閑話 彼らかく語りき(その1)
本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
骸の魔術師どのは、シルウェステル・ランシピウス師であると思うか、ですか。
……なんとも難しい問いですね。と申しますのも、わたくしは生前のシルウェステル・ランシピウス上級導師とは任務でかけ違うことばかりでしたので。ご活躍のほどは聞こえておりましたが、そのお人柄となりますと、あまりよく存じ上げてはおりません。
ですが、わたくしはこの目であの方のわざを見ております。川の上を見えぬ船で流れに逆らって遡上し、魔物と語り合うような技量を持つ方がいかなる名をお持ちであろうと、表すべき敬意に変わりはありますまい。空から舞い降りてこられたのには驚かされましたが。
空から、というのは、人を喰らう、あのおぞましい魔術陣が発動した時のことです。
我々が駆けつけたときには、峻厳伯を捕らえていた聖堂はすでに裡より破れ、巨大な赤黒い鳥の卵のような形に膨れ上がった魔術陣がその姿をあらわにしておりました。
それまでも、師には幾度となくご心配をなされておりました。敵がいつどんな手を使ってくるかわからぬゆえ、用心の上にも用心を重ねよと。
ですが見ると聞くとは大違い。どのような形をしているかも存じませんでしたから、卵から巨大なルンブリクスのような触手が何本も生えたような姿に変わったことにうろたえることはございませんでしたが、剣も効かぬことには往生いたしました。
しかも人の背丈の倍ほどもある触手は、うっかり近づきすぎた騎士を絡め取るだけでなく、我々が斬り斃した敵すら呑み込んだのです。
まさか、おのれの味方まで喰らうとはと怖気をふるいました。
金髪の星詠みの方も駆けつけてはくださいましたが、彼の方があのように険しい表情をされたところを初めて見ました。そして、剣が効かぬものにも、魔術であればなんとかできるという思いこみは、あやまりであると知りました。
人を喰らい力を増すという意味では、あの魔術陣は魔喰ライの性を持つものと見るべきでしょう。
そして森に住まう星に親しき方々のお話によれば、魔術で魔喰ライを斃さんとするは、火と風の関係に似るとのことでした。
風が十分に強ければ、火をあっさりと吹き消すことができる。
しかし、風がわずかでも弱ければ、もしくは火が強すぎたならば、いくら風を吹き付けてもかえって火を煽り立て、周囲を燎原と化してしまうようなものであると。
なるほど、わたくしの対処は間違いではなかったと心中頷きました。やはり魔喰ライは剣が効くうちに屠るのが一番よいようです。
ですがあの魔術陣には、首を刎ね、頭を断ち割り、心臓を刺せば死ぬような人がましさなど、魔喰ライほどにもございません。
攻めようもない魔術陣より遠ざかるように言われ、敵前より逃亡するのはとためらうものもおりましたが、星詠みの方には、火の勢いを弱めるには、燃えるものをまず周囲から引き離さねばならぬと諭されました。
確かに、おのれらが喰われ魔喰ライに――いや、あのような非道の魔術陣に力を与えぬことこそ先決でありました。
我らは戦陣を組み替えました。人の膏血で構築された卵を遠巻きにし、弓持つ者は火箭を魔術陣に向け、投石帯を持つ者は魔術陣より出てくる敵に飛礫を打つ。それも敵を打ち倒すというより、魔術陣から引き離すためです。
幸いなことに、敵は我らの姿を見ると、散開することなく次々と向かってまいりました。
身につけているものを見れば、斥候か密偵らしき者も混じっていたようなのですが。
彩火伯さまもご存じでしょうが、聖堂はフェルウィーバスの中心部、領主館から広い通りをまっすぐ向かったところにございます。
そこから民草の格好に似せた敵が逃げ出し、平民に入り混じりでもすれば、掃討はかなり厄介なものになっていたことでしょう。
敵の愚かさはこちらの祐助となりました。
その強さもさしたるものではなかったのですが……、後から後から増えてくるのにはどうにも閉口いたしました。数というのは、実に厄介なものです。
討った敵の息の根を完全に止めている間もなく、我らも肩で息をせぬ者はおらぬありさま。
星とともに歩む方も手をあぐねたか、空を見上げられたとみた時のことです。師が地上に風を巻いて降りてこられたのは。
……師とわかっていても、わたくしは思わず後ずさりました。息を呑んだ者も多くおりましたでしょう。
身に纏う魔力は重く凍てつき。むき出しにされた頭蓋骨に、曲がった刃を備えた杖は馬上槍か、巨大な鎌のよう。
海神マリアムの眷属としか見えぬあのお姿ほど、戦場に不吉なものはございますまい。
ですが、あのとき師が空駈けておいでくださらなくては、わたくしは今口を利くこともできぬようになっておりましたと確信しております。
素早く星詠みの旅人の方と声なき言葉を交わされたのか、師は即座に飛礫を顕界し、山と積まれました。それを血の卵の内部へ打つようにと、星詠みの方がグラミィどのの代わりに舌となってお伝えくださいました。
見かけはただの飛礫ですが――ええ、それなりに威力もあるようでしたが――その本質は魔力を吸収する魔術陣とのことでした。
どう細工されているのか、触れても我々の魔力は吸わぬようでしたが、さきほどの風と火のたとえでいうなら、あの飛礫こそは水でありましたでしょう。それまで手の施しようもなかった魔術陣の威力を、直接我ら魔術師でもない者が削ることが可能になったのです。
弓兵も投石帯に持ち替えて飛礫を打ち、血泥より現れた敵兵へ挑発してはおびきだしては討ち続け、……どれだけの時が過ぎたことか。
気づいた時には、聖堂より巨大な、建造物と見紛うほどだった魔術陣は、その色こそ変わることはありませんでしたが、いつしか破壊された聖堂の門ほどの背丈に縮んでいたのです。
これは、と、我らが剣を握る手にも力が甦りました。
さらにせっせと飛礫を打ち、じわじわと魔術陣が平民の家ほどの大きさになったと見た時のことです。
師は単身飛び出されました。
わたくしは驚きました。人の血肉でかたちづくられた魔術陣が縮むたび、次第に湧いて出る敵の数も減ってはおりました。ですが魔術師である師が、我ら騎士より先に、しかもお一人で突出されるとは。
確かに師はお強い。たとえ白兵の間合いに入られたとしても、兵の数人を片付けることなど、師にはさしたる手間ではございますまい。
ですが師の強さは、あくまでも魔術師の強さ。魔術を顕界するまでの数瞬が、戦場では明暗を永遠に分かちます。
おまけに敵がその数を武器としていることも、師はとうにご存じのはず。
一度に数十人にかかられたなら?百人近くに取り囲まれたなら?
わたくしは、師が顕界までの時を稼ぐ武術をお持ちとは伺ったことがございません。
それは星詠みの方もそうだったのでしょう。彼の方も慌てて師を追われました。
わたくしもその後を追いました。もしやその身を捨ててかかられたのではと、遠雷のような予感が焦慮に追い立てました。
しかし、師の方が数倍早かったのです。
わたくしは見ました。剣を振り上げた敵が長槍の間合いにも入らぬうち、武術を学ばれていないと思えぬほどに素早く、ですがどこかぎこちなく師が杖を振るわれるのを。
しかしその刃も届かぬ先で斬り折られた剣身が宙を舞い、鮮血が弧を描くさまを。
あれは、杖の鎌刃に数倍する透明な刃を構築されておられたのでしょう。
……いかにも、師は魔術を放つことで敵を倒すのではなく、魔術を御自分の身に乗せて、間近く迫った敵を、自らの手にかけておられたのです。
数人ずつまとめて斬り斃し、血路を開いた師は、飛礫を撒き散らしながら魔術陣に肉薄し、その刃を振るわれました。ですが。
師の刃は確かに斜めに魔術陣を裂きました。ただの一瞬。
まるで水の流れを斬ったようでした。その結果も。
いくら魔術で強化していても、現世の刃では、水や泥の類は斬れぬものだったようです。
しかしそこで師は術式を顕界されました。魔術師ならぬ身にもいかなるものか判じられたのは、師に肉薄した敵の刃が白く霜を吹くほどに、急激に冷気を帯びたからです。
水は斬れずとも、氷ならば斬れる。それが師のご判断だったようです。
その威力は、まだ未練がましく動いていた触手の数本が途中で凍り付き、無理に動かしたために先端が折れ落ちたほど。
砕けた触手が、地に落ちた勢いでさらに潰れたその時には、もう、師は凍らせた魔術陣を今度こそ斬り裂き、その発動を完全に止めておられたのです。
快哉を叫ぶ声は、しかし上がりませんでした。
どろりと粘つく血色の泥となる魔術陣とともに、師もまたくずおれかけておられたのです。
幸いにも追いついておられた星詠みの方が師をお支えになるうちに、もうひとかたもおいでになり。
方々の樹杖は見る間に形を変え、師の身体を覆い尽くし――
その後のことは、彩火伯さまもご存じのことでしょう。
領主館の中でも他とは隔てられた一画に封じられ、療養を余儀なくされておられた師のお姿を、その後ようやくわたくしが拝見できたのは、軍議の席のことだったのですから。
彩火伯さまと師がお話をなされたあの後、わたくしは師をひそかに追いました。
『仮面越しでもなくば、声をかけることも疎ましいのであれば』。あの師の言葉は、わたくしにも向けられたものでもあるのではないかと思われましたので。
さいわい、フルーティング城砦でお会いしてから、同道させていただきましたことも数多ございます金髪の星詠む方と途中でお会いできましたので、師への取りなしを願えないかと辞を低くしてお頼みいたしましたところ、思ったよりもあっさりと庭園へ入れてくださいました。
ええ、星詠みの方々が殿下より得たという、あの庭園です。
――クラウスどのもお入りになられたのですか。
あの庭園の木々の枯れようには、わたくしも驚きました。ついうっかり触れた植え込みの葉は、ぱりぱりと手の中で微塵に砕けたのですよ。
命というものが失せたような庭園でしたが、その中に、たった一本だけ、青々とした葉を広げる樹がございました。
さして丈も高からず、樹齢を重ねたわけでもなさそうな、若木めいてほっそりとした樹でしたが、世の常の樹木とも思えぬ気配に気圧されすらいたしました。
その樹に、師はまるで相手が恋人でもあるかのように、ひしと抱きついておられました。
師の背丈よりも樹のほうがわずかに高かったので、ぱっと見たところでは、まるで師が樹に抱きしめられておられるようにも見えました。
わたくしはつねに気配を断つのが習いとなっております。ですが師は振り向かれることもなく、わたくしの訪れをお知りになったのでしょう。
(アロイスか)
影すら離れた間合いに届く心話に、はい、と口頭でお答えしましたところ、わたくしが緊張しているのを感じ取られたのでしょう。師は、かすかにお笑いになりました。いえ、そのようにわたくしは感じました
(いや、アロイスさま、と呼ばねばなりませんかな。わたしはこのまま後ろを向いていた方がよろしいか)
師はそうおっしゃると、フードですっぽりと黒覆面をかぶった頭を覆われてしまいました。
……ええ、わたくしは瀕死の人間や死体、特に魔術師のそれが恐ろしいのです。騎士という、死体の山を築く武勇が誇りの身にあるまじきことではありますが。
そのことを師はご存じでしたので、そのようにわたくしを気づかってくださったのです。戦場へ駆けつけてくださった時のことすら詫びられました。
師と心話で話すようになったきっかけですか。
あれは昨年、フルーティング城砦で、師と初めてお会いしたときのことでした。
わたくしの未熟ゆえのことで、口にするも恥なのですが……、彩火伯さまには申し上げるべきでしょう。
わたくしは最初に師のお姿を拝見した際、幾重にも醜態をさらしました。
あのお姿に恐怖しただけではありません。
魔力を感知する能力がある者としては、お姿を拝見する前に常人ではないと、海神マリアムの御許から戻られた方と見抜くべきだったというに、あの冷ややかな魔力の質にすら、そこはかとない違和感を覚えただけで、顔を拝見するまでは生身の人間とばかり思い込んでいたのです。
それだけではありません。シルウェステル・ランシピウス上級導師ではないかと遺留品から推測されたのちも、魔喰ライではないかという恐れを捨てきれず、あの方を襲いもいたしました。
身分ある方が魔喰ライとなられたならば、今のうちに処さねばならぬと。それがこの身の役目だと。
ええ、師を、我が剣にかけようとしたのです。
まあ、それもあっさり返り討ちに遭ったのですが。
――お待ちください。
その杖を、なにゆえ向けられます?
たしかにわたくしは、師へ危害を加えんといたしました。そのことについて言い逃れをする気は毛頭ございません。
ですがそれはわたくしと師の間のこと。彩火伯に難じられるものでもありますまい。
ルーチェットピラ魔術伯家の長であったものとして、またシルウェステル・ランシピウスの兄として許しがたいとおっしゃいますか。
率爾ながら申し上げます。
師は現在、シルウェステル・ランシピウス名誉導師と名乗ることも許されず、ただ、骸の魔術師とのみ呼ばれております。
師が彩火伯さまが弟御、シルウェステル・ランシピウスではないと、彩火伯さまおんみずからそのように断じられたと、わたくしは伺っておりますが。
ルーチェットピラ魔術伯家とのつながりのない方に対するわたくしの無礼を、なぜ彩火伯さまがお咎めになるのですか?
……いえ。お気に障られたなら、なにとぞご容赦を。
わたくしを取り押さえた師は寛容にも、あやまちと無礼をすべてお許しくださいました。
笑えぬ冗談と、わたくしが斬りかかったことすら、たわむれとしてくださったのです。
その時伺ったのです。あの方に生前の記憶がないことも、ようやく判明した御自身の名前が、真実シルウェステル・ランシピウスであることも信じ切れず、ひたすら戸惑っておられたことも。
それからです。わたくしがあの方を魔喰ライではないかとただ疑い恐れるだけではなく、師というお方、たとえシルウェステル・ランシピウス上級導師ではおられずとも、一人の魔術師として見るべきであると、おのれに言い聞かせるようになったのは。
そも、普通の人間とて、ひとしなみに言葉が通じるわけではございません。同じ生者どころか騎士同士であろうと、ものの考え方も理解できない相手はおりますし、今はそうではないとしても、魔術師の方が魔喰ライにならぬという、絶対の保証などもございませんのですから。
師が話のしやすい、理知的な方であると腑に落ちましてからは、ようよう臆病者のわたくしの腹も据わり、次第に恐れは薄くなりました。
その後でしたね。金髪の星追う方が樹杖を携え、フルーティング城砦においでになったのは。
彼の方がグラミィどのともども、師が魔喰ライではないと丁寧にご説明くださいましたこともあり、ようやくわたくしの蒙も啓けた次第です。
……話を戻しましょう。
廃園で師と何を話したか、ですか。
まず、わたくしに、さま呼びはおやめください、と申し上げますと、素直にお聞き入れくださいました。
そして、多少わたくしに関わりのあることどもを、少々申し上げました。
といっても、国の護りやまつりごとに関するような話ではございません。アルボー界隈の風聞と申しますか、わたくしが見聞きし、師も関わられた者についてお話しいたしました。
秋口にご出産を控えられているアダマスピカ女副伯さまは、順調にお育ちの、胎のお子ともどもたいへん健やかだとか。
その妹御のコッシニアさまもまたお元気で、任務でアルボーを離れましたわたくしをたいそううらやましがっておられましたとか。
アダマスピカ副伯領にでんと構えているカシアスは、実家が近いということもあり、鍛錬と称して畑仕事に励んでいるとか。
マレアキュリス廃砦に住むあの魔物――師が名を与えられたためか、たいそう懐かれておりましたね――が、師がおいででないと、ひどくさみしがっている様子だったとか。
よしなしごとのようではありますが、お伝えした消息を師は喜んでくださり、ずいぶんとお心を和ませておられたようです。
師はおっしゃいました。
(みなが選び取った道を歩んでゆけるように祈りを捧げましょう。我身の祈りがどれほどの価値をもつとも思えぬが、どうか、幸せになっていただきたい)
ええ、わたくしにも祝福を注いでくださいました。
……わたくしは、生前のシルウェステル・ランシピウス上級導師を、今もってあまりよくは存じません。
ですが今の骸の魔術師どのには、わたくしの身をもってしても返し尽くせぬ恩誼がございます。また関わった者を気づかい、その身を案じ、幸いを願い、喜んでくださるあの方のお人柄を好もしく思っております。
たとえ、シルウェステル・ランシピウスの名の下に築いた記憶はなくとも、師のそのような所は、彩火伯さまとよく似ておられると思っていたのですが、それはわたくしの誤りでしょうか。
* * *
……シルウェステル師の魔術学院でのご様子、それも名誉導師になられる以前のことをお話しせよと。
そのころの師を知る者はわたくしだけではございません。フルーティング城砦より下って参りました魔術士団の者の中にも、師が上級導師でおられた頃、学院生だった者は多いかと存じますが。
なにゆえ、わたくしのような者にご下問になったのでしょう。
――魔術士団とルーチェットピラ魔術伯家との確執を知らぬわけではなかろうと?
いえ、それはたしかに聞いたことがございます。
ですけど、その確執が生じたというジュラニツハスタとの戦いで、功をお立てになった師との間に軋轢が生じておられるくらいです、その反対に溝が浅くなることもあるのではないかと愚考しましたもので。
……口が過ぎました。申し訳ございません。
学院ではご存じのように、魔術師見習い、それも平民や低い爵位の家柄の子息、息女ほど、熱心に切磋琢磨し、学業に励んでおりました。
なにゆえかと申せば、生きるためにございます。
わたくしも裕福であるとは言い難い魔術男爵家の者ですので、学友といえば似たような身分の者ばかり。彩火伯さまのような方からご覧になれば、細流に集う小魚の群れのようなものであったかと推測いたします。
ですが、そのような細流にすら泥足を踏み入れ、むざと蹴散らすような真似をする方がいらしたことはご存じでしょうか。
平民の中にはお伽噺に夢を見るのか、魔術師として身を立てるより、高き身分の方々の目に止まることを望む者もおりました。
と申しましても、高家の方々がこれはと見るのは、戦力となるような将来有望な者、あるいは魔力量の多い者ばかり。
真っ先に上澄みを囲い込まれ、その残渣も身分ごとにじゅんじゅんに掬い上げていかれるので、最後まで残る者の腕前や魔力量など、まあお察しの通りかと存じます。
そのような者にかけられる声も知れております。応えたところで、夢に見るような色恋、命果てるまでの安泰と幸せなどありえません。せいぜいが胎を貸し種を採取するための契約が、どれほどの条件で結ばれるかでしょう。
それも子が産めなくなったら契約は切られ、放逐されるのです。
首尾良く魔術師として身を立てることができた者も、役に立たなくなるまで働かされるのは同じかと。
胎貸しや種採りよりは長い間お仕えできる、といえばそうですが。
子を産むにしても戦に駆り出されるにしても、命の危険はありますので。どちらがよいかは、まあ、その者の判断次第でしょうか。
ですが、そんなお伽噺に酔いしれる者たちですら近づこうとしなくなった方がおりました。
当時のコルディトルスピカ魔術城伯子息、クスピス・パーチェムデビューテどのです。
このランシアインペトゥルスは、東のトレローニーウィナウロンとはクエルクス山脈で隔てられております。しかし、西のジュラニツハスタとの国境は比較的平坦であり、要衝とは街道の交わる地点にあるものだとか。トゥルポールトリデンタム魔術辺境伯領にも少々似ておりますね。
そのうちの一つ、コルディトルスピカ城を預かるパーチェムデビューテ魔術城伯家も、爵位こそそれほど高くはございませんが、その裕福さは聞こえておりました。
その子息であるクスピスどのも、一時は伯爵家すら何するものぞという、たいそうな勢いでおられたとか。
ですがそれもジュラニツハスタとの戦いの後では、打って変わったご様子でした。戦いは大地を荒らします。収穫は減り、人通りも絶えてはよほど内証が苦しくおなりだったのでしょう。
ですが魔術師見習い、特に女性への手の出し方といったら、いくさの始まる前よりも激しかったように覚えております。
先ほども申し上げましたように、お声がけにも城伯子息の順が回ってきたころには、首席はおろか、誰々と名を挙げられて顔と成績にうなずくような者は囲い込まれ、才といってもトリクティム、いえ砂の粒を並べてみたように、いずれもぱっとしない者ばかりになっていたかと存じます。
クスピスどのは、そのような中でも多少見目の良いと思われる女性ばかりに声を掛け、学院の外に連れ出してはさんざんに喰い荒らして放り捨てておられました。
ええ、下々の中では、恨みに思わぬ者の方が少ないほどではなかったかと存じます。ですがそこは伯爵家以上の方のお目にも止まらなかったものばかり。魔術城伯の子息に抗う度胸もなく泣き寝入りせざるをえなかったようです。
――城伯以上の地位をお持ちの方に訴えればよかったのに?
そのような方は学院内に限られております。中級導師の中でも数人、上級導師の中には大貴族ご出身の方もおられましたが、ただの魔術師見習いに過ぎない、平民や木っ端な家柄の学生が、そのような方々と近しく言葉を交わせることなどございましょうか。
いかがでしょう、アーノセノウス・ランシピウス上級導師?
――そのような方とつながりのある寄子、抱えられた者に頼めばどうなのか?
それでは逆に、元ルーチェットピラ魔術伯家が家宰、かつてグラディオールラーミナ魔術男爵でおられたクラウスどのにお伺いしますが、クラウスどのは、主とのつながりを求めて寄ってくる有象無象にはどのようなご対応をなされておられますか?
いえ、立腹などしておりませんとも。ただ物の見方が違うというだけのことでございますから。
かなりの数の導師やクスピスどののありようから、身分の高い者とはこういうものだと諦めてしまっていたわたくしどもにも、落ち度はあるのでしょう。
……ええ、クスピスどのほどではございませんが、それこそ世故に長ける機会もない学院生を口車に乗せ、はかなき一夜華の夢を見せてはさっと手を引く導師、成績とその身体を引き換えに、などと持ちかけられる学院生の話など、掃いて捨てるほどございました。ご存じではおられませんでしたか。
……ところで、彩火伯さま、そしてクラウスどのは、トルクプッパと名乗るわたくしの別名をご存じでしょうか。
はい、ドミヌンプッパと申します。
剣呑な二つ名ではございますが、これも家業に縁あってのこと。平たく申せば人を操るわざに長けている者のことだとお考えください。
わざの中には、人の認識を操作するというものがございます。いえ、たいしたものではございません。
身近なものでは、この化粧などもその手管の一つでございます。皮一枚に差した色合いに、人は目を惹かれまたは背けもいたします。
殿方の心を誘うしぐさ、遠ざけるしぐさなどもございます。
そのわざをして、わたくしはクスピスどのに干渉を加えました。
目を付けられた友人をなんとかしてやりたい、そう思ってのことです。
もちろん、身を挺して誰かを救おうとするほど、わたくしは善人でもありませんし、自らを恃むほど、魔術に長けているわけでもありません。
ですが私欲で使うなという家業の戒めを、我身のためではないと言い訳をつけて使った、その心のどこかに傲慢の片鱗があったのでしょう。
クスピスどのが公の場で失態を犯すようにしむけることはたやすいと。
当然、コルディトルスピカ城伯は隠蔽にかかるでしょうが、より高位の身分の方の目をそうそう欺けるわけもなく、調べが及べば、クスピスどのらが種々の所業は、すべて武神アルマトゥーラの炉のもとに明らかになるだろうと。
ですが、拙い術は破れ、騙されたと感じたクスピスどのは瞬時に激昂しました。
……愚か者の血や涙をくだくだと語るつもりはございません。わたくしは二重に蹂躙された、とだけ申し上げます。
友人が見つけてくれた時には、わたくしは破れた血袋のようなありさまで、虫の息だったとか。
その後、動いてくださったのは、その当時魔術学院長代理をつとめておられましたシルウェステル師でした。
師はクスピスどのの所業のみならず、魔術学院にはびこっていた悪癖を一掃されるだけでなく、コルディトルスピカ城伯や導師といった、問題を起こした子息の家にかけあい、なにがしかの涙金を被害を受けた学院生に払うようにしてくださったのです。
わたくしが学業に復帰した時には、悪質な者は高位の身分の方に咎められてちぢこまり、学院内はすっかり風通しのよいものになっておりました。
友人の話にシルウェステル師への感謝の念を抱いたものですが、当時のわたくしはただの魔術師見習いの一人、師におかれては口をきいたこともない学院生の一人でしかありませんでしたでしょう。声をお掛けするなどかなうことではありません。ただ、その清廉なお人柄を遠くから敬するばかりでありました。
師は身分の高い方でありましたから、平民のみならず低位の貴族の子女もこぞってまとわりつこうとしていたようですが、きれいに躱されておられたようです。
学院生に手を出す導師について、あれこれと囀る、口さがない学院生の噂話にも、シルウェステル・ランシピウス師の御名前だけは聞いたことがございませんでした。
そもそも師の研究室には、人避けとして魔術陣が貼られており、その前まで辿り着くにも、相応の腕を持つ者でなければならぬとか。
……これなどは、師についての噂話というより、入らずの寮のような学院の不思議話と思われていたようですが。
魔術学院を修了してのち、わたくしは家業を継ぎ、闇黒月の澱みに身を隠す者となりました。
男性、それも魔術師の男性にちかぢかと対峙すれば、今でも身が竦みますが、それでもかぶる仮面は増え、かつての弱き学生よりは使える者になったと自負しております。
ですが、ようよう師と間近で働くことができるようになったのは、スクトゥム帝国へ向かう糾問使団の一人に入れていただけてからにございます。
それも私用で師に話しかけることもいたしがたく。
グラミィさまとは少し話もできるようになりましたが……、ゆっくりとお礼を申し上げることもできぬまま、クラーワにもお供することとなりました。
その際、とんでもない思い違いから、師に大変な御無礼をしてしまいましたことには、ただ恥じ入るばかりです。
いえ、わたくしごとですので、詳細はご容赦ください。
ただその際、謝罪とともに、学院でのことをお話し申し上げようとしたときのことが気に掛かっております。
グラミィさまにお言葉によれば、師はあっさりと許してくださいましたようにございます。
が、魔術学院でのことは、『肉持つ身であったころの記憶は戻っておらぬ』とおっしゃられたのです。
……覚えがない、そうおっしゃることにさらにお礼を申し上げるのは、気を緩めさせ、より懐に入ろうとする手管の一つでもございます。それゆえ、誤解されてもと、それ以上申し上げたことはございませんが……。
今の師は、本当に記憶をお持ちではないのでしょうか。それとも、御身辺におられる方への配慮から、あえて記憶を失っていると、そのようにおっしゃっておられるのでしょうか。
なにゆえ彩火伯さまが今ごろになって、師についてご下問になったのかという疑問ともども、暗き影に身を置くわたくしなどには、いまだよくわかりえぬことどもでございます。
アロイスとトルクプッパさん、暗部から見た骨っ子でした。




