閑話 腹の探り合いは晴天の下で
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
ひさびさにグラミィ視点の内容です。
うわ。クっっさ。
梯子のような段に近づくだけで漂う悪臭に、あたしはちょっと鼻を皺めた。
下に何があって誰がどうしているかって知ってるから、この目にも沁みる匂いの理由はわかるけど。
でもさあ、理解ができるのと受け入れられるのは別問題だよ。まだベーブラを出てから数時間しか経ってないってのに。
何より、こんな臭い空気の中に入るのはヤだ。服にまで染みつきそうで。
……ええいっ、やるならやらねば自力救済。
問答無用で微風を顕界、強制換気っ!
…………。
…………。
…………しまった、思いっきり失敗した…………。
甲板に空いた穴は人の出入り口兼換気口で、一つしかない。
逆流してきた排泄物や嘔吐物の匂いまでもろに喰らったせいで、あたしは思わず涙目になった。
船室に入ったとたん、怪訝そうな目で迎えられたのはたぶんそのせいだと思う。
「いかがなさいましたか、グラミィさま。シルウェステルさまは?」
おぢさん外見のトルクプッパさん、いやトゥオルクスさんが首をかしげた。
「なに、たいしたことではございませぬ。あのお方でしたら、アルガどのと話をなされておりますよ」
婆口調で言うと、がばっと残りの二人も向き直った。
エミサリウスさんはともかくとして、想定通り船酔いでぐったりしてたクランクさんまですごい顔で起き上がってくるとは思わなかった。
またすぐのびたけど。
「危険ではございませんか!なぜあのような、腹に何を抱えているかもわからぬ者を寄せるとは!それだけでなくなぜお側を離れるようなことを」
ボニーさんが聞いたら、腹に何か抱えてるのはそっちもでしょうが、自己紹介乙、って言われそうなことを真顔で行ってきたのはエミサリウスさんだ。乙ってどうして使うのかわかんないけど。
「おや。あのお方がアルガどのに何ぞされるとでも?どのような策を講じられたとて、相手の言いなりになどおなりになるようなお方ではございませんよ。ご存じかとは思いまするが」
どっちかというと、なんとでもされちゃうのはアルガさんの方だと思う。というか、ボニーさんが負けるような絵面が思い浮かばないんだけどなあ。
「そのような問題ではない!」
……クランクさん。大声を出したついでにぐえっと嘔吐くのは切実にやめてほしい。
黙ってしゃんとしていればそれなりに見栄えがする、いかにも育ちの良い青年貴族っぽい外見なんですから。酸っぱい匂いでいろいろだいなしだけど。
それに。
「あのお方がお決めになったことを、この婆が覆せるとお思いですかな?」
その一言で納得してくれたのか、ようやくみなさんが沈黙してくれた。
……はーやれやれ。
シルウェステル・ランシピウス名誉導師という名前は、その後ろにあたしも、その名前をここまで大きくしたボニーさん本人も、すっぽりと隠れるくらいに大きくなっている。
盾が大きいほど隠れるのはラクでいいとボニーさんが言ってたのはこういうことか。
それに、ボニーさん一人だけでアルガさんの相手をさせてるわけじゃないもんね。あたしもいっしょだ。
部屋の隅にある長櫃の前にしゃがみ込み、目の後ろあたりに意識を集中すると、ボニーさんとの心話が強く『聞こえて』くる。
その直前の会話内容まで伝わってくるのは、おっかけ再生みたいでちょっとおもしろい。
アルガさんが革袋を困ったように見下ろしている様子がまず『見えた』。
ボニーさんの見たものはあたしにも伝わる。あたしの感じたものをボニーさんも感じ取るように。
だけど、なんだかこう、ボニーさんの視覚情報というのは、微妙にリアルに感じられない。
画像をシャープネスに寄せたようにというのか、リアルに描いたペン画というか、輪郭が際立ってるせいでちょっと二次元風味に感じられるというか……。
あたしの顔を最初に見せてくれたときには噴くかと思ったものね。なんだろうこのヨーロッパとかの風景メインな写真の端っこに映り込んでそうなおばあさんと。
「しかし、名誉導師さまはなかなかお話しづらいお方ですな」
まー人一倍動いてる骨ですから。捕まえるのも一苦労だろう。
「これが生身の人ならですね、酒だつまみだとちょっとした話の接ぎ穂も差し上げられるんですが。そのお身体じゃあ難しいですね」
あ、そっちですか。なるほど。
いかにも困ったように薄らハゲの頭を掻いてみせる、その飄々としたアルガさんの様子にも、ボニーさんが心の底の底では警戒を解いていないのが伝わってくる。
一旦は全部返した武装の中から、アルガさんはあたしとボニーさんに杖を預けてきた。自主的に。
魔術師である他の同行者のみなさんにしてみれば、杖を預けるというのは、魔術師としての武装解除に等しい。かなりインパクトのある出来事なんじゃないかなと思う。
だからこそ、アルガさんは、同行者の皆さんに敵意がない証として、そういうことをわざとしてみせたんだろう。と、ボニーさんは言ってた。
あたしもそう思う。
それでもアルガさんに対してみなさんが警戒心を捨てないのは、おそらく異国人の密偵としてアルガさんを見ているからだろう。
一方、あたしとボニーさんがアルガさんに対する警戒を解かないのは、杖を持たず手ぶらに見えるとはいえ、アルガさんが隠し短剣を両腕に仕込んでること、つまり、あたしたちに危害を加えられる力を持ってるってことを知っているからでもある。
危険なのは重々承知の上で、ボニーさんが仕込み武器までアルガさんに全部返したのは、自分の身は自力で防衛してねーという含みもないわけじゃない。
それと、アルガさんの武器は魔術や隠し短剣だけじゃなくて、どっちかというと弁舌と頭の回転の良さだということを知っているからでもあったりする。
「ですがグラミィさま。危険はともかくといたしましても、通詞がおられないのでは、シルウェステル師も会話にご不便ではないのでしょうか?」
薬草を長櫃から取り出したところで、トゥオルクスさんが不思議そうに聞いてきた。
……それはいいんだけど、並行してやってる単純作業を見たからって、そんなにドン引きしないでほしいなぁ。
あたしは、ボニーさんみたいに非常識なことはやらかしてませんから!
「そのあたりは筆談でなんとでもなるそうでございますよ。筆記の用をなすものぐらい、シルウェステルさまは瞬時に顕界なさいますので」
実際、今もさくっと、ボニーさんが手頃な大きさの石板を顕界してる様子が心話で伝わってきてるし。
ぐねりぐねりと世間話ばっかりで、なかなか本題に入ろうとしないアルガさんにちょっとイラっとしているというか、飽きてきた感情といっしょにだけど。
鉛筆ぐらいの石の棒も作り出してその先から水を滴らせ、『何用か』と書いてみせれば、その術式の精緻さ顕界の素早さにアルガさんもちょっと驚いたらしい。
だけど眉を吊り上げたのも一瞬、アルガさんはへらりとうさんくさい笑みを浮かべてみせた。
……年を取ると素直に驚いてみせるってこともできなくなるのかなー。
けれどもあたしは知っている。
ボニーさんは、ほんとは鉛筆代わりなんていらない、文字を表示するだけなら直接石板の表面に水を顕界だってできるし、いざとなれば炎で空中に書くこともできるということを。
だから、前になんでわざわざそんなことするのかって聞いたら、少しでも人間らしく見せるためとあっさり言い切られた。
人間、自分と同じことをしているのを見ると、無意識にでも警戒が緩むんだって。
あと自分のできることを100%いつも相手に見せる必要はない、というかしないほうがいろいろ小細工ができるからだって。
……そういうところが、とってもボニーさんだと思う。
「しかし導師も豪気なお方ですねぇ。よくまあそこまであのような者たちに信を預けられるとは。いやー、小胆者のアタシじゃ真似などできっこありませんわ」
ぐるりと周りを見渡しながら大声を出すアルガさんに、船乗りさんたちの視線がじめっと集中する。
〔これなんてブーメランてか自己紹介かな。……ああ、アルガってば不和の種をさらっと撒きに来たわけか〕
はい?!
〔なるほどなるほど、この世界の文字が読めるかどうかも怪しい船乗りさんに、その物の見方を歪めるような情報を一方的に聞かせて、あたしたちランシアインペトゥルス側の人間に疑心暗鬼を起こさせようって手かねぇ。なら声が大きいほど有利だし、筆談しかできないあたしは圧倒的に不利と〕
ちょ、それってまずくありません?
〔甲板の上ではね。グラミィ、そっちでの下工作をよろー〕
了解ですー。こっちのみなさんにもよく説明しときますね。
〔頼むわ。特にトルクプッパ、もとい、トゥオルクスさん引き込んどいて〕
早速ボニーさんの指示通りに説明すると、同行者のみなさんはほれみろという目つきになった。
けれどもあたしは悪くない。
アルガさんが罠をしかけにくることも込みで、相手の土俵に乗ったのはボニーさんです。
ついでにいうと、アルガさんのこの口撃って、ただ単に船乗りさんとあたしたちの間に罅を入れよう、ボニーさんの敵を作ろう、って方向じゃないのだろうというボニーさんの推測も伝わってきている。
ボニーさんからの心話で伝わるのは、知覚されたものだけじゃない。
それこそ話し相手の言動から読み取った情報だけじゃなく、周囲の情報――今なら潮風の向きや雲の動き、船乗りさんたちの反応や体調といった種々雑多なもの――がまぜこぜになった状態で芯となり、それに対するボニーさんの考察と感情が周囲を何重にも取り巻いているのだ。
たとえて言うなら知覚情報がきゅうりちくわのきゅうりなら、それを芯に入れた太巻き――今は恵方巻と言うんだっけ?――ぐらいな勢いでぎゅうぎゅうに詰まった感じで。それも枝分かれしている。
そんなわけで、ボニーさんの心話はむちゃくちゃ情報量が多い。とっちらかった印象があるのもそのせいだろうし、さっきのおっかけ再生もその一環だろう。
なんでそんなふうになっているのかというと、ボニーさんによれば、人間の思考は一直線につながっていないからだろう、だそうだ。
思考は閃きという形で突然次元を越えてワープすることも、ど忘れという形でブラックホールに落ち込むこともある。そして情報というのも多義的だ。一つの情報にいくつもの情報が紐付いていることもある。それがごたごたとくっつきあっているのだからこそ、全部を読み取ろうとするのは混沌録の中に頭をつっこむようなものなんでしょ、だって。いまいちよくわかんないけど。
それをなんとか処理できてるあたしもあたしだとボニーさんには言われたけれど、あたしだって全部を理解できてるわけじゃないってこともあるし、ボニーさんの五感も味覚や嗅覚が欠けているから、知覚情報としてはいびつなせいもあるのだろう。ボニーさんとあたしが足並みをある程度揃えられているのは、このほどほどな情報共有のやりかたのおかげかもしれない。
あたしとボニーさんのやりとりに気づかぬまま、アルガさんはさらに舌を回転させていた。
〔……ああ、つまり。最終的にはあたしを孤立無援に落とし込んだところで、唯一の味方面でもするつもりらしいね、これ〕
その心は?
〔あたしが強力な魔術師なのはわかってるから、敵に回すのは怖い。でも味方になれば心強い!ってとこかな〕
だから敵を増やすって。……目的と手段が入れ替わってません?
〔こっからはただの推測だけど、アルガの真名は今あたしたちが握ってる〕
ですねえ。
〔真名の再付与の時、あたしたちやランシアインペトゥルス王国を裏切れないように誓約で縛ったでしょ?だから、それに触れないよう、『本当のことを言う』『あたしを褒め殺す』ってスタンスで、じわじわじわじわ周囲から網を張ってる感じかなー。真名の再付与に関わった五人のうち二人を自分の味方につければ、『あたしたちに敵対しない』という条件はかなりクリアできるはず。あとはあたしたちをランシアインペトゥルス王国と敵対させれば、それで誓約の条件は論理的に破綻する〕
一方を守ると一方を破るわけになるわけですもんねー。
でもそれって、最終目的はなんなんでしょうね?
〔アルガが愛国心の塊っていうんなら、『強力な魔術師であるあたしたちをランシアインペトゥルス王国からひっぺがして自国へ取り込む』ってあたりかなー〕
あいこくしん。……とてもアルガさんが持ってるようには見えないんですけどねー。
〔一応彼もスパイだから。それにね、誓約の条件は『ランシアインペトゥルスの王族に忠誠を』であって『グラディウスファーリーを裏切れ』じゃなかったから、グラディウスファーリーにまだ心を残していても不思議じゃないの。……まあ、最終目的が達成できると思うほど、口先だけで人を動かす力があったら、すごいとは思うよ?〕
心話でくすくす笑いながら、ボニーさんは石筆でさくっとアルガさんを止めた。『小細工すんな』をねちっこい貴族的な表現に包んだだけだけど、その後がさらにえぐい。
がっかりしてみせたアルガさんの前にさらさらと追記した文を差し出したのだ。
『予期していたのだろう?わたしがそなたの国へ寝返ることはない。策が拙すぎるそなたへ今後力を貸すことも』
アルガさんはざあっと青ざめた。
えーと、どゆことですか、これ?!
〔この手の小細工できる程度に、アルガの頭の回転はかなり速い方だと思うのだよね。でもそれならあたしが自分の手のひらで踊らなかった時のことも想定はできる〕
ですよねえ。
〔そこで次策を用意した。『国を裏切れ』なんて高いハードルを提示しておけば、低いハードルなら飛べそうって思うだろうと。そのくらいは計算したんだろうね〕
それが、『アルガさん個人に力を貸す』ってことですか?
〔そうそう。だけどね、まがりなりにもあたしはランシアインペトゥルス王国の魔術伯の一族の一人なのだよ。それが『アルガというグラディウスファーリーの密偵と協力した』なんて事実を作らされてみなさいよ。どうなると思う?!〕
えーと。
〔『あたしがアルガを利用した』ならまだいいのよ。そこはあたしがアルガより上手だったってこと、ひいてはランシアインペトゥルスがグラディウスファーリーよりも上だってことになるから。でも『あたしがアルガに力を貸した』となると、この力関係は逆に取られてしまう〕
メンツの問題?
〔単純に言えばね。それに、そこは乗らなきゃどうしようもないないなーって状況が作られてたとしても、どんな些細な事であっても、いくらでも話は膨らませられるのよ。ランシアインペトゥルス王国としてはおもしろくないんじゃない?〕
はい、まあわかります。
〔で、アルガ的には、国の面子に傷を付けたあたしと、王国の間に罅が一筋でも入れば、そこから何かしら手が打てる、そう思ったんじゃないのかね?おまけにこれ、誓約に加えた条件はすべてクリアしてやがりなさるし。……でもねー、そうそう思い通りにやらせてなんかあげないけどねー〕
楽しんでますね、ボニーさん……。
〔おうさ。アルガのずうずうしいとこは嫌いじゃないしね。ずぶといちゃっかりなくせして、利益のためなら自分のプライドも、場合によっては命すらも安く売ろうとする程度には腹が据わっているところも悪くない。……そういう人間ならば、きちんと自分の頭で考えて判断しようとする。ならば何かしらの利益を引き出せると見ている限りは、まずあたしから離れないだろうし、使いようによっては裏切る心配もないしねー〕
心話とは裏腹に、ボニーさんは冷然とさらに石板を差し出した。
『わたしに力を貸せというなら、それだけの価値を見せよ』
それを見たアルガさんは、とうとうしゃがみ込んだ。やりかたを間違えたのだと悟ったんだろう。
ボニーさんは確かに甘い。相手が生きてる人間だからというだけで、めちゃくちゃ甘い手を打つこともある。
けれども、ボニーさんが手の骨を差し伸べるのは、相手を対等以上の存在と認めたか、それとも関わること自体にそれなりの利点を見いだした時だ。
ボニーさん的利点というのが、単純に生きてる人を無駄死にさせるのがイヤだから、という理由だったりすることもよくあるんだけどね。
けれども、今の場合、ボニーさんは『自分との策の打ち合いに負けるようじゃ相手にする価値もない』と、利点が見いだせないと伝えている。
実際、アルガさんから搾り取れる情報というのは、もうほとんどなかったりする。
せいぜいが海路に関する知識ぐらいだろうけれども、それだって本職の船乗りさんたちとダブるわけで。
策の底の底までボニーさんに食い破られ、アルガさんは焦ったのだろう。自分の価値を高めないと、これ以上ボニーさんに相手にしてもらえないと。
「か、彼らだって逃げぬとは限りますまいに」
……だからって、そこで船乗りさんたちをサゲにくるかなー。
だけどボニーさんは淡々と筆談で応じている。
『彼らは逃げない』
「……よくまあ彼らの何をそこまで信じておられるのですか」
『信じられるものを』
水文字の言葉に嘘はない。ボニーさんは船乗りさんたちの、その経験と知識を信じている。
海路を無事にスクトゥム帝国まで行って戻ってくるのに重要なファクターです。
頭を抱え込んだアルガさんをよそに、ボニーさんはこちらに目を向けている船乗りさんをぐるりと見回すように頭蓋骨を動かした。
石筆を持った手の骨を天に伸ばし、そのまま左胸に当て、そして船乗りさんたち一人一人に石筆を向ける。
今のは?
〔天に陽があるがごとく我が心に信ありて、そなたらが心に信ある限り、この航海に海神マリアムの恩寵のあらんことを、って意味になるかな。アウデーンスさんに教えてもらった、船乗りさんたちの航海を共にする相手への信頼の仕草〕
へー。
〔で、これにアルガが口に出したことを合わせると?〕
……船乗りさんたちへの嫌みを言ってたアルガさんを、ボニーさんが筆談で窘めた上に、ボニーさんが、船乗りさんたちの流儀で、信頼を表した形に見えなくもない、と。
〔正解~。これでアルガの工作はそこそこ潰せたと思う。一応トゥオルクスさんにも伝えておいて。その手のことに一番詳しいのは彼女?彼?――ややこしいな性別不明っぽい相手は――だと思うから〕
了解ですー。
そのやりとりの間も、なんとか体勢を立て直そうとしたのだろう。しつこくというべきか、果敢というべきか、アルガさんはまだボニーさんに絡みに行っていた。
「……それじゃあ、アタシのことはどれくらいお信じいただけますんで?」
『同行の者たちぐらいには』
アルガさんはちょっと目を見開くと沈黙した。
ボニーさんと心話をつなげてるあたしも驚いた。策略に嵌められてやるだけのメリットがないと言いながら、アルガさんのことは信じてやるとか。どういうつもりだろう?
「……それはありがたいことで。ですがグラディウスファーリーに入り込んだ後、アタシがこれ幸いと逃げたら、どうなさるおつもりで?」
『そなたは、しない』
アルガさんは笑おうとして失敗した。
「……こりゃ、また。アタシゃそんなに信義が厚いように見えますかね?それとも、真名の再誓約によほどな自信がおありなんですかね?」
『どちらでもない』
「じゃあ、なんでそこまでおっしゃるので?」
『そなたは損なことはしない。そのことを信じる』
「へえ?」
『その程度には、そなたを見てきた』
最初の水文字は、もう肉眼では読めなくなるほど薄くなっているのだろう。
ボニーさんは石板の前面を塗り潰すように、大きく文字を書き連ねた。
『シルウェステル・ランシピウス名誉導師は、ゲラーデのアルガを信じよう。そなたがなすべきことをなすがよい』
ずっとへらへらしていたアルガさんのその口元が、一瞬強く震え、直線に結ばれた。
〔……アルガはちょっとだけタクススさんに似てるんだよね。自分が胡散臭く見えることを知ってて、それすら武器に使って立ち回るほどにはしたたかだ。そして、彼にも彼の誇りがあり、信念がある。それが何かはうっすらとしかまだ読み取れないけれども〕
アルガさんの思惑を楽しんで外していたボニーさんは、いつのまにか深沈とした『声』になっていた。
それはきっと、ボニーさんが人を動かすのに、相手の心理を読み解き、弱点を掘り出して攻撃することに、思うところがあるからなのだろう。
〔これまでの言動を見る限り――たぶん、彼が一番重きを置いているもの、求めているもので、あたしが彼に差し出すことができるのは、『信頼』だと思う。もちろん、完全なものじゃない。それでも異国の密偵である彼を、時に仕掛けてくる策を打ち返しながらでも、『信じて』みせることが必要になるんだろう、と、思う〕
「シルウェステルさま。わたくしは、故国を裏切ることはできませぬ」
口調と一人称を改め、唇をほとんど動かさぬままアルガさんはボニーさんに囁いた。
「されどシルウェステルさまの御力がなければ、わたくしはアルボーで溢れる河に吞まれ氷山に潰されておりましたでしょう」
ですよね。あの氷の塊はほんとヤバかった。
「シルウェステルさまが庇ってくださらなかったならば、真名を再び受けることもなく、密偵として魔術士団長さまに、いえ他のいかなる方々に殺されていたかもしれませぬことは重々存じております。――故国は絶対。ですが、シルウェステルさまへの命の借りは、必ず命でお返しをいたします。ソリダートのマレアルーバではなく、ゲラーデのアルガとして」
〔!……そうか。そういうことか〕
え。どういうことですか?
〔なんでアルガがあたしを、というかあたしたちをグラディウスファーリーに取り込もうなんて策を考えたかってこと。……たぶん自国とあたしの恩義の板挟みで、密偵としての動きもあたしへの情報提供もできないでいたんでしょうね。なら、相反するものを両立させればいいってことじゃない?〕
なんですかそれ。どっちも裏切りたくないなら、どっちも裏切らない形に歪めてしまえってことですか。
意外とアルガさんって誠実なんですかそうですか。
いやこれを誠実って言っていいのかもよくわかんないんですけど!
〔まー、それはあたしもまるっと同意するよ。……だけどもそういう考え方に辿り着いてくれたというのは、むしろ都合がいい〕
はい?
〔敵はグラディウスファーリーじゃないってこと。ま、取りあえず今は、これ以上彼の良心が痛まないようにしたげようじゃないの〕
そしてボニーさんはさらさらと石板に書いた。
『では、その前払いとして、もっとこき使わせてもらおうか?』
「え゛」
アルガさんはぺしっと固まってたけど、あたしもそれはどうかなと心底思った。
相変わらず真っ黒です骨っ子。




