EX.一角獣は祝福を告げる
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
「コッシニアさま、足元にお気をつけください。よろしければ手をお取りしましょうか」
「ありがとう、アロイス」
普段はアロイスさま、コッシニアどのと今の爵位や地位に合わせて呼び方を変えてはいるが、二人きりの時にはどちらからということもなく、アダマスピカに暮らしていたころの呼び方に戻っている。
それは、平穏であったあの子ども時代を二人が愛惜しているためでもあったろうか。
コッシニアとアロイスは運河へと続く階段を降りた。
魔術師たちに手を加えられたアルボーの街並みは、以前より高くなった。
道や城壁、そして水路の石組は念入りに組み直され、しぜんと昔からある家、そしてピノース河の流れとつながっている運河は、広場や路地より相対的に落ち込んだ。
水の高さはさすがに魔術師たちにも変えようがない。
いや、変えることはできるのかもしれないが、可能と思われる魔術師は何も手を――いや、手の骨を施そうとはしなかった。
夜の闇は魔術師であるコッシニアと、シルウェステル・ランシピウスに扱かれ、魔力操作能力を磨くように指示される前から、自然と身体強化に用いていたアロイスには障害とはならない。
むしろ苦労したのは船である。
小船は揺らぎやすい。アロイスが船げたを掴んでいるところへコッシニアが乗り込む。船底から櫂を取り上げると、彼女は櫂を杭に押し当てた。アロイスが乗り込む反動を殺すためだ。
寝静まった街は風の音しかせず、水面に声は思いのほか響く。
二人は黙ったまま、だが息の合った手際で櫂と竿を操った。
アロイスは『放浪騎士』という二つ名の通り、捧げるべき忠誠もそれに見合う主君もなく、虚しく放浪を続けた時期がある。
正式な騎士号の授与も受けておらず従士もいない、時に馬すら持ち得ぬこともあった騎士もどきの身、馬上槍試合などという騎士の誉れめいたものになど触れることもなかった。
だが、輝かしい武勲を負うだけの、ただの騎士であれば、触れ得なかった知識にはずいぶんと触れたものだ。
それは、アロイスが流浪した土地が――報酬や雇い先を求めて各地を転々とする騎士もどきの身を、曲がりなりにも受け入れてくれるような需要など限られている――彼の戦闘能力と知識を必要とするような、キナ臭い戦火の気配が濃い領地ばかりだったこともあるのだろう。
馬も、馬具も、防具も剣さえも、ひとたび失えば目玉が飛び出て泥濘に転がるかと思うほどの高値で、しかもろくな質のものなど得ることもできぬ。高質な剣を鍛え上げるような腕のよい鍛冶師など、当然王侯貴族のお抱えだ。
伝手も、縁故より強力な金貨の小山も、痩せ狼のように戦場をうろつくアロイスには、あるわけもなかった。
むろん、正々堂々戦場での一騎打ちには多少の憧れもあった。しかし、ここで犬死になどすれば、何のためにアダマスピカを出たかわからぬと、何度沸き立つ胸をさすり宥めたかわからぬ。
生きよ、と最後にお目にかかった時、御領主様はおっしゃってくださった。
仄聞したところでは、御領主様は自分の出奔直後に亡くなられたという。遺言となってしまったお言葉に恥じぬよう足掻けば、よりうまく戦場を制する方策も考えつこうというもの。
それが汚い奇手と言われようとも、後ろ暗い手立てであろうと、戦場のまっただ中で必要となったならば、ためらいなくアロイスはなんでも使った。
そも、騎士の戦技とて、敵の注意をそらすものはいくらでもある。
右へ見せかけの攻めで釣っておいて左から刺す。大上段から狙うと見せて、足や馬を斬る。
だましやいかさまは密偵や暗殺者の使う技と言われて納得するわけがない。
別働隊とは名ばかりの、決死の攪乱用に送り込まれる小人数には、死体漁りで日銭を稼ぐ斥候や道案内に雇われた猟師、小船を使う漁師などが組み込まれることもあった。
態度を崩して接すれば、空けた酒の袋の数がたよりではあったが、それなりに彼らは心を開いてくれる。彼らから学んだ足音や気配を消す技、騎士であることがわからぬまでに仕草や身なりを変える方法はなかなか役に立った。
音を立てぬように船を操る技までびしびし叩かれながら手荒く仕込まれた時には、よほど斬り捨てて逐電してやろうかと思ったものだが。
しかし、陸上水上を問わず、何不自由なく夜のアルボーを動けるのは、あの時教えてくれた老漁師のおかげだ。今では感謝の念しかない。
さすがに王都からアダマスピカまで半日もかからず下ってきたという、あの老女のような真似はできないが。
聞いた時には、非常識の道連れはやはり非常識だと感じたものだ。
『次の水路角を右へ』
『了解』
櫂の水音をかすかに響かせながら、ゆるゆると運河を二人の乗った小船は遡ってゆく。
アルボーの水路はピノース河の流れを取り入れてはいるが、ベーブラ港とは異なり、またピノース河へと戻っていく構造になっている。
しぜん、水の流れもほどよく弱まり、どこへ向かうのもラクで良い。アロイスがアルボーの巡回にも時たま使っているのはそのためである。
そう、二人が船に乗ったのは、逢い引きなどではない。れっきとしたアルボー警衛連隊長、アロイスの職務の一つ、街の見回りの一環でもある。
アロイスは、声を出さずとも意思の疎通を図ることができるようにと、コッシニアに簡単な手振りを教えていた。
もともとオプスクリタス騎士団暗部で用いられるものだが、有用なものはどんどん使うべきだろう。
あわよくば、コッシニアもオプスクリタス騎士団に所属してはもらえないだろうかとアロイスはひそかに考えていた。
オクタウス殿下の司る魔術学院の中級導師が、クウィントゥス殿下の司る国の暗部に同時に所属するのは難しいだろうが、上級導師でありながらそのように動いていた生前のシルウェステル師という前例がある。
『身を低く』
橋が近づいてきた。
アロイスの注意の手振りに『了解』と返したコッシニアは櫂を握ったまま身をかがめた。
道が高くなっているため、すべての橋桁もいつかはより高いものへと掛け変わるのだろう。だが今は橋のたもとを盛り上げてそれでよしとしている箇所の方が多かった。
狭い水路を広げることはあっても、低いからといって橋を壊す必要はない。まだ実用に足るものを破却して新しく一から作る必要はないというのが魔術士団の技術者たちの判断だった。
まったくもって正しいことだとコッシニアも同意した。為政者の一族の者として、またわずかな金銭に困窮した放浪の経験者として、体面の維持に関係のない無駄遣いは敵だと骨身に沁みている。
コッシニアが女性の身であることは、いかに魔術師特有の長衣を身に纏っていても隠しうるものではない。
だからこそ、長い放浪生活の中で、女性が通常持ち得ないと思われている技術は、わずかに持ち出すことができた貨幣と同等の、いやそれ以上の助けとなった。
幼い頃自領で身につけたきりうろ覚えだった乗馬技術も、魔術師特有の放出魔力の量に警戒した馬をなだめ、自分を運ばせる程度には役に立ったものだ。
燃えさかる館から脱出した後、行方をくらまし生き延びることができたのは、そのおかげだといってもよい。
だが、船はかなりの難物だった。
貴族は男性であれば馬には乗る。だが船、それも自身が操らねばならないような小船に乗り、操船の技術を学ぶ機会などあるわけがない。
おまけにアダマスピカ副伯領内のピノース河は船も動かせぬ浅さだ。ロブル河は深いがそのぶん流れの勢いが強いので上流に戻ってくることはできない。
小船を操る漁師ならば曳綱を肩に掛け、河端の道を歩いて遡ることもあるのだが、五十人は乗れる大船が曳き手もなしに河を遡上するなどという驚くようなものを見たのは、あのシルウェステル・ランシピウス名誉導師とその舌人の所業ぐらいなものだ。
自分にはとうてい真似などできぬ。せいぜいが、アルボーに来てから櫂の使い方、小船の上での重心のとり方を、アロイスや元ルンピートゥルアンサ副伯爵家騎士隊長のシンセウルスに学び、ようやっと形になってきたところである。
かつて、ルンピートゥルアンサ女副伯が牛耳っていたこのアルボーの闇には、大小様々な悪党たちが巣くっていた。
しかし、上流から巨大な氷山が流れたあの日、アロイス自身も関わったルンピートゥルアンサ女副伯の捕縛と尋問、ならびに処刑により、彼らは庇護者を失った。
闇の者どもは、ピノース河へこっそりと出入りするための隠し出口をそれぞれの勢力で抱え込んでいたようだが、それも木の根に絡み取られあるいは歪み壊され、太陽の下をうかと通せないような商品を扱うこともままならなくなった。
干し殺しも同然である。
さらにそこへボヌスヴェルトゥウム辺境伯家の手が入り、加えて王命を受けたアロイスたちアルボー警衛連隊が王都より下ってきたのだ、もはや勝ち目はほとんどない。
後ろ暗い者たちは次第にアルボーから姿を消していった。
むろん、光が差し込めば闇目指しておとなしく逃げ出す者がいれば、光をさしつける者に噛みつくものもいる。
真夜中の散策と称し巡回を自発的にやってくれていた、あの骸の魔術師の姿が見えなくなったとたん、くみしやすしと見たか、ぞろぞろと残党らしきごろつきどもが出てきたものだ。
彼らのあまりの懲りなさには、元ルンピートゥルアンサ副伯爵家騎士隊長のシンセウルスたちだけでなく、アルボー警衛連隊として駐留を始めていたバルドゥスとマルドゥスまでもが失笑したものである。
そこでアロイスたちは、シルウェステル師の真似をすることにした。
わざと狙われやすいよう隙を作ってみせ、襲撃を誘い、一網打尽にするという反復作業である。
同じ事の繰り返しなのだが、それでもおもしろいように引っかかるのだと、お茶請け代わりに魔術学院の一行に話したところ、『シルがしたことならばわたしも協力してやろう』と、あの彩火伯までも加わるとは思わなかったが。
だがまあ、貴族の娯楽は狩りである。そう考えアロイスは納得した。
彩火伯との同行に手を上げたコッシニアの身は案じられたが、腕に覚えのある者への過剰な労りは侮辱と同義となることがある。
だが放浪のさなか女であるからと侮られ続けたコッシニアの発想は、アロイスの想像をはるかに超えた。
外見で侮る者がいるのは当然。ならばより侮りやすいよう、あえて魔術師のローブを脱いではどうかと提案された時には、バルドゥスすら顎を落としたものだ。
すっかり面白がった彩火伯の茶目っ気により策は実行に移され、羽振りの良い商人やその家族のような服を身につけた彼らは、理想的な囮であることをその働きによって証明した。
より正確に言うならば、あまりにも過剰戦力にすぎた。
捕縛にかかっていたアルボー警衛連隊の者たちすら、ただの女性に老人と呑んでかかった相手に、あたるを幸いなぎ倒される無法者どもの姿には、失笑を通り越して思わず憐憫を誘われるほどだった。
見知らぬ土地に来た興奮で飛び出したパルが、裏稼業の男たちに捕まるまでは。
人質にされ刃物を擬せられたパルは、魔術学院に送られることになったきっかけを記憶の傷口から抉り出されたのだろう。
恐怖に悲鳴を上げ、魔力暴発を起こしたのだ。
しかしパルは、裏稼業の男たちを殺すことはなかった。魔術学院でみっちりと指導された魔力制御のおかげだろう。
炎の子たるパルに手を掛け、炎に巻き込まれた者が火傷を負ったのは自業自得というものだ。命ばかりはお助けと大騒ぎで投降してきた者もいたが、夢織草と森精たちの拉致に関わった者は死罪と決まっている。
ボヌスヴェルトゥウム辺境伯家から派遣されてきた監督官と始末をすませるのは、戦場を渡り歩いてきたアロイスにとっても、あまり気持ちの良いものではなかったが。
騒動のさなかに魔力暴発を起こしたパルに近づき、あっさりと鎮めた彩火伯の姿に、さすがシルウェステル師の異母兄とコッシニアは感じ入ったものである。
それをきっかけに、彩火伯はパルに目をかけるようになった。炎の性が強いというパルに何やら感じるものがあったのだろう、身近に呼び寄せ魔力操作を丹念に教えていた。
パルも火球を得意とする彩火伯に相通じるものを感じたか、妹のテネルを初級導師が預かってその場を離れても、おとなしく教えを受けるようになったという。
それが長時間集中をきらさぬためという、発火の魔術を用いての湯沸かしの練習であってもだ。
コッシニアがアーノセノウスに訊ねたところ、これは維持するのに注意をそらさず、身体に毒かと思われるほどの放出魔力量の多さを散らしてやるのによいのだという。
パルが他者を害しうる『罪の子』であることに、いくぶん腰の引けていた魔術学院の導師たちも、パルの放出魔力の大きさに興味を抱いていた魔術士団の者も、その指導にはずいぶんと得心したものである。
ただ、パルが彩火伯を『骨のおじちゃんちのおじいちゃん』と呼んだときには、あまりの不敬ぶりに初級導師が今にも倒れそうな顔になり、慌ててパルの口を押さえて激しく陳謝するということが起きたのだが。
だらだらと冷や汗をかきながら、ちゃんと彩火伯と申し上げよと初級導師は教え込んでいたのだが、どうやらパルの中では『さいかはく』が『骨のおじちゃんちのおじいちゃん』の名前として固定されてしまったようだとコッシニアに聞かされた時には、穏やかな鉄面皮を常備しているアロイスも吹き出すかと思ったものである。
おそらくこの勘違いは、パルが全くの平民出身であることが大きいのだろう。
身分差というものは絶対的なものに近い。それは身分が低ければ低いほど強くなり、同じ階級層に属する者以外の人間に接することなど皆無となる。同じ領地に住んでいたとしても、農夫が公爵と対面することはない。もちろん、あれが公爵さまだと姿を遠く見かけることはあるだろうが、親しく会話を交わすことなどまずありえない。
公爵にとっても農夫は自領の風景のごく一点にすぎぬだろう。
とりわけ制御の利かぬ幼子を貴人に近づけることはありえぬから、彩火伯のような大貴族などパルの視野にはこれまで入ったことがなかったというわけだ。
認識できないものは知りようがない。ゆえに、パルは自身の知る平民の家族と命名のありかたをもとに解釈をしたというわけだ。
アーノセノウスは意外にもペルの無礼に怒りを示すことはなかった。
魔術学院では建前上とはいえ、学問に身分は関係がないことになっているということもあるのだろうと中級導師であるコッシニアは理解している。
もちろん、異母弟であるシルウェステル師がその手の骨を伸ばし、掬い上げた者だということもあるのだろうが。
その彩火伯はシルウェステル・ランシピウスを溺愛している。これはランシアインペトゥルス王国に広く知れ渡る事実だ。
アロイスはクウィントゥス殿下の配下として、シルウェステルとアーノセノウスの間には血のつながりがまったくないということも知っている。
それゆえなぜそれほどまでに赤の他人に心をかけられるのか、彩火伯の溺愛は不可解でもあり、また憧憬の対象でもあった。
アロイスは肉親の情を知らぬ。魔力ナシと断じられ、放逐されたのは大病の直後だった。
処分を血のつながりのある父親から言い渡され、そのまま従僕の手に引き渡された。
どこかふわふわと背の芯が抜けたような気持ちでアダマスピカへと連れてこられてから、今のアロイスの生は始まったと言ってもいい。
生家の家宰の手配により、細い伝手を辿ってアダマスピカへ預けられたこと。
二度とアロイスを生家に関わらせぬ事などの条件を一方的に押しつける対価のように、ほぼ無理矢理に御領主様に渡されたものがあること。
御領主様の気質としては、いくら病弱だったコッシニアの薬代に困っていたとはいえ、自尊心を傷つけられるような行いだったろう。
その御領主様が、どうしてあそこまで自分によくしてくれたのか。それもまたアロイスにとっては不思議なことだった。
家族同様という言葉があるがむろん、アロイスはあくまで預かりの騎士見習いの一人として扱われた。
だが、学び自らを鍛える場と、師を用意し、一人でも生き延びられるようにと教育を与え、その一方で愛情をわかりやすく、言葉と態度で示してくださったのはルーフスたち御領主様の実の息子に対するものとほぼ同等だったように思う。
またルーフスたちも実の兄弟のようにアロイスを案じてくれたものだ。
彩火伯の姿を見れば、いかに実力があっても心配するのが家族の情というものだろうかと思われた。
ならば魔術師となった末娘コッシニアの姿を、そして国の暗部の人間となった今のアロイスを見たなら、御領主様はどう感じるだろうか。
アルボーの外廓間際まで運河を遡ったところで、アロイスはピノース河へと舳先を向けた。
僅かに流れの音がするピノース河まで出てしまえば、多少の会話もかき消される。
だがピノース河の流れは運河とはくらべものにならぬほど強いので、注意が必要になる。
長竿に変えたアロイスは、水面近くにわたされた縄へと船を寄せた。
うっかり海にまで出てしまうと小船では戻るのが難しくなってしまう。それゆえの備えだ。
「魔術陣の用意は?」
「お願いいたします」
もう一つの備えとして、シルウェステル師が何枚か残していった魔術陣を入れた筒をコッシニアは確かめた。
船底に貼り付け、魔力を流せば櫂の数倍の力で船を進ませるが、消尽する魔力量が並大抵のものではない。
試しに自分一人の魔力を通してみた時は、アルボーの脇を通り抜け、ユーグラーンスの森の中程まで進んだ所で倒れかけ、アロイスにずいぶんと心配をかけたものだ。
すぐれた奥の手ではあるが、いろいろな意味において濫用すべきものではないとコッシニアは心に刻んだ。解析し複製が作れるのならしてもいいと、あの骸の魔術師の許可は得ていても。
魔術で顕界されたアルボー城壁の石材は白く、そのため蒼銀月ひとつしかのぼらぬ夜空を背景にしても、さえざえと明るい。
それに対しピノース河の流れや低湿地はいっそう暗く低く感じられる。
気をつけながら流れに合わせて下っていると、ぐいと低湿地の方へと船がひっぱられた。
だが二人は驚かない。
「お誘いですのね」
「ええ」
意外と『白き死』はせっかちだ。
どうやら、低湿地の霧だけでなく、水そのものを操る力を持っているらしいあの一角獣は、アロイスがこのように巡回していると、時たまこうやって呼びよせようとするのだ。
コッシニアと同行していたからよかったようなものの、最初に呼びよせられた時はひどく慌てた。魔物が甘味とあの骸の魔術師の情報を求めてしたことだと分かるまでは、訳も分からず動転したし警戒もした。
だがもう慣れた。驚くような対象にも慣れ、自分が何度見ても驚くということにすら慣れる。人間とはそういうものなのだろう。
落ち着いて流れに二人は任せた。コッシニアに至ってはもう櫂を引き上げ、微笑みすら浮かべている。
その様子を見ながらアロイスも笑みが湧くのを抑えきれなかった。
一角獣に呼ばれるたび、マレアキュリス廃砦へと向かった際に使った、あの橋以外にも低湿地へと向かう道を整えるべきかといつも考える。
だが、安易に利便性に飛びつくことは危険だ。
あの一角獣は人語を解す。というか声なき声を発し、意思の疎通が図れるのだ。
ごく一握りの魔術師とだけは。
正確には、アロイスにすら『白き死』の『声』を聞くことは可能だが、発語者が誰かによって、むこうが聞き取れるかどうか限られるのだ。平民については試すような機会すらないからわからぬが、アロイスやアーノセノウスの言葉をコールナーは聞き取ることができなかった。
にも関わらず彩火伯はアルボーに滞在していた間、しょっちゅう低湿地に出かけていき、ひたすらコールナーに異母弟への愛を語りたおしたのだのだから恐れ入る。
その結果『よくわからんが骨の家族で骨を愛する者』として、不承不承ながらもあの低湿地の主に受け入れられたようだというから、こけの一念岩をも通すとはこのことなのだろう。
あの主との意思の疎通も不十分な状態で、低湿地に誰もが簡単に出入りできるような橋でもピノース河に架けようものなら、どのような事態になるかは考えたくもない。
幸いにも、もとから低湿地にはアルボーの港を利用する漁師も足を踏み入れようとはしなかった。
低湿地では、時たま『白き死』の名の由来の一つとなった、死亡直後の形を留め、しかも真っ白に変色した死体が見つかることがある。
十数年行方知れずになっていた者の亡骸が、顔かたちも崩れず戻ってきたものを見れば、どんな豪胆な者でも慄然とするらしい。
好んで人の近づきたがらない場所に入り込みたがるのは、闇取引の場所を探す裏稼業の者たちくらいなものだが、そのような者どもにも低湿地は不気味な場所と見なされ、敬遠されているらしい。
ならば永劫あの低湿地の支配者の機嫌を損ねるようなことなどしなければいい、ということになるのだが。
シルウェステル・ランシピウスが見いだした低湿地の草炭が、アロイスの悩みの種となっていた。
草のような炭、というか泥のような草はシルウェステル師の示唆どおり、乾かせば燃料として使うことができた。
それは、草炭を使えば、貴重な木々を薪としなくともよいということだ。
木々を木材として扱う量が増えるのならば、他領へ売り込むこともできるやもしれぬ。草炭もまた金になる。
そう考えれば、ボヌスヴェルトゥウム辺境伯家との折衝が必要ではあるが、血と退廃によるものではなく、武神アルマトゥーラが炉のもとで、汗と労働によって産み出された金がアルボーを潤すことになるだろう。
大々的に採取をするなら草炭を掘り上げる人手、乾いた土地に運び乾かすための船、乾燥場所――は、あの骸の魔術師は自身に割譲されたアルボー岬の突端部分を、不在時には使ってもよいと鷹揚に許可してくれたのだが――が必要となる。
産業として発展する可能性はあるのだろうが、それにはあの一角獣の領域を侵さねばならぬ。それは不可能に等しい。
頭痛のするような物思いからさめ、アロイスが頭を上げると、岸には蒼銀月の光が一頭の姿となっていた。
いつみても何度見ても感嘆せずにいられない美しさというものがあるのだと思い知らされる。
「お久しぶりです、マレアキュリスの主どの」
座したままコッシニアが声を上げれば、魔物はわずかに角を振った。
(骨はいつくるのか)
「申し訳ございません。わたくしではなんともわかりませぬ」
素直にコッシニアが答えると、一角獣は前足を掻いた。
(つまらぬ/さみしい)
月光の滝のような鬣が首の動きとともに流れるのを、コッシニアはほうっと吐息をついて見蕩れた。
これが、コッシニアがアロイスの見回りに同行する理由の一つである。
動物好きなコッシニアにとってひどく残念なことに、幼少期は魔力放出過多症の、師匠に魔力操作の手ほどきを受けてからは魔術師としての放出魔力量の多さに、動物に警戒され、あるいは逃げられるのが常であった。
幼少期の餓えというのは、たとえそれが精神的なものであっても一生残るものだ。
早い話が、コッシニアは動物を撫でてみたくてたまらない。
もちろん、この低湿地の支配者とてコッシニアが触れることはできぬ。
この一角獣が親しく身体に触れさせたり、食べ物を手から食んだりしたのは、彼女がこれまで見た限り、あの骸の魔術師とその舌人だけだ。
コッシニアも近づかせてもらったことはあるが、手を伸ばせば警戒を強め、二度と心を許してもらえそうにないと魔力の動きで見定めてからは、せめてもとただ鑑賞をするだけにとどめている。つい視線に熱が籠もることまでは隠せないが。
(おまけに、まだ狐の匂いがする)
コールナーは不満げに呟いた。コッシニアは赤面した。
魔術師の放出魔力に怯えぬ動物など、魔物ぐらいなものだ。
糾問使団がアルボーへ戻ってきたときには、あの骸の魔術師が連れていた幻惑狐という魔物たちを、コッシニアは片っ端から撫でくり回した。シルウェステル師は快く使役する魔物に触れることを許してくれたし、幻惑狐たちもコッシニアが撫でるのを嫌がることはなかった。むしろなつくそぶりすら見せてくれたほどだ。
だが、彼らの臭いが導師のローブにまで染み付いているとは思わなかった。
「では、コッシニアさま、わたしがお渡ししますので」
笑いをかすかにこらえたアロイスは船底に置いた袋を開け、白い根菜を一角獣の足元へと投げた。
(これは、なんだ?)
「ラープムというものです。野菜――植物の根ですが、春ものは今が食べ頃だと聞きましたので、お持ちしました」
(ほう)
大きな塊をさくり、さくりと噛み割るとコールナーは機嫌良さそうになった。
どうやら今回も根菜は低湿地の主に気に入られたようだ。
(ところで)
もぐもぐと口元が柔らかく動く様子をうっとりと見ていたコッシニアは、驚愕のあまり倒れるかと思った。
(お前たちは、いつ、つがいになるのだ?)
「は……?」
アロイスも戸惑った顔になった。オプスクリタス騎士団に触れ、アロイスの氏素性も調べ上げていたらしいアーノセノウスには、冗談のようにコッシニアとの仲をからかわれたこともあった。
だがいくら準男爵位を得たとはいえ、新参の身は富裕ならず。
それに、コッシニアは大恩ある御領主様、アダマスピカ副伯ルベウスの末娘である。
いくら幼い時に異性でありながら親しく話をすることがあったとはいえ、長らく道を分かち、今ではあの骸の魔術師すら認める才女に、自分が言うべき言葉があるだろうか。心を寄せているなどと告げてよいものかと
(違うのか?)
心底不思議そうに、美しい菫青石色の瞳が岸から見下ろした。
「月虹のような方、人間は釣り合いというものを気にいたします。私とアロイスどのでは釣り合わないのです」
やっぱりそうかと内心うなだれるアロイスの前で、頬に血の色を上らせたコッシニアはさらに言葉を継いだ。
「わたくしは副伯の娘。ですが無爵の上、かろうじて中級導師として魔術学院に雇っていただいてはおりますが、いまだ浅学菲才。……それに、それに」
(それに?)
「わたくしは放浪に年を重ねすぎた老嬢です。つが……結婚など」
「考えたこともないのですか?本当に?」
アロイスに顔をのぞきこまれ、コッシニアはかっとなった
「だいいち、わたくしを好きでもない男と結婚などしたくもありません!」
「でしたら、わたしがコッシニアさまをお慕いしているのなら、よいのですね?」
「何を馬鹿げた冗談を!」
「冗談ではありませんよ」
アロイスはうっすらと微笑んだ。
「最近になりまして、彩火伯さまから、アルバスロサの意味を教えていただきまして」
それは、二人の幸せな、アダマスピカの記憶の一つ。
「今は手元にございませんが、わたしの心を示すものとしてコッシニアさまにお送りいたしましょう。……あなたが好きですよ、コッシニアさま。わたしのような準男爵の身でよろしければ、どうかこの手をお取り下さい」
魔術師が赤毛と同じ顔色に熟していく様子を、コールナーはみずみずしい根菜を食みながら見ていた。
魔物に人の心は理解できぬ。だが騎士が囁くたびに大きく熱を帯びた魔力が放たれる様は心地よいものだった。
ならば……そう、この二人が以前言っていた。子どもが生まれるというのは喜ばしいことなのだと。
(孕め、満ちよ、子を成すがよい)
祝いの言葉にさらに熟した魔術師を抱き、騎士がやけに綺麗に笑った。
ピノース河を突っ切り、アルボーへと戻ってきたアロイスはいろいろな思いの混じった吐息をついた。
やるべきことが急に増えたものだ。
とりいそぎ、まずはアダマスピカに書状を送らねばなるまい。
文面を考えながら、アロイスはおもしろそうに口元を緩めた。
書状はおそらくカシアスにも見られることになるのだろう。それはまだいいのだが。
「まさか、あいつを義兄上と呼ぶ日がくるとはなあ……!」
かつては想像もつかなかったことだ。
だからこの世は面白い。
生に倦んだ目でアダマスピカの領主館に足を踏み入れたかつての少年は、肩をふるわせて、ただ笑った。
ちなみに、アロイスがアルボー警衛連隊に報告した時の反応。
バルドゥス「なんだ、ようやくですかい?」
みんなはもう付き合ってると思ってたやつ。そうでなきゃ男女二人きりの見回りなんてさせないわな。
ちなみに、アルバスロサの意味は77部「氷解」に入れてます。




