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閑話 凍てつきし炎の物語(その5)

本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。

 マクシムスさまは御自分の言葉をお守りになりました。

 不愉快な挨拶ののち、わたくしはクウァルトゥス魔術士団長殿下のお姿を見かけることすらございませんでした。

 そのぶん副団長のマクシムスさまはたいそうお忙しくしていらしたようですが……。


「アダマスピカ副伯さまがお気にされることではありますまい。口から出た言葉の責を取ることができるのは当人のみ。また魔術士団内の始末は魔術士団でつけるべきもの。それだけのことがかなうと思われたからこそ、副団長は約定されたのです」


 淡々としたお口ぶりでしたが、ルーチェットピラ魔術伯さまはきっぱりと断言なさいました。

 ですが家宰のピウスづてでマクシムスさまのお言葉を伺えば、いくつお身体があるのかと思うほどのおはたらきぶりのご様子。わたくしのような者が副団長さまの身を案じるのも筋違いでしょうが、はやばやとアダマスピカに入られてからは、宿舎の手配に作戦のための実地検分と、たいそう忙しくしておられたようにございます。


 たしかに、実地検分は重要でございましょう。

 わたくしたちが戻るより先に、アダマスピカに入られた森精のヴィーリさまがロブル河とピノース河の支流に築かれたという植物の蔓堰もさることながら、ピノース河の河底が大きく削られていたのは、シルウェステルさまの魔術によるもののことにございます。

 特に、ランシア河からの水流を強く受けるあたりは荒れ地側へと無造作に土砂が飛ばされたような荒れた斜面から河底にかけ、薄く石畳を敷き詰めたかのようにすべてが一枚の岩で覆われておりました。

 まるで巨大な手で河底を掘り取り、堤を無造作に押しやったような有様には、マクシムスさまも驚嘆を隠せぬご様子でしたし、グラミィさまも開いた口がふさがらぬかのようでしたが……。


 騎士アロイスがシルウェステルさまの代筆として書き残してくれた書面によれば、ピノース村周辺までシルウェステルさまは河の流れに手を入れられたご様子。

 ニアに魔術の手ほどきをした魔術学院の元導師という、ウィクトーリアのラウルスどのも、シルウェステルさまの魔術を見ていたとくわしく証言をしてくださいました。

 ですが、このような大魔術を行使された痕跡をごらんになれば、マクシムスさまが伝聞では足りぬ、おのが目を信ずべしとお考えになり、自ら確かめねばならぬとお考えになるのも、領主という衆を率いる身としては理解できぬ心情ではございません。

 ただ、ピノース河流域をひそかに素早く動かねばならぬとはいえ、単騎駆けをなさっていたと聞いた時には驚きました。身軽であることを求められたのでしょうが、魔術士団の副団長ともあろうお方の軽々しい御振る舞いには、カシアスも慌ててヴィーア騎士団から護衛を出したようでございます。

 

 マクシムスさまの行動にはその後も驚かされることが多うございました。

 ただでさえ難題の山積する此度のアルボー攻めの中、氷を貯める場の選定と整備の許可に加え、館を一つ河の分岐点より上流の丘に作らせてほしいと許可を求められた時にも驚いたものです。

 ですが、これも宿舎に不満をお持ちになったクウァルトゥス殿下をおとなしくさせるための方策なのだそうでございます。

 わたくしはひそかにクウァルトゥス殿下のお考えに呆れ果てました。

 王命を果たすことよりも、御自分のかりそめの居城を築き、居心地をよくすることに熱心でいらっしゃるとは!


 殿下の御座所という名目で新たに館を作り始めても、アルボー攻めの終わる前に仕上がることはありますまい。

 今からではたとえすべてを魔術で組み上げたとしても間に合わぬだろうことは、マクシムスさまもとうにおわかりでございました。

 けれども目の前で館の構築を行ってみせれば、わがままを一つ通させたということで殿下をなだめることはかないます。

 名目とは言え組み上げた館は、後日新しい領主館にでもお使いいただけるようにとのお言葉が添えられておりました。

 千人近いという魔術士団の方々がすべてこのアダマスピカにおいでになっているわけではございませんが、スピカ村の者たちよりも多くの人々で領内に世話になりましたささやかな礼だとのことにございます。

 ……なるほど、いくつかのねらいをお持ちとあらば、牧草地や畑が幾分削られることと、そちらの配下の方々の消耗を考えましても、方策としては悪くはございますまい。

 わたくしは了承の旨をお返しいたしました。より南にあります当家の墓所や、その他領内の畑などには触れないでいただきたいとの条件はおつけしましたが。


「サンディーカさまは、おやさしい上にお心配りの広い方なのでございまするな」

「それは、コッシニアさまをお案じになるご様子からも、とうにおわかりでしょうに」


 クウァルトゥス殿下との事がございましたので、カシアスは、わたくしの執務室にも絶えず気を配ってくれておりました。

 グラミィさまも、時たま魔術士団の大隊長とかいう女性の方から届く魔術士団の行動への協力要請――『要請』というより権限もないのに『命令』のような一方的なものだったようですが――を、大勢に足並み揃えてというのは苦手とあっさりお断りになられ、わたくしの話し相手となってくださっていらしたのはそのためでございましょう。


「むろん、ニアのことも心配ではございますが。グラミィさまもシルウェステルさまの身の上を案じられているのではございませんか?」

 

 わたくしたちがアダマスピカへ着くのと入れ違うかのように、ニアは騎士アロイスとシルウェステルさま、そしてもう一人の魔術師とともにアルボーへと向かいました。

 その身を思えば確かにわたくしの心痛が絶えることはございません。

 同行の騎士アロイスは、カシアスとは、このアダマスピカで同輩として騎士見習いの日々を過ごした友人でもあるとか。その剣の冴えはプルモーの息子を叩き伏せたほどと聞き及んでおります。

 ですが、それはそれ。

 わたくしにとって、ニアは今でもまだ少しはわたくしの嫁ぐ日に泣き顔で見送ってくれた、あの頼りなげな幼子のままなのです。

 それが敵地も最奥、根城ともいうべきアルボー間際まで踏破するともなりますと。


「大丈夫にございますよ。きっとコッシニアさまも、お元気で、手柄をもってお戻りになることと存じます。ボ、シルウェステルさまも……シルウェステルさまはわたくしなどよりずっと強いお方でございまして。ええ」

 

 グラミィさまはなぜか遠い目をなさいました。

 彼方におられるシルウェステルさまを思いやられたのでございましょうか。


「ただまあ、あのお方はあのようなお身体ゆえ、敵であれ人の死というものをひどく厭われるのでございますよ。おそらくコッシニアさまの身になにか危険が及ぶようであれば、その身をもって庇われましょう」

「それは」


 あっさりとおっしゃられた言葉にわたくしは青くなりました。それではニアがシルウェステルさまの足手まとい、いいえ味方の中の敵ともなりかねぬということではありませんか。

 

「そのようなことにはおそらくならぬでしょう」


 ルーチェットピラ魔術伯さまは断言なさいました。

 

「身内贔屓(びいき)のようで恐縮ですが、わが父アーセノウスは魔術の才をもって彩火伯(さいかはく)という二つ名で称えられております。ですがわが叔父上は、その父に比肩しうる魔術の巧者。その叔父上は、コッシニアさまの腕前をたいそう評価なされておりました。だからこそ同道を願ったのでしょう。もし万が一にでも叔父上がその身をもって庇われたというなら、それはコッシニアさまのわざをもってしてもかなわぬ難事であり、叔父上がコッシニアさまにそれだけの佳所をお認めになったということではと存じます」

「まあ。なんとありがたいお言葉でしょう」


 わたくしの目をしっかりと見据えて放たれたシルウェステルさまへの強い信頼の透ける言葉に、わたくしは破顔せずにはおれませんでした。

 魔術伯さまの保証をいただいたようなお言葉に、安堵いたしましたことももちろんですが、シルウェステルさまへの深い敬愛を感じずにはいられませず、なんだか微笑ましいように思われましたもので。


 ただしき領主としてようやく認められた身、わたくしとてアルボーに向かったニアを案じてばかりで何もせぬというわけにもおられません。それからしばらくは目の回るような忙しさにございました。

 さいわいにして、魔術士団員の方々はきわめて品行方正でおられました。限られた少人数の方以外は。

 マクシムスさまはクウァルトゥス殿下へ根気強く諫言を――御座所の建築などという飴も入れながら――なさっておられたようでございます。

 ですが殿下は態度を硬化させ、勝手な御命令を出されるので、その対応にはルーチェットピラ魔術伯さまもたいそう苦慮されているご様子でございました。

 ですが、魔術師でもなく、雲の上のような方々の諍いにも関わり得ぬ身分のわたくしには、さしたることもできませぬまま、あの日が来たのでございます。


 ソフィアとおっしゃる例の大隊長を、両脇から抱え引き摺るようにして、ヴィーア騎士団の方々が執務室に飛び込んでこられた時には、カシアスも驚いておりました。

 いましめに抗うこともできぬ様子は、氷の長大な斧刃を魔術で顕界し、人智では作り得ぬような、あの蔓堰に大きな切り傷をつけたがために魔力を使い尽くしたゆえというのです。

 ヴィーア騎士団の伝令を受けて、マクシムスさまは魔術士団にすぐさまその影響を確かめるよう命じられるとともに領主館へお越しになり、マールティウスさまも、コッシニアに従って退団なされた、あの四人の魔術士の方々を、ピノース河を少し下ったところにある貯氷場へとおやりになりました。


「さて、なぜこのような真似を?」


 マクシムスさまの問いに、大隊長は恨みがましく黒くふちどられた目で睨み上げました。


「副団長!あなたがクウァルトゥス殿下を軽視なさるのがお悪いのです!魔術士団長であらせられる殿下の命に従うのが魔術士団の忠義でございましょう!わたくしは忠義を果たしたのみ!」

 

 王命も果たせぬ者が何を言うのでしょう。それに、

 

「ルンピートゥルアンサ副伯爵家所領、特にアルボーには二千を越える人々が暮らしている。つまりソフィア、そなたは王命に逆らい、国民をよきもわるきもすべて等し並みに溺れ死にさせようというのだな。そなたの忠義とはつまるところ人殺しか」

「わたくしは!……殿下の命に従ったのみにございます!」

「王族への忠誠は陛下への忠誠と同じではない。そのようなこともわからんか」


 ひややかなマクシマムさまのまなざしから、ソフィアとおっしゃる方は目をそらしました。


「殿下への忠義はあれども国への不忠義は限りなしと見ゆる。この者の杖を折れ」


 冷たく周囲の魔術師団の者に命じられたマクシムスさまは、グラミィさま、マールティウスさまともどもクウァルトゥス殿下のもとへと向かおうとなさいました。


「わたくしもまいりましょう」

「アダマスピカ副伯どの」

「むろん魔術士団の内々のことに、容喙(ようかい)などいたしませぬ。ですがコッシニア・フェロウィクトーリアの姉として、殿下の此度のなさりようには(はらわた)が煮えくりかえる思いにございます」


 シルウェステルさまのなされる企ては、石を重ねて城を築くようなものとうかがいました。

 そしてシルウェステルさまの成功は同行を許されたニアの成功、失敗もまた同じ。

 ならば、いかなる小さな蹉跌ですらさせてはならぬ、それがアダマスピカにいるわたくしの役割と考えておりました。

 いくら魔術士団長にして王弟殿下でいらせられる方といえども、このようにニアの、シルウェステルさまの足を引っ張るような所業を見過ごすわけにはまいりません。


「また、アダマスピカ副伯として、魔術士団の不始末には抗議をさせていただきたくのでしたら、マクシムスさまづてではなく、魔術士団長たるクウァルトゥス殿下にいたすのが筋というものかと」

 

 マクシムスさまはしばらく無言でいらっしゃいましたが、ややあってうなずかれました。


「知らんな」


 丘の上で御座所の建築の様子を監督なされていたクウァルトゥス殿下は、言下に否定なさいました。


「その女は大隊長という職務に増長するきらいがあったが、我が名を騙られるのはたいそう不愉快だ」


 しらばくれようとなさったのでしょう。

 大隊長という生き証人を突きつけられても、殿下は目をそらしたままうそぶかれたのです。

 そこへヴィーア騎士団の伝令が駆け込んでまいりました。


「申し上げます!貯氷場が魔術士団員の手により破壊され、氷塊が流れ出ております!ソフィア大隊長の命ということにせよと、クウァルトゥス殿下から直々に命じられたと申しております!」

「……殿下。あなたさまというお方は!」

「ええい、黙れ黙れ、下賤の者どもが!」


 ソフィアさまは凄まじい目つきで殿下を見上げ、顔色を変えた殿下は杖を構えられるやいなや早口で詠唱を行われ。

 はっと思った時には、石弾の嵐が全方位に放たれておりました。

 

「サンディーカさま!」


 カシアスの厚い胸板に抱き庇われたその向こうに、石弾が宙に弾けるのが見えました。

 マールティウスさまも対抗するように杖を構え暴風を呼ばれたようですが、わたくしに石弾も風も寄せ付けなかったのは、グラミィさまが目に見えぬ壁を張って防いでくださったからのようにございます。

 ですが、当のグラミィさまは……その左袖が裂け、大きな傷を負われておりました。

 雷鳴のような巨大な轟音に気を取られたからでございましょうか。

 そのさまを見た殿下……いえ、クウァルトゥス魔術士団長は歯を剥いて嗤いました。


「ざまを見るがいい。貴様らが慌てふためき駆けつけるのを合図に、あのいまいましい蔓堰を断ち切れと腹心の者に命じておいたのだ」

「なんですって。では、わたくしは!」

「貴様ごとき平民など所詮は捨て石に過ぎぬ。こやつらを踊らせる程度には役に立ったのだ。誇れ。そして死ね」


 吐き捨てた魔術士団長は杖を掲げて朗々と詠唱のように呪詛を唱えました。


「あの髑髏も、そこな老婆も、きさまのような生意気な女の妹も、不愉快な我が弟の部下もすべて海の藻屑となるがいい!すべて手柄は我がものだ!」

「それが本音か。我が叔父上がそれほど目障りか」


 ルーチェットピラ魔術伯さまの低い声音をお聞きした時には背筋に氷柱が生じたかと思いました。

 ですが、目を据わらせていたのは、マールティウスさまだけではございません。


「黙れよ。この、ド腐れクソハゲチビが」


 マクシムスさまがぎょっとした表情でごらんになりました。


「誰が許そうが、あたしがあんたを死んでも許さないっ!」

 

 あれほど激怒されたグラミィさまを、わたくしは後にも先にも見たことがございません。

 ですが、魔術にうといこの身にもはっきりと周囲が暗くなったと感じられるほどの魔力を、グラミィさまが瞋恚とともに噴出なされたのも当然のことにございましょう。

 グラミィさまはシルウェステルさまの実の母御でいらっしゃるのですもの。お子であるシルウェステルさまの身を案じぬわけにはございますまい。

 ……いえ、これは国の秘事でした。どうかお聞き捨てくださいませ。


 不意にどすんという音がしたかと思いますと、クウァルトゥス魔術士団長はたやすく横倒しになられました。

 白く四角い石の肌は……見覚えがございます。あの蜜蝋の器。

 どうやらグラミィさまが、魔術士団長の首から下を石詰めになさったようにございます。

 当のグラミィさまは、魔術士団長の首に手をお伸ばしになり、……頭の毛を引き剥がしました。


「グラミィどの。わたくしにも手伝わせてはいただけませぬか」

「お好きに。どうぞ」

 

 冷笑を浮かべたマールティウスさまが、単語のみの詠唱で火をおつけになった(かつら)を眼前に叩きつけられると、口をぱくぱく動かしていた魔術士団長は静かになりました。


「ルーチェットピラ魔術伯、グラミィさま。どうかそれ以上はご容赦を」


 割って入られたのはマクシムスさまでございました。

 

「事ここに至り、わたくしとてこのような者を団長と仰がねばならぬとは欠片も考えておりませぬ。ですがこの者らが王命を妨害し、王より権限を預かりしシルウェステル・ランシピウス名誉導師の献策を妬むがゆえに謀殺せんとしたこと、ランシアインペトゥルス王国への謀叛にございます。叛逆の大罪は王都にて裁くべきかと」

「……シルウェステルさまは自らの敵にもおやさしい方。ですがの、わたくしは年のせいか少々気が短うございます。お心に留めてくださいますよう」

「承知いたしましてございます」

 

 目つきが元に戻らぬままのグラミィさまに、マクシムスさまは丁寧に一揖なさいました。

 それで幾分得心なさったのでしょう。グラミィさまは泥の中のものを取るように石の中に手をお入れになると、魔術士団長が握ったまま固められておりました杖の一部を魔術で斬り折り、投げ捨てられました。

 鬘に火をつけられたときと同じくらい表情を失った魔術士団長は、その石の重さゆえにその場から動かすことも王都へ連行されるまではなかったようにございます。


「しかし、叔父上へはこの顛末をいかようにしたらお伝えできるのでしょう」


 マールティウスさまが案じられるのも無理はございません。鳥便に使う鳥たちは、覚えている巣の場所に飛び戻るもの、今アダマスピカにいる鳥は王都のものを預かっている以外にはおりません。

 潮が高々と満ちたアルボーに大量の川水が馳せ下る前にお伝えをせねば、アルボーは水に沈み、ニアは、シルウェステルさまは、同行の者たちは!

 

「……わたくしが、伝えましょう。ですがわたくしもどのようになるかはわかりませぬ。マールティウスさま。マクシムスさま。カシアスどの。サンディーカさま。後のことはお頼みいたします」

「グラミィさま……」

「森精の助力を得るとは、こういうことにございます」


 グラミィさまは帯に挟めていらした枝を抜き。

 ……血のしたたり落ちる、その腕の傷に突き刺されたかと見えました。


 リィンというような高い音とともにみるみるその枝が葉を伸ばし、その根は傷口を覆うように生い育ち、周囲の暗がりは吸われたように失せました。

 天へと左腕ごと捧げられたグラミィさまが何やら念をこらされると、魔術に疎いわたくしの目にすら、その枝が枝以上に枝を伸ばし、葉以上に空満ちるほどの葉が茂るさまを見たように思われました。

 ややあって、グラミィさまはユーグラーンスの森の方へと目を向けられました。

 

 ええ、あのような事は二度と目の当たりにすることはないでしょう。

 わずかではありますが丘の上という高みからは、ピノース河の流れがよく見えました。

 ぐらりと巨大な氷塊が倒れかけ、それにぶつかり、跳ね返される大量の水が堤防を越えるかと危ぶまれるほどのさまが。いえ、まこと、人の背丈ほどの波が氷塊から凄まじい速さで周囲に広がってまいります。

 ですが、空中高く跳ね上がった波濤は川幅を超えることなく、まるで命じられたエクウス()オウィス()が群れに戻るように、大人しく流れに戻っていったのでございます。

 そのさまは、魔術士団長が敵味方無差別に放った石弾の嵐が、グラミィさまに弾かれた時と同じようにでもありました。

 

 息を吞み、言葉もなく、わたくしどもは巨大な氷塊が轟音を立てながら、波濤を先触れにゆっくりとピノース河を下りゆく光景に釘を打たれておりました。

 いくらまなこを疑えど、おのが目にうつるは人智ではなしえぬとばかり見えるもの。

 倒れたまま低いところに頭のある魔術士団長だけは何も見えなかったのでしょう。うるさく騒いでおりましたが、聞く耳を持つ者はございませんでした。

 

 その後、カシアスが鳥便で連絡を送った王都からは、鎮圧部隊としてクウィントゥス殿下率いる近衛王都騎士団と、ルーチェットピラ魔術伯爵家の前当主であられる、彩火伯アーセノウスさまがルーチェットピラ魔術伯爵家の家臣の方々でありましょうか、魔術男爵や魔術師たちといった手勢を率いてスピカ村までおいでになったのです。

 魔術士団以上の人数と武力、魔術士団長以上の魔力をお持ちの方々が、この小領へ集結したのです。

 大騒ぎになりましたが、クウィントゥス殿下と彩火伯さまとマクシマムさまのお話しあいにより、瞬く間に物事は鎮まりました。

 魔術士団の大多数は、叛徒たちの護送とは別に、ルーチェットピラ魔術伯爵家の監視とともに順次粛々と王都にお戻りになることとなりました。

 また、ヴィーア騎士団も増援されましたことから、カシアスはアルボーに向かわれるグラミィさまとアロイスさまの副官に一隊をつけて送り込みました。

 彼らの働きにより、ボヌスヴェルトゥム辺境伯とテルティウス殿下の威光を笠に着たルンピートゥルアンサ副伯爵家の悪事はまもなく、すべて白日の下にさらされることでしょう。

 ピノース村近くにかかっていた橋が粉砕したとのことでしたが、あの山脈のような氷塊の量感を思いますれば、丸木橋のひとつやふたつは些事かと存じます。

 むろん、わたくしもただただ上つ方のお話しあいを傍観していたわけではございません。

 アダマスピカ副伯爵領が受けた損害はすべて国庫から賠償されるよう、シルウェステルさまがはからってくださいました。

 つまり、アダマスピカ副伯爵家に損害を与えた者は国家に損害を与えた者、すなわち叛徒という理屈になるそうですので、きちんと此度のことについては文書を作成しお送りいたすべきでしょう。

  

 万事は慌ただしく過ぎ、小雪の降りしきる中、なぜかボヌスヴェルトゥム辺境伯家のアウデーンスさまをも伴われたシルウェステルさまご一行は、アダマスピカへとお戻りになりました。

 そして席を温める暇もなく、すぐさま王都へとお発ちになりました。最後まで魔術士団の始末をつけるために残っていらしたマクシムスさまも同道なされたのです。


 ようやく、アダマスピカにも静けさが戻ってきたように思われました。 

 ですがそれもつかの間、今度はペリグリーヌスピカよりわけもわからぬ書状が矢継ぎ早に届くようになったのです。

 父も弟も亡き今、やろうと思えば彼の方がわたくしを、ひいてはアダマスピカ副伯爵家を膝下に置くこともたやすいとでも思われたのでしょうか。

 おかしなことです。王都より多くの尊い方々が嵐のように押し寄せて来られたときには、すっかり鳴りを潜めていたような方が、何をなさりたいというのでしょう。


 最初の一通は眩暈のするような内容にございました。読み下した家宰のピウスは、憤怒の形相で渾身の力を込めて踏んづけ、凄みのある笑顔で拾い上げたものにございます。

 

「これは記録として保管します。また同様の文書が届きました場合には、届いたことをお知らせはいたしますが、二度とサンディーカさまを煩わせることのなきようにわたくしが処理いたします」

「頼みました」

 

 笑顔のまま退出したピウスは、カシアスにいったいなにを伝えたのでしょう。

 ただ、その夜よりわたくしがたびたびカシアスと親密に過ごすようになりましたことは事実にございます。

 領主としての悩み事ではありますものの、他言など考えも及ばぬカシアスに話すことで落ち着くことも多うございました。重荷は一人で負うよりも二人で担った方がよいとは、まこと、このことでございましょうか。

 その一方で、カシアスを好もしく、また頼もしく思うわたくしの心も、いつしか()()へぬほどに大きなものになっていったのでございます。


 アルボーの実情についての御報告を終えられたシルウェステルさまたちが、ボヌスヴェルトゥム辺境伯領へ下る際、アダマスピカへ立ち寄るとの鳥便がまいりましたのは、ランシア街道もすっぽりと雪に覆われたころのことにございました。

 まさかそれを追うように、御本人がたが雪のランシア河を凄まじい速さで馳せ下ってこられるとは思いもしませんでしたが。 

 お二人だけとは思えぬほど、数多の知らせと荷を持って、シルウェステルさまとグラミィさまはお戻りになられたのです。

 最大の知らせは、ニアが、王都の魔術学院で認められ初級導師となったことでしょうか。学院長でおられるオクタウス殿下の覚えもめでたいとは、なんとも驚き入るばかりにございます。

 ですが、それより驚きましたことは。

 

「『まずは、サンディーカどのと、お腹の御子の様子を拝察いたしましょう』」


 わたくし自身も気づいていなかった、懐妊をお告げ下さったことにございます。

 ……ええ、間違いなくカシアスとの子にございます。

 驚きも羞恥心も強うございましたが、やがて心の奥底からじわじわと震えるようなよろこびが泉のように湧いてまいりました。

 その浮き立つ気持ちを抑えて下さったのは、冷静なシルウェステルさまのお言葉でした。 

 

「『サンディーカさまにお尋ねいたします。サンディーカさまは、ペリグリーヌスピカ城伯との婚姻を再度結び直されるおつもりか、それとも今後はルクサラーミナ準男爵カシアスどのと手をたずさえ、アダマスピカの繁栄に尽くされるおつもりでしょうか』」


 わかっております。わたくしが今子を成せば、彼の方が婚姻不成立に不服を申し立てるだろうということは。

 アダマスピカ副伯であるわたくしの子は、現在最も高いアダマスピカ副伯爵位継承権を持つことになるでしょう。

 一方、ペリグリーヌスピカ城伯夫人であった時にこの子を身ごもっていたとみなされたなら、この子はペリグリーヌスピカ城伯爵位の高位継承権者であると同時に、アダマスピカ副伯爵家の継承権者の一人となるのです。

 ですがええ、いりませんとも、ペリグリーヌスピカなど!

 カエルラデーンススさまやウィオラさまには申し訳ございませんが、ペリグリーヌスピカ城伯夫人としての貞淑さ、控えめな態度、美徳、そのようなものはすべからく海神マリアムさまの奥津城の床よりも堅く堅く凍りつき、二度と溶けるとも思われません。

 ですが、彼の方との争いにカシアスを巻き込んではなりますまい。


「……今のわたくしは、アダマスピカ副伯サンディーカ・フェロウィクトーリアにございます。アダマスピカの繁栄のためにこの身を尽くす所存。ですがルクサラーミナ準男爵、いえカシアスどのに、ともに道を進んでほしいと願うことはいたしかねます」

「それはなにゆえでございましょうか、サンディーカさま!」


 カシアスは片膝を突いてわたくしを見上げました。


「どうか御身を守れとお命じください。ともに道を歩むなとおっしゃるなら、それがしは二度とサンディーカさまの横に立つことも、サンディーカさまの瞳に我が影を映すこともいたしますまい。されどせめて、前に立って敵を切り払い、後ろに立って御身を支えることだけはお許しいただきとうございます」


 彼の言葉に、心打たれぬわけではございません。

 

「ですが、それではペリグリーヌスピカ城伯がそなたを敵と見なしましょう」


 今やカシアスは陛下への忠誠を誓い、ヴィーア騎士団に所属する身。

 彼の方がそれをどれほど斟酌できる頭をお持ちかはわかりませんが、ことが大きくなりますれば、王家とボヌスヴェルトゥム辺境伯家との争いにも発展しかねないのです。

 準男爵という爵位を得たカシアスの、さらなる栄達を邪魔立てするわけにはまいりますまい。

 ですが、カシアスはきっぱりと言い切りました。

 

「サンディーカさまにそれがしの胸の(うち)をお示し申し上げた時から、とうに覚悟はいたしております。なにとぞサンディーカさま、我が剣を、そして槍をお受けください。それがしは御領主様がアダマスピカの騎士となさいましたカシアスにございます。生涯サンディーカさまの槍となり、アダマスピカの繁栄にこの身を捧げましょう」

「カシアス……」


 なんと罪深くも甘美な喜びなのでしょう。

 騎士の献身を領主ではなく、一人の女として嬉しいと感じてしまうということは!

 

「『現状の不利は、サンディーカさまが御婚姻なされていないということに起因いたします。サンディーカさまがカシアスどのを伴侶となさることがおいやではないのでしたら、急ぎ王都へ、カシアスどのとサンディーカさまの御婚姻をお知らせし、陛下にお認めいただくべきでございましょう。幸い、伝書用の鳥もアロイスどのより何羽かお預かりしてまいりました』」


 確かに陛下にお認めいただけるのならば、かつて夫と呼ばざるをえなかった彼の方も認めざるを得ませんでしょう。

 恥も外聞もなく、わたくしはシルウェステルさまのご厚意にすがりつきました。


 シルウェステルさまのお力によるものでしょう。やがてボヌスヴェルトゥム辺境伯さまだけでなく、イムプルススファラリカ伯さまとも書状を往来することが増えました。

 それにともないますかのように、家宰のピウスがペリグリーヌスピカからの書状を目にして眉をひそめることもほとんどなくなったようにございます。

 お腹が目立つようになってまいりましてからは、家の者たちもさらに甲斐甲斐しく世話をしてくれるようになりました。冬ということもあり、領主としての仕事がいくぶん少なくなってきたこともありがたいことでした。


「ところでピウス。グラーテスの容態はいかがかしら?」

「ありがとうございます。父は足こそ動かせませんが、口はわたしなどよりよほど達者でおります。よほど隠居してから暇を持て余しておりますようで」

「では、都合のよいときで構わないから、わたくしの話し相手にはなってもらえないかしら?」


 そう言いますと、ピウスは怪訝な顔になりました。

 

「わが父のようなしなびた老爺などをお召しにならずとも。無聊をお慰めする話し相手でしたら、侍女の方々とておられるではございませんか」


 たしかにアンシラたちは、今やわたくしの大事な片腕です。

 

「でも、お父さまたちのことを話してくださる方など、そうはいないのですもの。わたくしが副伯となるとは思ってもいないことでしたけれども、だからこそ、副伯としてのお父さまやルーフスをよく見ていたグラーテスの話が聞きたいのです」

「サンディーカさま」


 感極まったようにピウスは一礼しました。


「かしこまりました。サンディーカさまのお召しとあらば、父も喜びいさんで御前に参上いたしますことでしょう」

「ありがとう、ピウス」

「お礼などもったいのうございます」

 

 わたくしは微笑みをこぼさずにおれませんでした。

 これほどまでに、このアダマスピカ副伯領主館のものに情があるのは、お父さまのお教えが今も息づいているからでございましょう。

 お父さまは、負の感情をおのれでおさめられぬことを、最も厭うべき未熟さであるとみなしておられました。

 むろん、使用人に軽視されてはなりませんが、感謝のないところに敬愛はなく、不満不機嫌は瘴気となって当人のみならず周囲の人々の心までも腐らせるとまで戒めておられたのです。

 言葉は佳きものを選び、おだやかに丁寧に接すること、主が自ら機嫌良くつとめることは、それだけでも冬に暖炉に火が絶えずあるようなものなのだと。


 彼の方は不機嫌に威張り散らすことが城伯の態度だと思っていたようですが、温厚篤実なお父さまを侮り軽んじる方は、ボヌスヴェルトゥム辺境伯家の寄子の方々にはお一人とておりませんでした。

 権威づけと偉ぶることは違うということにも、彼の方はお気づきになれなかったのでございましょう。

 愚かなこと。


 不機嫌な顔をしていれば、それは使用人も遠巻きにいたしましょう。八つ当たりなどされたくありませんから。

 それを威厳に打たれたとでも錯覚していたのでしょうか。

 何にでも文句を付け罵言を放ち威張り散らすような、外見も言葉も不愉快な相手に、好意的でい続けられる人間というのはそう多くはございませんでしょうに。

 

 使用人たちは領民の姿そのものをも示すものです。

 彼らは受けたものを同じだけ返すもの。

 情には、情を。害意には、害意を。

 それは万民にも言えることにございましょう。

 真心には、真心を。不信には、不信を。

 結句、今のわたくしは、彼の方には軽蔑と憎しみ、そして開いた口がふさがらぬような呆れしか感じておりません。

 あの冷たい城の中では炎も凍る、それだけのこと。

 そしてこのアダマスピカで、わたくしの炎は冷たく蒼い氷を溶かし、ようやく燃えさかりはじめたのでございます。

 カシアスの熱い情のおかげで。

 

 彼の方個人にではなく、ペリグリーヌスピカ城伯家に仕えている者たちも、城伯たる彼の方より、城伯夫人たるわたくしの言葉によく従っていたように思います。

 それはただの欲目かもしれません。

 ですが、城砦の中のこまごまとしたことは、ほぼすべてわたくしが取り仕切っていたのです。

 それを、どれほど彼の方がお気づきだったかは存じませんが、お一人で、いったいどれほどのことがおできになっているというのでしょうね?


 そうそう、アマートラさんと結びました、彼の方の愛妾としての雇用契約は、『わたくしとアマートラさん、どちらかがなんらかのかたちでペリグリーヌスピカ城伯家を離れてから半年』で切れることになっております。

 おそらくアマートラさんも、今頃はその猶予とひそかにお渡ししました報酬を元手に、なんとかして逃げる方策を立てておられるのではないでしょうか。

 むろん、彼の方が最初からアマートラさんに無体な真似を仕掛けることもなく、愛情をつねにお示しになり、わたくしがお渡しした報酬以上のお手当を渡されておられたならば、アマートラさんがお逃げになる、などということは、決してございませんでしょうけれども。


 それはわたくしにも言えること。

 仮に、わたくしを真実ペリグリーヌスピカ城伯夫人として最初から扱い、それなりの敬意なり愛情なりを示して下さっていらしたのであれば、おそらくわたくしは愛はなくとも情を持って、離縁など考えもせず、おとなしくあてがわれた城伯夫人として立場通りにふるまっておりましたでありましょう。

 もしそうであったのならば、今ごろわたくしは、ペリグリーヌスピカにて、プルモーたちよりアダマスピカ副伯爵位を守るべく画策を続けておりましたのではないでしょうか。

 それが、彼の方に、ペリグリーヌスピカ城伯爵位とともにアダマスピカ副伯爵位を継がせるようなやりかたであろうとも。


 あのちっぽけな城の中、ただ一人取り残される、蒼白く凍りついたレムレースの花のような彼の方の姿を、わたくしは想像してみました。

 ですが、彼の方への憐れみなど、もはや欠片すらわたくしの心には生じませんでした。

 自業自得。そうではございませんか?

ようやくサンディーカさん視点終了です。

この世界の魔術抜き下級貴族の一般女性代表、みたいなイメージのサンディーカさんでしたが、書いていくうちにどんどんとヒロインを張ってきたのは作者もびっくりしております。

骨っ子たちが裏方に回ったとはいえ、ちゃんと自力でざまあしてますしね。

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