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EX.蒼銀月を追う者

本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。

「騎士団長が、トゥルポールトリデンタム魔術辺境伯領へ向かわれたそうですね」

「耳が早いですね、ルキウス」


 魔術学院長オクタウスは手を止めて、報告者を見上げた。


「それはデキムスさまから伺いましたか?」


 ジュラニツハスタの王子デキムスは、このランシアインペトゥルス王国への人質だ。

 そのような情報は遠ざけられているはずなのに、入手していたとすれば周囲の責を問わねばならぬ。

 

「いいえ」


 だがルキウスはかぶりを振った。フードに覆われた表情は見えぬが、光に透けるような銀とも透明ともつかぬ色合いの髪がこぼれ、室内の灯りに揺れた。


「話をされていたのは、ルーチェットピラ魔術伯とステラートゥスダート子爵でした。ステラートゥスダート子爵が退出されるところにいきあいまして。漏れ聞こえました話です」

「ああ」


 オクタウスは得心した。


 ステラートゥスダート子爵ウェール・ランシピウスは、ルーチェットピラ魔術伯マールティウスの嫡男だ。デキムスよりたしか三歳ほど年上であったか。

 

 王都に居を構える貴族の中には、よりデキムスと年の近い子息のいる者がいないわけではない。

 だがジュラニツハスタとの戦いがランシアインペトゥルスに遺した爪痕は大きく、人々の心に溝となって深く刻まれている。

 貴族の中にも、そしてその子息の中にも、かつての敵国の王子に警戒や侮蔑を覚えぬ者の方が少ない。それはある意味当然のことだろう。 

 しかし、表だって嫌悪を示すような者、陰口を好む者を学友として取り立て、近づけるわけにはいかぬ。

 デキムスは下位とはいえ、ジュラニツハスタの王位継承権者の一人なのだ。

 

 とはいえ、本国ではすでに成人した上位の王位継承権者がひしめき合っているという。デキムスに王冠がわたることは、まずないだろう。それは王弟たちの見解が一致するところだった。

 しかし、いつかはデキムスも帰国することになる。なればジュラニツハスタがランシアインペトゥルスと、敵対ではなく友好を選ぶよう、デキムスの心に楔を打ち込み、人心の鎖でつなぎ止めておくべきであろう。

 王の意向を受け、その周囲を固める者が厳しく選ばれた。

 生前のシルウェステル・ランシピウス上級導師が傅役(もりやく)の一人として選ばれていたのも、その立場を受け継ぐかたちで、大甥であるステラートゥスダート子爵ウェールが学友の一人に選ばれたのも、いくつかの思惑が絡んでのことだ。

そして、ルキウスもまた。


 ルキウスは、オクタウスがデキムスの周辺に魔術学院の色合いを強めるため、最近になって送り込んだ者の一人でもある。

 傅役としては年若な上になんら政治的な権力も持たず、学友というにはウェールよりも年上なうえに、したしくつきあうには身分にも支障があるというので、表向きは年の近い教授者の一人ということになっている。

 実質的には、他の教授者の補佐兼知的な遊び相手というところだろうか。本の朗読、語学での会話相手といった、専門的な教養には疎い通常の小姓や従者では務めきれぬ役割を果たす親しみやすい存在として、人質というデキムスの心情を和らげることに一役買っている。


 加えて、ルキウスは監視者の一人でもある。

 魔術師を魔術師だけで監視することは、互いに魔術という手の内を知っている者同士のため、困難でもある。したがって監視に必要な魔術師は常に複数人必要となる。

 しかし幸いなことにデキムスに魔術師の能力はない。非魔術師の監視ならば、必要な魔術師の数も能力も抑えられる。

 傅役に入れられていた魔術師がシルウェステル・ランシピウスただ一人であったのも、その後傅役に魔術師が補充されていないのも、そのためであろうか。

 

彩火伯(さいかはく)も名誉導師もお忙しい方ですから。マールティウスどのらが調整に当たられているのでしょうが……」


 オクタウスはかるく眉をひそめた。

 そのシルウェステルの赴いたフルーティング城砦からの求めに対し、アーノセノウスが南へいそいそと向かったことは知っている。おおかたその後始末に追われるマールティウスとその子ウェールが、年の離れた兄が率いる騎士団との連絡役も務めているのだろう。

 しかし、フルーティング城砦への増員として発つのならば、アウクシリア騎士団が先のはず。

 クウィントゥス自ら騎士団を率いて――おそらくはヴィーア騎士団であろう――が発ったことに、オクタウスはイヤな気配を感じた。

 まさか、不穏は国境の内側にあるということなのか。


「質問をしてもよろしいでしょうか」

「どうかしましたか、ルキウス」


 オクタウスは少年を見返した。命じたことに覇気なく従うばかりのルキウスが、みずから質問をするなど珍しいことだ。


「ステラートゥスダート子爵がルーチェットピラ魔術伯に『シルウェステル師に会わせてほしい』と願われていました。『本当に骨なのか確かめたい』と。シルウェステル師は、まことに海神マリアムの御許より戻られた方なのでしょうか」

「なに?」


 つまり、それは、マールティウスは叔父が骸骨になってから、己の子と会わせたことがないということか。

 

「どうやら、デキムスさまにシルウェステル師とお会いした話を聞かされたようです。わたくしも直接お聞きしましたが、デキムスさまは、海神マリアムの御許から戻ってこられたシルウェステル師と、一度だけですがお会いしたことがおありだとおっしゃっておられました。ですが、そのようなことがあるのかと」

「……一度だけとはいえ、デキムスさまも得難い体験をなされておいでなのですね」


 口調にも羨望の色合いが隠しきれなかったのだろう。ルクウスは驚いたようにオクタウスを見返した。


「ルキウスは、シルウェステル師にお会いしたことが?」

「ございません。この名をいただく以前も」

「そうですか」


 オクタウスはやさしげな顔だちに苦いものを浮かべた。


「亡くなった方を悪くいうのは忍びないのですが、あまりにも兄上はその、…異論を許さないお方でしたから」

「学院長さま。言葉を飾らず、偏狭な愚か者とおっしゃってくださってもかまいません。我が父の咎は咎ですので」

「……それは置きましょう。しかし、惜しいことをしたものですね」


 オクタウスは嘆息した。王族として調整されきった表情はどこへやら、年の近い甥を案じる思いだけがそこにはあった。


「すぐれた先達に学んでこそ、魔術師として伸びることができるのだとわたしは思うのですが」

「……学院長さまは、ご覧になったことが?」

「今はオクタウスでいいですよ。ルキウス。シルウェステル師の腕は、すばらしいものです」

「それほどオクタウスさまがお褒めになるとは。シルウェステル師は、彩火伯より魔術に長けているのでしょうか」

「術式の構築もそうですが、シルウェステル師は魔力の扱いが見事なのですよ。収束の速さ、濃厚さ。絶技とはあのことを言うのでしょう。術式の扱いも。他者の構築したものすら、たやすく破壊されるのですから。……どうしました?」


 オクタウスはルキウスを見上げた。フードの間から、淡い蒼氷色の目が揺れていた。

 

「本当に、シルウェステル師は骨だけのお姿なのでしょうか?」

「ええ。わたしも一度、お顔を……というか、頭蓋骨を拝見いたしましたし、達人(ドクトゥス)の輪(・シルクル)の授与もこの手で行いました。師が生身を持たぬお方なのは、真実です」

「……そのような身で、なにゆえに生きていることがおできなのでしょう」


 玄妙な声にオクタウスは笑った。


「それこそ海神マリアムの恩寵とでもいうべきでは。直接伺ってみたらどうでしょう」

「機会がありましたら。いずれ」


オクタウスの御前をさがったルキウスは、フードをかぶったまま、古い離れの一つにむかった。

 ルキウスは魔術師である。だが、かつての名では資格試験すら受けることができずにいたから、おおやけには初級課程すら修了していないことになっている。

 それではあまりにも問題があるというので、ルキウスの力量を自ら確認したオクタウスが、中級魔術師としての資格ありとみなすと学院長権限で定めてくれた。

 とはいえ、中級課程を修了したばかりのひよっこでは、このように魔術学院の敷地内にある離れを一つ借りることはできない。それは中級以上の導師の特権だ。

 なのでルキウスは、近年魔術学院を去った、とある中級導師が使っていた離れが老朽化しつつあるので、それを寝泊まりしながら魔術で補修するよう命じられたという体裁をとることで、身を隠す場所をようやく得たのだった。


 土間床でないだけましだが、一つの部屋しかない離れには、腰掛け兼長持や寝台といったごくごく簡素な家具がわずかばかりしかない。

 だが、本当にただ寝に帰るだけの場所と割り切っているルキウスに不満はなかった。

彼が望んだのは、鍵がかかり、自分が許可せぬ限り余人の立ち入ることのない空間。それだけだった。

 

 ぴったりと窓の板戸まで締め切って、ようやくルキウスはフードを下ろした。

 露わになったのはオクタウスとよく似た面差しだった。


 甥と叔父というだけでなく、ルキウスとオクタウスの母は従姉妹同士でもある。

 ただ、印象がまるで違うのは、色合いのせいもあるのだろう。

 やや重い銀灰色の髪と、濃いコンムニス(露草)色の目のオクタウス。

 銀というより透明に近い髪と、淡い蒼氷色の目のルキウス。

 オクタウスが満ちたる蒼銀月(カルランゲン)なら、ルキウスはその昼の影でしかない。

 だが、それでいい、いやそれがいいとルキウスは固く信じている。


 レーグルスは、父親という男が嫌いだった。自分の息子に小王という意味の名を付けることで、間接的に王になれなかった己を慰撫しようという、男の心性が嫌いだった。


 レーグルスの名はもともと彼だけのものではない。父親は彼の兄にも同じ名前をつけたという。

 兄が魔術師としてのすぐれた才の片鱗を見せ始めたと知るや否や、父親は兄を呼びつけた。

 魔術師としての才は魔術師にしか磨けぬ。ならば父が直々に教えてやろう、という口実だけはなんとも立派なものだったようだが。


 数ヶ月後、兄は死んだ。

 病死として処理がされたが、その全身はありとあらゆる種類の傷に覆われ、血を吐いたその顔はやつれきっていいたという。

 その後数ヶ月ほど父親が宮廷に姿を見せることはなく、やがて男子がその妻に産まれると、レーグルスという名が再び与えられた。

 

 そのことを教えてくれたのは、レーグルスたちの住まいのあった、魔術士団本部にある礼拝堂付きの司祭だった。

 本来であれば団の長である父親一人のためにあるような礼拝堂だが、あの男には信仰などまったくなかった。

 そのため、義務以外で主が訪れることのない礼拝堂の司祭は、レーグルスに読み書きその他必要な教養を与えるために全力を注いでくれたのだった。

 

 魔術師の指導者も共犯者だった。子に無関心な親も、子を虐げる親もいないわけではない。しかし、父親のなしようはあまりにもひどすぎると憤激してのことだった。

 彼らの助言により、レーグルスは真摯に学んだ。

 しかし、レーグルスが魔術師としての才能を父親に見せることはなかった。


「できの悪い子だ」

「無能め」

「我が子とも思えんな」

 

 思いついたように引っ張り出され、魔術の腕前を見せよと強制されるたび、レーグルスに罵声を浴びせる父親の目は愉悦に光っていた。

 それが、父親自身が投げかけられていた言葉だと知ったのは、祖父に会った時だった。

 

「無能の子は、やはり無能か」


 事実の後認とも、落胆の残滓ともつかぬ色に染まった言葉を、無表情でレーグルスはやりすごした。

 

 レーグルスとて罵言に怒りを感じないわけがない。だがおのれの命は惜しい。同じ名を与えられた兄のように、親に才を妬まれて虐げられた末に、魔術の的にされるような死に方はいやだった。

 そのことにすら気づかぬ、そして命を惜しがるがゆえの擬態にも気づかぬとは。

 無能の親や祖父も無能ではないのかと思ったが、レーグルスはそれも黙ることにした。

 

 父親も祖父もレーグルスの見るところ、他者を傷つけることに意欲的だが、その結果には無関心だ。

 そのくせ自分のかすり傷には騒ぎ立て、敵と見なした相手に執念深く牙を剥く。

 そのような気質の者を正面から罵ったが最後、どのような悪辣な復讐を考えるかしれたものではない。

 王弟である父親への罵言ということで王家への不敬ぐらいには言い立てるやもしれぬ。

 重罪には重罰。苦痛を伴う死刑の中には、腑分けというものもある。

 内臓を外気にさらし、屍肉を喰らう鳥につつかれながら緩慢な死を迎えるのも、レーグルスはお断りだった。

 

 幸いにも、愚鈍のふりを通せば、憎悪どころか関心すら失せ果てたのか、烈霆公(れっていこう)も、その娘である自分の母親も、ほとんど顔を見ることすらなかった。

 そもそも、母親という女の顔を最後に見たのは、いったいいつのことだったろうか?


 血のつながりを持つ者を信じることができぬまま、いやいつその気の向きようが変われば、直接命を狙われるかわからぬまま、レーグルスは息を潜めて生きていた。

 司祭たちの助言と目くらましのおかげで、なんとかぎりぎりのところで身をかがめ、回避し続けていた、その大きな命の危険が、突然消失した。

 父親という男の自爆という形で。

 

 レーグルスの父、王弟クウァルトゥスは、シルウェステル・ランシピウスへ理不尽な恨みを募らせ、魔術士団を使ってその行動を阻害するどころか、殺そうとした、という。

 問題になったのは、王命を直接受け、主要な役目を担った味方を狙ったこと、それがルーチェットピラ魔術伯家というランシアインペトゥルス王国の魔術師系貴族の中でも力ある家に属する者であったことだけではない。

 とりわけ、国王より預かる魔術士団を私欲のため悪用したこと、それが王命の絡む国の軍事行動の最中であったこと。そしてまた副伯領を二つほど巻き込み、膨大な被害を出すことすら是としたことが大きかったようだ。

 その判断を支持されるわけがないと、それすらわからぬほど狂い果てたか――とは、レーグルスは思わない。

 もともとあれは狂いきっていたのだから。

 そうでもなければ、年端もゆかぬ我が子の才能に嫉妬するあまり、死ぬまでさいなむなどということを、するわけもない。

 

 クウァルトゥスの罪がつまびらかとなり、烈霆公が蜥蜴の尻尾切りとばかり、レーグルスすら密かに弑すか、それとも一生飼い殺しにすべく、いらぬ手を差し伸べてくるかと思われた。

 が、それより早く叔父のオクタウスが――叔父といっても、レーグルスともわずか四歳しか違わないのだが――、レーグルスの身柄を引き受け、光を意味するルキウスという偽名と、魔術学院の使用人という表向きの身分を与えてくれたのだった。

 同じく烈霆公に睨まれる身だ。自分よりいっそう後ろ盾は薄く、その生死すら左右されかねぬ甥に、憐れみと共感を覚えたがためかはわからない。ただルキウスはひたすら感謝した。

 身分を失ったことなど、たいしたことではない。

 レーグルスは、ルキウスとして生まれ変わることができたのだから。


 ルキウスとして生きる以上、オクタウス叔父上に恩を返さねばならぬと、かつてレーグルスであった少年は固く決めている。

 足手まといになるなど、もってのほかだ。

 たとえ、烈霆公あたりには、身ぬちに流れる血にふさわしくないと舌打ちされそうな従者の服に身を包み、他国の王子の指導という名目で、宮廷内での情報収集といった諜報の下働きのような仕事を担わされようと、血のつながりゆえに似た容貌ゆえの影武者として使い捨てられようと、それまで死んでいるように生きてきたレーグルスの生よりはるかに意味がある。

 

 そもそも、レーグルスという名を、王弟の嫡男というつながりを捨てた今、ルキウスである自分の価値など、ほとんどないのだ。

 ただより高いものはない。無償の愛など存在しないのだから。

 ならば、この手で自身の価値を積み上げ、オクタウスの寵臣となろう。そうしていつか、かつて名乗っていた名以上の価値を、今名乗る名に与えることができたときこそ、いまわしい過去をすべてルキウスの名で塗り潰すことができるのだ。

 そう、ルキウスは信じている。


 シルウェステル・ランシピウスはどうなのだろうか。

 ふと、ルキウスは考えた。

 ウェールたちの祖父、彩火伯アーノセノウスと、絢爛な風聞に取り巻かれたその弟の間には、血のつながりはないと聞いている。

 彩火伯が、兄から弟に向けるものとは思えぬほどシルウェステルを溺愛しているとは、どこで聞いた陰口だったか。

 が、話は曲がって伝わるものだ。己が目で確かめなければ、信じることなどできはすまい。

 人は血のつながりある者ですら、無条件で愛することなどないことを、ルキウスは己が身で確かめた。

 

 もちろん、己が親とのつながりがまっとうなものだとは思わない。だが彩火伯の耽溺もまた、過不足ないものとは思えないのだ。

 そもそも、シルウェステル・ランシピウスはそれだけ愛されるほどに価値のある存在なのだろうか?

 そうではないだろうと、ルキウスは蒼氷色の目を細めた。浮かんだ嫉妬の色は誰にも見えなかった。


 年寄りが繰り返し語るジュラニツハスタとの戦いに生き残ったというだけでも、確かに彼は優れた魔術師であったのだろう。

 だが、そのわざを見た者は少ない。魔術学院でも講義を受け持っていたという話だが、その一方で宮廷に頻々と伺候し、ルーチェットピラ魔術伯家の数ある屋敷を転々とし、あるいは国外を放浪することすらあったためともいう。

 海神マリアムの御許より戻ってからは、なお魔術学院に腰を――いや、腰骨を、というべきか――据えたところなど、見たことがない。


 全身骸骨という姿は――ルキウスは見ていないが、オクタウス叔父上が本当だというならば、その通りなのだろう――海神マリアムの眷属と言い張ることもできるはずだ。

 つまり、聖堂にすら食い込み、あるいは対立するだけの宗教的求心力を作り出すことすらできなくもない。

 

 聖堂で大きく祀られているのは、世の信仰を多く集める武神アルマトゥーラや豊饒神フェルタリーテであることが多い。しかし、それは他の神々を祀っていないということではない。

 とりわけ海神マリアムは沿岸部だけでなく、かつて戦場となった土地や墓地にも大きく祀られることはルキウスも知っている。

 そのような聖堂から、海神マリアムの眷属そのもののような姿をしたシルウェステル・ランシピウスが勢力を伸ばしていこうとしたなら、おそらくは、今王都の聖堂を掌握しているパトルウス大司教ですら手に余るものとなるだろう。


 しかし、シルウェステル・ランシピウスはそうはしなかった。

 むしろ自ら王都の聖堂に赴き、多額の喜捨とスクトゥム帝国に関する情報の提供を行うなど、聖堂に帰依する立場を示すような行動をしている以上、たとえ今後宗教的に名を上げようとしても、それは聖堂の名誉と利益をも上げるものになるだろうというわけだ。

 だが、海神マリアムは冥界神でもある。その眷属の顕現ともなれば、スクトゥム帝国との戦で出るであろう戦死者を手中に収める者、という解釈ができなくもない。

いずれそのような形でシルウェステル・ランシピウスを利用する者も出てくるだろうと、ルキウスは考えている。

 それが、新たな分断を作り出すことになるだろうとも。


 政治的な対立構造ができるのは構わない。もともと国内に無数に存在しているものが、多少増えようが収束強化されようが、それはたいした問題ではない。

 だが、宗教的な分断ができるということは、国の形を大きく変えることになりかねない。

 分断というのは互いを絶対悪と見なし、自らを善に仕立てるにちょうどよい状況だ。

 それで高まった戦意を肝心のスクトゥム帝国に向けるのではなく、目の前の対立している相手にしか向けられないような、思考可能範囲の狭小な連中が力を持てば、おそらくこの国は沈む。

 そして、そのような連中が自身の立場を手っ取り早く強化するためにしそうなことは、目立つ存在を旗頭として先鋭化させることだ。

 今のシルウェステル・ランシピウスほど適任な者はいないだろう。

 

 祀り上げようとする者だけでなく、シルウェステルには敵も多い。ルキウスの亡父を筆頭に、魔術学院の中にも名誉導師に任ぜられたことを妬み、称号すら王に賜ったことを悪くいう者は絶えない。

 真に優れた魔術師ならば、敵などできるわけがないのだがとルキウスは鼻に皺を寄せた。

 それこそ、オクタウス叔父上のように人徳のある方こそが真に優れた魔術師というものだ。

 

 ならば、現在、シルウェステル・ランシピウスが支障なくいられるのは、彩火伯をはじめとしたルーチェットピラ魔術伯家の力量、そして王命を負っている現状のせいだろう。

 そう、ルキウスは結論づけた。

 愚かな父、クウァルトゥスの馬鹿げたやり口と、それに対する処分が苛烈だったからこそ、今のところ誰も手を出そうとはしないだけだ。

 

 ――王命がなくなったら、シルウェステル・ランシピウスはどうするのだろう。いや、どうなるのだろう。


 その時にこそ、シルウェステル・ランシピウスに会ってみたいものだとルキウスは思った。

 燦爛たる評価と虚飾をすべて剥ぎ取られ、欲望の網で絡め取られ地に堕とされ、泥濘を引きずり回された後の『骸の魔術師』に。

 それでも血のつながらぬ兄に愛され、大甥にまで慕われるような価値が、おのれに本当にあると思っているのかと、正面から問うために。

 実の父母にも祖父にも愛されず、兄を殺され、ただ憐憫によって生かされている今の自分よりも価値があるのか、比べるために。

 

 ルキウスは気づかぬまま眠りに落ちた。

 レーグルスだった自分に罵声を浴びせる父親と同じ笑みを、いつしか己が浮かべていたことに。

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