混迷
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
なお、当部分はかなり有毒となっております。
舌が痺れるその他不快な症状が発生しましたら(って河豚かっ)、ブラウザを閉じるかバックをしていただきますようお願いいたします。
ハマタ海峡を通過するまで、あたしたちはずっとピリピリしていた。
特に、スクトゥム帝国からの追撃を一番警戒していたのは、操船と索敵に気を配っていた船乗りさんたちと、一行の中でほぼ唯一遠距離攻撃能力を持つ魔術師たち(ただし、絶賛船酔い中の一名をのぞく)だったんじゃなかろうか。
ほぼ船乗りです、みたいな顔をしているアルガすら、常に杖を傍らから離そうとはしなかったというだけでも、その警戒っぷりがわかるだろう。
全員の肩からこわばりがようやく解けたのは、ロリカ内海を出たところだった。
ここから先はグラディウス地方、スクトゥム帝国の手の及ぶところではない。
ということに、表向きはなっている。
実際はどうだかしらないが、それでもスクトゥム帝国が攻撃してくる可能性は格段に下がる。
で、ようやく気を緩めることができたあたしやグラミィが、今まで何をやってたかといえば、決まっている。
船酔い発症者の手当です。
とはいっても、嘔吐しすぎて脱水症状を起こすのはまずいというので、まだ残ってた薬草茶だけでなく、グラミィが持ってた水飴もどきな飴ちゃんの残りと、行商人さんたちからお買い上げした岩塩で、経口補水液もどきも作成して、定期的に飲むように指示するぐらいしかできないんだけどね。
あと嘔吐物で窒息しないように気道確保したげるくらい。
毎度おなじみクランクさんは、往路と同じように船室でのびている。
ククムさん達行商人の御一行も、まとめて乗ってもらった小さい方の船では、警戒維持どころか、返事がないただのしかばねの山のようだ状態というね。
なにせ彼らは山の民、クラーワヴェラーレの人間だ。土埃舞う街道を歩きづめに歩かねばならない、苛酷な行商の旅には慣れていても、船にはとことん不慣れであるらしい。
ちなみに、いくら小船とはいえ、彼らがのびていてもぜんぜん問題はない。
二十人ぐらいは乗れるところに、十人もいない行商人さんたちとその荷物を積んであるだけだしね。
てんでにぐったり荷物によりかかったり、累々と横たわったりしている彼らの間を、あたしや船乗りさんがちょろちょろ走り回ることすらできるくらいの余裕がある。
一度助けた以上、行商人さんたちをスクトゥム帝国の手が及ぶところには置いとくわけにはいかない。
なので、このまま同行してもらう予定だ。
どこまでというのはいったん陸に上がって、彼らが船酔いから回復したところで相談する必要があるだろうが、とりあえずグラディウスファーリーまでは、確実に連れて行かねばならないだろう。
なにせ彼らがクラーワヴェラーレに戻ろうというのなら、グラディウスファーリーかランシアインペトゥルス王国のどちらかに連れてって、天空の円環を通ってクラーワへと戻るか、それともランシアインペトゥルス王国の東端からクラーワ地方の北端へ出てもらい、ランシア山――これもクラーワ地方ではクラーワ山ってことになるんだろうか?――めざして、たぶん数百㎞は歩いてもらわねばならない。
スクトゥム地方を避けて移動しようとすると、案外厄介だ。
ちなみに、ふつう複数の船が船団を組むときは、船同士の距離を離して個別に操船するのが当然なんだそうな。
けれどもあたしたちに同行している船乗りさんたちの数は限られているし、一艘の船をどうこうするのでけっこうカツカツだ。
そこで、船乗りさんたちは、あたしたちがランシアインペトゥルス王国から乗ってきた船に、アエスからかっぱらってきた小船を結びつけて曳航している。
あまり荒れた海では、船同士が接近しすぎるてぶつかり合い、破損した結果の沈没ってこともあるので、互いに舫い綱で結ぶなんてことはできない。波間に攫われて離れ離れの迷子になるより危険なのだそうな。
だが、さいわいグラディウス地方の海は、島が多いこともあり、かなり波が穏やかだ。
このくらいの穏やかな海ならば、舫い綱で行商人さんたち入りの小船を牽くのにもそれほど問題はないんだとか。
んなことを言っても、二艘の船に渡された舫い綱は綱でしかない。
身軽な船乗りさんたちのように、綱を渡ったり飛び移ったり、なんて、軽業まがいなことなど、あたしもグラミィもできませんとも。ええ。
そこであたしたちは、都度都度結界の板を顕界し、二艘の船の間に渡して行き来した。いわゆるボーディングというやつだ。
もっともそんな真似ができるのもあたしとグラミィだけだったので、他の魔術師のみなさんは基本主船の方で待機である。
もちろん、水やお湯の用意をしてもらうだけじゃない。
魔術師の杖を邪魔にならないよう、背に縛り付けた恰好で、自発的に船乗りさんたちの援護をしているアルガと、絶賛船酔い中のクランクさんはさておいて、だけど。
マヌスくん、トルクプッパさんにエミサリウスさんは陣符改良の討議中である。
といっても、見本に渡してあるのは、前にあたしが物理的にぶち切った火球の陣符だけだ。
うっかり完品渡したら、興奮のあまりいじりたおそうだしねー。
顕界条件満たしちゃったらいつ火球になるかわからんようなもん、危険でしょうが。
〔ゾンビ化陣符は渡さないんですかー?〕
手を動かしながらグラミィが心話で聞いてきたけど、それはない。
あれ、火球の陣符よりも危険物だから。
魔術師以外でも使える精神操作系の魔術陣なんて、国のような権力機構や、それとつながってる魔術師に渡すのは本気でヤバい。誰でもできる洗脳技術を渡すようなもんじゃないですか、アレ。
帝都レジナに糾問しに行く時には、海森の主の森に全部持ち込んで隠しちゃったけどさ。
あからさまに同行者を信用してないぞという行動を取ったことにも、あたしは後悔していない。
火球の陣符はまだいいよ。単純に個人運用型魔術的火力が増えるくらいなら、その効果も、波及するだろう影響も、あたしにだって推測と対応ができなくはない。
だけど、命令には絶対服従のゾンビさん増殖ってイヤですからねー。なにそのディストピア。
ゾンビ化してた行商人さんたちを回復させる陣符を作るために使い切った、ってことにしようかなと、暇を見てはせっせことインクを削って証拠隠滅中ですともさ。
〔ゾンビ化って、異世界人の人格を乗っけるための前準備だったんですよね〕
うん。完全統制国家を夢見るあほちんな王様とかがヘタに採用でもしたら、めちゃくちゃ危険極まりない。
なにせスクトゥム帝国にとっちゃ、ガワの人候補を大量にご用意いただきありがとうございまーすってなもんだよ。
葱どころか、調理器具一式とシステムキッチンもしょって飛んできた、フォアグラつき鴨状態かな。
〔そう考えるといっそう恐いものがありますよねー〕
入れられてる異世界人の人格も、恐いけどね。
いろいろな意味で。
〔いろいろな意味って、なんです?〕
まずは特質的な意味で。
スクトゥム帝国内で見てきた感想だが、星屑たちはなんというかピーターパン症候群の人間が多いんじゃなかろうかとあたしは思ってる。
リトスの門衛、ウーゴのようにわりとしっかりした考えがある人間はまれだ。
エレくんへのストーカー行為をやらかした燧石亭の連中なんかいい例だが、彼らは基本的に、ガキであり餓鬼だ。
〔あのー、ボニーさん?ピーターパン症候群って、なんです?〕
一言で言うと、脳味噌子ども、身体というか下半身の一部に限り大人……というか、動物かもしれない男性。
〔……そんなの、そこらへんによくいるんじゃないですか?〕
あんまり普遍的にすぎて、問題に見えないってことが問題だと思うの。
どんなに年くおうが社会人になろうが、家の中にいるとなーんにもしない男性っているよね?
掃除洗濯料理もろもろ、自分の生活環境の維持管理を放棄……というか、誰かがやってくれるだろうと無意識に丸投げしてるタイプ。
誰かって誰かというと、結婚してれば自分の配偶者、結婚してなきゃ自分のママンってことになる。
……自分にそれほど価値があるとでも思ってるのかねぇ?
〔ず、ずいぶん棘がありますねぇ……〕
いやー、それこそ生身の女性と面と向かい合う機会がない、あるいは向かい合えたことがないのかもしれないけどさあ。
かーわいい男の子を美少女だと思い込んだ、アホストーカーの中身を分析するって不毛なことしてると、どんどん気持ちはささくれだって、棘も生えるし温度も下がる。
とばっちり逆恨みを喰らった身としては、寛大なんて語句を辞書から消したくなると思わんかね?
彼らの精神の未熟性を示すのが全能感だ。
もちろん、自分ならなんでもできると本当の子どもが思うのは、それだけなら悪いことじゃない。無条件に自分がここにいてもいいと思える、自己肯定感を持つことができるってのは、自信につながることだから。
けれども、能力を求められる分野に対して、その能力もないのに自信を持つ自信過剰、そこからくる他人軽視。これはまずい。
普通なら成長するにつれて、赤ん坊じゃないんだからと周囲の大人が手を貸したり文字通りの尻拭いをしてくれたりすることは次第に減ってゆき、根拠なき自信は取り返しのつかない失敗体験に削り取られる。
結果、自己を過大評価してしまうことは完全になくならないまでも減る。それにつれて傲慢さも削れて謙虚になる。はずだ。
そうなってないおっさんおばはんも多いけどな!
謙虚になるには失敗体験が必要ってことは、逆に言えば未経験分野には自分はできて当然という全能感が、依然として発揮された状態のまんまになってるってことかもしれない。
よくあるのが、人間、特に異性に対する距離がきちんととれないこと。
相手の反応そのものを見てるんじゃなくて、こんなになんでもできる自分なら相手が受け入れないはずがない、絶対仲良くなれるという思い込みを見ているから、たとえ相手がうんざりしてても気づかない。
燧石亭の連中がやたらにボディタッチが多かったのも、そういう理由があったのかもな。
もっともお骨なあたしに触っても、文字通り遺体に接触したぐらいの意味しかなかったと思うけどな!
彼ら星屑たちがむちゃくちゃポジティヴだったのにも、全能感の影響があるのかもしれない。
困ったときには必ず助けてもらえ、苦労も挫折も失敗も経験したことがないに近い精神状態ならば、どんな困難も必ず自分の力で解決できるのが真理、ぐらいに信じ込んでそうだよなあ……。
悩ましいことに、失敗体験は全能感を必ず削るとも限らない。逆に失敗を認めないという自己防衛を機能させることもある。
おまけに、この世界をレベルに最適な難易度のクエストしか与えられないゲームのように思い込んでいるなら、なおのこと。
たとえ失敗しても運が悪かった、もしくは同行していた人間のせい、そう理由を外部に求めることで自分悪くないという思考に陥ることもあるだろう。たとえ失敗しても誰かのせいにできるが尻拭いしてくれるのならば、それはすんだことで、たいしたことじゃなくなる。当人の中では。
実際には楽しいことしかしたくないから、楽しくない羞恥心とそれを引き起こす自分の失敗を含めた苦手なものから用意周到に目をそらし、全身全霊をもって転身に継ぐ転身をしているだけかもしれないが、そこに精神的に未熟なおこちゃま特有の、自分の欲求はなんでもかなうのが当然って思考と、それに支えられた見るものなんでも欲しがるような欲どおしさが乗るのだ。無駄に行動力が高いのも彼らの特徴だろう。
しかもここは彼らにとっての異世界だ、むこうの世界じゃできないことがなんでもできる、自分はこの世界の主人公だーぐらいに思い込んでもしょうがないのかなあ。
燧石亭の連中が、旅芸人に扮したあたしと門衛のウーゴを問答無用で殺しにかかったのも、ピーターパン症候群特有の、やりたいことの前には法律遵守くそくらえって考え方と、ゲームのイベントだと思い込んでたせいで犯罪行為へのためらいが薄れていたことが影響したのかもしんない。
いろいろ彼らの心理状態について推測はできるし、納得しちゃうことは多い。
ま、どこまでいっても推測は推測なんだろうけど。
推測ついでに言うならば、ピーターパン症候群の原因の一つに、分離不全、つまりべったりくっついた過保護な近親者との関係がちょうどいい距離にまで発展的に解消されていないというものがあるそうな。
一番多いのが母子関係だろう。
でもなー、母親の愛情ってのは、献身的であっても決して無償じゃない。自己犠牲愛はあるのかもしれないけど、妄執とか自己同一視とか願望とか支配とか、いろいろ含まれているせいで束縛力はめちゃ強い。
それこそ、相手をピーターパンとするほど、成長可能性の一切を優しくじわじわ絞め殺してしまうほどに。
逆に言えば、人間じゃ相手に何も望まない、真の意味での無償の愛は与えられないのだろう。
無償の愛は神でもない限り与えることはできないものだ。
どんな愛であれ、いちおうは愛されているはずのピーターパン症候群の人間は、しかし人を愛さない。彼らが愛してるのは自分自身だ。
で、その愛している自分だけが永遠の楽園で幸せに暮らしましためでたしめでたし、って思考様式に陥るのは、……男性だけじゃないんだよなあ。これが。
女性の場合はシンデレラコンプレックスという名前で呼ばれることが多いやつだ。いつかきっとスパダリが迎えに来てくれる、ありのままの自分を愛してくれる相手が、人生のすべてを素晴らしいものにしてくれる、何もかもがうまくいくって思考。
だけどねえ。愛されて幸せに暮らしました、を成立させてくれる相手なんてそうそう都合よくいるわけがなかろ。なにせ人間の愛は無償じゃない。
そもそもスパダリってあれでしょ?恋人と語源的意味での旦那と家政夫を完璧にこなす人。いないからねそんなの。
まあ、昼は淑女で家政婦で母親、あと家政管理人、夜は娼婦でトロフィーワイフ的な、つまりセックスできて外見も自慢できる若い母親という、男性が求める理想の女性に比べりゃ、たかだか三役じゃんかとは思わんでもないが。
愛というか恋愛が出たついでにいうなら、よくある異世界系乙女ゲームで恋愛至上主義が根強い理由は何か。答えは簡単だ。
恋愛感情を発生させるってのが、階級闘争の手段としては一番元手がかかんないから。
〔ってちょ、ボニーさん?!〕
グラミィがむせた。
身も蓋もないかい?
だけど大事だよー、元手がかかんないって。
家の力に物を言わせて優位者が蹂躙するのが悪役令嬢の常套手段ならば、さらにその上位者に理不尽な行動を起こさせるのが下克上ヒロインの勝利の道筋。
どんなに人間として人柄が良かろうが、外見という身体的優位がなけりゃあ、人間は惚れても男は惚れない。
愛を語るだけじゃ腹は膨れぬが、やることやれば腹は膨れる。
男を落とすに頭脳はいらぬ、多少隙のある美貌と態度、あとは胸のFカップもあればいい。
つまりは身体を資本にした対象人数が極少数の、革命行動なんですよ。成り上がりって。
数ある逆ざまあで下剋上ヒロインが反逆罪や不敬罪に問われたり投獄されたりするのも、身分差を乗り越えようという、極個人的な革命行動に失敗したからと考えると納得がいくじゃないか。
乙女ゲームだけじゃない。階級社会の恋愛物は中世現代世界各国、設定される時代と地域は変われど昔から人気のあるジャンルだ。
この人気って、やっぱり貧富を含む身分差を飛び越える力にあるんだろうなあ。
もともと恋愛の障害として身分違いがーってのは、それこそ身分差があった源氏物語の昔からあった話だ。
だけど高い身分の相手に愛されるってことは、絵に描いたようなハッピーエンドが永遠に続くような結末じゃない。いろんなしがらみと好意的ではない評価に息が詰まる思いもすることもあるだろう。
それが十分わかっていても、それでも愛が身分社会に風穴を開ける物語に、これほどまでに人気が出るのは、身分制度もかくやってほどにむこうの世界の閉塞感が強いこともあるのだろう。
ガラスの天井だなんだというが、女性にとってそれはあるのが当然で、中には自分でも二重三重に張ってる人がいるくらいなものだ。
優秀すぎてと男が寄ってこないから、あえておばかに見せなきゃなんないって。
だけど頭脳明晰だったりすると、男がひくってのはなんなんだろうね?
有能な家政管理人を求めてたんだろうに、そこにあえて『自分が嫉妬するほど優秀であってはならない』という定冠詞をつけたがるってのは。
〔またそんな、なまぐさいことを……〕
なまぐさい、って生臭いと書くんだよ?
つまり生きてるからこそ臭くもなんの。
ま、星屑たちがここまでガチな分析をしているとも思えない。
彼らの自己認識的には、むこうの世界よりももっとイージーモードで暮らせるはずだー的な、ふわっとしたイメージなのかもしれないな。
たとえば、こっちの世界は動力が少ないせいで、基本的に肉体にかける労働負荷が高い。
ということは、星屑たち的には、かつてより身体能力の高い身体になっているようなものだろう。能力値ガチャを引いたらそこそこいいのが出たぜひゃっほー気分になってるとか。
〔あー、あるでしょうね。それは。あの三人組もそんな感じでしたし〕
スクトゥム帝国にほっぽり出してきた星屑三人組か。殺されてなきゃいいけど。
……なにせ帝国の構造というのは、イージーモードと相性が悪い。
もっと正確に言うなら、星屑たちがイージーモードと解釈しているような、むこうの世界よりも高いはずの自分の能力を誇示する機会がたくさんあって、あれ、またなんかやっちゃいましたかとその能力や成果を見せつければきっと正しく評価してもらえ、俺無双からの英雄生活が始まる、なーんてことにはなりようがない。
なぜなら帝国というのは、属州や植民地から搾取した生産物などの資産により、本国、特にその統治機構の頂点付近にいる一握りの人間が、もっとも贅沢な暮らしをするという経済構造をしているからだ。
つまり、生活水準が万民平等になることはありえない。
加えて、星屑たちの自己評価がどんだけ天元突破してようが、最初からどんな高評価をされたって、得られる立場は英雄見習いがせいぜいだろうし。
だが、星屑たちには、むこうの世界での高い生活水準が判断基準になっている。
この世界の文明レベルという問題で、いろんなことを人力でやらねばならない不便さに一時は納得していても、目の前で自分たちよりはるかにいい生活をしている人間を見ればうらやむだろうし、不満を持たないはずはない。
その時点で、彼らがイメージしているだろうイージーモードの夢は崩れる。
なぜならイージーモードには『いい生活ができる』、もっと正確に言うなら『周囲よりもいい生活ができる』も含まれるからだ。
国の首脳部と同じ水準の生活がしたいとか、主張したが最後、どうなるかはわからないわけではないだろうけれども。
「シルウェステル師」
頭蓋骨を上げると、エミサリウスさんが甲板に上がってくるところだった。
お、どした?
「お忙しいところ、失礼をいたします。カプタスファモ魔術子爵どのが、師を呼んでおられます」
おや?
〔クランクさんが呼ぶなんて、珍しいですねー〕
確かに。
船酔いでのびてるはずなのに。行ってみようか。
船室に入ると、クランクさんが起き上がろうとしたのであたしは止めた。
「『ご無理をなさらぬように』とのことにございます」
「いえ、お呼び立ていたしまして申し訳ございません」
クランクさんの近くにある長櫃に腰掛けると、少し沈黙があった。
「『話とは。いかなることですかな』」
「師には、悩み事がおありなのではないかと愚考をいたしまして」
「『……ほう』」
あたしに顔面の筋肉と皮膚があったら思わず表情を読まれないようにと目を細めてしまい、かえって動揺を悟られてしまったかもしんない。
クランクさんは一度口火を切ったことで覚悟ができたのだろう。訥々と言葉を綴った。
「シルウェステル師は……このように船の中では役立たずなわたくしが申すのもなんですが、あまりにも勤勉にすぎるのです。スクトゥム帝国へ下る際にも、我々が眠りの淵に沈んだのちも、ずっとお一人で何事かお考えに、そして何かをなさっておられたのを存じております。ですがそれは考えを止めるためではと拝察をいたしまして」
「『なるほど』」
「オズの岬を回り、まもなくクラウィケッシンゲルの港都が見えるだろうと、先ほどアルガが申しておりました。――ここまでくれば、おそらくスクトゥムに襲われるおそれもありますまい。海では無用のわたくしですが、師の重荷のいくぶんなりとも支えることがかなうのでしたら」
……確かに、あたしはクランクさんを甘く見ていたかもな。
彼が糾問使の副使に就いたのは爵位だけの問題ではない。意外と人を見ているし、その目もかなりいい。
ならば、多少なりともあたしの懸念を伝えておいたほうがいいか。
「『少々、このグラミィとスクトゥム帝国における臣民の扱いについて論じておりました』」
嘘じゃないぞ。
「『喪心の陣符により心を奪う、かの帝国のやり口は民人の命を一筋の羽毛よりも軽しとみなせばこそ。ひとたび盾と穂先が交われば、被害を受くるは民人かと』」
正確には、命を軽視しているのは星屑たち、軽視されているのはガワの人たちの命なんだろうけど。
「……シルウェステル師は、いささかおやさしすぎますな」
「『そうですかな?』」
「ええ。いくら心をかけようと、下民は下民。魔術の理も知らぬ者たちに、我々の見ているものはわかりますまい。なのにあのクラーワの者たちにもお心をかけられ、あの島にお住まいの星詠む旅人にすらご助力を願われた」
なにがしかの対価をお払いになられたのではありませんか?
そう聞かれて、あたしはうっすらと髭の伸びてきたクランクさんの顔から、ほんのり眼窩をそらした。
たしかに対価というなら、いろいろドミヌスには情報も物資も渡した。
けれども助力を受けられたのは、どっちかっていうとドミヌスの好意によるところが大きいんですよ。
甘えてるのはまずいんだけどな。
そして、クランクさんが魔術師系貴族だと思うのはやはりこういうところだ。
非魔術師に、そして平民に対する視線がナチュラルに侮蔑なんだもん。
沈黙していると、疲れたようにクランクさんは溜息をついた。
「スクトゥム帝国に単身潜入し、そして御無事に戻っていらっしゃったことは、師のお力あってのことと存じます。ですが、師の本質は密偵ではございますまい。彼らは民人に溶け込み、民人への情を示し、されど民人への情をいつなりと断ち切ることができる心の持ち主にございます。――民人に心をお寄せになれば、お辛くなるのは師かと存じます」
〔えーっと、かなり遠回しですけど、これってばクランクさんが、ボニーさんを心配してくれてる、ってことですか?〕
うん。ありがたいことに。
……でも、やはり人の命は惜しむべきものだ。今のあたしにとって。
「『このような身へのご配慮に感謝いたします、クランクどの。ご忠告は我が心に留め置きましょう』」
「くれぐれも、ご無理はなさらぬよう」
心配してくれることには、感謝するしかないな。
だけど忠告は心に留めても聞き流すかもしんないなー。
〔ボニーさんてば。……あいかわらずいい性格してますねー〕
え?このくらいで?
……ならばグラミィ。あんたにゃ、とことんつきあってもらおうじゃないの。
船室を出たあたしは、グラミィをひっぱって船倉のどん詰まりまでやってきた。星屑三人組を押し込めてた場所だ。
ラームスに協力してもらって、檻がわりに枝葉を伸ばしてもらったのだが、その大半が今もそのまま残っている。
なので、内緒話をするのに結界を張ってもらうのにも都合がいい。
〔なんですか、わざわざこんなところで〕
単純に言うと、さっきの話の続きだ。
この世界の人間に搭載されてる異世界人の人格がいろいろな意味で恐いという話。
〔?ええ。それが?〕
そして、その人格は異世界から召喚されたもの。もしくはその一部らしい。
ここまではいいかい?
じゃあ、召喚って、どうやると思う?
マグヌス=オプスとその先生は確かに優秀なのだろう。彼らは観察と研究によって、術者が把握していない存在は魔術の対象に取ることができないと結論づけたという。
なら、異世界からの召喚ってどうやんのさ?
たしかに『ありえるもう一つの世界』が相手じゃ、空間的距離なんて意味を持たないかもしれない。
だけど、この世界の遠距離に存在するものより把握が難しいはずの異世界なんて、もっと把握が難しくて当然じゃない?
〔それは、まあ〕
それとあたしがもう一つ気になったのは、マグヌス=オプスとその弟子が最初に召喚したのは誰だ、ってことだった。
人間は世界を『自分』と『それ以外』で定義する。
もっというなら、世界を、空間を認識する基点になるのは、自分自身になる。
上下左右ってのは自分の身体、というか意識との相対的な位置関係だ。
それにプラスするのが東西南北。これは太陽なんかの天体運動も関わってくるけど。
ああもちろん、闇黒の月みたいなわけわからん動き方するものはさておくとしてだ。
クランクさんが看破したように、睡眠不要なぶん、あたしは人より働けるし、そして考える時間も長い。
それは一つの命題について考える時間が多いというだけでなく、立てられる命題の数も多いということだ。
つまりそれは、こんないやーな可能性まで推測できてしまうってことでもある。
そして、その結果を共有できるのはグラミィ、あんたしかいない。
わかるかい?『ありえるもう一つの世界』から炎だ水だと召喚してくるんなら、そこにそういったものがあると把握している自分自身がいなきゃなんない。
つまり、彼らの召喚は『もう一つの世界』に『もう一人の自分自身』がいないとできない。
少なくとも、極めて困難になると推測ができる。
……だったら、普通なら召喚可能な状態を維持するつもりでいるなら、『もう一人の自分自身』の存在を全力で守らなければならない。
けれども、『ありえるもう一つの世界』が無限に存在するというパラレルワールドのうちの一つでしかないのなら。
無数にあるパラレルワールドから数人ひっこ抜いてきても、魔術の根源である異世界からの事象の召喚に問題が発生しないということになる。
ならば、この条件下で、『ありえるもう一つの世界』の人間の中で、もっとも存在を把握、つまり定義しやすく、召喚の対象としやすい人間は誰かと考えるとしたら。
〔って、ボニーさん。まさか『運営』って。ひょっとしたら〕
ああ。あたしはその可能性が高いと見ている。
魔術と召喚、その術理と実験について、マグヌス=オプスの語ったことにある程度の真理が含まれているとしたなら。
スクトゥム帝国に星屑増殖を起こした相手とは。つまり。
マグヌス=オプスとその弟子たち。
――もう一つの世界の、複数の彼ら自身だと。




