アエギスの戦い(その5)
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
それからあたしはひたすら逃げに徹した。
アーノセノウスさんたちのことも、一度は意識から遮断することにして。
あの槍は刺されるどころか、触れられても魔力を吸い取られ、魔術どころか身体強化まで無効化される危険物だ。
だけどそれは言い換えるならば、魔術陣も身体強化も、触れられるまでなら効果はあるということ。
ならば、回避し続ければいい。できることをやりながら。
あたしは、身体強化とクロックアップ陣に底が見えつつある魔力を注ぎながら、ひたすら右へ右へと回り込み続けた。攻撃不能な死角を潰すためだ。
取り囲んでる検証班とかいう連中のせいで、逃げ場らしい逃げ場はない。
それでも、やれることを、やれるところまでやるしかない。
逃げに徹するというのは、この闘技場めいた円陣の中で、単純に逃げ回ることじゃない。受け身一方では、いいように攻撃の的扱いされるだけだ。
だから、フェイントを多用してでも時間を稼ぐ。鎌刃が痛めつけられ、魔術陣が破損することも覚悟して、鎌杖を振るう。
それらすべては目眩まし。別の目的のための一手でもある。
冷や汗ものの膠着状態は、だけどつぶやきに破られた。
「なあ、なんか寒くないか?」
「そういえば……おい」
睨み合いを続けるあたしの横から、息をのむ音が聞こえた。
「おい、スケルトンの足元を見ろ!草が枯れてきている!」
ばれたか。
踏み荒らされて泥塗れになっていれば、しばらくはごまかせると思ったんだが。
そう、あたしはひたすら目の前の穂先から逃げ回り、時に積極的に打ち合いをしているように見せかけながら、ひたすら足元の地面から魔力を吸収していたのだ。
いい加減こっちも魔術の連打と身体強化で魔力が枯渇しつつある。
そんなところでいっぺんでも穂先がかすれば、魔力ドレイン一直線。戦術どころか存在にすら関わりかねん。
物理依存度の低い今のあたしにとって、魔力は生命線、いや生命力そのものなのだ。
だから、攻めあぐねていると見せかけて、ちょっとでも回復しておきたいと思ってたんだけど。
うまくすれば船まで飛んで帰れるくらいには回復できるかもしれない、というのは、いくらなんでも希望的観測に過ぎたか。
甘っちょろいことを考えてしまったのは、周囲を取り囲む星屑連中がすべて、やはりというべきか、非魔術師だったからだ。
魔力感知能力皆無なら、あたしが何してるかもわかるまい、と踏んだのだが。
魔力は知覚できなくても、魔力の移動によって起きる物理現象は知覚できるんだよねぇ……。
「おい先鋒!もっと有効な攻撃をしろ!」
「むちゃ言わないでくださいよ!けっこうこいつ手強いっすよ!」
「投石許可願います!」
「よし、先鋒ちゃんと避けろよ!」
「避けろ、って!ちゃんと狙ってあっちにぶつけ、って、痛って!」
敵味方関係なく、ばらばらと石が降り注ぐ。その一部は足元からすくい取った泥だ。
もちろん、当たってやる義理などない。
あたしは鎌杖を大振りし、省エネレベルの薄い結界を何枚か分けて貼り、時に対峙しているやつも盾にして、ちょこまかと防ぎ続けた。
大きく強固な結界を一枚張ってそれで安心していたら、振り回してる槍でうっかりかき消されかねん。物理攻撃素通しだなんて冗談じゃない。
「情報収集完了!先鋒、左を狙え!」
「うす!」
途端に飛んできた穂先から逃げようと身をひねりかけて――、あたしは、咄嗟に右腕の鎌杖で弾いた。
弾かなければ、左脇に抱えたままの、ウーゴの首に穂先が直撃する。そう直感したからだ。
それはいやだった。未だに彼の首を抱えたままなのは、盾にするためじゃない。
だが穂先が接触した瞬間、魔力が吸収された。
身体強化は崩れ、クロックアップ陣の効果も中途半端に消滅した。
攻撃を弾くことはできたが、その勢いで身体が流れる。
あいかわらず律儀な慣性の法則と、骨身の軽さが憎い。
身体の中心ががら空きになった。
あ
まずい。
ダメだ。そこだけは。
衝撃がきた。
あたしの防御は結界だけに頼っていない。マイボディたるシルウェステルさんのお骨にも強化を施している。
単純に魔力を多く通すだけでも物質は強く固くなるが、加えてアパタイト的な鉱物を骨の表面に顕界することで硬度を高めていた。
だけど、左の上から三番目の肋骨は。
そこは、この世界で初めて本気で殺しにかかられた時に、弩弓で射られて折れたところだ。何にも強化をしていない、素の状態で破壊されたところだった。
「評価!スケルトン系にも刺突武器有効と認定!」
「まじか!刺突耐性ないんかい」
「こいつは予想外」
だがあたしはゲームのモンスターじゃねえ!
ふ ざ け る な !
未だにあたしに絡みついていたせいで、穂先に触れてしまったラームスたちが悲鳴を上げる。
骨のへし折れる痛み、ぞわりとする寒気と脱力感にも耐えながら――あたしは、一歩踏み出した。
穂先が背から突き出る。
とたん、寒気が失せた。魔力吸収が途絶えたのだ。
動ける、とわかったその瞬間、あたしは何も考えずに本気で暴れた。
鎌杖を結界で支えると、自分を貫く槍の柄をがしっと握って固定。即座に膝の骨を振り上げる。
インファイトは股間狙い一択と相場が決まってる。むこうの世界の痴漢対策でだけど。
槍を握っている当人は、平然としていた。槍に魔力を吸われていないからだ。
もちろん、担い手を速攻害するような呪いの武器なぞ運用できるわけがない。よく考えればわかることだ。
つまり、柄の部分までは、魔力吸収能力はついていない可能性が、高い。
ならば穂で刺されたまんまでいることはない。柄にまで到達しまえば、穂先に触れることはない。魔力を吸われることもない。
ちょくちょくフェイントで斬りかかっては、あえて柄で鎌刃を受けられたようにふるまってはいたのも、確認のためだ。魔力吸収回避策が仮説と違ってたら――例えば、敵に奪取されて使われるのを防ぐため、個人認証タイプにでもなってたら――、うっかり奪い取るわけにもいかん。
だけど、仮説の検証なんてもんは最初っからする気はなかった。
だってそうでしょうよ。あたしゃ自分の死期を早めるような実験を確信犯でしてたアルベルトゥスくんじゃないんだ。
仮説が間違ってたら自分が消滅しかねん実験とか。危険すぎるわ。
仮説検証も兼ねて、結界刃をうまく調整して斬れ味を落としていたのは、時間稼ぎのためでもある。そうでなければ槍の柄なんて一撃でずんばらりんに決まってる。
だけど槍の螻蛄首を斬って落とし、目の前の対戦相手を叩きのめしたとしても、それですむわけじゃない。
検証班とやらは周囲におかわりが待機している。今のように一対一ならまだしも、同レベルの魔力吸収能力つきの武器で、複数人にタコ殴られたら本気で危険だ。
検証班を全部切り抜けても、星屑たちの壁を崩すのは無理だろう。
だからこそ、最終手段はさておいて、ぬらりくらりとフェイント多用の時間稼ぎと魔力回復に徹していたのだが。
まさか、本気で検証実験をする羽目になるたぁね。
予定が狂いすぎだってぇの!
おまけとばかり鎌杖で顔を張り倒せば、わりとあっさり槍をもぎ取ることができたが、あたしはその場に崩れ落ちた。
近くでごろごろのたうってる相手は気にしてる暇がない。その程度には、あたしにも限界が来ている。
……それでもこれは、まだ最悪じゃない。
これが剣だったなら、斬撃一発とっくにあたしは真っ二つというやつだ。
もしそうなってたら、たぶん、どうしようもなく消滅せざるをえなかっただろう。
つくづく相手の得物が槍で助かった。
それも、ふりまわした遠心力を利用して長柄で打撃を与えるのではなく、一直線の刺突だったから、被害も一点集中ですんでいる。
とはいえ、現在進行形な百舌鳥の早贄状態のままじゃ、空を飛んで逃げるどころか、穂先に引っかけられて数本は逝かれた肋骨の手当もできない。
「行動不能状態に移行と推定」
「では、引き続き破壊実験を行う」
もう破壊されてるっての。てか人をとことんモルモット扱いかよ。
だが、問題は。折れた肋骨の中身だ。
前にも折れた肋骨は、生身であれば心臓を覆う位置にある。
だから、大切なモノを収めてあった場所だ。
それもどんな動きをしても肋骨にぶつからないよう、四方八方から鎖で吊していたのだが。
あたしは右腕の骨を肋骨の中につっこみ、縛めを断ち切ると、ひとの握り拳ほどの石球を取り出した。
そして暗澹とした。
十重二十重に金属の帯を巻いておいたのは、保護と封印のため。
が、帯にも石の球にも、槍がかすめたせいか傷が入っている。
しかも魔力を吸われたせいで脆くなったのだろう。入ったひびは見る間に広がってゆく。握っていても欠片すらぱらぱら落ちてくるのだ。
こっちも限界だ。
しょうがない。あたしは石球を宙高く放り上げた。
びしりとひびが大きくなった。と思うまもなく、帯も石球――中身の魔術陣の保護と発動防止のため、いろいろな魔術陣を記述し、コーティングしていた外殻――も、粉微塵に吹き飛んだ。
白い中身があっという間に血色に染まっていく。
「いってぇ!」
「なんだこれ、単発の遠距離攻撃か?」
「隠し球かい。スタン範囲攻撃以外にもあったってことか」
外殻の破片がぶつかったのか、星屑たちが騒ぐが違う。
これは攻撃手段じゃない。あたしにとってもパンドラの思う壺以外の何物でもない。
ここまで傷つけられてしまっては、発動を食い止めるには、完全に破壊するしかない代物だ。
たしかにそれはできなくもない。が、それでは託された願いを裏切ることになる。
……はっきり言って、これは危険な賭だ。
しかも、その賭代はあたしだけでなく、この場にいるすべての人間の命になりかねん。
だけど、他に、もう、やりようがない。
今打つ手の骨がなくても、これまで尽くせる限りの手の骨は尽くしてきた。
再起動は不能にした。機能には制限を加えた。そのぶん安定は得ているはずだ。
ならば、それを頼みに最後まで足掻くしかない。
駄目なら星屑たちはともかく、アーノセノウスさんたち船上の味方だけは守ろう。
不安要素と食い合って相打ちに持ち込んででも、始末はつけてやる。
そう約束したのだから。それくらいは守ろうじゃないか。
宙で弾んだ血色の球が膨れ上がるのを見ながら、あたしは金属の帯を六つ同時顕界した。刻み込む魔術陣は紋章布のそれによく似ている。
が、決定的に違うのは内と外の向きだ。
約定どおりの束縛は、今ここに揃えた。
与えるべきは狂わぬための隔絶。
維持すべきは、あるがままの思い。
瞋恚を向けるべきは簒奪者と汝が仇。
守るべきは船を同じくするともがら、海に生きる同胞。
永訣のための再会は、遺言を自ら伝える須臾の暇と知りながら。
さあ、血に狂うことなく、最期の願いを果たしに顕現するがいい。
――ゲラーデのプーギオっ!
* * *
「シルぅううううっ!」
「お待ちを、アーノセノウスさま!」
クラウスはアーノセノウスを抱き留めた。
主はようよう逃げ戻ってきたばかりの船から、また駆け下りようとしたのだ。闇雲に戦場へ駆け入ってどうしようというのだ。
「離せクラウス!シルが!」
「いえ、ここはどきませぬ!なにとぞお静まりを!」
もみ合いを止めたのは、凝視していたアロイスの声だった。
「シルウェステル師はご無事です、戦っておられる」
「なに!」
無事なわけがない。
槍だろうか、その背から突き抜けていたのは。
たとえ動けていても、どれだけの傷をその身に受けたことか。
「いや、だが」
そろって船端から陸を眺めていた一人が、盛大に眉をしかめた。
「あれは、なんだ?」
いつのまにか、赤黒い人影がうずくまった黒衣の骸骨の脇に立ち、周囲を取り囲む敵に対峙しているのが見えた。味方か。
いや、そもそもあの影はどこから湧いて出た?!
そう思ったのはグラディウスの船乗りたちだった。
彼らの目は鋭い。水平線間際の船影まで捕らえて当然だ。
その視界の中で槍をかち上げたのは、両刃の湾曲小剣――船乗りの使う小剣のようだが、その刃影が微妙にぶれるのは、形が安定していないかのようだ。
だがその腕前はすさまじい。
もぎ取った槍をくるりと穂先を返し、銛打ちの要領で放てば、固まっていた敵兵は魚群のようにちりぢりになるいとますら許されず、巨大なケートゥスのようにまとめて突き刺され、ひとかたまりに崩れ落ちたのだ。
「あの男、グラディウスの人間か?」
マリアムの庭で恵みを受けるに足る業前を見れば、少なくとも海の泳ぎ方を知っていることは間違いがない。
だが。ならば、どこの誰だというのだ。
我ら船団を率いてフリーギドゥム海を渡り、コバルティ海を南下してきた者以外に。
こんなスクトゥム帝国の懐深く、帝都近くの内陸部にまで入り込んでいたのは。
「なんだ、あの魔力の渦は」
やや落ち着いた様子のアーノセノウスが呆然と口にした。
魔術師たちにとって、人影は人の形をなした魔力の塊のようにも見えていた。
それが左手に握っていると思わしき投網のようなものと、右手の得物を交互に振るい、骸の魔術師を庇っているとは思えぬ立ち回りで数十倍もの敵を翻弄しているのだ。
「あれは」
アロイスは干上がった喉に息がひっかかるのを感じた。
アロイスの目には、それはただの魔力の塊には見えなかった。通常の術式や魔術陣の整然とした流れとは、似ても似つかぬ。
かといって、魔喰ライの放埒な魔力とは違い、制御はされている。
より似ているものをいうならば、他のものへの攻撃を加え、おのが糧を死体から得ようとする、地獄門。
その切れ端が人型となって動いているようにしか思えなかった。
そして、グラミィには――
赤黒い人影と交錯した敵影がまたぐらりと崩れ落ちた。
「まさか」
「グラミィさま、心当たりが?」
トルクプッパの問いにもグラミィは答えなかった
声すら耳に入ってはいなかった。
闇森でのことだ。森精たちに穢らわしいとまで咎められたものを見たのは。
異様なほどがっちりと、文字通り懐深く守っていた運命共同体は、あれを『罪の証』と言ってはいなかったか?
見る間に形勢が逆転してゆく。
紅影をかろうじてかわし、うずくまったままの骸の魔術師に襲いかかろうとした敵兵が不意に転倒する。なにやらわめきながら持っていた槍を振り回す敵兵は、自分の足を刺したのか、あっという間に動かなくなった。
立ち上がった黒衣の骸骨が手の骨をかざすと、地から数十という人の形が起き上がったのには、船上だけでなく敵兵の間からもどよめきが上がった。
彼の魔術師が使う泥人形だと、アロイスとグラミィだけが見抜いた。
しかし、その泥人形たちの手のあたりで煌めいているのは、どうやらそのあたりに転がっていた武器を手にしているようだ。
二人は表情が強ばってゆくのを抑えきれなかった。
クラーワでの攻防の際には、あの骸の魔術師はできる限り敵の命を助けようとしていた。
それが、あのように殺傷力のある軍勢を作り出したということは、とうとう覚悟を決めたとしか思えない。
大量に人の命を奪うことを。
場合によっては魔喰ライと化すことすらも。
だがのったりと泥人形の群れが前進を始めたとたん、敵がちりぢりに逃げ出してゆくではないか。
何かを叫んでいる者もいたが、それらの者も泥人形の群れに呑まれるか、その前に逃げ出していった。
とうとう敵影が川岸よりはるか彼方へ追い散らされ、アエギスの野より姿を消したころには、すでに日は落ちかけていた。
落陽の朱に染まって近づく二つの影を、船上の者たちは沈黙して迎えた。
すぐれた人の技には歓声が上がる。しかし人のわざとも思えぬものには、ただ沈黙しか向けられぬ。
加えて、あれほどまでに弟を救おうと暴れていた彩火伯ですら、言葉を失ったまま二人を迎えたのは、その姿に愕然としたからでもあった。
「なんという……」
骸の魔術師が左腕に抱え込んだものは、布に包まれており、よくは見えない。
しかし、その右手の骨に握った鎌杖の刃はひどくねじ曲がり、激しい戦闘の名残と見える。
なにより、その胸から背に突き抜けたままの槍はひどく一同の動揺を誘った。
だが、その隣を気遣うように歩いてくる者は。
「兄ィ?!」
悲鳴のような声で船を駆け下りたのは、シーディスパタのクルテル――短剣の名乗りを持つ、ランシアインペトゥルスの糾問使とともにグラディウスファーリーとの折衝にも向かった船乗りだった。
「落ち着け、このばか!」
「これが落ち着いてられるかってんだ!」
補佐を務めるノワークラが羽交い締めにしたが、それでもクルテルはずるずると近づいてゆく。赤黒い人影に向けるその目には、驚愕と、そして微量の希望と歓喜さえ入り混じっていた。
頭のてっぺんから靴の裏まで、赤黒い泥でこね上げた彫像のようになっているのは、これまた激しい戦闘ゆえだろうか。
しかしまごうかたなく、その人物はグラディウスの船乗りの姿をしているように見えた。
両手両足、そして首と額に拘束具のような金属の帯を巻いていなければ。
「なんだよ……!生きてたのかよ、兄ィ!死んだと知らせてくれとか!人の悪ぃことすんなよ!」
赤い男はにかっと笑ったようだった。
その右腕が天に差し伸べられる。
やがて下ろした右腕は、そのまま左胸にふれ、そしてゆっくりと、船上の者たちに、そして船を下りてきた者すべてに向けられた。
「……『天に陽があるがごとく我が心に信ありて、そなたらが心に信ある限り、この航海に海神マリアムの恩寵のあらんことを』」
舌人の老婆をランシアインペトゥルスの者が凝視した。
「意味をご存じなのですか、グラミィどの」
「あの方より、糾問使の途上に伺いました。航海を共にする相手への信頼を示す、船乗りのしぐさであると。ボヌスヴェルトゥム辺境伯家はアウデーンス次期辺境伯どのから教えられたと」
「港湾伯の……」
グラディウスの船乗りたちが、国境を越えて赤黒い男に同じ仕草を返すのを、ランシアインペトゥルスの目は見つめた。
それに頷いた紅影は、さらに右腕を大きく動かした。
指を二本揃え、胸の前から船へ。そして船から前へ。
その指が、不意にぽとりと落ちた。
「っ!」
息をのむ船乗りたちの前、男は驚いたようにおのが手をしばらく見つめていたが、やがて骸の魔術師を見やると、肩をすくめる仕草をしてみせた。
それに応じるように近づいた魔術師に持っていた槍を渡し、なにやら話しかけたかのようだった。
声は全く聞こえぬものだったが、黒衣の骸骨は紅影へ丁重に魔術師の礼をとった。
「なんとおっしゃっておられるか、おわかりですか、グラミィどの」
「『潮時だ』と」
「潮時?」
「より正しく言うなら『マリアムの引き潮が始まった』と」
その声を聞いた者はみな、一斉に男を注視した。
わだつみの支配者マリアムは、冥界の神でもある。
引き潮の始まり。
それはつまり、死に近づいた者が神の御許、深淵の底へと、二度とは戻らぬ旅路に就く刻が来たということだ。
「ばっ、兄ィ、何言ってやがんだ!どんだけみんな待ってたかわかってんのか!あ!」
クルテルの声に首を振った男は、苦笑したようだった。
そして軽く振った、その手を喉元に近づけ。
首の金属帯を引きちぎった。
瞬間、それまで人体と見えていた物は、べしゃりと崩れて血泥の塊となった。それすら須臾の間に灰塵と化してゆく。
「な……!」
すべてが灰と化してもなお、男の立っていた場所へ向けて、魔術師の礼を取っていたローブがぐらりと揺れた。
「シル!」
「シルウェステルさま!」
しかし、その声より早く骸の魔術師をつかみ止めたのは、ノワークラの腕をとうとうふりほどいたクルテルだった。
「おい」
低い声の不穏さに、慌ててグラミィが、アロイスが船を下りる。
それにも気づかぬように、短剣の名乗りを持つ船乗りは、がくがくと骸骨を揺さぶった。
「どういうこった。あれは。あれは、兄ィだった。――なんで、兄ィが、あんな血泥で固めた人形みたいなツラで帰ってきやがる、なんで俺らの目の前で灰になる。なんで、なんでだよ!――なんとか言えよ、この野郎!」
骸骨は抗う様子もなく、強靱な腕に吊されかたかたと揺れた。
そのさまにかえってクルテルはさらに激昂した。
「いくら海神マリアムさまの眷属だって、この理不尽が許せるか!」
「無礼者め、シルからその手を離せ!」
彩火伯がみずからつかみかかったが、髪に雪置く老魔術師と血気盛んな船乗りでは相手にもならぬ。
だがその両者の腕に、そっと命ある枝葉を持つ杖が触れた。
「『むろん、すべて、お話申し上げよう』とのことにございます」
はっと双方が顔を上げれば、そこには厳しい顔つきになった老婆がいた。
「わたくしは主の舌人にございます。たがわずすべてをお伝えしましょうぞ。『その上で、許せぬ、怒りが癒えぬ、命をもって贖えとおっしゃるならば』」
ちろりと老婆に見上げられ、船乗りの手は緩んだ。
「『はて、このような身に、命が宿っているかはともかく。いかようにもなさいませ』と」
「……首の骨でもよこそうっていうのか」
その言葉にはさすがに老婆も眉を上げたが、骸の魔術師当人は、大きく一つ頷いた。
「……『それがお望みであれば』と。――『ただ、欲を申せばこのスクトゥム帝国との戦いの後まで待っていただけませぬかな?』とのことにございます」
老婆と骸骨を見返していたクルテルは、ふと目をそらした。
「まずは、そのすべてとやらを訊かせてもらおうじゃねえか。――話は、それからだ」




