湯煙の湖国
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
霧や靄に傘代わりの結界がしっとり濡れることが次第に増えたものの、あたしたちの道行きはわりと順調だった。
クルリヴァスタトル、アルヴィタージガベルといった国々を抜け、ミーディウムマレウスの中に入るまでも実にスムーズだった。
隣国のサルウェワレーまではあと一息というところである。
しかし、言わば首都にあたるというカプットまで辿りついたというのに、ククムさんは首をかしげたまま、しばらく動かずにいた。どうしたのかな?
「いえ、案内の者が待っているはずなんですがねえ?」
あたしたちの道案内のはずのククムさんを案内してくれる人ってなんぞ。
と思ったが、詳しく聞けば、ミーディウムマレウス周辺を回っている、幻惑狐の氏族の人と合流する予定になってたんだそうな。
……なるほどねえ。
せわしくも大急ぎでやってきたとはいえ、バックアップ態勢や準備はちゃんと整えてきてたってわけか。さすがはククムさん、ちゃんとそれなりの計算と成算があってのことだったわけね。
うむうむと納得していると、あたしの肩の骨の上でぐんにょりとへばっていた幻惑狐のフームスが、不愉快そうに鳴き声を立てた。
(あつーい。くちゃーい)
感覚を共有してきたのは、腐った卵と湿ったコンクリートのような、かすかな匂い。そしてじっとりとした湿気だった。
幻惑狐たちは海の近くにも棲息する。船上でも元気だったほど高湿度には強いはずなのだが、高温とあいまって、へばる原因になっているらしい。とっくに夏毛に変わってるはずなんだけどね。
てゆーか、暑い。ねえ。
〔めちゃくちゃ暑いですよ。むしむしするくらいです。ボニーさんはわかんないんですか?〕
すまんね、骨の身だと温度感覚死んでるもんで。
てかグラミィ、あんたもククムさんからもらった厚い毛織物を外套の下に巻いてるせいじゃないのー?
〔あ。……忘れてました〕
忘れんなよ。
軽く突っ込んだものの、言われてみればトリコルヌスの乳を流したような濃い霧は、どこか火の魔力を帯びているように思われた。
魔力感知能力の高い幻惑狐やグラミィは、これを熱と感知しているのかもしれない。
霧は水の粒子でできている。当然のことながら含まれるのはほとんどが水の魔力で、森の中だとその水の供給先である地の魔力、霧を動かす風の魔力を感じることもなくはない。が、火の魔力を感じるということは。
……ひょっとしたら、藹々と立ちこめているのは霧や靄ではなく湯気だということなんだろうか。
いやー、まさかねえ。
こんなに大量の湯気が、しかもかなり広い範囲を覆うとか、ないない。それこそ周囲からぽこぽこと熱湯の湧き出るような、大きな温泉地でもない限りありえないことだろう。
しかし、これだけ湿気があるなら水の確保に使う魔力も節約できるかもしれん。
あたしは試しに、水を作成する術式に、ちょいと手を加えて顕界してみた。周囲から水を召喚するようにして。
これ、普通ならばスプーン一杯の水を顕界するのでもけっこう大変なんだが、石で顕界しておいた水筒の中に、みるみる水が溜まり、同時に視界が晴れてったのには、しでかしたあたしの方が驚いたよ。
〔うわぁ……。一気に涼しくなりましたー〕
まあ、周囲にドライをかけたようなものだもんね。
ついでに、ほい、とヴィーリに水筒を渡して頼みごとをすると、彼はそのままククムさんへと手渡してくれた。
「これはこれはありがとうござい……これは?」
水と気づいたククムさんは、いいのかなとでもいうような、もの問いたげな顔になった。
が、ちゃんと言い訳は考えてある。
「呪い師の方々との誓約は『我々から幻惑狐の氏族に水の提供はしない』というもの。『しかし、わたしが星詠みの旅人の方に水を差し上げてはならない理由はございません。ましてや、樹杖持つ方が何をなさろうが、我らの関知するところではございませんな』だそうですじゃ」
「……なるほど。ではありがたく頂戴いたします」
ククムさんは深々と礼をした。
ええ、これ、呪い師たちとの誓約の裏をかく方法の確認も兼ねてます。
〔やっぱりボニーさんって、悪いこと考えさせたら敵なしですよねー……〕
をい。
あたしにおんぶにだっこをするんじゃありません。
たまにはグラミィ、あんたも考えなさい。
〔え、つっこむのはそっちですかっ?!〕
などとやりとりをしながらサルウェワレーに入ったのだが、湯気だかなんだかわからん温気は、相変わらず視界を遮りつづけた。
いやねえ、物質が魔力を含んでる以上、あたしの視界も悪くなるんですよこれ。
しかもなんだか火の魔力が強くなってきているみたいだし。
〔温泉ですかね?〕
ククムさんに聴いてみると、そこまでは知らないらしい。
しかし、フームスが嗅いだ匂いのこともある。幻惑狐の嗅覚が人間と共通するのであれば、硫黄や塩の化合物の溶けた鉱泉がこの近辺に存在するかもしれないな。
ということは……。
ひょっとしたら、サルウェワレーは宝の山かも。『紅の源』とは別の方面でも。
サルウェワレーでも、ククムさんの顔はとってもよく効いた。
ククムさん個人が、なのか、幻惑狐の氏族のネットワークによるものなのかまではよくわからないが、そのおかげで、あたしたちはわりとあっさりサルウェワレーの氏族のえらいさんたちに対面することができた。
サルウェワレーが単氏族国家であるということは、これ、一国の王とか首長クラスへの謁見を申し込んだら即日会えたようなものだろう。しかも異国人がだよ。
クラーワヴェラーレでも、現王たるアエノバルバスとわりと無造作に対面がかなっていたから、そりゃクラーワ地方全体がそういう特色があるのかもしれないけどさあ。
かなり型破りすぎないかこれ?
「火蜥蜴の氏族が長、サウラと申します。もっとも継承式を行っておりませんので、いまだ仮長の身にございます。それゆえ、正式な長としての挨拶はいたせませんが、ご容赦を」
そう挨拶してくれたのは、なんだか枯れた雰囲気のある、濃橙色の目の女性だった。
あたしたちもさすがに驚いた。女性が氏族長をしているのには初めて会ったからだ。これもかなり型破りなことである。
型破りなことをしてくるのは型破りな存在というわけか、などと考えていたが、ククムさんも驚いていた。
っておい。知ってる相手じゃなかったんかい?
「……失礼をいたしました。長らく無沙汰をいたしておりましたが、よもやサウラさまが代替わりなされたとは存じ上げませんでしたもので。――時に、先代のサウロスどのはいかがなされましたので?」
「過日ミーディウムマレウスの呪い師の方に願い、アウェスに魂を運んでいただきました」
「それはまた急なことで……。しかし強健であられましたサウロスどのが、突然お亡くなりになるなど。何がございましたので?」
気の毒そうな表情をしながらも、ククムさんは容赦なく聞き込んでいく。お悔やみついでの情報収集とか、やっぱククムさんの話術はすごい、というかエグいわー。
「我らが氏族の紋章たる火蜥蜴に」
はい?
え、そんなに火蜥蜴って、人襲うほど凶暴な魔物なの?
てか『紅の源』って、火蜥蜴なわけ?
どうにも奥歯に物が挟まったようなサウラさんからぽつりぽつりと話を訊けば、どうやら、火蜥蜴の氏族の中に、行商にきた幻惑狐の氏族の人に、ここんとこずーっと『紅の源』について困っていたことをこぼした人がいるようだ。
そしてその幻惑狐の氏族の人が、情報をククムさんに流し。
ククムさんがあたしたちに話をつけたところで、これから行きますと連絡をしたら。
一度行商で離れてた幻惑狐の人ってば、またサルウェワレーに戻ってきて伝えたらしい。全くの好意で。
さあ、焦ったのは火蜥蜴の氏族たちだ。
そもそも『紅の源』は強大な魔物だけれども、サルウェワレーにとっちゃ国防を一手に引き受けてくれてる存在でもある。
そんなもののトラブルを余所者に任せるなんてぇのは危険すぎる。他の国の、そして他の氏族の手を借りる前に事を済ますべきだという考え方もわからなくはない。
先走りの結果として、火蜥蜴の氏族は先代の長、つまりサウラさんの夫と、先代の長の子、つまりは本来であれば次代の長になるはずだったサウラさんの子を失った。
他にも、ミーディウムマレウスからやってきていた幻惑狐の氏族の人や呪い師たち、数人が負傷したり死亡していたりするという。
あまりの惨状ぶりを効いて、さすがのククムさんも呆然としたのだろう。口を半開きにしたまましばらく無言になっていたくらいだ。
そんなククムさんの顔なんて、初めて見たよ。
でもさあ。
手助けなんてものは押し売りされても買い方次第じゃん。
なにをそこまで急ぐ必要があったんだろう。
余所者を関わらせてたまるか!という一心だけで強大な魔物につっこんでいったとすれば、この氏族というかサルウェワレーの排他性はずいぶんなものだと考えるべきだろう。
するするとどこへでも入り込み、誰とでも親しく話ができるのが特技という、ククムさんみたいな幻惑狐の人だからこそ、そんな愚痴から情報を拾えたのかもしれないが、心の鎧は竜の、いや火蜥蜴の鱗なみって見ておくべきかな。
もしくはプライド高すぎというべきか。
いのちたいせつ。使えぬ矜恃なんてもんは犬にでも喰わせればいいのになぞと、あたしなんぞは考えてしまう。
「しかし、なにもサウラどのが長として立たなくても」
「そう思われますでしょう?ですけど長になったが最後、あの『紅の源』と相対し鎮めなければならぬというので、誰もなり手がおりませんのですよ。仮長などという不安定な座など、わたしも居心地がよろしくありませんので、かなうのであれば、疾く退きたいのですが。わたしの息子より年上の、従兄弟も甥も大甥もおりますのにねえええ」
小声で皮肉そうに笑ってみせる長さんの様子に、上座から居流れる長老格らしき年寄りたちが、気まずそうに咳払いをした。
おやまあ、それはそれは。逆にプライドを犬に喰わせすぎてたってやつだったのか。
しかし、そいつぁあたしたちにとっても好都合だ。
真面目な話、あたしたちは、まだ、ランシアインペトゥルス王国の代表として、ここにいるわけじゃない。フルーティング城砦にも、いざとなったらただの勢い余ったお調子者、そういう扱いで通してくれと話はしてきている。
ならば正式に面識ができるのは互いに面倒というものだ。
「ククムどの、そちらの方々をご紹介いただけましょうか?」
「これはわたくしとしたことが。クラーワヴェラーレが親交を深めておりますランシアインペトゥルス王国の魔術師の方々と、」
「魔術師とは?」
「ああ、説明がまだでしたか。クラーワの外なる呪い師のような方々にございます。わたくしどもも命をお助けいただきました、大恩あるみなさまにございます」
「それはまた御奇特な」
あたしたちは黙って頭と頭蓋骨を軽く下げた。
見知らぬ異国の人間という警戒も、少しだけククムさんの言葉に緩んだようでなによりだ。
「なるほど。幻惑狐の境守といわれるカルクスの、隊頭でもおられるククムどのが、クラーワの外より連れ来たってくださいましたということは、さぞかし力ある方々でいらっしゃるのでしょう。……では、その魔術師のみなさまは、サルウェワレーに何をしていただけるのでしょう?」
へえ。
あたしはちょっとサウラさんを見直した。
仮長と言いながら、ちゃんと交渉張ってんじゃん。
藁にもすがる思いだが、それでもあたしたちがすがるに足りる藁なのか、それとも掴んでもともに沈むしかないような末枯れのわらくずかは、そりゃあ気になるところだろう。厳しく見定めなければという、その立場に伴う責任を負う覚悟の強さは評価しないでもない。
けれどもちょっと待てとあたしは言いたい。
「少々よろしいですかな、火蜥蜴の長どの。『我らはそもそも状況を十分に理解しているとは申せません。まずはこれまでいかなる事態がどのように起こりましたのか、その経緯を、そして長どのが願われる収まり方とはまずなんたるかをお教えいただきたいのですが』」
グラミィに口を挟んでもらうと、サウラさんどころか年寄りたちまでぎょっとしたようにこっちを見てきた。
だけどあたしゃまっとうなことしか要求してませんぜ。
「『我らはククムどのより、貴殿らが『紅の源』と水について困りごとをお持ちだとは伺っております。しかし、なにゆえそのようなことになったかは存じません。そもそも長どのが何を胸の裡にお望みなのか、見通す術など持ち合わせてはおりませんのでね』」
呪い師さんたちは、そのへんまるっとお見通しってなていで話を進めるのかもしれないが、あたしゃそんな方向で火蜥蜴の人たちを脅かす気はない。
なにせ、とっくに幻惑狐の氏族に水を渡した一件で、彼らには睨まれてるのだ。シャーマンめいたふるまいや権威づけなどしたら、今度は祭祀面からも睨まれてしまう。
「『サルウェワレーにとって、我々はこの地の事情も知らぬただの余所者。なにもお聞かせ願えぬのでは目隠しをされたまま動けとおっしゃられるようなもの。そのようなていで、長どのの意に沿うように動けるわけもなく、誰にぶつかったの何を踏み壊したのとおっしゃられても、我らとて対処に困るのですよ』」
ええ、ククムさんからたしかに『紅の源』の話は訊いた。この国の人たちの手に負えないてことも訊いた。水に困ってることも訊いた。
けれど、あたしたちが把握してる情報は、まだまだばらばらな断片に過ぎない。この状態でなんとかしろといわれても何をどうすりゃいいのさ?
道中ヴィーリにも『紅の源』という魔物について質問してみたけれども、『木々の覚えにあるものが同じ枝の葉であるかはわからぬ』という答えだったしなあ。
「『ゆえにまずはサルウェワレーをもっともよく知るみなさまがたより、詳しくお聞かせ願いたい。なにゆえみなさまが氏族の紋章たる火蜥蜴が、みなさまに害を及ぼすこととなったか。我らが役に立つかどうかは、その後に長どのらが判断されることかと』」
「……お話はよくわかりました」
サウラさんはグラミィの顔を見てうなずいた。
「では、少々長い話となりますがお聞きください。――我ら火蜥蜴の氏族は古来より『紅の源』と共に住みなしておりました」
……本気で長かったサウラさんの話をまとめると、『紅の源』――たぶん火蜥蜴、ということになっているけれども、見た者はほとんどおらず、それも頭の影や尻尾の先だけらしい――は巨大で強大な魔物じゃあるが、基本温厚というか、棲息している湖に近づかぬ限りはいっさい害のない存在であるらしい。
第三者視点から見れば、魔物の棲息圏なんて危険域によくぞ住み続けているものだと思うが、益があって害が許容できる程度に少ないと判断すれば、なんでもやるのが人間というものだ。
むこうの世界でも、たとえ火山灰が降ろうと噴火のリスクを省みず、活火山の麓に定住している人とかいたもんなあ。
そして、これまで、この片利だか共利だかよくわからない共生は、確かにうまくいっていたらしい。
人間サイドの影響と言えば、肉食獣による家畜の襲撃はほとんど発生せず、植物はよく育ち、その火蜥蜴のいる湖は温かくなるくらい。
て、ちょっとまてい。
うん、いや、確かに魔物ならばむこうの世界じゃありそうもないことを起こせるのは納得ですよそりゃ。あたしもグラミィも、コールナーが霧を動かしたり、幻惑狐たちが飛礫を飛ばしたりするのは老眼と眼窩で見ているもの。
だけどさあ、ひょっとしてこの靄と温気も、温泉が湧いてるんじゃなくて、その魔物のせいなの?
思わずグラミィが口を挟めば「地面からお湯が沸くわけはありませんでしょう?!」と、ものめっさ可哀想な者を見る目が向けられたけどな!
温泉って概念ないのかなー……?
閑話休題。
『紅の源』が岸に上がってくることも、まあ、ないわけではないらしく、百年に何度ぐらいの頻度で、たまーに住処を別の湖に移すことがあるのだが、そうするとまた移動した先の湖水が真冬でも凍らない程度に温かくなったと言い伝えられているんだとか。
……なるほど、熱源はあくまでも『紅の源』らしいってことかな。
加えて数十年に一回、おそらくは脱皮のタイミングで『紅の源』のいる湖の温度はさらに上昇するという。
そして、ここ数年が、湖の水温からして、その脱皮のタイミングであろうというので、火蜥蜴の氏族は祝いの準備をしていたという。
〔なんでお祝いなんですか?〕
グラミィが心話でこそっと訊いてきた。
あたしも詳しくはないが、脱皮は再生の隠喩になるからねえ。
むこうの世界の神話でも、たしか脱皮する蛇は不老不死の象徴として、太陽は朝に生まれ夜に死を繰り返す、死と再誕の象徴として、イメージが重ね合わされたものがあったはずだ。
農耕民族で顕著だったと思うが、光あふれる昼は善なる時、太陽の、そして生の時。そして闇に沈む夜は悪なる時、月や星の、そして死の時、として象徴的に分けられることが多いのだよ。
これが熱帯や砂漠に近い地域だと、昼や太陽は苛烈で、夜や月は優しく人を癒やすものというイメージが付加されたりもするのだが。
〔詳しくないとかいいながら、ボニーさんもよく知ってますねー〕
民話昔話、そして神話のたぐいは読みあさったりしたからなあ。
日本以外の国では、以外とその土地のイメージを持ちやすいし、話のとっかかりにしやすいので重宝したものだ。
いずれにせよ、再生の時が近いとなれば、お祭りムードになるのは理解できる。
しかしそんなある日、彼らの浮かれた気分に水どころか液体窒素を差すようなことが起きた。『紅の源』がいる湖が血に染まったのだという。
憤怒をそのまま叩きつけるような、声とも思えない大音声とともに、これまで見たこともないほど濃い靄、というか湯気が噴出したことに驚き、その湯気の元、『紅の源』がいた湖に駆けつけた火蜥蜴の氏族の人たちが見たのは、湖の岸辺に散乱する数本のへし折れ、ひん曲がった武器と、おびただしい血痕、ズタズタになった布の残骸。
そしてあちこちを怪我した『紅の源』が濁りまくった湖に沈んでいくところだったという。
……ってつまり、『紅の源』を襲った大馬鹿者がいたってこと?報いを受けた形で返り討ちには遭ったみたいだけれども。
しかし、クラーワ地方の中でも、険しい山脈に近いサルウェワレーに、こうもあっさりとやってくるほどには行動力があって、しかもホームグラウンドにいる魔物に喧嘩を売れるくらいに考えなしのアホとかね。
それも状況証拠的に、推定複数人いたっぽいとか。
〔……なんかイヤな予感がするんですけど〕
あたしもだよグラミィ。ぜんっぜん奇遇じゃないね。
その後、サルウェワレーはじっとりとした靄に覆われ、空を失い、『紅の源』が棲処としていた湖はじわじわと熱を帯びた。
それも、これまでのゆるやかな温度の上昇とは比べものにならないほど急激なもので、くだんの湖には煮上がった魚が浮かんだこともあるとか。
いやいやそれって、いくら魔物といえ生身の生物が発生する熱量なの?
湯気くらいは外気温との温度差があればわからなくないけどさ。
タンパク質が熱変性しないのかと、本気で突っ込みたくなったあたしはたぶん悪くない。
そりゃまあむこうの世界のデンキナマズとか、他の生物感電死させるくらいの生物電流放出できるけど、自分は感電死しないもんな。
それの熱量版だと考えれば納得……できるのかなあ?!
もっと単純に、『紅の源』が魔物だからとか、この世界の生物の構成物質は耐熱性タンパク質なんだとかいうステキ回答があるのかもしれないけどさあ。
当然、高温になった『紅の源』の身体に触れ、湯気に化け続けたと思われる湖水もただではすまない。
くだんの湖はどんどん水量を減らした。らしい。
何が起きているのか、知るも恐ろしいが知らぬも恐ろしい。かといって何もせずに近寄れば命も危ぶまれるというので、確認を命ぜられた人は、最寄りの高みにあった木の梢から、湯気に隠れる湖のほとりを決死の思いで偵察したのだという。ひたすら長い時間音も立てぬように目をこらし続けたところ、『紅の源』とおぼしき巨大な影を目撃したらしい。
そして棲処の水が枯れ果てそうになったその時。『紅の源』は、別の湖に飛び込んだ。
いや、その瞬間を目撃した人間はいないそうだ。しかし煮え枯れかけた湖から、ほかの湖へ移動した痕跡は深々と刻まれ、道中の土地に生えていた草木はすべて萎えしおれ、ものによってはぱりぱりに乾燥していたことから、先代の氏族長たちも、『紅の源』は湖を移動したのだろうと考えたという。
それを裏付けるように、新しい湖はじわじわ熱を帯びた。
同じ事が何度か繰り返され、いくつもの湖が煮え滾り、干からび、枯れ果てかけたという。
もちろん『紅の源』が去れば、湖水の蒸発は収まり、雪融け水や湧水が流れ込むぶん水量は回復するとはいえ、それも雀の涙。
かろうじて『紅の源』が向かわなかったのは、湖とも呼べぬ池か沼のような小さなものばかり。
体格的に入りきれなかったんだろうなー……。
「『紅の源』のいる湖に、水を流し込むといった対策はされなかったのですか?」
グラミィに訊ねてもらうと、そんな人為的なことをするまでもなく、山肌に近い湖には残雪が雪崩となって流れ込んだりしたという。
しかしそれも焼石に水、ならぬ『紅の源』に雪融け水。
そのせいでいつもの人間の水の消費も支えられなくなりそうになり、なんとか事態を鎮めようとした先代の長たちが実力行使に出たものの、蟷螂の斧状態であらかた返り討ちに遭ってのこの現状、なのだそうな。
なるほど。
あらかた事情は理解した。
しかし、即座に対策なんてぱっと思いつかんわそんなもん。
ならば困ったときの混沌録頼み、ではない。ここは樹の魔物たちよりも広範囲の土地の知識を得ている、森精に頼るべきだろう。
あたしは苦い顔をしたまんまのヴィーリをちらと見やった。
(ヴィーリ。『紅の源』について、知ってることがあるなら教えてほしい。『紅の源』を知らないならそれでもいい。知っている魔物の中で、似ているモノがあれば、教えてくれないだろうか?)
どんどん険悪になる空気を無視して訊ねると、薄く眉間に針のような皺を寄せた森精はその唇を開いた。
「あれは森の怨敵となりうるモノ。木々を枯らすモノだ」
……て、これだけ複数の国にまたがって影響をもたらすくらい、強力な熱を操るんだもんなぁ……。
そりゃ森にとっては歩く山火事の元みたいなもんだろうか。
しかし、人間のはるかに及ばぬ魔力と魔術を操る森精が、口に出すだけでもここまでイヤそうな顔になるとは。
ほっといたらどんだけ大きな災厄になるかわからん、ってことかなあ。
さいやくー、なんてね。はっはっは。
〔ボニーさん。サムいです〕
あ。はい。ごめんなさい。
「『経緯は我々もようよう納得いたしました。では、サウラどのが我らに望まれることもお聞かせ願えますかな?』」
グラミィに訊ねてもらうと、サウラさんは即答した。
「一番困っているのは水の不足かと。『紅の源』をなんとかしていただきたいとも思いますが、火急に解決を願いたいのは水にございます」
そういや、隣国から来てるはずの呪い師さんも『紅の源』にやられてたんだったけか。
そりゃあ魔術で水の供給をしてもらうのも難しいよね。
けれど、水不足の原因たる『紅の源』への対策を二の次にするというのは、根本的な解決にはならないと思うんだが?
それとも。
「……『御自分たちでなんとかなさるおつもりで?』」
「優先順位の問題です」
きっぱりと言い切って、サウラさんは深々と頭を垂れた。
「クラーワの外よりおいでの力ある方々にお願い申し上げます。なにとぞわたくしたちを、わたくしたちの国をお救いください」




