真名の束縛
名前は人間が認識した世界を概念化し分節化する道具であり、名によって人は世界を認識する。
人もまた名によって概念化され世界の一部となる。
ゆえに騎士は叙勲の際に真名によって誓いを立てる。
そして、世界を改変する力を持つ魔術師も、また。
むしろ、概念化し認識する基となる名の力を強く認識しているからこそ、魔術師ほど己が真名による束縛を受ける者はいないだろう。
仕官した魔術士の場合は、その主によって。
あとでベネットねいさんから聞いた話だ。
この国の場合、魔術士隊の真名は、彼らを統括する魔術士団の長が大元を管轄している。
しかし、今回のように少人数の分隊で行動する時には、隊長が管理することになるんだそうな。
あたしたちに帯同している五人の場合は、ベネットねいさんが管理していることになる。
しかし、ベネットねいさんはあたしにあっさりと負け、見下していた騎士隊長、カシアスのおっちゃんの監視下に置かれた。
その時に、魔術士隊長の権限すべてを剥奪し、騎士隊長が暫定的にでも行使するものとみなすと、魔術士隊全員に対し、おっちゃんが、きちんと言質を取るべきだったのだという。
そうすれば、魔術士隊の真名の管理権限はカシアスのおっちゃんのものとなっていたはずだった。
しかし、騎士が魔術士ほど真名の束縛を受けてはいなかったのがまずかった。
主から一方的に真名により束縛を受ける魔術士に対し、主に対し自発的な誓いを立てる騎士という違いもあって、おっちゃんが真名の重要性を完全には把握できていなかったこともあるのだろう。
魔術士隊の問題行動については王都に報告し、その後に処分を下される。しかしそれは魔術士団の組織の中で下されるべきもの。
それまでは『大魔術師ヘイゼル様』が同行している以上、物理的制圧で十分。そうおっちゃんは判断したのだ。
確かにそれは、騎士隊を相手とするなら、十分な処置だったのだ。
しかし、魔術士隊内ではベネットねいさんが魔術士隊長の権限を剥奪された、とみなされていた。
結果、ベネットねいさんは真名の管理権限を失ったとみなされ、その権限は副長のサージに暫定的に委譲されていた。
その結果がこれだ。
残る魔術士隊の面々は意志に反して杖を手放さざるを得なかった。
それは、あたしたちがほぼ遠距離攻撃能力を失ったに等しい。
弓を向けられたこの状態で、それは限りなく致命的だった。
「平伏せよ、成り上がりども、平民ども、そやつらにへつらい貴族の名誉を踏みにじった愚か者どもめが!魔力の量も質も鍛錬も術式も関係ない。識っているか識っていないか、権力を持っているか持っていないか、知識と権力こそが全てなのだ!」
……意訳すれば、魔力の量も質も練習量も術式の展開も、すべてにおいてサージはベネットねいさんには及ばないということだ。
口に出してる時点で、自分で悲しくならないもんかね?
……真名によって恭順の姿勢を強制された魔術士隊の面々を見下すその顔は……自慢げだし。
欠片も思ってないんだろうな。
実に滑稽だ。
わかってる、軽蔑の感情や苛立ちがこの底の浅い馬鹿じゃなくて自身に向けたものだってことは。
潜在的な敵に囲まれた状態だったってことだけじゃない。
魔法がこの世界にあるってことも、うすうす最初から感づいていたじゃないか。
真名を知られることを警戒して、グラミィにさえ自分の本名を告げてなかったじゃないか。
魔力も前の世界の知識もあると思っていた。
なのに、この事態になる前に何も手も打てなかった自分の姿は、まるっきりあのサージとかいう馬鹿の陰画だ。
滑稽なのはあたし自身だ。
〔落ち込んでる暇ないと思うんですけどボニーさん。てゆーかあんたは全知全能の神サマなんですか?物事全部知ってるとでも思ってんですか?自分が知ってることはなんでもできると思ってるんですか?ならやってみてくださいよ!〕
……そだね。後で落ち込もう。
今必要なのは、こいつらを叩きのめす準備とそれにかける時間だ。
幸いと言うべきか、カシアスのおっちゃんたちの武装は解除されていない。
彼我の人数差を過信しているのか、カシアスのおっちゃんたちをなめてるのか、あたしを射貫いた弩と違って命中率の低い弓を向けただけで安心しているのかはわからないけど。
よかろう。
馬の骨ですらない、『魔法を使えるただの骨』の、全力での反撃開始といこうじゃないか。
「そこの『大魔術師様』とやら詐称してた婆も、このわたしに跪くがよい。あれだけたいそうな事を言った割に、伏兵がいたのに気づきもできない無能を詫びよ」
権高な命令に答えたのは、ふひゃひゃひゃっというしわがれた笑い声だった。
「何を笑う」
「これが笑わんでおられるかね。わしの真名すら口に出せぬどころか知りもせん小僧っ子が何を言うかと思えば、とんだ戯れ言じゃないか」
「戯れ言だと?」
「いかにも。じゃがまあそれはどうでもいいとして、このままわしを喋らしておいてもいいのかえ?」
ひらひらと、空いた両手を振ってみせるついでに舌を出す。不安げなざわめきに裏切り者は顔を引きつらせた。
「問題ない。杖は取り上げてある。こやつが魔術を使えるわけがない」
「おや、まあ」
くっくっくと笑うグラミィ。
「賢女様」
「案ずるな。騎士隊長殿は見ておればよい。今はの」
「何を勝手に喋っておる!」
「おや、喋っても問題ないんじゃなかったかね?」
さらに剣呑になる目つきもどこ吹く風。グラミィの挑発はまだ続く。
「小僧っ子よ、おまえさんはいくつも思い違いをしておる」
「なんだと?」
「まず一つ目じゃが、このわしがちゃちな小細工に気がつかんわけがなかろ。じゃから、あの子を行かせたんじゃ。それもわからんとは、おぬしは力量の差も測れぬうつけ者ということじゃの」
あれ、こいつ思ってたよりダメな魔術士なんじゃね?という砦の兵士たちの視線がサージに集中する。
「だ、だが、あいつは弩で撃ち落とした」
「そこが二つ目の思い違いじゃ」
『大魔術師』はにんまりと笑う。裏切り者が自力で成したことは何もないと自白したのだから。
「一度死んだ者が、たかだか太矢の一本程度で死ぬと本気で思うてか?思っていたとすればおぬしは生命の意味も知らぬ愚か者ということじゃの」
兵士達はなんのことかわかっていない様子だが、サージはじんわりと脂汗を滲ませた。
「ふ、ふん、万一討ち漏らした時のことも考えて、崖下にも兵を伏せておいた」
「三人はおったの。それがどうしたというのかい?」
あっさりと返されて驚愕の表情になったのは、魔術士一人ではない。
「ま……さか」
グラミィの笑みはさらに深くなった。伏兵はすでに斃された人数以外には存在しないということも暴露したことに、気づいていないのだから。
「たかだか、それっぽっちでどうにかなるわけなかろ。無理を通せば道理が引っ込もうと思い込むとは、使った者も使われた者も無能ということじゃ。小僧っ子を含めての。それが三つ目。四つ目は」
ひょいと右手を挙げる。その指先に高々と、焔が噴出した。
「このわしに長々と喋らせたことじゃ」
「黙らせろっ、弓!これ以上あの婆に喋らせるな!」
すべての弓が勢いよく引かれ、弦がことごとくはじけ飛んだ。
背信者たちが遠距離攻撃手段を失った瞬間だった。
あたしはこっそりと警備隊の囲みの背面に出ていた。
わざわざ降りたところから登らねばならない理由はない。
馬車を再発見した時点で、遠回りであろうと、重装備の武装兵士ですら簡単に上り下りできるような場所はいくつか見当をつけていたのだ。
オーバーハングの崖をわざわざ降りてみせたのは、そこが馬車から最短距離にあったということもある。
しかし、それ以外の道を知らないように見せるためというカシアスのおっちゃんの策でもあったのだ。
もともと敵対者をあぶり出すひっかけ。その餌があたしということになる。
……まさかそれに食らいついた獲物に、同行していた裏切り者も混じっていたとは思わなかったし、予測できたかもしれない方法で魔術士隊全員を無力化されるとも思っていなかったが。
だけど、今は思い至らなかったことを悔やむな、迷うな、止まるな、自分。
グラミィに時間稼ぎを頼み、その間に大急ぎで崖を上る。
火球魔法の術式に手を加えれば、火球の大きさが変えられることはわかっていた。
加えて、温度を上げれば、炎はほぼ透明に近い白になる。今のように晴れた昼間、しかも道の上ともなれば陽炎に紛れて識別もしづらいものになる。
身を隠しながら距離を詰めた後は、グラミィと心話で打ち合わせをしながら、仕草にあわせて極大の焔を顕界する。敵の視線を誘導するだけの簡単なお仕事だ。
ぶちきれた裏切り者が文字通り弓引く直前、クライたちの視界も借りて、五円玉の穴くらいの大きさに顕界した白炎球で、あたしがすべての弦を打ち抜いたのだった。
「そして五つ目。あの子が無詠唱で魔法を使えて、わしが使えないわけがなかろう」
グラミィの婆笑いに歯噛みするサージが、羊皮紙らしいものを広げた。
〔ボニーさん、あの紙です!〕
あたしは、即座にサージの手元に白炎を顕界させ、裏切り者の手中を焼き尽くした。
これで、王手だ。
敵対する人間をその真名で束縛する。
ただ真名を知っているだけでそれができるのなら、初めからカシアスのおっちゃんたちもあっさり武装解除されていたはずだ。
それが、魔術士隊だけ杖を捨てさせられたということは、真名を使って『行動を束縛・強制できるなにか』、たとえば魔法が存在しているのだろう。そこに気づけば『真名を手に入れた』という言葉にひっかかりを覚えた。
真名の情報、つまり『概念』だけではなく、『媒体』となるような具体的な物を手に入れたということじゃないか。
そう気づいてからはグラミィに、時間稼ぎの最中にも怪しいものを探してもらっていたのだ。
いざとなったらあたしがカバーに入るつもりだとはいえ、下手をすれば矢だけじゃなく、操られた魔術士隊全員に氷弾なり火球なりを浴びせられることも覚悟してやってくれたのだ。ありがとうグラミィ。
〔そのくらいにはボニーさんのやりくちと能力は信じてますからー〕
『媒体』はおそらくサージの分もあったのだろう。
それを使えばようやく束縛の解けた魔術士隊の面々のように、意のままに従わせることができたのかもしれないが、一緒に焼いてしまった。
とはいえ、とりあえず問題はない。
首まで氷漬けにしておいて、髪の毛を燃やしておけば、無力化はできるからね。
芸の引き出しがなくてすまんな。
「小僧っ子のような、画に描いたような小悪党の相手はラクでええ。たっぷり自分の悪事を自慢してくれるでの、証拠集めものちのちたやすくて助かる」
グラミィが極大火球を放つ。ように見せかけて、わざとゆっくり着弾させ、そこから炎の壁を伸ばしていく。
さらに背後からも視認しやすいような低温の赤い炎で取り囲んでいく。
おっちゃんたちを取り囲んでいた兵士たちを逆に炎で包囲したところで、てこてこと、その脇を歩いてグラミィたちと合流した。
「従者どの、その傷は…」
ん?
ああ、弩の太矢がぶっすり刺さったまんまだった。
どおりで敵も味方も驚いた顔をするわけだわ。心臓ぶっすりで血も出てないのに納得してくれるのは味方だけだったね。
だいじょぶ、とりあえず問題はないですよー。
肋骨一本折れてて痛いけど。
「ではカシアスどの、この小芝居の幕引きはまかせましたぞ」
「は!」
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