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EX.コッシニアの休日

本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。

久しぶりのEX.です!

「ニアせんせぇー」

 

 こどもの甲高い声に、草刈りの手が止まった。


「草あつめてもいい?」

「こら。パル」


 中級導師の顔で、コッシニアはめっと睨んだ。


「言葉使い。『草あつめてもいい?』ではなく、『草を集めてもいいですか?』ですよ?」

「はーい。クサヲアツメテモイーデスカ?」

「……まあいいでしょう。『どうぞ』」

「うん!」

 

 目をきらきらさせて、パルは杖を構えた。

 幼児の魔力(マナ)は炎に大きく偏ってはいるものの、その量は成長途上とも思えぬ大きさだ。そして術式を正しく構築できれば、魔力の質は顕界した結果に及ばない。

 刈られた地表すれすれに吹く風が倒れ伏す草をくるくると巻き込み、巨大な一枚の布でもあるように丸めていく。それを追いかけるパルの小さな背中を見送りながら、コッシニアは汗みずくの顔を拭った。

 帽子を脱ぎ額にへばりついた髪を横に流せば、いつもは隠している火傷痕も露わになってしまっているだろう。だが誰が見るというのだ。

 べったりと水に落ちた後のように、汗に濡れた髪は重い。きっと色も濃く黒ずんでいることだろう。それがいっそう熱を集めるのだが。


 コッシニアが姉のサンディーカに魔術師としての依頼を託されたのは、アダマスピカ副伯領からようやく雪の色が消えたばかりの頃だった。

 いつものように休みを利用し、アルボーから故郷へと飛んで帰った時、領地をその腕で切り回す女副伯としての顔で用件を切り出され、コッシニアは笑顔で応えた。

 初産は秋口という産婆の見立てだが、見るたび大きくなっているお腹を大事そうにさすっている姉を見れば、微力なりとも力を貸したいと思うものだ。それが郷里に益あるとあればなおのこと。

 

 ただ、姉には別の思惑もあると教えてくれたのは、姉の配偶者となったカシアスだった。

 そちらから離婚を言い出したくせに浮気だなんだと騒ぎ立てた、姉の前夫であったペリグリーヌスピカ城伯を手ひどく追い返し、女副伯の配偶者に、準男爵では釣り合わぬのではないかと容喙してきた連中には、どういう伝手をたどったのか、ボヌスヴェルトゥム辺境伯とクウィントゥス王弟殿下連名の婚姻許可証を堂々と見せつけ力技で黙らせた、豪腕の主である。

 そのカシアスは、サンディーカがアダマスピカ女副伯としてコッシニアを強く庇護することで、複雑で曖昧な立場の妹を守り、またアダマスピカの価値を高めようとしているのだといった。


 たぶんそれはその通りなのだろう。気軽に依頼を出して受ける間柄とわかれば、アダマスピカ副伯家は、武門ながら魔術師の力も備える家門として見られるだろう。コッシニアもまた、ボヌスヴェルトゥム辺境伯の寄子の中でも名の売れつつある、アダマスピカ女副伯を後ろ盾に持つことを明らかにすることになるわけだ。


 さすがは姉だとコッシニアは思った。

 きょうだいの中で一番物腰も柔和で、しかも楚々とした淑女の姿を体現したような、サンディーカの柔らかな笑みに騙されぬものは、そう多くはない。

 幼い頃から小姓の格好などに変装し、父ルベウスの膝元にするりと潜り込み、短剣術から領地経営まで幅広く知識を学んできた自慢の姉は、短剣の名手でもあった。

 その敏腕を領主として存分に振るっていることも、昔と変わらずに自分を気にかけ続けてくれていることも、とても嬉しいことだった。


 しかし、当主である姉にすらやいやい言う者は出てきたのだ。コッシニアがアダマスピカ女副伯の妹として振る舞えば、ボヌスヴェルトゥム辺境伯の寄子の中でも、縁をつなごうと手ぐすね引いて待ち構えている家や人間が出てくるのは必然。さりとて家との縁を切り、魔術学院の導師としての道を歩んだとしても、これまた魔術なにがしと爵位持つ家の影がすでに揺曳しているのだ。身分によるごり押しではなく、その能力を持って初級導師から中級導師へと瞬く間に駆け上がったコッシニアを、なんらかの形で取り込もうとする動きはさらに激しくなるだろう。


 正直なところ、現在コッシニアがコッシニアとして立てているのは、シルウェステル師の力に依るところが大きい。

 むろん、魔術学院においてはシルウェステル師の兄君である彩火伯(さいかはく)と、学院長のオクタウス殿下の存在も、ボヌスヴェルトゥム辺境伯領内においては、港湾伯とアルボー警衛連隊長に任ぜられたアロイスの存在があるからこそ、各勢力の手がそれ以上伸びていないというだけなのだ。

 ならばアロイスとともに歩む道を選んだのは、悪い選択ではない。

 姉がアダマスピカ副伯としてコッシニアにも益ある提示を重ねてくれたとしても、コッシニアに、そしてアダマスピカ女副伯に、各勢力の手が及ばぬよう、均衡を動かせぬような圧力をかけることができるのだから。

 アロイスから影の月については知らされた。さらにより深く影の月に、そして王家に直接支配されることになろうと、それは受け入れるべきだろう。  


 姉の依頼は、ピノース河西岸の整備だった。

 ピノース河を堰き止め、川底に堆積した土砂をアルボーの港から海へ押し流す。

 アルボー攻めの一環として企図された、天変地異を人の手で起こすような作戦は、先代の魔術士団長がめちゃくちゃにしてしまったが、それをなんとか修正したのは、図面を描いた当のシルウェステル師である。


 その事前準備として、師はアダマスピカ副伯領内の一部で、ピノース河の川底を削り取っていた。

 それが射出した巨大な氷の角匙を、ほぼ水平にふっとばすという驚異の方法だったことはさておく。

 その後魔術士団が駐留し、ピノース河へ巨大な氷塊を押し流すための貯氷場が築かれたこともあり、西岸の荒れ地は踏み荒らされている。

 せめて放牧地として使おうにも、牧草はわずかしか生えておらず、今の季節にしてはまばらで丈も短い。

 

 コッシニアが姉に頼まれたのは、その後始末だった。

 とうに農繁期は始まっている。

 もちろん、アダマスピカ女副伯であるサンディーカが後始末をせよと命じれば、領民は従わざるをえない。人手は集まるだろうが、それは悪手である。

 なにせ、彼らにとっては日の長さが一日の三倍あっても足らぬ繁忙の時期なのだ。総出で畑に散らばるのは、従士のみならず、れっきとしたアダマスピカの騎士たる者たちもである。

 スピカ村出身のカシアスも、そのことをとてもよく知っている。それゆえヴィーア騎士団としての任務に差し障りがない時には、鍛錬代わりと言いつくろって畑に出る始末だ。

 この時期の畑にかける寸暇の価値を知っている彼らに無茶を命ずれば、憤懣は泥のように沈殿し、士気は底を抜いて悪化するだろう。

 そのことは、コッシニアにもよくわかっていた。

 そんなわけで、春先からコッシニアの休日の日課は土木工事と決まっている。


 コッシニアは小手をかざして東を見やった。

 幸いにもアルボー攻めで荒れた土地は、西岸でも畑の広がる南側ではなく、北よりの荒れ地から湿地へと続くあたり一帯である。もともと小高く盛り上げられていた東岸の堰堤には、魔術士団が詫び代わりに魔術で道を構築していった。石畳を敷き詰めたその終点はスピカ村だ。しかし、そのせいで沿道の領地はわずかであるが削られ、ピノース村も少し手狭になっている。

 

 シルウェステル師の掘り揚げた土砂を使えば、西岸を東岸と同じ高さにまで盛り上げることがもできるだろう。

 しかし、コッシニアはそうするつもりはなかった。

 ピノース河はたいして水量の多い川ではない。だが氾濫の危険がないわけではない。

 もともと西岸の堰堤が低く抑えられているのは、いざというとき氾濫した水を荒れ地から北の湿地帯へ逃がすため。逆に東岸にはスピカ村の中心部やピノース村がある。その高さは村々を水没の危険から守る防御でもあるのだ。

 旧来の土地のかたちにも、その土地に生きてきた者の叡智が宿っている。

 そのことをコッシニアは、アルボーの補修に携わった魔術士団より教わった。

 

 幼くは副伯家の令嬢として育てられる中で魔術の手ほどきを受け、長じては戦火から身を隠し放浪を続けてきたコッシニアである。

 堅固な道を作るすべも、土砂を積んで崩れぬようにし、糸を張って水平を整えるといったすべなども知るわけがなかった。

 だがアルボーでは、都市の補修工事に詳しい魔術士団の者から、土木技術と魔術を組み合わせる方法を教わることができた。実際に水路を補修し、またその技術を魔術学院の学生たちに指導する立場にあったのだ。


 アルボーの街並みは崩れこそしなかったが、石組の多くが歪み、水路もまた街並みの地下に水を染み通らせていた。

 それ以上崩れる前にと石を貼り付け合わせて一体化する技術は、アルボー中を駆け巡ったおかげで、かなり鍛えられたものだ。

 体得した技術には当然のごとく理があった。そのおおよそが飲み込めてしまえば、ある程度は応用も効く。

 新しく得た知識を駆使し、何ができるか、どのような形に成し上げるかを姉と話しあうのはとても楽しいことだった。

 それゆえに、きつい作業にも耐えられる。


「ニアせんせーい!草まとめてきましたー!」


 パルが転がるように走ってきた。見やれば丸められた草がごろごろと川岸近くにいくつも転がっている。

 

 荒れ地といっても草がまったく生えないわけではない。もともとピノース河の氾濫を受け止める遊水地ということもあり、あちこちに岩も転がるこの土地は、まず地表が見えるようにしなければ、精密に整地などできない状態だったのだ。

 ならばついでに敷き藁代わりの干し草も作っておこうという算段で、コッシニアは草の伸びが早くなってからこのかた、草刈り用の大鎌と、魔術を行使するための杖を持ち替えながら作業をすすめていたのだった。

 小石すら取り除いた畑の借り入れとは訳が違う。草を刈るといっても、岩石に当たって鎌の刃が欠けぬよう、地表すれすれに刈ることなどできないので、まとめ上げた干し草の束もかわいらしい小ささだ。


「はい、ごくろうさま。――あら。転んだの?」

「ころんでないよ!草がどろだらけだったの!」

「『転んでいません。草に泥がついていました』ね」

  

 泥をなすった跡がついた顔をきれいに拭いてやり、ついでにきゅっと鼻をつまむと、パルはくすぐったそうにきゃらきゃら笑った。

 

姉より請け負った仕事を果たすに、コッシニアの障害となったのは、誰を供とするかだった。

 コッシニア自身は、アルボーとスピカ村の往復にも、この作業にも、警護や助手が必要だとは正直思っていない。そもそも放浪の際は顔を隠し、時に村娘の服装をし、時に魔術師のローブに身を包み、たった一人で放浪を続けていたのだから。

 だが、アダマスピカ女副伯の妹という立場に戻れば、ただの魔術師の女性が一人で旅をするよりも、狙われる危険性が跳ね上がることは理解している。

 さりとて、本来の仕事のあるものをこきつかうわけにはいかない。アダマスピカの領民はもとより、カシアスの配下であるヴィーア騎士団も、アロイスが手足とするアルボー警衛連隊も、国の抱える騎士たちから成る。

 それゆえアルボーに着た当初は、アロイスと休みがあわなければ、そうそうアダマスピカ副伯領にも向かうこともできず、これほど近くにいるのにと、何度ユーグランスの森をうらめしく睨んだかわからない。

 そこでよい供となったのがパルであった。

 

 魔術学院の学生たちを、上級導師がアルボー補修という実習に連れ出した、というていで、溺愛する弟を待ち受けていたアーノセノウスは、王都への帰還の際、ほとんどの学生や導師たちを連れ帰った。

 だが、コッシニアだけは、どこでどういう取引があったのか、魔術学院からの出向という形で、アルボー警衛隊の預かりになっている。罪の子パルとその妹テネルも一緒なのは、アーノセノウスのはからいによる。


 その理由の一つは、やはり魔術学院の中では、パルの指導が困難であることにあった。

 パルは他者に対する警戒心こそ強いが、いったん打ち解けさえすれば純朴で忍耐強い性質の持ち主だ。唯一パルが激怒し、その炎を振りまくようなことをするのは、妹のテネルが害されかけた時だけだ。

 

 魔術師の才ありと認められた子ども――それも、家門や爵位のつながり、上下関係を骨の髄まで叩き込まれている魔術師系貴族の子女ならばまだいい。平民に手を出す時にも、どのような利権のつながりがあるかを探り、小さな主が横車を通せるか否か、見極める目を持つ者が随従しているからだ――の中でも、代々魔術師の教えを引き継いでいるわけでもない、多少裕福な王都民の子女の中には、自身を魔術公、いやこの国の王にすら匹敵する『選ばれし者』とでも勘違いしてか、ひどく傲慢な振る舞いを見せる者がいる。

 たいていの者は早い内に鼻っ柱をへし折られるのだが、中には絶対といえる身分差すらわずかな路傍の段差にすぎず、自身の力でたやすく乗り越えることができると勘違いし続ける者がいる。

 そのような者も、あまりにも目に余るようであれば、それは高位魔術師系貴族の子女に不要どころか有害と判断される理由にもなる。いずれ『事故死』することになるだろう。

 

 一方、表向きは取り繕えても、傲慢な者というのも絶えることがない。中には同じ平民でありなら、より幼い者、貧しい者、弱い者を虐げて悦に入るという行動に出る者もいるのだ。

 そのような者がテネルを見逃すわけもなく、学院内ではすでに数度騒動が起きていたのだ。

 俗にラットゥス()をこの世から滅ぼさんとするより、蔵に鍵を掛けよというようだ。

 魔術学院の益をかんがみれば、パルとテネルが王都を離れるほうが、学院が不埒者を追い詰めて回るよりもよいのだろう。


 被害者であるパルとテネルに移動を強い、魔術学院での学びから遠ざけるのはたしかに筋違いなようにも思われるが、コッシニアは彩火伯の提案を受けてよかったと思っている。なにもアダマスピカへ赴く回数が増やせたからではない。


 アルボーにきてからのパルとテネルは、笑顔が増えた。

 パルは、警衛連隊の駐屯所を安全地帯とみなしたのだろう。人間に対する警戒心もわずかに緩んだのか、本部の中に限るならば、テネルとべったりくっついていることが少し減った。そのぶんコッシニアがパルにまとわりつかれることが増えたわけだが、それも見習いとして魔力制御や魔術を学ばせるのにはいいことだった。

 

 パルは騎士たちの鍛錬にも目を輝かせるようになった。警衛連帯の騎士たちもパルとテネルをかわいがった。そのうちの一人が長めの薪を削り、木剣を拵えてやると、パルはそれはそれは喜んだ。それからは警衛連隊の鍛錬を見ながら、鍛錬場のはしで一緒になってえいえいと振り回したりもするようになった。

 おもしろがってアロイスが相手をしてやれば、顔を真っ赤にして挑みかかり、しまいには、なんと着火の術式しかまだ教えていないというに、とてつもない威力の炎を放ったのには、コッシニアも鳩尾が氷になった。

 アロイスは石畳へと誘導した上であっさり回避したので無傷であり、パルにもコッシニアが激しく叱りつけたのがよほどに堪えたのだろう。涙目になった炎の子は、二度とそのようなことはしようとしなかった。


 兄が安全と判断した領域は、妹にとっても安心できる場所となったのだろう。

 テネルはいろいろかまってくれる大人が多いせいもあってか、いつもにこにこと機嫌のよい幼子になっていた。

 泣く幼児より笑う幼児のほうがかわいらしく見えるのは人の性なのだろう。さらに大人たちがいとおしむというよい循環が、新たな発見を生んだ。


 眠気にぐずることはあっても人見知りすることはなく、ほとんど泣くことのないテネルが拒否を示す相手、とりわけ顔を見た途端、なかなか泣きやまぬ相手が、後ろ暗いことに手どころか全身染まっていることが多いというのは、ひっそりと警衛連隊の中で噂となっていた。

 悪党を知りたくばテネルに見せろ。

 そんな合い言葉が出てくるほど、テネルの人を見る目は正確だった。目星を付けるに便利だと真顔で言う者もいたくらいだった。

 しかも兄のパルときたら、アルボーを縦に離れたところにいても『テネルがないてる』と言い出すのだ。

 なんとも、強い絆である。

 

 小さな兄妹がアルボーに留められている二つ目の理由は、魔術学院での騒動の経緯にある。

 テネルがあわや害されそうという時にパルが割り込み、反撃するというのがいつものことだったのだが、なぜテネルの居場所がわかったのか、なにゆえ間に合うように駆けつけられたのか導師たちに尋ねられたところ、パルは『テネルにたすけてといわれた』と答えたのだ。


 テネルは、ようやく最近言葉を繋げて喋るようになったばかりの幼児である。

 そもそもパルはテネルの姿が見えないどころか、泣き声すら届かないような場所にいてさえ、妹の危難を察知して駆けつけていたことが調査でわかった。

 これらのことから、パルとテネルの間に、なにかしらの感応が働いているのではないかという推測を導師達がつけるのはたやすかった。

 

 加えて、コッシニアが疑っていることがある。

 パルもまた、多少手足も伸びてきたとはいえ、まだまだ子どもだ。

 テネルが危険を感じ、兄に助けを求めたとしても、幼児の足でテネルを救うことができるほど速くたどり着くことができるのだろうか?

 一度や二度なら偶然もあるだろう。だが三度四度と重なれば、必然と仮定するべきだろう。テネルには先読みの能力もあるのではないかというのが、コッシニアの立てた仮説の一つであった。

 そこに悪党を見抜く目まで加われば、テネルはもうかわいらしい足手まといとは言えない。

 

 コッシニアはもう一つ仮説を立てていた。

 パルがテネルの危難を察知するだけでなく、逆にテネルがパルの状況もなんらかの形で感知しているのではないかというものだ。

 パルを供にしばしばカシアスとアダマスピカへ向かうことが増えたのは、パルへの指導だけでなく、その確認もあったのだ。

 試行を繰り返すうち、この推測はほぼ確実に事実であろうと判断したコッシニアは、彩火伯への報告をアロイスに託した。

 

 おかげでコッシニアの遠出を案じる者は、アルボーにはほぼいなくなった。

 パルは火に偏ってはいるものの、魔力が多い。そして魔術師見習いとして魔力の操作、魔術の顕界をさらに鍛える必要がある。

 そのため護衛任務はうってつけというわけだ。

 不埒者が襲ってきた時には、あいてを火達磨にするどころか、延焼をさせぬよう、周囲には気をつけねばならないとコッシニアは思ったが。

 

 ちなみに、コッシニアがパルを連れ、アダマスピカ副伯領などに遠出をするときは、テネルは同行させるか、今のようにアルボー警衛隊の本部で預かってもらっている。

 故ルンピートゥルアンサ女副伯に領主館の門番へと落とされていた、元副伯家騎士隊長のシンセウルスを始め、故女副伯が殺害したとみられる使用人の家族もまた、警衛連隊では雇用している。テネルの世話を願うに人手は潤沢なのだ。

 それでも杖持つ手を預けたアロイスは――と思うたびにコッシニアはついつい赤面してしまうのだが――、王都に立つまぎわまで、それでも無理はしないようにと念を押していった。

 アダマスピカでも、姉が案じてくれるのは当然のことだが、その配偶者となるカシアスまで、手は足りるかと心配をしてくれる。

 そのことが、コッシニアの胸をあたためた。


 とはいえ、不埒者などそうそう出てくることはない。

 そこでコッシニアは、パルの実習に、言葉使いの修正や身体強化のようなも魔力制御の練習だけでなく、風を作り出して刈り草をまとめるような、小規模な術式の行使をちょくちょく加えていたりもする。

 今日は暑いのによく頑張ってくれたから、飲み水に香草だけじゃなく、草刈りの途中で見つけたシルヴァナッカの実も入れてあげよう。香りのよさとその甘酸っぱさに、きっと驚くだろう……。


 魔力を消耗したパルは、こてりとニアの背中で眠っている。アルボーに戻ったらお風呂にいれねばならぬだろう。


 コッシニアがお湯に浸かる風呂に入ったのは、アルボーでのことだった。

 もちろん魔術で多少の水もお湯も確保できるが、コッシニアは全身がつかるほどのお湯を用意したことなどない。

 病弱だった子どもの頃は、姉や女性の使用人たちに全身を拭いてもらうことがほとんどだった。放浪の旅では、大きな都市の聖堂に宿泊することができれば、蒸し風呂に入ることができた。旅人でも身を清めて神に祈る機会を、いくばくかの喜捨で得ることができたからだ。


 しかし、そのような都市ばかりに留まってはいられない。僻地では良くて人気(ひとけ)のない水場で、襲撃に――動物にも、人の皮を被った獣のそれにも――怯えながらの沐浴。

 悪ければ宿屋の大部屋で、手桶一杯のお湯を買い、他の客に見られぬよう、外套を羽織って全身を手早く拭き、湿り気の消えぬところに衣服をつけねばならなかった。

 というか、そもそも自分の魔力を、護身以外の目的に使える余力などないのが当然だったのだ。

 それが、あのような贅沢を覚えてしまっては、今後どうしたものか。

 コッシニアは軽く自嘲の笑みを浮かべた。そこから苦さは次第に抜けて行く。もはや身を守るための放浪はせずともよいのだ。

 

 日が傾き、東岸の石畳に夕陽があかあかとさしこむころ、コッシニアの笑みはさらに深くなった。

 荒れ地と湿地とのきわに立つ、魔物の影に気づいたからだ。


「御無沙汰しております、湿原の主」


 コッシニアは――眠る幼子を背負いながらにしては――優雅に副伯家の令嬢としての礼をおこなった。

 

(あいつは、まだ来ないのか)

「残念ながら。報せはいまだ」


 がっかりした様子の一角獣は、あの骸の魔術師に名をねだった存在だ。

 真の名は知らぬコッシニアも、コールナーというその呼び名だけは知っている。

 だがコッシニアはその名を呼ぶことにはばかりがあった。シルウェステル師と湿地の主との間に結ばれた友誼の堅さを思えば、軽々に触れてはならぬと感じたからだ。

 ただ、その姿を見るだけで満足することにしようとコッシニアは決めていた。


 月光細工のような一角獣は、夜闇の神秘も似合うが、このように夕陽に染まった姿もまた美しい。

 コッシニアが近くで作業をしているのに気づいたのか、一度だけ真昼に現れたときは、またいっそう輝かしく、まるで白い炎のようにも見えたものだ。

 夜が似合うとはいえ、炎天に苦しむかといえば、そうでもない。

 水を操る異能を持つこの一角獣は、つねにひんやりとした霧のような涼しさをまとっているのだった。

  

(赤い男はどうした)


 思念とともに伝わってくるのは、アロイスの心象だった。

 

「許可を得るため王都まで出かけております。王都は遠うございますので」

(抜け駆けで、骨に会いに行ったのではないか?)

「まあ」

 

 拗ねたような『口ぶり』に、思わずコッシニアは笑った。

 

「シルウェステル師がおいでという、ランシア山は王都よりもさらに遠うございます。任務もありますれば、そのように自儘(じまま)に動くことはできませんし」

(そういうものなのか?)

 

 湿原の外を知らぬがゆえに、長い別離に不満もたまっているのだろう。一角獣はぽつりとこぼした。

 

(あいつ)に会いたいぞ)

 

 その『声』は、ひどくさびしげに聞こえた。


 コッシニアは上流へと目を向けた。

 貴族ですら、礼儀作法で預けられる他家との往復か、成人と認められるために王宮へ参内する時ぐらいしか、長距離を移動することはあまりない。ましてや、領民などは、生まれ育った領地どころか村を出ることすら珍しい。

 そんなこの国の、いやこの世界の人間にしては、コッシニアは例外的に地理に詳しい。

 だがコッシニアの知る旅程からしても、アロイスの戻りはいささか遅い。


 しかし、コッシニアはさほど案じてはいなかった。

 アロイスが王都へ向かったのは、単に自分たちの結婚の許可を得るためだけではない。むしろそれを任務を隠す口実として使われているのだろうと納得はしている。

 自分にも隠すような任務に不安がないわけではないが、今日も姉のご機嫌うかがいのついでに、アロイスの朋輩だったカシアスに憂いは聞いてもらっている。何かあれば彼もまた動いてくれると約してくれた。

 とはいえ、日数を幾度となく数えてしまうのは、それとこれとは別だ。


 コッシニアの地理の知識は、すべてジュラニツハスタとの戦いで国内とジュラニツハスタとの国境を逃げ回り、生き延びたことで得たものだ。

 平穏になってからは里心が疼かないわけではなかったが、きょうだいも父もいない故郷を目にしたら、崩れ落ちてしまいそうだった。

 病弱だったこともあり、領民との接点は世話をしてくれたごく親しい数人の使用人ぐらいしかない。アンシラという侍女は姉の輿入れについていってしまい、すれ違うようにやってきた後妻の差し金か、新しい侍女は義兄ということになっていた卑劣漢が夜這いをする手引きを、つい数年前まで枕からよく頭も上がらぬような、10才になるならずの少女にするような人間だったのだ。


 そんな思い出も、今は昔。

 夜中に叫んで飛び上がることもなくなった。アロイスと思い出を語ることも笑顔でできるようになった。

 アロイスもまた放浪していたという経歴の持ち主だ。互いに見聞が広く、話に興味はつきない。

 早く戻ってきてほしい、また月が傾くまでいっしょに時を過ごしたいと願うのは。

 

(なんだ。まだつがっていないのか?)


 その『声』に、コッシニアは自身の髪の毛ほど顔を赤らめた。

 悪気はない。ないのはわかっている。だが、あまりにも。


(なぜ怒る)


 戸惑った様子で、夕空色に染まりつつあった一角獣は尻尾を撃ち払った。


(子を産み増えることは、人間にとっても()いことなのだろう?よいことをいうのは喜ばれると骨に聞いたぞ)

「ええ、それはおっしゃるとおりです」

 

 にっこりとコッシニアは微笑んだ。パルが起きてその笑みを見ていたら、びくっと固まったかもしれない。


「ですが、人には羞恥という感情がございます。人に知られただけで気まずく、いたたまれぬ気持ち、時に怒りさえ感じることがございます。子をなすこと――その過程は、あることさえ知られたくはないことなのです」

(ああ)


 納得したように魔物は頷いた。

 

(だから赤い男は怒ったのか。しかしなぜ人に知られたくないと思うのか。人というのはわからんな?)

「……マレアキュリスの方。わからないままでおられるのは、御身のためになりませんかと」

(なぜだ?)

「シルウェステルさまに恥ずかしい思いをさせてしまわれたら、今のわたくしのようにいたたまれず、御身に近づこうとなさらなくなったり、怒りを向けられたりするやもしれません」

(……そうなのか?)


 魔物は未来に備えないようだ。

 あの名誉導師の言葉はどうやら正しいらしい。


 コッシニアは深々とため息を吐き出した。


「シルウェステルさまが戻られぬ間、暇を持て余しておいでならば、よろしければ多少ひとの感性というものをお話申し上げることもできますが。人がおわかりになれば、おそらくは、よりシルウェステルさまのお気持ちに寄り添うことができるのでは」

(やる。聞きたい)

「では」


 どれくらいの時間が、この風変わりな講義にかけられたかはコッシニア以外知らぬ。

 だがその後、マレアキュリスの主であるコールナーは、赤毛の女魔術師を見ると一歩後ずさるようになった。

 耳を横へ畳み目をそらす様子を見た骸の魔術師が、内心首の骨を傾げたのは、また別の話である。

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