閑話 凍てつきし炎の物語(その3)
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
カシアスのおっちゃんとグラミィが、ざまあの裏方として暗躍していたルンピートゥルアンサ副伯家包囲網(アダマスピカ編)のお話です。
突然ヴィーア騎士団分隊長がペリグリーヌスピカ城伯への面会を申し込んできたと聞きました時には、わたくしも動転いたしました。ペリグリーヌスピカ城伯夫人という立場にかなった衣服など、ここ5年以上作っておりませんでしたので。
急ぎ侍女のアンシラを呼び寄せ、二人で頭を悩ませましたが時間もありません。亡き義母ウィオラさまが遺されました衣服を、わたくしの身体に合わせて縫い直すことにいたしましたが、ウィオラさまが豊麗な方でいらっしゃったこと、背丈もお年に比べおありだったことは幸いにございました。
彼の方の愛妾であるアマートラさんも針仕事は得意なので、三人がかりで一晩かけ、なんとか見苦しくないように整えることができましたが、わたくしの名ばかりの夫である彼の方は、おそらくお気づきにはならなかったことでしょう。
アダマスピカ副伯爵家に小姓以前の下働きから騎士になるまで勤め上げてくれたという、あの剛健なるダヴィドの息子カシアスが、ヴィーア騎士団分隊長として訪れたという衝撃も大きかったようですし、彼が年齢もいでたちもさまざまな、ふしぎな人々を帯同したことにも気を取られていたようですから。
カシアス――本来なれば分隊長さま、もしくはカシアスさまとお呼びしなくてはならないのですが、やはり子どもの頃を存じておりますと、どうしても敬称では遠いものに感じてしまいます――と文官らしき方は彼の方に話がおありのようなので、わたくしは残りのお二方を応接間の一つへご案内するようアンシラに命じました。
来訪者のもてなしも、城伯夫人としてなさねばならぬことの一つにございます。
……それにしても、このお二人はいったいどのような方々なのでしょう。
先の場では彼の方の驚愕ぶりがあまりにも激しかったのでかえって冷静に振る舞うことができましたが、わたくしとて驚いていないわけではございません。これまで一度として訪れることのなかった彼が、なにゆえかのような役職を名乗り、現れたのでしょう。
そして、帯同された方々に対するいぶかしさもございます。
文官らしき方はまだしも、……金髪の美しい長身の方は男性なのか、それとも男装に近い身なりをなされている女性なのでしょうか。葉がついたままの身の丈近い杖は、そのまま森が移ってきたようです。
杖をお持ちなのはもう一人、お年を召された女性の方もそうでしたが、これまた黒っぽい色に元から染めたのか、それとも黒衣が色あせたのかもわからぬ長衣は、男性も身につける形でしたので、やはりどのような方なのかはよくわかりませぬ。
これは非常に困ったことでした。
性別は当然のことですが、一見して身分を判断できないようでは、貴族としての振る舞いに差し障ります。たとえ大貴族がお忍びで目立たぬ身なりにやつされていようが、しぐさや言葉遣い、態度から見抜いて本来の身分に即した作法でお迎えせねば、こちらの非礼となるのです。
相手の方がそれほど高い身分ではなくても、その職業、技術、出身を知らねば、お話すらしづらくなるのです。どのような話題をお示しすれば気持ちよく社交の時間を過ごしていただけるかはお立場によっても異なりますし、どのような知識をお持ちかによって、こちらに利となることを悟られぬよう聞き出すべき重点は変わります。
また、口にするもの、身につけるものの嗜好は暮らしぶりによって大きく左右されますので、飲み物一つとりましても、身分というものはもてなしをする側ともなれば、よくよく読み取らねばならないものなのです。
されど、お二方ともご挨拶も言葉少なく、いずれの地よりおいでになったかも判断が難しゅうございました。
内心困り果てておりましたところに、アンシラがひそやかに咳払いをいたしました。給仕ではどうにも間がもたなくなってきたようにございます。
これはわたくしの失態です。もてなしの席のあるじとして、気まずい沈黙をもたらすなどあってはならないことです。
しかし、グラミィとのみお名乗りになった方も、なにゆえかわたくしのおもてを凝視なさっておられました。
「あの……、わたくしの顔に、何か?」
侍女のアンシラに言わせると『暖かみのある』、彼の方によれば『脳天に花が咲いているような』らしき微笑みを浮かべて伺いますと、老女は一瞬驚いたように軽く目を見開きました。
「いや、失礼をいたしもうした。お方さまにはなにやら御心痛がおありの様子かと存じましての」
「まあ」
わたくしは二重の意味で驚きました。
一つは、グラミィさまが本当にわたくしの心身に悩みがないかを案じてくださっていてのお言葉であるということ。そして嘘をつくことなく本当のことを語ったこと。
しかし、そこで本音などさらさぬのが下級とはいえ貴族というものにございます。
そうと知ってかグラミィさまはさりげなく話題をずらしました。
肌を若く保つには蜂蜜をお湯に溶かしたものを塗って眠り、朝洗い流してまた付け直すとよいという話は、いろいろな意味で興味深くお聞きしました。
わたくしとて女でございますから、己の外見に気を配らぬわけがございませんということもございますが。
……つまり、この方は、そうそう口にも入れられぬ蜂蜜を肌に塗ることができるほどには富裕であるか、相応の身分であるか、その両方でいらっしゃるということなのでしょう。
ですが、そのような方がなぜカシアスとともにおいでになったのでしょうか。カシアスとて今は王の耳目とも言うべきヴィーア騎士団が分隊長の一人となったからには、王やその直臣の方々からの信頼も篤くはなっておりましょうが。
「失礼ですが、グラミィさまは、分隊長さまとはどのような?」
「そうですなぁ」
彼女は、ちょっと困ったように笑いました。
「詳しくは申せませぬが、そう、さほど以前よりカシアスどのと面識があったわけではございません。ただまあ、少々頼まれごとをどうこうすることのあるお相手ではありまする」
「ずいぶんお親しいのですね」
「それなりにではございますがの」
それではこのたびの訪れも、カシアスからの頼まれごとゆえなのでしょうか。
「なにゆえそのような事になりましたか、お訊ねしても?」
そううかがいますと、グラミィさまは眉をしかめ、首を傾げ、鼻をかき、腕を組み、しばらく考え込んでおられましたが。
「……なりゆき?」
なぜ自問なさるのでしょう。
ぽろりとこぼれたつぶやきには思わず笑ってしまいました。
ですが、真剣に悩まれる様子を拝見いたせば、グラミィさまが本質的に表裏のない方であるようだということは、わたくしにもよくわかりました。
ならば、カシアスが一枚噛んでいる以上、アダマスピカのためにならぬことにはなりますまい。
同じアダマスピカの騎士の出ゆえ、カシアスのことは良く知っておりましたアンシラも、今のやりとりでひっそりと笑いを噛み殺しておりました。
談笑の間も、同席していらっしゃるヴィーリという金髪の方は、グラミィさまの守護のような役を担っていらっしゃるとかで、まったくわたくしたちの会話には立ち入ることもなく、茶を口に運ばれておられました。
あまりに静かすぎて、存在すら忘れそうになるほどに。
「お方さまの髪は、ピノース河の面にうつる紅金の月の光のようですのぉ」
グラミィさまの言葉に、わたくしはそっと髪に手をやりました。
いつも朝一度梳いたっきり、ほとんど一日中布で覆ってばかりで、手入れなどろくにせぬままの髪でしたが、その日は慌ててアンシラに結い上げてもらったものです。
「わたくしの髪など……。グラミィさまのおぐしこそ、新雪を糸に撚り、何度もくしけずったようではございませんか。失礼ですが、どのようなお手入れをなさっておられますのか、うかがっても?」
社交辞令などではございません。グラミィさまの髪は白銀に輝きわたる、じつに美しいものでありましたから。
美しさは社交の武器です。かなうのであれば手入れの方法などもお聞きしたいもの。蜂蜜などという、手に入れづらいものを使わぬものであれば、なおようございます。
「わたくしが用いておりますものと申しますと、このようなものがございますが……」
「まあ、なんて清楚な器でしょう」
わたくしもアンシラも、まずその容器の美しさに目がとまりました。
手のひらに握り隠してしまえるほど小さな容器は。彫刻で飾られているわけでも華やかに彩られているわけでもございません。ですが歪みがないとはいえ、素朴といえるほど単純な造形のその容器を美しいと思わせたのは、その肌でした。
釉薬のかからぬ素焼きの器にも似ておりましたが、このように純白で、しかも滑らかなものを見たことはございません。
「そうおっしゃってくださいますと、拙い細工ゆえにいささか面映ゆうございます。よろしければ器だけでも差し上げましょう」
と、グラミィさまが手を差し出さいますと。
……驚きました。
目の前で器が生じたのです。
「一応これでも、わたくしは魔術師ということになっておりましての」
息を吞んだアンシラが後ずさり、わたくしは納得すると同時に、グラミィさまと敵対する愚を知りました。
魔術師については、わたくしもわずかではありますが知っていることはございます。わたくしがペリグリーヌスピカに嫁いでから判明したことになりますが、妹のコッシニアが病弱だった理由は放出魔力過多症であったことにございました。それをお父さまからの書状で知らされてからは、わたくしも書物にあたったり先の城伯さまに伺ったりして、些少なりとも魔術師というものについて知ろうとしておりました。
そのようにして得た知識によれば、無詠唱、無挙動での魔術の行使というのは至難の業であるはずです。
つまり、それを造作もなくやってのけるグラミィさまは力ある魔術師であり、わたくしたちに害意がおありならば、一瞬にしてわたくしもアンシラもすでに命を奪われていてもおかしくはなかった、ということになります。
……このような魔術師を連れ来たったカシアスは、いったい何を目論んでいるのでございましょう。
「中身はこれですじゃ」
どこで分離するかもわからぬほどぴったりとした蓋を外すと、グラミィさまは器の中が見えるようにこちらに差し出されました。
黄色っぽい、やわらかい乳酪のようなものでいっぱいです。
「これは?」
「蜜蝋にございます。もっとも、そのままですと堅すぎますのでクリスフェリの種油を混ぜて溶かし、柔らかくしてございます。これですと蜂蜜水のお手入れののちお顔に塗ることも、御髪に馴染ませて艶を出すこともできますが、――この場でお試しなさるのも難しゅうございますね」
グラミィさまは、わたくしの結い上げた髪を見つめられました。
髪を乱すことは無作法でもあり、状況によっては閨の暗喩にもなるため、客人の前で髪を解くなど、まずあってはならぬことでございます。
ですがそこまでのことをあえてしたということも、つよく相手方の歓心を買うための方法の一つにはなりえるのです。
わたくしは瞬時、結い上げた髪を解くべきか否か、つよく迷いました。
「……客人の方にわたくしのような者が直接申し上げることをお許しください。恐れ入りますが、侍女のわたくしに使用法をご教授願えませんでしょうか」
「アンシラ」
生粋の騎士育ちの彼女には、わたくしほどの知識もありますまい。未知の存在である魔術師というものが恐ろしくないわけがございません。声がかすかに震えておりました。
それでも彼女が割って入ったのは、わたくしが髪をほどくことで恥をかくか、それとも王の耳目であるヴィーア騎士団分隊長が自ら連れてきた魔術師の不興を買うかでためらっているように見えたのでしょう。
「おやめなさい、アンシラ。ぶしつけですよ」
ですけどここは叱りつけて引かせるべきところとわたくしは判断いたしました。礼儀上も、そしてわたくしを庇うために自ら的になろうとした彼女を庇うためにも。
ですが。
「なに、お方さまさえお許しいただければ、わたくしは構いませぬよ」
グラミィさまは、非礼を詫びるわたくしどころか、緊張にこわばっていたアンシラさえも拍子抜けするほどにこにこと、懇切丁寧に使い方を教えてくれました。
「清めた手で、このように、ごく少量を掬いとります。唇に使うときはこのまま、髪やお肌に使うときは手のひらに暖めてから、押さえるように少々おつけになる、これを繰り返されるとよろしいかと。つけすぎますと、かえってべたべたと汚れやすくなります。それと、蜜蝋も種油も、人によってはあうあわぬがございますとか。まずは少量を見えにくいところで試してからお使いなされませ。ぴりりとするような刺激がありましたら、おやめになられた方がよろしゅうございましょう」
「あ、ありがとうございます……」
侍女にすら丁寧なものごしは、どなたかにお仕えになっている身分だからでしょうか。
魔術師の中にはより高位の貴族に仕える者もいると聞きます。ひょっとしたら、グラミィさまもそのような身分の方ではありますまいか。
となれば、グラミィさまほどの魔術の達人を使うほどの方です、このような魔術師が側仕えとなれば、グラミィさまをこの場に送り込んでこられた主とはさぞかし名のある魔術にすぐれた、高位の貴族……魔術伯や魔術公、いいえもしかしたら王族のお一方なのではございますまいか!
いったい、わたくしは何に巻き込まれているのでしょう。
内心眩暈を感じながらも、わたくしはなけなしの誇りをもって城伯夫人としての体面を保とうとしておりました。
実際、あのような場でなければグラミィさまのお話にはもっと聞き入っていたかもしれません。彼女が見てきたというアダマスピカ副伯領の様子は、わたくしだけでなく、アンシラにも聞き捨てがたいことばかりでございました。
カシアスと墓所を参詣された話につい涙ぐんでしまい、慌てて顔を背けたときのことです。
わたくしの頭に天啓が閃きました。
グラミィさまは、どうやら今のところわたくしやアンシラに対して害意はお持ちではないご様子。むしろ完全に中立ないしは無関心というより、ほのかに暖かみのある感情を向けてくださっているようです。
加えてカシアスとのつながりか、アダマスピカの領主館近隣の領民たちには親しみをお持ちのようにお見受けいたしました。
ならば、多少の対価と引き換えに、アダマスピカの利となることにでしたらお力をお借りすることもできるのではないでしょうか。
そう、プルモーや、その不出来な甥をアダマスピカから放逐するために。
ならば。
わたくしは微笑みの仮面を捨て、激情の面をつけることにしました。
心情をあからさまに吐露するなど、貴族にあっては決してしてはならぬことです。
ですが、グラミィさまが白とおっしゃるならばそれは白でしかございません。そして、その表情は落ち着いたものでしたが、はっきりとした喜怒哀楽がございました。
そのような方に、白と見せかけて黒が当然の貴族の話法をもって、わたくしが貴族の抑制した表情で何をお話ししたところで、どれほどのことが伝わりましょうか。何を考えているかわからぬ者が味方に取り込もうとする動きを見せれば、警戒するのは人の常でございましょう。
カシアスがいかなる用件をもって城砦に来たかはわかりませんが、それが済むまでがわたくしに限られた時間にございます。
「だからわたくしは、こう申しましたの!」
「……それは辛い思いをなさいましたな」
「ええ、もう口惜しくてなりませんでしたもの」
わたくしは『夫に冷遇されているが、泣きながらも逆境に気丈に耐え続けている善良な妻』という、間近で接したならば少々うんざりとするような人物となって、心を込めてグラミィどのにお話をいたしました。
人はおのれに心を開いてみせるものに心開くもの。それに、感情の振り幅が大きいことをくみしやすしととってくだされればなお幸いにございます。
……本心を申しますならば、悲しいことを悲しいと、口惜しいことを口惜しいと口に出し、涙を流すたびに心の澱が流し出されるような思いがいたしましたことも、まことにございます。
もちろん、肝心のことは隠し、あるいは躱してではありますが、それでも作法を忘れ、子どものように思うさま笑い泣きお喋りができるというのは心の晴れるものでした。
またグラミィさまはわたくしがこれまで出会った方の中でも一二を争う聞き上手でいらっしゃいました。うんうんといかなることも頷いて訊いていただけるので、ついつい時を忘れてしまいました。
わたくしがたっぷり、泣いて、泣いて、泣き尽くしたかという頃、彼の方が訪いも告げずにずかずかと入り込んでまいりました。その方の後ろをついてきたカシアスは、わたくしの顔がそれほど泣き腫れていたためでしょうか、一瞬ひどく驚いた顔になりましたが、申し訳なさげにそっと目礼をよこしました。
「グラミィどの、いかがであったかな」
カシアスに問われたグラミィさまは、沈痛な表情で首を振ってみせた。
「……やはり、すぐには解毒もできぬということか。いかがでしょうか、カエルレウスどの」
「うむ」
解毒とは。いったい何の話でしょう。
「サンディーカ。お前をアダマスピカへ戻す」
……とは。
「療養するがいい。身体を厭え」
わたくしは、おのが耳を疑いました!
初めて聞きました、このような、わずかではありますがわたくしへの気づかいを示すような言葉が、彼の方の口から出るとは!
いったい、どんな魔術が行われたというのでしょう。
わたくしはグラミィさまに目をやりましたが、彼女は慎ましやかに目を伏せるばかりでありました。
わたくしとアンシラに詳しいことが知らされたのは、城砦から離れてからのことでした。
道は公の場、誰が見ているかもわかりませんが、誰でもない土地であるがゆえに、法的効力は及びませぬ。
このまま行けばアダマスピカへ入るという辻まで来たところでカシアスは隊を止めると自身も馬を下り、すべてをあらいざらい話してくれました。
お父さまだけでなく弟たちもプルモーに毒を飼われていたことが判明したこと。
アダマスピカ副伯爵家を乗っ取ろうとしていたルンピートゥルアンサ副伯爵家の話。プルモーら悪党どもを捕縛したこと。
わたくしが豊饒の女神フェルティリターテの加護を瑕疵なくして奪われたというかたちで、あたう限りわたくしの名誉が傷つかぬように、カシアスたちが尽力してくれたこと。
すべてはあの生前離縁すら及びもつかぬほど至難のわざとも言える、婚姻不成立によるペリグリーヌスピカとの姻戚関係の解消をなしとげ、わたくしをアダマスピカ副伯爵として、領地へ戻すための芝居であったこと。
ルンピートゥルアンサ副伯家と同じ事をペリグリーヌスピカ城伯家もするのかという言外の脅しに、どうやら彼の方は震え上がったようにございます。わたくしの持参金まですべて返還なさったそうにございます。
カシアスと彼の方との会談に同席されたのがクウィントゥス殿下直属の司法に詳しい文官であったことも、彼の方には珍しい即断即決につながったのでございましょうか。
「御苦労をなされましたな」
いたわるようなグラミィさまの言葉に。
「申し訳ございません、サンディーカさま。あなたさまの名誉に傷をつける形でしか、アダマスピカへお戻しすることはなしえませんでした。それがしの不徳の致すところでございます」
わたくしを牢獄のような城砦から救い出してくれたのに、わたくしの名誉を傷つけてしまった、と詫びるカシアスの言葉に。
「いえ、いいえ、ありがとう、カシアス。あなたはわたくしを救ってくれたのです。どうか胸を張ってください」
ひとたび涙を思うさま流した瞳には、水脈が生じるのでしょうか。こたびもわたくしの涙は、しばしとどめもあえぬ有様にございました。
それが、純粋な嬉し涙であったことは申し上げるまでもございませんでしょう。
嬉しさに浮き立ったわたくしの心とは裏腹に、久方ぶりのアダマスピカは、……なんとも、無惨な様相を呈しておりました。
わたくしの帰還を耳にしたのか、隠居部屋から出てきたとおぼしき昔馴染みの使用人たちはみなそれぞれに年老い、窶れておりましたが、そればかりではございません。
懐かしき領主館もまた、お父さまがいらした時と比べたら廃墟のようです。ひっきりなしに出入りするヴィーア騎士団の方々は、プルモーの不正の証拠を洗い浚い探し出しておられるとのことで、カシアスは面目なさそうにわたくしへ告げました。
なつかしき家を我が物顔の見知らぬ大勢の騎士たちに出入りされては気持ちの良いわけがございません。
ですが、彼らがプルモーを取り押さえてくれたことも、その罪と証拠を詳らかにしていることも事実です。
故アダマスピカ副伯の夫人として、プルモーは大規模な課税の不備を起こしておりました。しかもそれを隠蔽するためにヴィーア騎士団の同行者であるグラミィさま、ヴィーリさまを襲撃させたこと、不義の子を甥と偽り、アダマスピカ副伯爵家の乗っ取りを謀ったことすらもかすむような大罪すら犯していたのです。
他国の尖兵となる反逆罪は申し上げるまでもないことですが、事もあろうに国税をルンピートゥルアンサ副伯家へ送るという、まるでアダマスピカが同格のルンピートゥルアンサへ臣従したかとも見えるような行動をしていたと聞いて、さすがにわたくしも怒りに震えました。
本来なれば、アダマスピカで数多罪を犯したプルモーはアダマスピカで裁くべきものでございます。と申しましてもわたくしの血に結ばれし家族を死に追いやった罪だけでも死罪しかございません。
長の歳月虐げられてきた領民たちに石を投げさせてもよし、黒角麦を与え血袋のようになって狂い死にするまで苦しめるも一興でしょうが、罪人の死体など、墓所の片隅にすら埋葬などさせたくはございません。馬で荒野へひきずっていくのも手間でございましょう。いえ、それよりも。
……思うところはございましたが、わたくしはプルモーをヴィーア騎士団に引き渡しました。
その身柄の引き渡しを懇請したカシアスの顔を立てるという含みもないわけではございませんが、たしかにプルモーの犯した罪の一部は紛れもなくランシアインペトゥルス王国に対する背信。なれば王都に連行した上で裁きを与えるべきでございましょう。
これは、私怨による復讐より、国法にてすべてを明らかに裁かれることを選んだ、ランシアインペトゥルス王国アダマスピカ領主としてのわたくしの最初の決断でございました。
そうと決まれば、顔を目にするどころか声すら二度と聞きたくもない相手です。プルモーは囚人としてすみやかに騎士たちに王都まで護送されてゆきました。
ですが……、プルモーがいくたびいかなる罰を課せられたとて、お父さまも、弟たちも二度と帰ってくることはございません。
礼拝所にて海神マリアムに、彼らの御霊安かれと鎮魂の祈りを捧げ、墓所にも額ずき、帰郷の挨拶をいたしましたが、亡き父の、はらからたちの武勇を穢されし無念に思いを馳せれば、ただただあらたに涙がこぼれるばかりでございました。
カシアスが率いるヴィーア騎士団の一隊には、税制に関する専門家が大勢揃っていたようにございます。
国に納めるべき税のうちよりプルモーらが横領した額を正確に算出するためとのことで、わたくしもアダマスピカ領内の会計管理に関する帳簿の閲覧協力を求められ、その場に立ち会ったのですが、じつに見事な手際でございました。
瞬く間に山と積まれた帳簿が精査されてゆきます。プルモーが財政を握ってからのものと思われる、ずさんな処理の収入簿が整理され、とうとうお父さまのなつかしい筆跡にまみえた時にも、思わず目から感無量の思いがこぼれたものでございます。
泣かぬことのない日がこうもうち続くために、アンシラをはじめ領主館のみなに心配をかけておりましたことを、わたくし自身恥ずかしく思っておりました。
ひたすら幼子のように泣いてばかりでは、わたくしがこのアダマスピカ副伯家を継ぐことを危ぶまれてもいたしかたございません。
「サンディーカさまはよくなさっておられます。それはこのカシアスが保証いたします」
あたたかい言葉をくれたのは、カシアスでした。
ヴィーア騎士団の分隊長という肩書きゆえ、彼はわたくしを執務室に訪れることが多くございました。話すことといえば精査の進捗状況についてなどの実務的なことばかりではありましたが、それゆえに、このアダマスピカの過去と現状をよく知っている彼の口から出る言葉は、ともすれば領主の重責に挫けそうになるわたくしをつよく支えてくれるものでした。
いつしか執務室にカシアスが訪れるのを、わたくしは心待ちにするようになっておりました。
正式にアダマスピカ副伯爵位を継ぐために必要な、国王陛下への請願のため、明日は王都に発つという日のことです。
深夜を回っても、執務室にいたわたくしのもとをカシアスが訪れました。
「サンディーカさま。王都は遠うございます。どうか、御身を厭いなさいませ」
「ありがとう、カシアス」
かつての彼の方の、口先ばかりの言葉とは似ても似つかぬほど、わたくしを案じる気持ちのこもった言葉に癒やされる思いがいたしましたものの。
「ですが、どうしても目が冴えてしまいまして」
「無理もございますまい。サンディーカさまの大望がいよいよかなうのですから」
「ちがうのです」
わたくしの浮かべた笑みは、我ながらひどくこわばったものにございました。
「弟たちが亡くなり、今までニアの影すら掴めぬ以上、わたくしがアダマスピカの当主となるべきであることは、よく理解しているつもりです。けれども今になって、この身が副伯の全責を担うことをおそろしいと感じずにはおれないのです」
お父さまから、そしてカエルラデーンススさまに学んだ、夫人として、領主名代としての采配の振るい方なら多少の自信はございます。
けれども、領主としてすべての責をわたくしが負い、この荒れたアダマスピカを建て直していかねばならぬ、そのことに万丈の崖上に立たされたような恐怖を感じておりました。
これはペリグリーヌスピカでわたくしを支えてくれていたアンシラにも打ち明けられぬ思いでした。いえ、領主夫人としてのわたくしの働きに感嘆の目を向けてくれていた彼女だからこそ、それが失望に変わるのが恐ろしさに、打ち明けられずにいたのです。
「いまさら怖じ気づいているようでは、まだ覚悟が足りないのでしょうね」
アンシラがわたくしのそばを離れてくれていたからこそ、つい思いを露わにしてしまった、おのが情けなさを笑ったときでした。
「サンディーカさま」
わたくしは驚きました。突然カシアスが鞘ごと剣を引き抜いて跪き、わたくしの前にさしだしたのです。
これは騎士が主としたものに忠誠を捧げる誓約の姿そのものではありませんか。
「カシアス」
「ヴィーア騎士団分隊長たるそれがしの今の忠誠は、このランシアインペトゥルス王国の国王陛下、そしてクウィントゥス殿下のもとにございます。……ですがこれは、従士あがりの騎士ダヴィドの息子、スピカ村のカシアスの剣でもございます。このカシアスが剣も、思いも、とうにアダマスピカに捧げたものにございます。ルベウスさまにもお返しはいただいておりません」
そのひたむきな瞳は子どもの頃のままで。
「この剣に免じまして、ひとたびのみ、我が心をお伝えすることを、全霊をもちましてサンディーカさまをお支えすることをお許しください。どうか、たかがなりあがりの騎士の小倅が迷い言とお笑いくださいますな」
その真剣な声音は、星霜に磨かれた騎士としての誇りと思いに熱く。
「我が忠誠、我が言葉、我が思い、一片なりとも不快と思し召しなれば、ただこの場にて、この剣にて我が命を召したまえ。……嫁がれる以前より、いえ、初めてお目にかかった時よりお慕いしております。サンディーカさま」
「カシアス」
わたくしは潤む涙をこらえながら、長剣を両手で受け取りました。
跪いての礼は、もし忠誠を疑うことあらば、その剣にてわが喉を突きたまえという意味がございます。
忠誠とはそれだけ重いもの。
みずから望んでのこととはいえ、すでにペリグリーヌスピカ城伯夫人の称号を失い、いまだアダマスピカ副伯の、いえ何ら称号を持たぬ、ただの副伯家の出戻り娘でしかないわたくしに、サンディーカ・フェロウィクトーリア個人にそこまで心を傾けてくれたカシアスには、感謝の念しかございません。
わたくしは、鞘ごと持ち主の右肩にそっと剣を当てました。
「カシアス。これからも、アダマスピカとわたくしを支えてくださいますか」
「この一命に変えましても」
サンディーカさん、カシアスのおっちゃんに口説き落とされました。




