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EX.アビエスを下る

本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。


 アビエス川を下る船は、あっという間にその大きさに似合わぬほどに速度を上げた。

 みるみるうちに遠ざかる城壁が丘陵に隠れた途端、それまで背筋を伸ばしていたローブ姿の青年が帆柱に抱きつくように(くずお)れる。


「マヌスさま!」


 振り向いた女性は、維持していた巨大な火球を手のひとふりで消すと青年の側まで一足飛びに近寄った。蜜蝋で作った偽の火傷のせいか、青年の肌はいっそう蒼白だ。


「お見事でした」


 トルクプッパの賞賛の言葉は本心から出たものだ。

 たとえ襲撃の衝撃に血の気を失おうと一歩も引かなかった、それだけで十分だ。

 呼吸もせわしく整わず、動くことさえままならない今の状態も、あくまでこれは敵から見えぬようになったからこそ、緊張がわずかに緩んだためのもの。

 よくぞあの大役をしおおせたものだと思う。

 たとえ明言はせずとも自身が正使本人であるかのようにふるまい、一国の帝都に対し糾問を宣した姿は、身代わりとも思えぬ威厳を発していた。

 狙撃にすら動じず、即座にそれもまた糾弾の材料とした手腕こそは、さすが一国の王族の血のなせるわざと感嘆した。

 とはいえ、極度の興奮か、それとも恐怖のゆえか。激しく震えたままの手では、茶器を差し出したところで、飲み干すこともかなわないだろう。


「失礼をいたします」


 トルクプッパがぬるくした薬草茶を口もとにさしつけると、王弟は歯と茶器のへりをかちかちとぶつけあわせながら貪るように飲んだ。きっと味などわかりはしないだろう。

 それでもわずかに喉に通した茶に人心地がついたのか、まだ血の気の戻らぬくちびるでかすかに笑ってみせる。


「代わりの茶をお持ちいたしましょうか」

「いや。いい」

 

 一行に付き従う――今となってはたった一匹の――幻惑狐(アパトウルペース)が、青年の胸元に伸び上がると前足をかけた。きゅうと心配そうな鳴き声に、いくぶんこわばりの溶けた笑みでマヌスは小さく丸い頭を撫でた。

 幾度も、ゆっくりと撫でていくうちに、その手の震えも小さくなっていき、マヌスはほうと息をついた。


「……師は」

「は?」

「シルウェステル師は、いつも、あのようなものと立ち向かっておられるのだな」


 マヌスがグラディウスファーリーを出国せざるを得なかった事情を隠さねばならぬわけもあって、トルクプッパも知らぬ事だが、マヌスはシルウェステル・ランシピウス名誉導師の命を奪わんとしたことがある。

 自国の王である兄の暗殺に巻き込んだわけだが、じつにあっさりと返り討ちにされた。

 その報復として命を奪われることも一度は覚悟したが、あの骸の魔術師は命を許し、同行を許した。

 だからこそ身代わりを申し出た。命の借りは命でなければ返せぬと感じたからだ。

 眼前に迫っていた巨大な穂先に死を覚悟しつつも、あくまで乱れず糾問をなしおおせたのもそのためだろう。

 あのような襲撃でさえ、シルウェステル師なればたやすく制し得ると恃んでいたからこそ。

 

 今では、自分の起こした暗殺騒ぎがいかに稚拙なものだったかはよくわかっている。

 だが、ずさんな襲撃であっても、地の利というものがある。おまけにマヌスも知らなかったが、テルミニスの領地には知識ある一族の者でなければ命を落としかねない罠がしかけられていた。

 しかしながら、師はそのどちらも平然と乗り越え、鳥となって空を飛び、帰還してみせた。

 改めて思う。歯牙にもかけられなかったあの時に気づくべきだったのだと。

 あの程度の死地など、空の鳥にとっての牧の垣根ほどの妨げにもならぬほど、シルウェステル・ランシピウス名誉導師は魔術師の身でありながら修羅場を渡り歩いてきたのだろうと。


「おそらくは。より隠れたものと対峙なされておられるのでしょう。今も」


 トルクプッパもまた、あの骸の魔術師には畏敬の念を覚えずにはいられなかった。

 彼女は、任務を命じられたことこそあれ、協力を頼まれることはなかった。たとえ任務で大身の貴族と同行することはあっても、彼らにとって自身は果たすべき機能を備えた道具に過ぎず、それが当然だった。

 当然の任務を当然に、しかし優秀な成果を残して達成したがゆえに、得た称号は『人形の支配者(ドミヌンプッパ)』。

 虚偽に虚偽を重ね、時に自身も人形に交じり、人形となり、人形を踊らせる者。

 しかし、大貴族の家柄にありながら、人形の中に降り、ともに踊る者を見たのは初めてだった。


 トルクプッパは、骸となる以前のシルウェステル・ランシピウスを知らない。せいぜいが彼もまたオプスクリタス騎士団の一員だったことぐらいのことしかわからぬ。

 魔術師としての能力よりも化粧と装飾の技能をもって、密偵としてランシアインペトゥルス王国内、とりわけ宮廷を主要な根城にしていたトルクプッパとは異なり、その貴族の家柄のみならず、魔術学院の上級導師としての知識と腕前をもって、国外にすら出ることもあったシルウェステル師との接点などなきに等しい。近侍という名目で同行させた他の密偵たちの目眩ましとして協力していたのだろうと、薄く考えていたくらいだ。


 しかし、あの骸の魔術師は自分も駒として使えと主張した。ただの密偵の一人でもあるかのように、行商人や大道芸人としてふるまえるよう、所作や注意すべきことを教えてくれとトルクプッパやあの薄らハゲ(アルガ)――他国の密偵であるというだけで隔意を感じずにはいられないが、素直に密偵としての演技力、戦闘能力、豪胆さだけは賞賛してやる――にすら教えを請い、船乗りからは操船に必要な知識と技術を学び取ろうとした。

 つくづく、おもしろい方だと思ったものだ。

 洞察の深さはむろん、貪欲なまでに知識を求めるその姿を見るだけでも、この糾問使団の一員という立場を毒薬師のタクススから奪っただけの甲斐はあったものだ。

 それも意図的に奪わされたものだと知ってはいるが、かまうものか。

 だが、師の知識欲が自己防衛の必要あってのものとするならば。

 その慧眼は、いかなる危険を見据えているのだろうか。


 帆柱の根元、弾劾用に高く作った平台から、マヌスにトルクプッパが肩を貸して降りてくるのを、グラミィは船底で見ていた。しばらくはゆっくりと休んでもらった方がいいだろう。

 とうに引き上げた枝舟は塩だという白い甲板に水を滴らせている。それ以外の木の魔物たちとも魔力知覚を共有することで、半透明なゴーカートに乗っている程度には周囲の様子が見えている。

 

(グラミィ、あんたにしてもらいたいことはただ一つ。マヌスくんたちの仕事が終わったら、出せる限りの最速でレジナから遠ざかること)


 ここから島に戻るまではグラミィ、あんたが頼りなんだ、とは、ボニーに言われたことだ。最低限でもアビエス川を抜けるまでは船足を緩めるなと。

 それまでこの甲板下から出ないようにという忠告は正しい。

 とうに木の魔物たちが張ってくれていた結界は消えているし、マヌスにあんな殺意の高い攻撃を向けられたのにはびびった。

 例の羽根を出して水中を飛ぶ航法ではなく、思いっきり結界を前に伸ばして、一瞬で縮めるスリングショット式航法(ボニー命名)の方が、ある程度蛇行している川を抜けるのにはいいだろうという指示もいい。

 曲がった川はインコースを攻めろという表現はどうかと思うけれども、外側の方が流れが緩やかになるから土砂が溜まって浅くなる。座礁するとまずいという理屈もわかる。

 けれども可能な限り早く川を下れ、追っ手がかかる前に、それが一番重要だとしつこく言われたのが不思議で、逆に訊いてみた。

 確かに騒ぎを起こした帝都から早く逃げ出すのはわかる。けれどもスタートダッシュである程度距離を取れば、向こうが馬を使ってもそうそう追いつかれないんじゃないかと。

 なにせこっちは下り船だ、ほとんど何もしなくても半自動的に海へと向かう。

 たとえ川沿いに兵士が駐留してても、動かせるわけがない。こんな世界に通信設備なんてないでしょーと伝えたら、呆れまじりに(烽火(のろし)台があるかもしんないでしょ)と言い切られてしまった。

 早朝のこの時間帯なら烽火の炎も煙も見えづらいだろうし、鏡の反射も朝日に紛れる。けれども絶対ではない。

 追いつかれたら船の耐久性、捕捉を振り切る操船能力、攻撃を振り払う防御能力頼み、それも数で押されたら、地の利がないこちらが不利になると。

 船に穴を開けられたらそれでおしまい、だから安全性を考えたら、逃げ切りを成功させるしかないと。

 海上に出てからも油断せず、可能な限り最速で島に戻れと言われている。そのためには教えた術式を使い倒せとも。

 

(だけど、あたしがボニーさんの真似を完全コピーできるかって言ったら、無理なんだよね)


 グラミィは中州を避けながらこっそり呟いた。

 確かに伝授された水中翼の(ジェットフォイル)術式で船を動かせば、この世界では見たこともないような速度が出る。けれども顕界をし続けることはかなり大変なことだった。


(ボニーさんによれば、水流を作り出すのに、水を射出する術式の一部だけを顕界するようなやり方をしてるというけど、それと結界を複数作成維持する術式をくっつけちゃうとか。……どれだけぶっとんでるんだか、あの人は!)


 確かに術式をいじったおかげで、魔術の規模に比べ魔力の消費量はかなり削られているのだろう。けれども、そのぶん制御が難しいことは、道中の練習タイムで存分に思い知らされた。


(ヴィーリさんからもらった樹杖の枝たちが維持を手助けしてくれてはいるけど、あたしはボニーさんと違う。三人組が起きてる間だけ普通の帆船のふりをしてたけど、ほぼほぼぶっ通しで水中翼術式を維持していたボニーさんみたいに、全行程を休まず行けるわけがない)

 

 生身であるということは、精神的なだけでなく肉体的にも疲労するということ、睡眠や食事を摂ることが必要になるということでもある。

 

(そう言ったら、休む間はマヌスくんたちに帆走してもらえ、だもんね。たとえ正面から風が吹きつけても風上に向かって走ることはできると言われて、その理屈も教えてもらった。けれど水中翼の術式を教えて、交代しながら進んだ方が早くないと訊いたら、即却下されたけど)


 なぜ水中翼航法を教えちゃ駄目なのかと聞いてみたら、難易度高いからとあの骨はあっさりと答えた。

 木の魔物たちの助力がない魔術師には、術式の維持はおろか顕界すら難しいんじゃないかと。


(よくンなもの作り出したな、っていうかよくあたしに教えたなって感じだよねー。覚えられなかったらどうする気だったんだろうと思ったら、たぶんできると思ってた、って。なにそれ)


 そこまで評価されていると知って、ちょっと嬉しかったのは秘密だ。

 

(トルクプッパさんたちが知りたいといっても教えるな、という理由が、『この世界の人間が知らないあたしたちだけの手札を減らすな』って真っ黒なものだったのは……うんまあ平常運転のボニーさんだよねー。ちょっと驚いたけど)

 

 しかしその黒さと打って変わって、もう一つの理由は、概念を導入することによる影響を懸念しているからという実に白い答えだった。


(あたしにはいまいちよく分かっていないけれど、ボニーさんが三人組といい、異世界人入りの人たちとの接触を警戒していることはよくわかる)

 

 だからこそ、ここまで来たとはいえ、生身の同行者に上陸を許さず、帝都での仕掛けを幻惑狐たちと自身だけでやってのけたこと、自分だけが突入することを主張したのだろう。

 

(あたしを残していったのは、たぶん異世界人入りの人たちとの、これ以上の接触を避け、比較的安全な場所であるドミヌスさんの島に退避させるため。それからボニーさんの代弁者として、他の人たちに対する抑止力として。……場合によっては、他の人たちがボニーさんに対する人質にできる、と思わせるため、かな)


 当然、同行者と敵対する意思は今はまだこちらにはない。だが、他の追随を許さない膨大な魔力量と新しい術式というものが、存在するだけで警戒対象となるだろうということも以前から何度か説明されている。

 もやもやするものはあっても飲み込めるほどには。


(『首輪がついてると思って安心してくれるなら、安いもんでしょ』って。……ボニーさんてば相変わらずすぎるでしょ)


 もちろん、いざという時に、相棒(運命共同体)の足手まといになる気はないが。


 しかし、逆に言うならば、今の、あの骨っぽい人には、そのブレーキが見かけだけですらないわけで。

 

(ボニーさん、……ほんとに大丈夫かな。いろんな意味で)

 

 溜息を河面に残し、白く輝く船は矢よりも早く朝のアビエス川を下っていった。

「一方その頃……」という内容ですが、ちょっと多岐にわたるので分けました。

今回は帝都レジナ脱出組です。いろいろ過大評価されてます骨っ子。

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