裳抜け
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
あたしを襲ってきていた『紅の源』は、赤黒く巨大な蛇に近いシルエットだった。
乾燥した泥が貼りつき、まだらになった巨大な頭は、炎のような色の目、あたしを丸呑みにして余りある巨大な口、攻撃してきた舌のイメージばかりが強い。
だから、『紅の源』という呼び名は、その目の色と、周囲の物を発火させる能力によるものじゃないかと感じていた。
けれど、それはどうやら間違いだったようだ。
鼻筋――爬虫類の鼻筋ってどこだという気もするが――から、目の後ろのあたりまでべろりと剥げ、オールバックのように首の後ろに垂れ下がっている皮は、先端が焦げたようにぼこぼこに膨れていた。マイクロ波っぽいレンチン攻撃をあたしが跳ね返した、その反射をくらったからなのかもしんない。
けれど、黒っぽい皮の剥げた後のその鼻先ときたら、なんとも鮮やかな真朱色だったのだ。
陽光石か火蛋白石からでも削り出したような鱗はつやつやで、火傷らしい傷もない。
……ああ、そういえば『紅の源』の脱皮の時期だというので再生のお祭りがどうとか言ってたか。
ということは、皮が剥けているのは火傷ではなく、脱皮したせい、ということになるんだろうか。てかむこうの世界の爬虫類の脱皮って、たしか白っぽくなったと思うけど黒くなるんだ。
(ナぜ黙っテいル?)
ぐぐっと『紅の源』が顔を寄せてきた。
大きなビーチボールぐらいはありそうなその目の周囲には、細くアイラインのように黒の線が入っていて、その外側にはさらに赤橙が目を強調するように入っているのが美しい。虹彩も、よく磨いた銅と炎のグラデーションをこきまぜたような斑模様だ。
(通ジなイのカ?)
小首を傾げてこちらを見ている様子がなんだかかわいらしくて、あたしは毒気を抜かれた。心話から害意が伺えなかったということもある。
(いやすまない。あなたに見惚れていた)
心話を発すると、『紅の源』は、戸惑ったようにまばたきをした。ぱちくりと下から目蓋が上がってくるのは、やはりむこうの世界でいう爬虫類の近縁種ということだろうか。
(少し、訊きたいことがあるのだが)
(なニかナ?)
(感謝するとは、どういうことだろう?)
さっきの攻防は積極的に命を狙ったわけではないが、あたしはかなり本気で『紅の源』の氷漬けを狙った。
たとえ結界陣で今のところは無傷であっても、これ以上レンチン攻撃を喰らったら自分の身が危ない、という判断もあった。
加えて、あわよくば『紅の源』を力で制圧することができないか、という欲もあった。
でも、こっちの世界の火蜥蜴が、変温動物であるむこうの世界の爬虫類と近縁種だとすると。たとえ魔物であるとはいえ、あたしの氷責めは、『紅の源』にとって、かなりきつかったんじゃなかろうか。
むこうの世界でも水棲の爬虫類って何時間か潜水してられたはずなので、水面覆って肺呼吸できなくしてしまえーってのは、まあ効果がないよりはまし、くらいにしか考えてなかったけど。
なのに、あたしのおかげで助かった、感謝するとか言われてもなあ。
無事に平和的な会話ができるようになったのはめでたいが、今のは痛かったぞと言われそうなこの状況とはちぐはぐすぎる。
(魔力ト冷たイ水ヲくれタだろウ?ちョうド欲しカっタ。ちト頭ヲ出スのニ困っタガ)
(……なるほど)
心配無用どころか、あたしの氷責めは『紅の源』にとっちゃあ、気持ちのいい水風呂、もしくは氷冷クーラーありがとう、でしかなかったというわけか。
つまり、基本専守防衛、攻撃と言えば反射によるカウンター頼みにしか動いてなかったとはいえ、あたしの魔術は彼にはほとんど通じなかったってことですな。
それは、仮にあたしが真剣に、『紅の源』を攻撃したとしても、効かない可能性が高いということだろう。
もとから目指すは友好関係、悪くて中立の確約だったけれども、あらためて『紅の源』と敵対するまいとあたしは決意した。
(きレいナ冷たイ水ガもっト欲しイ。固イ水でモいイ。皮ヲ脱グのニ要ル)
そういや、むこうの世界の爬虫類も、脱皮の時には水が必要……だったっけか。
固い水、というのは氷のことだろうか。爬虫類っぽい外見で氷、いや冷水を喜ぶってのには、ちょっと違和感があるけれども。
(差し上げてもいいが……)
どのくらい必要なのだろう。
今すぐこの湖が満杯になるまでおくれ、とか言われたらごめん無理と言うしかないんだが。
(ふム。取リ引キしヨうカ。何ガ欲しイ?)
彼の方から対価を差し出してくるとは思わなかったな。
けれど、それだけ水を熱望してるというのなら。
(望む量をすぐに用意できるかはわからない。魔力が足りなくなれば、わたしも回復する必要がある。休み休みになるかもしれないが、それでもいいのなら、一つ、いや二つか三つほど願いを聞いてほしいのだが)
(何かナ?)
心話からは好奇心が伝わってくる。
興味を持っている、ということは聞いてくれる目があるということ。
(一つ目はわたしと、わたしが指定する相手を襲ったり敵対したりしないでほしい)
(そチらガ襲ッてコなケれバ、襲ッたリしナい)
と言われてもねえ。
(あなたに危害を及ぼそうとしたのではない人間を襲ったと訊いた)
(いツのコとダ?)
(ここへ来る前の湖で)
(覚ヱてイなイ)
よくある記憶にございませんってやつかと思ったが、詳しいことを訊いて納得した。
受けたダメージのせいで、『紅の源』は今の今まで意識が落ちてた状態だったらしい。
もともと『紅の源』は脱皮期ということで、変調を抱えていたらしい。
むこうの世界の爬虫類も、確か脱皮の時期には食欲を失ったり、攻撃的になったりするんじゃなかったかな。
だが、『紅の源』の場合、全身の魔力バランスが崩れるのだという。
身動きするのもつらいほどだが、体内の火の魔力が過剰になるので、なるべく放出しやすいよう、水の中でもしょっちゅう移動せざるをえないとか。思わず、寝具の体温を吸ってないところを探す熱帯夜の寝返りかいと内心突っ込んだあたしはたぶん間違ってないと思う。
けど、それで火の魔力が水に放出されているなら、そりゃあ、湖沼も温くなるよなあ?
確か、むこうの世界の幻想生物であるサラマンドラは火の中で生きられる蜥蜴だという。
なぜそんなことができるか説明づけられた理由は二つ。
一つは、サラマンドラが火を操る能力を持っているから、自分は焼け死ぬことがない、というもの。たぶんこの説が四元素と絡んでゲーム的な火の精霊のイメージになってるんだろう。
もう一つ、サラマンドラの体液は火を退けるほどに冷たいから、という説があったとか。
あいにくどっちの能力もこの世界の火蜥蜴は持ってないらしいが、だがまあそれは幻想の元となったむこうの世界のサラマンドラ、山椒魚もそうだろう。
あれ、両生類なんで、体表面を覆う粘液に保護され、逃げ出すまで火傷で移動能力がたまたま損なわれなかったから、らしいし。
閑話休題。
放出しまくった火の魔力は周囲を暖める。湖全体があまりにも熱くなったんで、耐えきれなくなった『紅の源』が、湖の外に出て、霧に撫でられていた時だった。
彼は人間の群れに襲撃された。
サルウェワレーの人たちにとって、『紅の源』は氏族紋章として崇める対象だ。だから『紅の源』を攻撃しようなんて思いもしない。
サウラさんたちに聞いてみたら、日頃は敬して遠ざけるという言葉がぴったりくるような扱いだったらしい。
たとえば『紅の源』がいる湖で魚を獲るときには、一番大きい獲物を『紅の源』の取り分として、再度湖に放ったり。その影を遠目にでも見かけたら、回れ右して家に帰ったりとかね。
脱皮の祭りの時でさえ、供物を湖に捧げたら、そのまま湖から離れて人間だけの宴を開くぐらいだとか。
そんなわけで、あんまり人が間近く近づいてくるという経験もなく、ましてや人に攻撃されるなんて想像すらしたことのなかった『紅の源』は、ただ、人間の群れに取り囲まれるということを嫌がって、おとなしく湖の中に撤退しようとした。
その時、後ろから尻尾に斬りかかられたという。
当然彼は反撃した。
といっても、体調不良の状態で戦うということも思うようにはならなかったらしい。
下手な剣でめったぎりにされた尻尾を『紅の源』は自ら切り落としたのだ。
人間の群れをなぎ倒したのは、その尻尾だったという。
……まー、むこうの世界でも、蜥蜴の尻尾って自切できるし、その後は跳ね回るもんなぁ。
まさか異世界でも同じようなことが起きるとは思わなかったが。
びたんびたんと跳ね回る尻尾になぎ倒され、自滅するような形で、ほとんどの人間が吹っ飛んだ。前に回って斬りかかってきた奴は、例のレンチン攻撃によって加熱の刑に処したらしい。
そこまではいい。命を失った者もある意味自業自得だ。
けれど、『紅の源』は尻尾を失ったことで、さらに危険な状態に陥ったという。
……そういや、再生力の旺盛な、むこうの世界の蜥蜴でも、尻尾を失ったことのある個体と、失ったことのない個体では寿命に大きな差が出る種がいた、はずだ。
なぜかっつーと、尻尾はバランサーであるだけでなく、栄養の備蓄庫になっているから、らしい。
そこは『紅の源』もある意味似ていて、彼の場合は魔力の備蓄をしているところだったようだ。あたしが現在のマイボディたるお骨に魔力を圧縮して貯めてるのとちょっと似ている。
もともと『紅の源』は、脱皮という、かなり負担のあることをしていたのだ。そこへ来て自分の身体の一部を失うのは、いくら『紅の源』の再生能力が高いとはいえ、そうとうきついことらしい。
基本的には雑食の少食――その身体の大きさで少食と言われてもイメージがしづらいんだが――の彼にしても、このままでいるのはまずいというので、喰ったという。
自分の尻尾と、攻撃してきた者たちを。
……いや、それを聞いて思うことがないわけじゃ、もちろんない。
自分の尻尾食べたってのは、まあ合理的な行動だよね。むこうの世界でも尻尾を失った爬虫類が、自切した尻尾を食べて栄養分の一部を取り戻す行動に出るってのはあるらしいし。
襲撃者の死体を食べた、というのも、『紅の源』にとっては、命を懸けた殺し合いも生存競争の一部でしかない。自分の身もろとも、弱肉強食を地で行ったということなんだろうと考えれば、頭では納得がいく。
サウラさんたちに聞いたところによれば、彼は駆けつけてきたサルウェワレーの人たちを襲うことなく、湖に姿を隠したわけだし。
あたしがひっかかりを覚えているのは、『紅の源』が食べたのが、おそらくはスクトゥム帝国からやってきた星屑たちだろうということだ。
これは、ひん曲がった武器などを回収した、火蜥蜴の氏族の人たちにも聞いたことだ。襲撃者たちの遺留品は、サルウェワレーの人たちにとって、かなり見慣れないものだったらしい。
たとえば、クラーワで作られる武器は、基本的には鈍器らしい。希少な木の枝などを蔓や皮で補強し、両端を硬化させる。
短剣は武器というより工作用とか、もしくは料理用。
確かにあたしもクラーワに入ってこの方、上腕骨より長い刃物を見たことがない。
しかし、襲撃者たちの武器は長剣がほとんどだったという。
槍もあったらしいが、どれも造りからしておそらくはスクトゥム帝国のものだろうということだった。
……正直、一狩り行こうぜ感覚でやってきた星屑たちが、脳天気にも『紅の源』のような、たぶんあたしレベルすら歯牙にも掛けない――『紅の源』に歯はあっても牙はないようだが――強大な魔物に襲いかかって、返り討ちに遭おうがどうしようが、同情する気には欠片もなれない。
ただ、星屑たちを搭載されてしまった、ガワの人たちが気の毒でならない。
そして人喰いの魔物となってしまった『紅の源』に対し、火蜥蜴の氏族の人たちが、どういう反応を示すかわからないというのが恐ろしい。
民俗伝承とかよくあるもんなあ。堕ちた神が化け物として退治されるとかね。
もともと神なんてものは、人間の保護者でも絶対的な味方でもないんだけどなあ。
火蜥蜴の氏族が崇拝から排斥へ、手のひら返しをするかもしれないという可能性が、どうにもちらついてならないのだ。それはつまり、生身である『紅の源』に危険が及ぶ可能性と同義でもある。
嫌な予感はさておき。
いくら喰らって再度我身に取り込んだとはいえ、それまで自分の身体の一部であった尻尾を失ったことは、『紅の源』にとって大きな痛手だった。
再度湖に沈み、そのまま回復を待つつもりだった『紅の源』は、自身の魔力と格闘する羽目になった。
魔力の備蓄庫を失い、体内にたまる火の魔力をそのままにしてはおけない。無理に押し込めようとすれば逆にそれが身体を内側から傷つける。
それまでが実に生ぬるいものであったことを示す勢いで、『紅の源』は自身の魔力を、特に火の魔力をひたすら水中に放出した。
結果、湖水温は急激に上昇し、その影響は同じ湖に棲む他の生物にも及んだ。
だが動きの鈍くなった魚も、色の変わった水草も、『紅の源』にとっては我身を癒やすための糧となる。
ただじっとしていることも苦痛な身体に鞭打って、彼は魚にレンチン攻撃を向けた。
当然、対象となった魚は生きたまま身体の中から焼けるというか煮られて、湖の水温はますます上がる。
加えて、食べた魚も水草も、彼が放出した火の魔力を大いに含んでいた。
食べねば餓え、食べれば火の魔力が膨れあがる悪循環。
しかも熱くなりすぎた水は火の魔力を吸収しない。それは『紅の源』が火の魔力を放出できなくなってしまうということだ。
冷たい水を求め、なんとか必死で別の湖へ転げ込んだところから『紅の源』は記憶がないという。
……この話が本当ならば、というか心話では嘘などつけないから、たぶんほんとのことなんだろうけれど。『紅の源』は、魔力暴走を起こしていたのだろう。
人間の未熟な魔術師が起こすと言われているのは、魔力暴発。
基本的には不完全な術式で顕界しようとした時に、周囲へ破壊エネルギーが向かうものだ。
ややこしいことに、パルのように放出魔力そのものに攻撃力があるものも、同じ魔力暴発と呼ばれる。
どちらも、術者の肉体が破壊エネルギーに耐えきれなくなるせいでそう長くは続かず、自滅という結果に終わることが多い。
それに対し、『紅の源』が起こしたのは魔力暴走。
彼は魔物であり、その身体は人間に比べて魔力耐性がある。
肉体的にはだ。
身体の内外から火の魔力に攻撃され、それでもひたすら耐えて尻尾の再生を待っていた『紅の源』は精神的に疲弊していった。
制御が甘くなれば魔力は暴走し、さらに『紅の源』の理性を削る。
これは推測だが、火蜥蜴の氏族の人たちが、あの効果があるのかないのかわからない鎮めの儀式をしたころには、彼はほとんど本能的な動きしかできなくなっていたのだろう。
だからこそ、悲劇は起きた。
ククムさんたちともどもミーディムマレウスに送り出した、呪い師見習いのディシーによれば、用意された水もディシーの師匠である呪い師が顕界したものだったらしい。
だが魔術で顕界したものには、術者の魔力が含まれることがある。グラミィもしょっちゅう大量に魔力を含んだ岩や砂を作り出してたが。
たぶん、魔力のバランスが崩れまくっていた『紅の源』が欲したのは、供物として湖水に投じられた水そのものに加え、そこに含まれていた魔力、体内に溜まっていく火の魔力と相殺できる水の魔力もだったのだろう。
だが意識なく暴れるしかなかった『紅の源』は、あたしにするように心話で交渉することもできず、結果があの大量な人的被害ということになる。
今になって『紅の源』が正気を取り戻したのも、おそらくは大量に氷や水がもたらされた――しかもその大部分はあたしが顕界したもので、自然物よりは魔力を含んでいてもおかしくはない――からなのだろう。
大気中から凝縮した真水はともかく、魔術陣や術式でたっぷりと顕界した氷は水の温度を下げ、熱を散らし、そして火の魔力を喰らって相殺し、水となった。
それはいいのだが。
(一つ訊くが、あなたはこれからどうしたい?)
心話で訊ねると『紅の源』はぱちくりと瞬きした。
(古イ皮ヲ脱グ。尻尾元ニ伸びル。変わラなイ)
うん、まあ、そうだよね。そう言うよねー……。
馬たちのように心話の通じる動物、そしてグリグやコールナー、幻惑狐たちのような魔物に共通しているのが、『未来を想像しない/できない』ということだったりする。
彼らは、過去にあった脅威を記憶、学習していないわけではない。知能が低くて未来予測ができないわけでもない。
ただ、未来への備えとか、事前の対策をしようとはしない。
一角獣のコールナーは、自分の領域に人間が入り込むのを厭うが、だからといって人間を領域に立ち入れないようにすることはない。
四脚鷲のグリグや幻惑狐たちは肉食だが、人間が家畜を飼うように、餌とする小動物を計画的に繁殖させようとはしない。
そしておそらくは、この『紅の源』も。
自分が人間を――たとえ火蜥蜴の氏族を襲ったことが記憶になくても、襲撃してきた星屑たちのことは覚えているだろう――殺し、喰らった記憶はあっても、そのことで人間から恐怖され、命を狙われることがあるかもしれない、なんてことは考えてもいないだろう。そのことがよくわかった。
ならば、あたしのするべきことは。
もろもろ考え合わせ、『紅の源』ともいろいろ話しあった上で、あたしは先に水と氷をたっぷり提供することにした。
まずはスコップ状に成形した結界で、製氷魔術陣を回収する。
まだ組み込んだ魔力吸収陣からの魔力供給が続いているのか、氷の生成が続いているものを元湖底のなだらかな斜面に置いて、氷塊を出してやる。
陸へと上がってきた『紅の源』は、嬉しそうにシャーベット状にしてやった氷塊につっこんだ。心底気持ちよさそうに、ぐりぐりと頭を振っている。
真夏日に水遊びをする子どものように、妙にかわいい仕草。思わずあたしは和んだ。
(水を飲むかい?)
(くレ)
ぱくりと開けた下顎に、顕界した水の塊を入れてやると、これまた嬉しそうにまばたきしながら飲み込んだ。
(うマい。身体ニもカけテくレ……そウ、古イ皮ノ下ニも)
ず、と『紅の源』が動くと、剥げかけた黒皮が波打った。
言われたとおり、顔の剥けたところから、剥げてきている皮とその下の鱗の間に水を顕界してやると、ぷくっと皮がふくらんだ。
どうやら抜け殻は水気でちょっと延びるらしい。
ふと悪戯心が湧いて、あたしは直接触ってもいいと『紅の源』に許可を取ると、皮をどんどんめくってやった。
もちろん、無理に剥いているわけではない。『紅の源』は鋭い爪を持つ。下手に皮をひっかけば、抜け殻もずたずたになってしまうだろう。どうせならつながったままの抜け殻ができないかと思ったのだ。
(あア。いイ気持ちダ)
ご機嫌そうな『紅の源』の様子を確認しながら、黒っぽい皮をちょっとめくっては、また水を顕界してやり、抜け殻が鱗から脱落するのを待つ。その繰り返しだ。
細長い巨体の左右をうろうろするのも大変なので、ちょいちょい結界を支えに使ったりもする。
大型バス十数台にまとめてかかった巨大な車カバーを一人で剥がすのって、こんな感じだろうか。
完全な肉体労働ですな!肉体ないけど!
だがそれに不満を感じなかったのは、脱皮自体が楽しかったせいもある。
慎重に前肢を抜いてやると、尖った爪の通っていた指先の穴以外は傷のない抜け殻は、貴婦人の長手袋のようにさえ見えた。
サイズこそ大違いだが、黒っぽい抜け殻に残った鱗の凹凸が、繊細なレース編みの模様のようで、実に綺麗だった。
もちろん、抜け殻だけでなく、『紅の源』そのものも美しかった。
真朱と見えたのはごく鼻先だけのようで、その全身は赤から橙にかけてのグラデーションになっていた。
頭の方から尻尾にゆくにつれ、どんどん色濃く、最後は深橙――とでもいうのだろうか。濃すぎて暗く見える地の色に、濃い金茶がかった煌めきが流れ、まるで夕焼け空に満天の星が見えるようだ。
脱皮したての鱗は艶やかに霧を滑らせ、それを火の粉のように染めた。
虹を砕いて撒いたよう、いや、炎が踊っているようだ。
コールナーが月光細工ならば、『紅の源』は炎光細工とでも表するべきだろうか。
だがその美しさは、万全のものではなかった。
よく見れば身体のあちこちにいくつもの傷跡が刻まれており、特に脇腹から後ろにかけては、めくり剥がしてやった抜け殻すら、『紅の源』自身が爪をかけなくてもとうにズタズタというありさま。
抜け殻を剥がした後の鱗にすら、薄く幾筋かの痕跡が残っていたくらいだ。
(ここは痛くないかな?)
(大しタこトでハない)
と言うが、魔力の流れを見ればわずかに歪みが生じている。
脱皮したから鱗に凹みが残るだけですむ、というような怪我ではなかったのだろう。
あたしはそっと自分の放出魔力を増やした。
生物が体内に保有する魔力は、地水風火すべてが混在しているという。そして魔術を使う時には術式の構築も流し込むのも、どんな魔力であれ一定以上の同じ結果が出る。とされている。
基本的に術式の効果は術者の力量次第とされていて、その魔力の質による差異は、正直ほとんど認識されていないようだ。
もし仮に、コールナーと同じくらい水の魔力を持つ人間が火球を顕界したとしても、火球は火球。そういうことになっている。
が、あたしの魔力は、凍てつく流れに例えられるほど冷え切ったものだとよく言われる。
たぶん水の魔力多めで、火の魔力の割合が少ないからなんじゃないのかなとは思ってるが、さだかではない。
じゃあ魔力の色合いや形がグラミィとよく似ているらしいのはなんでかなーとか、そのよく似ているはずのグラミィの魔力が冷えてないのはなぜなのかなーとか、いろいろ疑問が派生してくる謎ではある。
だが、あたしの冷えた魔力と、『紅の源』の、自力で熱湯通り越した熱泥風呂を作成してしまうような魔力を触れ合わせることはできるだろう。
それで熱交換ができれば御の字、もっとうまくいけば時間無制限状態でそんなもんに漬かってなきゃならなかった、彼の魔力を安定させることはできないだろうかとあたしは考えた。
そう、ちょっと傷跡周囲の歪みを正すくらいは。
(身体ノ中まデ涼しクなっタ)
しばらく放出魔力で表面を覆ってやっただけだが、それでも多少の効果はあったのかもしれない。
ぐりんと首を180度曲げるようにして、『紅の源』はお腹周りの脱皮を手伝うあたしを見ていた。最初よりも穏やかな目だと思うのは、錯覚だろうか。
コールナーもそうだったが、動物と魔物は自分の視界外、というか自分が認識できないような死角に、他者が存在することをすごく嫌がる。
あたしが馬たちやコールナーと仲良くなれたのは、あたしから見た視覚を共有することで、今あたしがどこにいて、何を認識しているかを伝えているからだ。
いくら敵意がないといっても、『紅の源』があたしが側に立つことを許してくれているのは、この心話での視覚共有のおかげもあるのだろう。
直視しているところを見ると、それじゃ足りないのかもしれないが。
けれど、その警戒心の強さも無理はないと、あたしは思った。
そう、『紅の源』の後ろ側まで回って、あたしはなんとも言えない気分になった。
尻尾がないというのは言われていたから理解していた。
だけども、これは、あんまりだ。
たしかむこうの世界の蜥蜴の尻尾も、いくら再生すると言っても、骨まで再生は……しなかったんじゃなかろうか。
(尻尾にハ触レるナ)
わずかに盛り上がった肉をぴこりと上下させ、『紅の源』は緊張に尖った『声』を向けてきた。
(わかっているよ)
もちろん、触るなと言われたところは触りませんとも。
あたしはおとなしく片方の後ろ肢の脱皮を助けると、そのまま頭の方に戻り、反対側へと回った。
いくら害意がないとはいえ、『紅の源』にとって、あたしは傷口に触れるかもしれない異物だ。
警戒もストレスになるのなら、刺激は減らした方がいいに決まっている。
骨っ子「手加減はするよ!死なないでね!」
『紅の源』「水冷クーラーひゃっほー!もっとしてしてー!」
骨っ子「……こ、今回はこのくらいにしといたるわっ」
……今回骨っ子の脳内イメージが、頭を抑えられた池乃めだか師匠になってしまったのは内緒です。




