決別
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
〔ボニーさん!〕
ばたばたと追いついてきたグラミィが、いきなり心話をぶつけてきた。
〔馬鹿ですか?馬鹿でしょアンタ、馬鹿確定!〕
……そんなに念入りに罵倒しなくたっていいじゃん。
しかも五七調で。
〔なんだったら七五調で言いましょうか?それとも三三七拍子でやりましょうか?〕
座りきった目で睨み上げられて、あたしは降参と腕の骨を上げた。
いやごめんて。ていうか、莫迦って言った方が莫迦なんだぞ。
グラミィはもう三回言ってるから、あたしよりだめじゃん。
〔そこは安心してください、ボニーさんの方が十倍はアレなんで。あとこれ!〕
しれっと言い返しながら、グラミィはあたしの杖を差し出した。
あ、忘れるとこだったか。ありがと。
( )
受け取ると枝葉が激しくざわめいたのは……お叱りですね。うん、ごめん。
〔あたしにも最初からそのくらい素直になってくださいよ!てかあんな馬鹿なこと、何の相談もしないで進めないでくださいよ!てかそもそも最初っからこの展開読んでたでしょうが、この腹黒馬鹿!〕
いや、それはないから。
こんなにも都合良く異変が――それも地獄門なぞという最低最悪のヤツがだ――起こるなんて予測、してるわけがないでしょ。
なにより周囲へ無限大に被害を及ぼすようなもんが発生しそう、だなんて察知してたら、そんな可能性、真っ先にあたしが潰しにかかると思わんかね?
〔それは、まあ……ってさらっと置いてかないでくださいよ!〕
勝手に足を緩めたのはあんたでしょ。あたしゃクウィントゥス殿下の命に従って移動中なんだから。
ホールに向かって歩きながら、あたしは心話でグラミィに説明を続けた。
状況への読みっていうのなら、あたしもクウィントゥス殿下が介入する可能性は高いだろうとは考えてたよ。
シルウェステルさんのネームバリューのない一介の魔術師としても、あたしはうぬぼれ抜きでけっこう強力な部類に入ると思う。
だったら、このきな臭いって段階を通り越して、戦火がまさにランシアインペトゥルスを舐めようとしているこの状態なら、使える戦力として惜しみ、拾い上げようという気を起こしてくれるかもなー、ぐらいだけど。
もちろん、それを狙って確率を上げようという計算がなかったとは言わない。
神様はサイコロを振らないというらしいが、あたしだって丁半博打は好きじゃないんですよ。
だからこそ、アーノセノウスさんの判断をルーチェットピラ魔術伯家内部の問題におさまらない、王弟殿下の対面にもかかることだと強調した上で、自分を投げ売りしたわけですが。
〔もう!だったら少しは途中であたしに教えてくださいよ!〕
教えてたら、本気で泣かないでしょアンタは。
それにだね。
たとえ異変が何も起こらず、あたしの想定通りクウィントゥス殿下が介入しただけの場合を考えなさいよ。
アーノセノウスさんの抱いた疑念が晴れるわけでもないし、身売りが発生することにも、あたしたちの生殺与奪の権限が完全に王弟殿下に握られることにも変わりはないんですよ。
それに比べりゃ、緊急性の高い軍事行動が勃発したこの状況は、むしろかなりおいしい。クウィントゥス殿下の言葉からして、地獄門に対処できるのはあたしくらいだと評価してくれたようだし。
セルフで逆オークションした限定訳ありお買い得品としては、捨て値よりだいぶ高く評価してもらえたってところで、満足しとくところだろう。
あの調子じゃ、アーノセノウスさんもあたしへの糾明は後回しにせざるをえないだろうし、騒動一つおさめろという命題を果たせば、今後もそれなりの庇護が受けられそうというのは、初期の想定よりリスクは多いがリターンも見込めるってことだし。
だけど、クウィントゥス殿下を直接の庇護者にするってことは、今後アーノセノウスさんに対するような甘えは入れられないということだ。
たぶん、関係性としては、いいとこビジネスライクな上司と部下、悪ければ使い捨て位用途の奴隷と使用主といったところか。
そこまで投げ売りする前に買ってもらえたと思いたいけど。
〔ずいぶん悲観的ですね……〕
アーノセノウスさんが、王弟殿下の制止にも聞く耳持たなかった場合の方が、もっと悲惨だったと思いねえ。
たぶん、本気で、あたしは火球の的になってたと思う。
だったら、どの道あんただけでも助かる方法を取るしかなかったってだけだから。
並んでせかせかと脚を動かしていたグラミィが、ジト目で見上げてきた。
〔……それって、ボニーさん。アーノセノウスさんの火球をもろに受ける気だったってことですよね?完封できるものでも?〕
そうだけど?
〔やっぱ馬鹿でしょボニーさんは!なんでそこで勝手に諦めるんですか!選択肢から勝手にボニーさん自身を切り落としたりしないでくださいよ!あたしに運命共同体とか一蓮托生とかいろいろ言っといたくせに!そうはいきませんからね、あたしだってボニーさんを泥船になんかしてあげませんから!それと!ローブなんとかしましょうよ!〕
グラミィは心話で映像を送りつけて、他者視点から見たあたしを見せてくれた。
着崩れたローブは、ラームスを引っこ抜いたときから胸元ははだけたままだ。
鎖骨どころか肋骨の上部や肩胛骨までむき出しという、ほとんど半裸に近い状態だけど、色っぽくないですね。ほんとに骨だけしかないから。
だけど。
――いいよ。もう。
あたしは、せっせと着つけを直してくれようとするグラミィを止めた。
ラームスの助力がなければ、どうしたって違和感が仕事をする。ライブマスクは割れたし、覆面も今はない。骸骨であることがバレバレになって当然だ。
だったら。
無理に無理を重ねても、みっともないだけだ。糊塗に糊塗を重ねた結果である現状が、そういうものなんだから。
〔でも!〕
それよりグラミィ。あんたに頼んどきたいことがある。
ちょうどホールまで出たところで、あたしは杖を握ると――すらりと樹杖からシルウェステルさんの杖を抜き出した。
離れてほしいと心話でお願いしたのは、あたしのお骨に絡みついてたラームスたちにだけじゃない。
ヴィーリが、もとのシルウェステルさんの杖に絡みつかせるかたちで移植してくれてた、樹の魔物たちにも言ったことだったりする。
素直に分離してくれてて助かったよ。
そのままあたしは、グラミィに樹杖部分――ラームスたちをひょいと渡した。
グラミィ、彼らを預かっててちょうだい。あたしから抜いた方もいっしょに。ダメージくらってるから、ヴィーリに――無理だったらメリリーニャに、様態診てもらわないといけないから。
なんだったら王子サマか、権限持ってそうな人にでも、適当な場所をもらって待機してて。
〔いや、預かっててって……。そもそもヴィーリさんだって聖堂?にいるんでしょ?〕
だからだよ。
意訳しようか。
これ以上、あたしについてくんなって言ってるの。
少なくとも、今は。
〔お断りです!またあたしを置いてくつもりですか!いっしょに行きますって!〕
……はっきり言わないとわかんないか。
グラミィ。あんたは、この先足手まといなんだ。
いつもの軽口はいっさいない、ガチマジトーンで言うと、あたしは杖そのものに魔術を顕界した。
杖の周囲に金属を顕界し、杖本体よりさらに長いパイプ状に伸展する。
先端には、腕の骨ほども長さのある、三日月状の金属の刃を取り付ける。
刃の形だけ見れば、いわゆる一つの死神の鎌というやつに似てもいるだろう。ただ、細かい幾何学模様が複層に構築されてるから、ぱっと見実用的には見えない。
とはいっても、以前星屑たちの識別用に使ったような、シンボリックなものでもない。
厚みこそあるが、金属のレース編みで構築したような刃そのものには、確かに切れ味なんてない。柄に対して三次元的にもひねった鈍角に取り付けたから、やる気のない薙刀のようにも見えるだろうし。
だが、その繊細な紋様は単なる飾りではない。魔術陣になっている。
柄のある箇所を握ると結界が自動展開されるようになっているので、外見でお飾りと侮って、打ち合いに持ち込もうとした相手は、痛い目を見ることになるだろう。
ま、長柄の弱点である近接圏内に敵を踏み込ませるような真似はしないつもりだが、万が一の備えというやつは、何重にしておいてもいいものだ。
ついでにいうなら柄の中ほどには、さらに柄やそれぞれとも直角になるよう、ハンドルを二つ構築してある。本当に農業用に使われていた大鎌に近い仕様なのは、取り回しのしやすさを向上させるためだ。
これで武器破壊無効の金属パイプ、with鎌刃で殴り込みに行く骸骨の完成である。
〔なんで、そんなものを……〕
あたしがこれから人殺しをしに行くからだよ。
そう伝えると、グラミィはひゅっと息を吸い込んだ。気づいてなかったか。
だけど、災禍を止めろってクウィントゥス殿下の命令は、つまりそういうことだ。
地獄門の材料兼燃料になっている峻厳伯たちを斃し、転移してくる星屑たちの息の根を止めろ、味方を殺させないように、とね。
アーノセノウスさんが魔喰ライとなる懸念を言い立て、王弟殿下に命令を撤回させようとしたのは、それがはっきりわかってたから、そして魔術師がその手で人殺しをすることの危険を知っていたからだろう。
ヴィーリたちのように、数百年、数千年という長きにわたって蓄積されてきた記憶という裏づけはないが、アーノセノウスさんもまた、戦場を肌身で知っている歴戦の魔術師なのだ。
……しっかし、国の道具になって大量虐殺をやらかすとか。この世界でやりたくなかったこと第一位だけど、この期に及んでうだうだ言ってはられない。
――やるだけ殺るさ。さもなければ、殺られるのはこっちだ。クウィントゥス殿下が連れてきた手勢は、スクトゥム帝国の侵攻を、今、ここで、食い止められるほど多くはない。
殴られたような顔になったグラミィは、死神そのものの格好になったあたしから二三歩後退した。
……それでいい。
グラミィは、くるな。これ以上あたしについてくるな。
あたしに近づこうとするな。
そうすれば、たとえ地獄門を止めきれなかった場合も、助かる確率は上がるだろう。
あの非人道的転移術式は、顕界に必要な魔力の量的にも最低極悪だ。周囲から生命体、とりわけ人間を一定時間遠ざけきれば、顕界状態の維持すら困難になるだろう。
ついでに、グラミィに預けた大量のラームスたちがいれば、相当固い結界が張れるはず。
クウィントゥス殿下たちを守って、その功績ごとトゥルポールトリデンタム魔術辺境伯領内から逃げ出すこともできるだろうよ。
〔ボニーさん。あたしだけ生き残らせて何になると思ってるんですか!〕
背骨を向けたあたしに、グラミィが心話で叫んできたが。
生きてりゃ、まだなんとでもなる。
それに、あたしのやり口見てきてるんだ、あんただってそこそこ大魔術師ヘイゼルさまのふりはやり通せるんじゃない?
まだわずかに絡みついている、ラームスの枝葉や根っこの切れっ端をがさがさ言わせながら戸外へ歩み出ると、味方の兵がびくっとした。
ああ、だが、余裕のない場所はいい。あたしを見てぎょっとした彼らがそれ以上のリアクションを示そうとはしないように、最優先課題の解決のためには、疑問も恐怖も不協和も、すべて磨り潰して無理をゴリ押せるのだから。
あたしは、すでにこの世界でも罪を犯した。今も左胸の中で黒く揺れているのは、その証。
かつて、むこうの世界でシャムロックマンに見透かされたとおり、あたしの本質は蒼鉛なんだろう。
在る世界を変えようが、血肉を失おうが、骸晶のように欠落した何かは埋められぬままだ。
だけど、グラミィはまだその手を汚していない。
だったら、彼女を巻き込まないようにするのが、運命共同体と言い張ってるあたしのするべきことだろう。
そのくらいの防御なら、もろい蒼鉛にだってできるのだ。
腰の骨を落とすと同時に、あたしは足元に結界を顕界した。
弾性は最大、斜度45度、ストッパーは二つ犬釘のようにこしらえた。
じわじわと定規をたわめるようにしなわせていく。
ここから聖堂は遠い。走っていくのは時間がかかりすぎる。
ならば、空を飛んでいけばいい。簡単な計算だ。
そして人外の駒として、あたしの価値を見せつけるいい機会ともなる。
さあ。
自我が消滅を願うほどすりきれるまで踊り続ける、その覚悟はいいか、あたし。
もろびとこぞりてあたしを恐怖せよ、忌避せよ、敵も味方も厭悪するがいい。
その方が切り捨てやすく、切り捨てられやすい。お互いに気が楽というものだ。
びし、と結界が跳ね上がる。
――あたしは弾弓の球となって、空を飛んだ。
***
「……馬鹿者と舌人どのは骸の魔術師を罵っていたが」
がらりと言葉を内向きの物に変え、クウィントゥスは苦く息を吐き出した。
「真の愚か者は我々だ。よもや生まれて間もない赤子に、こうまで頼り、気づかぬままに重責を委ねていたとはな」
「では殿下!あれの言葉を信じると!」
「虚偽の証拠はないな。――虚偽であった方が嬉しかったか、彩火伯」
アーノセノウスは唇をわななかせて黙った。
あれがシルウェステル・ランシピウスではないと断言したのは彩火伯自身。されど、もし、生前の記憶がないというのが嘘ならば、最愛の弟を濡れ衣で拒絶したことになる。
その姿をひややかに見ながら、愚かな真似をしてくれたものだと王弟は内心頭を抱えていた。
現在の骸の魔術師の価値は、生前のシルウェステル・ランシピウスのそれより、はるかに高い。
かつて、クウィントゥスがシルウェステルを配下に加えたのは、烈霆公家の息がかかっておらぬ魔術師であり、またそれなりに優秀だったがためというところが大きい。加えて、兄馬鹿のアーノセノウスを御するためにも有用という判断があったのも、間違いではない。
しかし、今や、あの者の魔術の知識は――あの舌人の老婆の言葉を信じるなら――いまだに一年にも満たぬ短い間に習得したとは思えぬほどに深く、その腕の冴えは生前と劣らぬどころか、さらに人外の域にも踏み込んでいると、クウィントゥスは見ている。
他国との折衝にも深く携わり、グラディウスファーリーはまだしも、――その出自を思うならば驚くべきことだが――クラーワヴェラーレの現王とも友好を深め、さらに個人的な友誼まで得ているという。
さらにフルーティング城砦からようやく得た報せによれば、クラーワヴェラーレの者にいざなわれ、サルウェワレーとかいう国にまで出向き、クラーワ地方全体に及んだスクトゥム帝国のたくらみを明らかにしたというではないか。
いや、そもそも、当初から、彼の者には星と共に歩む者が目をかけていた。その骨身に森より授かったという木々が生えたというのも知ってはいた。
あのさまよえる毒刃の長すら、自ら伏して親交を求めようとさえした。
そのつながりは多岐にわたり、その眼光は――比喩にしか過ぎぬが――犀利にすぎるほどだ。
そのような者を今この時に、むざと離叛させるようなことを、彩火伯はなにゆえにしでかしてくれたものか。
そう、重要なのはあの骸の魔術師が極めて有能な人物であり、ランシアインペトゥルス王国としてはけして手放すべきではない存在だということだ。
現在の彼が、生前のシルウェステル・ランシピウスと同一人物であるか否かさえ、二の次であるとすら、クウィントゥスは密かに考えている。不和などけっして生じるべきではないとも。
しかし、星詠みの杖を我から手放すあたり、よもやあの者は本当に死を望んでいたのだろうか。
成すべきと課された責務を淡々とこなし、すべての利益を王家やルーチェットピラ魔術伯家に帰する姿は、確かに私利私欲の薄い生前のそれと重なる。
だが、名誉も投げ捨て、血のつながらぬ兄の私裁を、ああもあっさりと受け入れたのは、失望と悲しみのためだけとも思えない。
あれだけの卓越した魔術のわざをもちながらも、――いや、それとも星からこの先を詠むことすら身につけたのか――彩火伯にいらぬと言われることすら、すでに覚悟していたというのか。
それとも、あの舌人の老婆を守るために自らを切り捨てたか。
ふと王弟は部下の玄妙な表情に目を留めた。
「――どうした、トルクプッパ」
「御無礼を。ですが、ひとつ疑問がございまして」
「なんだ」
「師、いえあの骸の魔術師があの姿となってわずか一年も経たぬというのなら、あの方の分別はなんだというのでしょう」
トルクプッパとこの姿では名乗っている魔術師は、ひそやかに疑問を唱えた。
同道の間、あのシルウェステル・ランシピウスと名乗っていた人物は間近でそれなりに見てきた。魔術学院での記憶はないとのことだったが、それでもあれが一年しかこの世を見ていないとは思えないのだ。
確かに、犠牲をよしとしないと言いながら、自己犠牲を無造作に率先するあの姿は、理想に目を眩ませ、騎士に憧れる若者のようですらある。だが、無理無茶無鉄砲を通しながらも、けろりと無傷ですませる技量、判断は老獪としかいいようがなかった。
「魔術師のそなたらがわからぬことが、わたしにわかるわけもなかろう」
だが、クウィントゥスはあっさりとその惑いを放り出した。
「しがらみや偏見を離れ、改めておのが名すら忘れた、ただ一体の骨としてこの世に降れよとの海神マリアムの御心によるもの、とでも思わなければ、その恩恵にはすがれまい?」
「恩恵、にございますか」
「もしあの者があれだけの才を身につけていながら、一歳児の精神のままだったとすればだ。彼に命を下し、あるいは使役を繰り返した我々は、今ごろあの者の魔術に曝されていてもおかしくはない」
「……あ!」
確かにあの骸の魔術師の魔力は、怒りを、悲しみを、そして諦念を示していた。赤子が激しく泣きわめくように、あの卓越した魔術の威力を無造作に向けられることを想像したトルクプッパは、かすかに身を震わせた。
彩火伯は反論をしたくてしかたがなさそうな顔のまま黙っていた。目を細めてクウィントゥスはその様子を見つめた。
兄馬鹿と言っても過言ではない情の深さと、それを抑えて一族の利益のために振る舞う、かつての当主としての理性がせめぎあっている――だけではない。
彩火伯の溺愛が、自分を脅かさない弟に対する愛情から生じていることはわかっている。だがクウィントゥスからは、管理欲もまたそこに見て取れるのだった。
とはいえ、彼らの関係性に、クウィントゥスはこれまで一切の関与をする気はなかった。
当のシルウェステル・ランシピウスが、掌中の珠ならぬ、籠の中の鳥の身を自ら受け入れていたこともある。
クウィントゥス自身もまた、ルーチェットピラ魔術伯家の庇護なくしては、生きることすらままならぬ状況にシルウェステル・ランシピウスを落とし込んだ王族の一人として、その必要性をわきまえていたこともある。丸く収まっているのなら、いらぬ動揺を加えることはあるまいと。
――だが。
「彩火伯。今しばらく、あの者の身柄はわたしが預かる」
「殿下」
「その間、あやつに、いや、あやつと舌人どの、その回りの者どもすべてに、いらぬ手出しをしてはならぬ」
「殿下!」
これ以上、不和はいらぬ。
むろん、彩火伯の体面に傷を付けぬよう、ルーチェットピラ魔術伯家の権勢を貶めぬような配慮はしよう。
だがどこの誰と名乗ろうが、あの骸の魔術師を手放す気はクウィントゥスにはなかった。
「疑いが晴れぬというのなら、シルウェステル・ランシピウスの名では呼ばせぬ、名乗らせぬ。それでよかろう」
舌人の老婆も囲い込まんとするのは、骸の魔術師があの老婆を守ろうとしたからだ。
血のつながりゆえか、あの者を生かすために自ら死を選ばんとするほど重く見ているのであれば、こちらも重んじ、恩を与えるべきであろう。
我欲がないとはいわないが、極めて薄い、そのくせ行動力はありあまるほどにある。そのような剣呑きわまりない者を縛り、手元に置くに、あの老婆はちょうどいい枷となろう。
所属する家の元当主に諮るのではなく、ただ決定事項を言い渡されたと知って、アーノセノウスはうなだれるしかなかった。
「……タクススを呼んでいる。着いたら向かわせよう。身体を厭え」
言葉だけを病室に遺し、王弟は去った。




