飆風吹き渡りて
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
帝都レジナは、ウンボーという大きな半島の中ほどにある。
長大な弧を描くロリカ内海を口腔に見立ててか、ウンボー半島には『スクトゥムの牙』という、なかなか勇壮な別名がついていたりもする。
が、ロリカ内海の東奥にある上に、いびつな二等辺三角形に近いその形を見ると、いいとこ、のどちんこにしか見えないというね。
コバルティ海を食道に見立てるならば、あらおっきな親知らずが下顎に生えてるのね、ってな感じにも見えるだろうか。
このウンボー半島、東側は山々――というか、レジナ周辺では台地とか丘陵地帯がほとんどなのだが――がそびえ、西側、つまりアビエス流域は、細長い平野が延々と河口まで連なっているような地形である。
これは、アビエスの流れに削られてのことだろう。
このアビエス流域の中でも、とりわけレジナより下流域に限られるが、三日月湖は西岸にしか見られない。おおかた流域の中でもレジナから南北に街道が延びている、重要性の高い東岸の開発を優先したんだろう。
そのせいでなのかどうなのかは知らないが、レジナからアビエスを渡らねばならないトラスアビエス街道沿いはまだしも、三日月湖どころか、あちらこちらに溜池サイズの水場で埋め尽くされている。
というか、場所によっては湿地の中を街道が通っているようになっているところもあり、空からでは、ぱっと見区画整理のされていない水田地帯か原野のようにさえ見える。
西岸の方が平地が半島の縁まで続いているので、正直なところを言えば、開発のやりようによっちゃ、使い勝手の良さそうな農耕地になるんじゃないのと、あたしなどは思ってしまうのだけれども。
いや、思うだけですよ?あたしが口出せるようなことでもないし。
別の大事業のせいで、労力とか資金難になってたりするのかもしれないし。
なにせスクトゥム帝国内部、しかも本国の中、帝都レジナ近辺であっても、治水工事の結果と思われるアビエスの川筋の整備は下流域までしか終わってなかったのだから。
あたしは――というか、あたしを含めた船団は、そのレジナ周辺の流域をさんざん荒らし回った。
もともとウィキア豆中毒がある程度蔓延していたこともあるのだろう。多少集落や近辺の領主の手勢らしき少人数との小競り合いじみたものは起きたが、敵の戦力としてはお話にならないレベル。
黄色くなった眼球を剥き、貧血なのかぜいはあと息を切らしながらつっかけてくる者もいて、それにはアロイスたちがむしろ気の毒そうな表情になっていたくらいだ。
……あたしはこっそり指の骨を握りしめた。こうも罪の証を突きつけられては、いくら恥知らずのあたしだって、じんわり後悔してしまう。表に出す気は欠片もないが。
いや、スクトゥムの戦力を削っているという意味では、狙い通りですとも。ええ。
最初にかました威嚇その他がうまくいったのか、レジナから大軍が出てくることはなかったし、心配していた街道からの進軍も、なかなかたどり着けそうにもなかった。
事前にしかけておいた小細工がうまく嵌まったのは、僥倖だったといえよう。
夜な夜な飛び回っては偵察と足止めもしてたんですよあたし。
アエギスの戦いでは数人程度の小集団がばらばらに戦ってるというイメージだったが、さすがに帝国の軍ともなれば、行軍にも一挙手一投足に乱れなしってなもんですよ。
ちゃんとマニュアルができているのだろうが、小荷駄隊らしき荷車で大荷物を運ぶ一隊も大人数な上に、幻惑狐たちの目を借りたら、荷車の予備部品らしきものまでちゃんと荷造りされてるというね。
なんとも素晴らしい充実っぷりである。同国でも自領でなければ関係ない、とばかりに、略奪行為を起こすような真似をしない軍隊のある国というのは、じつに幸せだと思う。
あたしの精神状態にとってもいいことだ。
たしか、古代ローマ帝国で街道が発達したのは、流通だけでなく軍隊を迅速に移動させるためのインフラだったという話があったように思う。
騎兵や歩兵による行軍、荷車による輸送をスピーディに行うため、そのほとんどがきっちり舗装されていたとも。
人間、考えるところは世界が変われば同じと言うことか、それとも落ちし星や星屑の知識チートかは知らない。
だけどスクトゥム国内の街道ときたら、他の地方じゃ類を見ないレベルで仕上げられていることだけは確かである。
ならば、人の嫌がることは進んでやるべきでしょうねぇ?
そんなわけで、あたしはレジナに通じる街道すべてに、進軍してくるだろう軍勢への妨害をしかけておいた。
どんな立派な街道にも、狭隘な場所というやつはある。
山あいだったら、峠とか峡谷といった地形要素もあるのだろう。が、平地であれば、障害となるのはせいぜいが川筋ぐらいなはずだ。
しかし、西岸のトラスアビエス街道はまだしも、東岸の街道ですら、けっこうな隘路になっていたりするんですよ。
いくら昔の川筋わきの道だろうと推測はついても、三日月湖と鬱蒼とした森に挟まれている場所などを見れば、わざと残したボトルネックだよねこれとしか言いようがない。
江戸時代にも、大街道を分断する川に橋を架けさせず、人足や小舟で人を渡したとかいうが、たぶんそれと狙いは同じ。
内乱とか、敵国から大軍をもって攻められるって状況を想定してのことなんだろうけど、あんだけ効率的な輸送ができるようにって整備されてる街道に、意図的にこういう散開不能な場所があるのを見ると、他人を信じられない人間の闇を見た気がするね。
……自分を信じられないあたしの闇はどうなんだって話は、後回しにしますとも。あたしの心には問題を放り上げとく巨大な棚が完備されてますから。
放置しといても揮発するどころかいつでも新鮮、黒歴史トラウマ発生装置になったりするけど。
あたしは、そういった隘路に、心理物理魔術その他もろもろ、嫌らしい仕掛けをたんとした。
最も大がかりなのは魔術陣と氷塊の組み合わせだろうか。
もちろん適当な大きさに作った氷塊を転がしておくだけでも、街道は封鎖できる。数時間程度なら。
しかし氷は溶ける。炎の魔術が顕界できる魔術師がいれば、すぐさま溶かしてしまえるだろう。
たとえ魔術師がいなくても、陣符ってものもスクトゥムにはあるし、いや、リソース消費を気にするのなら、時間がかかることを考えても、一休止ついでに火を近くで焚いとけばいいだけの話だ。
だが、そこで魔術陣が発動する。
『氷が溶けきったら』という条件で発動するように設定しておいたのは、『周囲から魔力を吸収して発動・維持する』『水を顕界する魔術陣』である。
ただでさえ氷が溶ければ水になる。それに魔術陣で顕界した水を加えて量を増やせば大きな水たまりぐらいはできるだろう。
だが、それだけでは、街道の排水機能が優秀だったら、一時間ももたないような、一時的な嫌がらせにしかならない。
古代ローマの街道だって、確か舗装素材の透水性を高めた上に、排水溝ぐらいはついてたというじゃないか。
しかしあたしの魔術陣は、魔力吸収陣から魔力を得るように組んである。つまり、『発動するのに、周囲の物から魔力を吸う』。
おまけに魔術陣は陣符のように、込めた魔力が尽きればそこでおしまいというものではない。魔力を吸い上げられる限り、発動条件が停止しない限り、停止条件が発動しない限り、魔術陣そのものが破損しない限りは発動し続けるのだ。
そして、『周囲』には、『大気』や『地面』はおろか、『氷が溶けた後の水』や『顕界物である水』、『街道の敷石』も、当然含まれる。
魔力が失せれば、地は荒れる。そして岩石は土砂、いや最終的には塵埃程度にまで細かく砕ける。
結果、魔力を抜いた敷石も、その下の割石も砕けてぐずぐずに水に溶け、隘路は巨大な泥濘と化すわけだ。
当然、荷車の車輪なんて動かない。
そして魔力が失われたなら、水は氷と化してゆく。
もっとも水を顕界し続けている以上、すぐに全部ががんがちに凍り付くわけではない。だが、冷たい氷まじりの泥は、馬や歩兵にも盛大な嫌がらせになるだろう。
特に、荷車を牽いたりしていれば。
念のため、事前に街道の状況を確かめたら、舗装もすべて石でできているわけではなく、基層部分は木の杭を隙間なく打ち込むというやりかたで地盤を固めていたようだ。
だけど、魔力を吸われた石材はむろん、木材だって、枯れ木の枝より脆くなる。
結果、時間が立てば立つほど隘路は底なし沼化するというね。
これをなんとかしようというのは、かなり大変だと思うの。
もちろん、これも魔術師が大勢いれば、対応は不可能ではない。
排水溝の底に穴を開けて隠しておいた数個の魔術陣すべてを、魔力知覚を使って探し出して破壊、その後で泥濘に顕界した平石を敷き詰めさえすれば、簡単な修復はできるだろうし?
ただし、この作業には、魔力を吸う魔術陣が障害となる。
街道幅以上に魔力吸収範囲は広げていないので数メートルも離れてしまえば効果はないし、そもそもあたしがラームスやコールナーとしょっちゅう魔力をやったりとったりしているように、生物なら短時間魔力を吸収されたところでたいしたことにならないのは実体験済みだ。
しかし魔術師が、魔術師の装備するものが魔力をやりとりするのではなく、一方的に吸われるというのは、けっこうな痛手だろう。励起状態の魔晶とか持ってたらたぶん泣けると思う。
魔術師だけじゃない。兵士や馬から魔力が吸収されれば疲労感はあるだろうし、荷車、武器、防具なんかも魔力を吸われていれば脆くなったりもするんですよ。
そこに彼らがいつ気づくかはさておいても、すべての地点で対応を完璧にするのは大変なんじゃないだろうか。
ただ、単なる破壊工作ではあまりに近所迷惑が過ぎるのと、アロイスたち、ランシアインペトゥルスの暗部なみなさんが移動するにも困るので、対応策はいくつか考えてある。
アロイスたちには仕掛けをすべて教えておいたし、『氷がすべて溶けたら』という発動条件を逆手にとって、排水溝の水が凍って流れなくなったらそこで停止するようにしてあるし。
近所に植えたラームスの欠片たちの、とある合図でも停止するようにしてあるし。
なお、ラームスの欠片たちは、スクトゥムの軍がどこまで進軍してきたかを伝えてくれる役割も担っていたりする。
主要街道の多い東岸を主にアロイスたちに任せ、船団はアビエスの両岸を往復しながら、順調に攪乱行動を続けていた。
当初、いくらこっちの船足が速いとはいっても、ここは敵地の深奥だ。十倍二十倍の船に取り囲まれたらまずいんじゃないかと心配していたんだけどね。
グラディウスの皆さんへグラミィに訊いてもらったら、そんなこたないでしょうやと笑われてしまった。
なぜならレジナを強襲したときの氷塊で、あらかた片は付いてたからだそうな。
船団が流れ下る先頭に氷塊を置いたのは、防御のためだ。
向こうから飛び道具で狙われても、氷塊が盾になればある程度は防げる。そのついでに、川底に仕掛けられたりしてた障害物も絡めて一緒に下流に押し流してしまえ、と思ってたところもある。
が、まさか港にあった船まで全部下流に押し流しちゃうとはねぇ……。
壮大な生活インフラの破壊行為である。
……い、いや、そこまでアルボーの二の舞する気はなかったんだけどなあ!
丸木橋押し流しちゃった失敗を、また繰り返すつもりはなかったんですぅ!
〔てか、なんでボニーさんが気づかなかったんですか〕
グラミィには訊かれたが、もともとアビエスって、かかってなかったのよ。橋が。
それこそ意図的なボトルネック形成のためなのか、それともここまで幅の広い川に橋を架けられるほどの技術がないのか、理由はわからない。
ピノース河なんて、どんなに川幅があっても、向こう岸に石を投げたら届くぐらいでしかなかったもんね。
意図しなかったとはいえ、スクトゥム側が船いくさに使いそうなサイズの船というのは、今のところほとんどアビエスにはないだろうと、ノワークラさんはいう。
確かに上流に残っているだろう舟も、これまで通りすがりに見てきたものは、蛇行する流れでも取り回しの良い、ちっさな漁舟ばかりだったし。
なので、ロリカ内海から遡上させない限り、船に囲まれる心配はしなくていいだろうということだった。
たとえ遡らせるにしても、船足が違いすぎる。船団のみなさんにはあたしが預けた魔術陣もあるので、ただでさえ流れに逆らって遡上してくる船なんて、止まった的も同然と言われてしまった。
……そこまで言われてしまえば、あたしには何も言えませんて。
一応、船団のみなさんにもアロイスたち並の安全策は施しといたし。
で、あたしは何をやっていたのかというと。
街道に嫌がらせをしかけた後、幻惑狐たちとコールナーを連れ、西岸を積極的に飛び回っていたりする。
といっても、食糧調達も兼ねてるアロイスたちのように、集落を襲撃してまわったわけじゃない。うっかり人とぶつかりかけたら、泥人形だのなんだのでいろいろ脅かして、追い散らしたりしたこともあったけど。
が、そんな遭遇事故だって、ほとんど起きるものじゃなかったし。
帝都レジナに近いあまり、トラスアビエス街道の端渡は、とうにレジナの港湾地区を水浸しにした余波でひどいことになっていた。
が、正直それで足止めされる人など、あたしは見たことがない。
なぜかというと、そもそもトラスアビエス街道は、レジナを起点とした本街道の中でもっと短く、また道筋が道筋なだけにあまり重視されてないものだったらしい。
他の本街道は舗装もしっかりしてあったようだが、なんとこのトラスアビエス街道は、場所によっては敷石代わりに木の板が敷き詰められていたりもしたのだ。
あたしが泥濘魔術陣をしかけなくても、足場はわりとよろしくない。いくら道幅だけはしっかり取られているとはいえ、徒歩の通行はまだしも、ここを荷車で通るのはかなり大変なんじゃなかろうか。
そのおかげで、霧をまとったコールナーに乗っけてもらうと、いい感じの目眩ましにもなったんだけども。
だがこの冷遇っぷりもわからなくもない。なにせ東西にロリカ内海と帝都レジナを最短距離で結んでいるとはいえ、トラスアビエス街道沿いは湿地が多いのだ。むこうの世界の葦かなにかの近縁種だと思うが、丈の高い叢があちこちに勢いよく伸びて視界を遮る。
草むらがあるならしっかりした地面だろうと、ちょっと街道を外れればまず間違いなく泥にはまるというありさまだ。
おかげで集落も少ないとあれば、休息や補給をしようにも場所がない。そんな流通路など不人気になって当然だ。
いくら遠回りとはいえ、水運ならウンボー半島の南端、フェスタムからアビエス川を遡ってくれば積み替え不要だし。
湿地ともあれば、生身にとっては不快の根源となる、吸血性の虫だってたっぷり発生するだろう……し?
(虫いない~)
カロルがくうと鳴いた。他の幻惑狐たちからも同意の心話が漣のように伝わってくる。
(そうか?)
コールナーは不思議そうだが、彼の場合、蚊のような羽虫の類いは、その水を操る能力で霧をまとっていれば、まず被害に遭うことはないということもあるのだろう。蛭やダニのような、貼りつかれると厄介な害虫ですら、よほど油断でもしない限り防げるらしいし。
あたしはアビエスを振り向いた。
川沿いには、秋が深まるにつれて虫は少なくなっていたが、それでもいたはずだ。そして水の流れが滞る場所の方が、虫は多く発生するはずだ。
(カロル。フームス。街道をよく調べてくれないか)
(?わかったー)
コールナーの背中から、手の形にした結界で抱き下ろしてやると、幻惑狐たちはすぐさま姿勢を低くしながら移動しはじめた。ラームスのテリトリーだった低湿地の端にも幻惑狐たちは集団生活をしていた。彼らにとってはホームグラウンドに近いだろう。
アビエス西岸は湿地が多い分、集落が少ない。
そして、トラスアビエス街道は極めて不人気ながらも、本街道として整備がなされている。
つまり、大量の人員や物資を極秘裏に運んだとしても、わかりにくいということだ。
しかもその端は帝都レジナに続いている。
それはすなわち、流通の終点がレジナにあると偽装することもたやすいということで。
(冷たいー)
(さむいー)
心話で文句をこぼしながら素早く動いていた双尾が、二つともぴくっと止まった。
(人の匂いー)
街道の上に、人の姿はない。
あたしもコールナーから降りると、幻惑狐たちに近づいた。
(人の匂いは、どこからした?)
(あっちー)
幻惑狐たちが示したのは、丈高く茂った叢の向こうだった。その脇から水面が覗いていることを考えれば、街道際まで湿地が伸びているのだろう。
だが。
フームスがひこひこと鼻先を近づけた叢の根元は、節ではないところで曲がり、縦に茶色いすじが入っていた。
それも幅広く。
おそらくは人が踏んだのだろう。
あたしは叢をかき分け、そして見た。街道からは叢の影で見えぬところに、しかもご丁寧に同じ植物を上にばらまいてあった隠し舟を。




