の良いものにしていた。
だから、口が滑ったのだろう。
クウィントゥス殿下と彩火伯は、いつしか酒を酌み交わすような仲になっていた。それにつれおのれも陪席を命ぜられることが増えた。我が身の置き所もなく、ただひっそりと端に控えているだけだったが、酒を飲めと命じられたら、それがどんなに強い酒であっても飲むのが役目と任じて。
そんな席でのことだ。クウィントゥス殿下がスクトゥム帝国の学術都市リトスで、ランシアインペトゥルスなど及びも付かぬほど魔術陣の研究を盛んに進めているという話を出してきたのは。
いつの間にか、おのれが魔術陣に興味を持っていると知られていたことにはさして驚きもしなかった。もともと剣の手入れは怠らぬお方だ。しかしランシアインペトゥルスの国内に、現存する魔術陣はきわめて少ない。魔術学院にある誓約の石壇が最大にして王都唯一のものではないだろうか。男の研究が遅々として進まぬ理由の一つでもあった。
だのにスクトゥム帝国にはさまざまな魔術陣が存在するという。
魔術陣は魔術の術式を媒体の上に構築するものだ。実際に新たな魔術陣をこの目で見ることができれば、行き詰まっていた新しい術式の開発にも役立つのではないかとも思われた。
だがそれは夢でしかない。贄たるこの身には、見ることさえ過ぎた夢だ。
「他国へ遊学するなど、ありえぬことかと存じます。わたくしの生き死にはランシアインペトゥルス王国の定めることにございましょう。ならばなにをしてよいのかを定めるのも、この身ではありません――この杯に毒が満ちていたとしても、ただ唯々として干すのがこの身の務めにございます」
「シル」
アーノセノウスの制止にも腹に貯めておけず、本音を吐き出してしまったのは酔っていたからだけだろうか。
「今までわたくしを生かしてくださったルーチェットピラ魔術伯家には、感謝を。ですがわたくしはシルウェステル。兄上はアーノセノウス。いざという時にただしき処置を受ける者と、その手をもって処置をなさる方。そうではございませんか」
「お前は、それでいいのか」
いいのかもなにも。
「それが、『シルウェステル・ランシピウス』でしょう」
当然のことを言ったまで。
だのに、なぜ、彩火伯も王弟殿下も、はげしく打たれた子どものような顔をしたのだろう。
しばらくして、『新しい術式の開発』のためと、リトスへの遊学をすんなり許されたのには、本当に驚いたものだった。
アーノセノウスからはクラーワヴェラーレでも代替わりが起き、この身を秘匿する意味が薄くなってきたからだと伝えられたが、理由はそれだけではあるまい。
これは、スクトゥム帝国で情報を集めてこいということなのだろう。
そう考え、用心の上に用心を重ねてのリトス行きであったのだが。
帰還の途上、このように死んでいくのであれば、すべては無為であったというべきか。
(だがどうせなら。せめて布地ではなく、星空を見て死にたいものだ)
そう思ったが、血が溜まり続ける喉では詠唱もままならぬ。
いっそのこと、学術都市リトスで得た学びを仕込んだローブのように、あらかじめ複数の魔術陣を体内に抱えていれば、壊れた身体も動かせるところまでは戻せただろうか。
埒もないことを思いつつ、無詠唱で布を吹き飛ばそうとした。が、魔術を顕界する魔力の足らぬせいか、それとも血の染みた布地が予想外に重かったせいか。
紋章布は、額にひっかかって折れ止まった。
(これが、ランシアインペトゥルス魔術学院は上級導師のなれの果てか)
自嘲したが、自分の身体が壊れているためであることもわかっている。周囲の魔力をどれだけ吸い上げても、血とともにこぼれていくばかり。穴の開いた桶に水を汲み入れているようなものなのだから。
諦めのまなざしで仰げば、蒼銀の月が欠けていくところだった。
とうにアルマトゥーラはフェルタリーテの水瓶を満たし薪を割ったというに、ひえびえと魔喰ライの王コリュルスアウェッラーナの眼差しがすべてを喰らい尽くしていく。
(三重合の夜であったか)
ひどく寒かった。だが涙すら血をほとんど失った身からは流れそうにもない。
一度ぐらいは抱きしめられてみたかった。あたたかいのか、苦しいのか。しあわせなのか。重いのか。
それすら知らぬと今さらに気づく。
最後ぐらいは、月の光をこの身に浴びてみたかった。蒼銀月の光はつめたいのだろうか。紅金月の光に熱はあるのだろうか。
些細な疑問すら、幽暗に溶けゆくばかり。
かすかな吐息だけが、間遠に夜闇へ響く。
誰にも看取られることなく、ひとつの命が果てようとしていた、その時だった。
突然何の前触れもなく、アルマトゥーラの炉の火が地上に落ちてきたのは。




