閑話 凍てつきし炎の物語(その2)
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
コッシニアさんから見たジュラニツハスタの戦い前後です。
ボヌスヴェルトゥム辺境伯家家宰見習いとして、数年にわたりお仕えしていた上の弟、ルーフスの人柄は、港湾伯さまもよくご存じでいらっしゃったのでしょう。
弟は、特にもめることもなく、新アダマスピカ副伯となりました。アダマスピカ副伯家と辺境伯家との縁は、わたくしがペリグリーヌスピカに嫁ぎましたこと以外でも、いつの間にやら強くなっていたようにございます。
ルーフスがまれまれ毛皮や麦などとともに書状を送ってくれるので、わたくしも書面越しではありますがアダマスピカの風を感じ取ることができました。弟は弟でわけもなくべたついてくるあのプルモーや、顔面に受けたという不名誉な負傷を口実に引きこもり、わがままを言い放題だというアロイシウスの扱いにもたいへん苦慮しているようではありましたが。
いずれにせよ、人望もさしてあるわけでもない二人など、ルーフスなれば隠遁を勧めることも幽閉することも、なんとでもできようとわたくしは考えておりました。『プルモーどのは伴侶であると同時に人質でもある』と、亡きお父さまも明言なすっていたのですから。
静穏はそう長くは続きませんでした。
戦火は東からやってまいりました。
ジュラニツハスタのしかけてきた戦いをランシアインペトゥルスが受けて立ったと、慌ただしく早馬が行き交い、アダマスピカ副伯爵家当主としてルーフスが、ペリグリーヌスピカ城伯として義父のカエルラデーンススさまが手勢を引き連れて発ちました。
他家にて騎士見習いをいたしておりました下の弟のコッキネウスもまた、従士として戦場へ向かい、……みな、そのまま帰ることはございませんでした。
もちろん、戦場にて数多なる命果つるも、世の常のことにございましょう。
お父さまの葬儀にいらした叔父さまや従兄弟たちの訃報も、群れなすコルウスの羽音の如くぱたぱたと届いてはまいっておりましたが、……よもやお義父さまや弟たちだけではなく、わたくしのたった一人の妹のニア――コッシニアまでも身を寄せていた館は焼け落ち、生死も不明と聞いた時には、目の前が真っ暗になるというのは、このようなことをいうのかと身をもって知りました。
カエルレウスさまにペリグリーヌスピカを託して出陣なされた城伯さまが、武運つたなく戦場にてお果てになられたとの報を受けたのち。
城伯夫人であられるウィオラさまもまた、その後を追うように嘆き死になされました。
いくさというものは、やはりむごいものでございます。
うちつづく葬儀の数々を、ようよう執り行いおさめました夜のことです。
わたくしはカエルレウスさまに初めて自室への訪いを受けたのでございます。
確かにそれまで純白の婚姻を貫かれていたために、わたくしがカエルレウスさまを名ばかりの夫と見ておりましたことは否定できません。
それでも、わたくし自身がこの婚姻を肯った以上、ペリグリーヌスピカ城伯家の繁栄を願うことに否やはございませんでした。カエルレウスさまが新ペリグリーヌスピカ城伯となられたのですから、わたくしもまた当然のごとく新城伯夫人としての責を果たすつもりでございましたし、名ばかりの婚儀はいつかは名ばかりではないものとなるだろうとも理解しておりましたから、愛はなくとも情をもってその子を産み、育てるつもりでおりました。
ですがそれは孵るはずのない卵に雛の姿を描くようなものであったのです。
わたくしがカエルラデーンススさまとウィオラさまのお二方の方ばかりを向いていたのがよくなかったのでしょうか。
それとも、お二方がわたくしに施して下さいました教育が、ご自分の嫡男になりたらぬところをわたくしに補わせるためのものであったことに、もっと早く気づけばよろしかったのでしょうか。
いいえ、どんな思惑がおありでわたくしを御子息の婚姻相手に選び、お父さまに申し込まれたかは、もうお二方にお伺いするすべとてございません。
「ようやく、この時が来た……!待ちかねて、待ちかねて、待ちかねて気が狂いそうだったぞ、サンディーカ!」
恋情でも欲情でもなく、ただひたすら怨讐の念が籠もった声音に、寝所に押し倒されたわたくしはただ黙って見返しました。剣術にも突き返しがございますが、相手の動きを待って仕掛ける後の先は基本の戦術です。
「おれがいつから待っていたかわかるか?!」
ケタケタと気の狂ったように笑いながら夜着を引き裂こうとでも思ったのでしょうか。ただただ布目を無視して引っ張られても布地がよじれてのびるだけです。
わたくしの上体もつられて持ち上がりかけると、カエルレウスさま……いえ、彼の方は滑稽なほど大きく飛び退きました。
「は、反撃しようとしても無駄だ!誰も来ぬわ!」
それはそうでしょう。名ばかりとはいえ夫婦の寝所ですから。それも、これまで共寝したことのない仲ですし。
お父さまの死後、プルモーに仕えるくらいなら舌を噛むと言い出した侍女のアンシラを、わたくしはカエルラデーンススさまやルーフスに許可を取り、城砦に引き取っておりました。
ですが、騎士の家の娘である彼女ですら踏み込んでこないとは、そういうことです。
何もわたくしがしないとわかったのか、おずおずと歩み寄り、カエルレウスさまは邪悪の糾弾と思っているらしいことを始めました。
「『己が失敗を知己とはいえ、いや知己にこそ見せたくはないという気持ちはわからなくもない。己が失態を恥じることも当然のことだ』だったか?『おのが技量と体格をわきまえもせず、ただ悔しがり、反省もできぬようでは、成長は遠い』だと?きさまの父親が公衆の面前で言い放った言葉に、おれがどれだけ苛まされたかわかるか?負けを悔やむがなぜ悪い。だがそれを聞き知った父上は激怒された。『剣の達人たるルベウスどのは、剣術の未熟さで失望なさることはない。失望なさるとしたならばそれは、騎士としての心構えがなっていないからだ』とな。騎士になっていた身を、まだ10にもならぬ小姓のように鞭で叱責されたは、きさまの父親のせいだ!」
あの模擬試合の日にあったこと、そしてあの時のお父さまの言葉を覚えていた人間がわたくし以外にもいたことにも驚きましたが、その恨みの根深さには驚嘆いたしました。
よもや、あの時からすでに憎まれていたとは、わたくしは夢にも思っておりませんでしたから。
「剣がこぶし一つぶん長ければ勝っていたというようでは『剣も上達するまい。城伯どのもお困りであろうな』?城砦を守護する者は守りの戦、弓矢、投擲、長物、それらこそ必須」
そうおっしゃいましても、わたくし、彼の方がそれらを鍛錬しているところを拝見したことがございませんのですが。
「さかしらだって声高に剣理など説くような者の娘に心などかけると思ってか。自慢の腕前も海神マリアムの眷属を退けるには足らぬようではなおのことだ」
「…………」
わたくしはあまりのことに言葉もございませんでした。
お父さまに憐れまれるほどの腕しかない男が、何を言うのかと。
「剣より口が達者なきさまの父親にちょこまかと付き従っていたのは、きさまの弟であろうが。ボヌスヴェルトゥム辺境伯の信頼厚い家宰見習い!当主!馬鹿馬鹿しい!ちょっとちやほやされたぐらいで礼儀を知らぬ小僧どもも、せっかく父親に教えを請うたというに、しょせんは鍛錬場でしか通じぬ剣術であったということであろうが。まことの戦場では通じないとは、いっそ哀れなものだ」
……これは、瞋恚なのでしょうか。
真冬の雪よりも氷よりも冷たく、わたくしの身体を裡から凍りつかせつつあるものは。
港湾伯さまにすらしたしく力量を評価されたわたくしの弟たちへの中傷は、矮小すぎる妬みそねみをトゲのようにびっしりと纏っておりました。
ですが、ええ、細く小さなトゲほど始末に負えないものであることは存じております。
無言のままのわたくしの前で、止まらぬ舌はさらに恨みと羨みの毒を吐き散らしました。
「親子ともどもすべからく消え失せたのだから、きさまも大人しくしておれば、まだ触れずに飾っておいてやってもよいかとも思ったが。幾度叱責しても、わが愛妾に性懲りもなく近づきおって……」
わたくしの周りに、もはや味方はおらぬとでも思ったのでしょうか。
目をぎらぎらさせながら覆い被さってきたかの方の思惑としては、わたくしを心身共に引き裂き捨て、二度と立ち上がれぬように打ちのめすおつもりだったのでございましょう。
切れ切れにその口から漏れるのはこの婚姻そのものが本意ではなかったこと、愛も情も欠片も感じぬわたくしとの婚姻を受け入れたのは、わたくしを、ひいては亡きお父さまを打ちひしぐ、ただそれだけのための罠でしかなかったこと。嫁いでからわたくしが前の城伯夫妻と馴染みすぎていて再々苦言を呈されていたこと。
すべてを逆恨みの刃となして、ずたずたに切り苛むべく、私を苦しめようとなしてきた、すべての所業をぶちまけていったのです。
……思うさま吐き出された言葉も、押し伏せられた痛みも、確かに衝撃ではございました。
なんと小さい男なのでしょうか、いろいろな意味で!
お母さまこそ早くに身罷られましたけれども、領主館へ労働奉仕という形で税を納めに来ていた領民たちもみな、わたくしにやさしく接してくれておりました。加えて年配の女性などは、こまごまとした生活の知恵なども伝授してくれていたのです。
それゆえ、閨でのあれこれについては、わたくしも多少なりとも存じてはおりました。知識は動揺を収め、身体の痛みはこのようなものかと思うだけにございました。
そもそも、この一夜わたくしが失ったものなど些細なものにございます。
純潔?
捨て置かれていなければ、とうになくなっていたものです。
かの方への愛情?
おのが敗北を認められない、自省もかなわぬ人間が剣の腕に限らず成長するわけがございません。そのような者へ向けるべき情は憐れみこそあれ、愛になどなるわけがございません。
アマートラさんとおっしゃる愛妾の方にいやがらせをすることなどなかったのは、正直どうでもよかったからです。むしろわたくしは彼女を哀れと思っておりました。
わずかながらありました情も、底の浅い人間であり、たくらみあって行われたこの行動すらこの程度のものかと思えば、いっそうひえびえと凍てついてまいります。
そもそも、彼の方の思惑通りわたくしが何もかも失い、打ちひしがれていたならばどうなったと思うのでしょうね?
何もかもなくした者というのは、後顧の憂いなくどんなことでもしてのけるためのためらいといった歯止めすらなくしていると、なぜ気づかないのでしょう。
わたくしの愛するはこの小さきペリグリーヌスピカ城砦ではございません。カエルラデーンススさまやウィオラさまにどれだけ慈しまれても、我が父母の眠るアダマスピカ、そして弟妹たちへ向ける炎よりも熱きこの思いだけは何ものにも代えがたく、誰にも奪われぬものにございます。
それを知ってか知らずかは存じませんが、わたくしの血に結ばれし者たちをようもあしざまに罵ってくれたものです。
わたくしは父ルベウスと母イグニッサの娘。激しく人を愛する二人の血が流れ脈打つ最後の一人。烈しく敵を憎む者。
……よろしいでしょう。
わたくしに敵対する意思をそこまで鮮明にお示しになったのであれば、ここから先は戦場も同然。
ならば、わたくしのなすべきこととは。
……そうですね、初手は軽く思惑外しとまいりましょうか。様子見も兼ねて。
この婚姻が純白でなくなったからこそ行えることもございます。
望まぬ初夜を大いに憎み、絶望し呪うわたくしのさまを御覧になりたいのでしたら、意地でもそうはさせますまい。
短剣を取り出すとわたくしは二の腕を浅く切り、血をシーツにふりまきました。
長年馬術をたしなんでいたせいか、それとも他の些細な、あまりにも小さすぎる原因のせいかは存じませんが、あのような狼藉にもかかわらず出血いたしておりませんでしたので。
次の日、わたくしは彼の方ににっこりと笑いかけました。
完全に箍の抜けた桶を頭の代わりにすげてあるかのようなものを見る目で見返されましたが、くすくすとわたくしは心から笑いました。
眼が合ってもかの方が見ているのは、『自分が憎むべきアダマスピカ副伯の娘である憎悪の対象』であって、血の通っているわたくしではないことは、昨夜の妄言から思い知りました。
己が描いた絵に苛立ち、憎しみをぶつけているだけの一人芝居でしかございません。
ならば、その絵に、わたくしが想定外の動きをさせたならば。いったいどう解釈するのでしょう?
昨夜の閨の寝布を、わたくしはアンシラに命じて寝室の外に垂らさせました。
本来であれば、初夜の見届け人たちの手によってなされるものですが、もやはカエルラデーンススさまもウィオラさまもおいでではないのです。
見届け人がいないということで、初夜のあれこれを彼の方はこのまま黙殺するつもりだったのでしょうが、そうはまいりません。
わたくしの純潔の代償は、高うございます。
ええ、純潔の証を披瀝させたことで、わたくしが名実ともにペリグリーヌスピカ城伯夫人となったことを示すぐらいは、ごくごく些細なことでございますから。
懐妊のしるしがありましたなら、城伯夫人としてのわたくしの立場はより盤石なものになっておりましたでしょうけれども。
実利的な意味もございますが、女性の戦いにおける次の手としてもこれは有効なのです。
存分に蹂躙したと思い込んだ相手が何事もなかったようににこやかに微笑みかけてくるならば、たいていの者はまず怯むとは、剣術のみならずいくさのかけひきにも長けたお父さまから教えられたことにございました。
たしかに、わたくしの笑みはたいそう彼の方に居心地の悪い思いをさせるもののようでした。
わたくしと眼があうたびに、うろたえたように目をそらすのは、自分を恥じていられるからではないようでしたが。
ええ、しばしの時を経て、家宰から『わたくしに惚れられて辟易する自分』を信じ込んでいると訊いたときには笑うしかございませんでしたとも!
みずからわたくしを敵となし、あれほど矮小な心根を露わにし、恨みの毒を滴らせた相手がご自分を愛すると、いったいなぜ思えるのでしょうか。
……まあ、敗北に対する批評と叱責に、情けなさを噛み締めて発憤材料にするほどの性根など、そもそもない方でございましたから。惨めなご自分から目をそらし、他人が悪いとお責めになることだけはお上手なのでしょうね。
愛妾と正妻に熱烈にせまられているという虚妄にやにさがりたいというのなら、お好きになさればよろしいでしょう。
そう思っておりましたが、その後少々厄介なことが起きました。
彼の方が、わたくしを閉じ込めにかかったのです。
どうやらこの所業は、わたくしがまったく彼の方のものになったと信じ込んだがゆえのことであるようです。
わたくしに対する愛情など、あちらも砂粒ほどにもお持ちではありませんでしたようですが、それでも所有物に対する独占欲は旺盛だったようにございます。
城伯夫人としてこれまでと同様に使用人や兵士たちにも心を尽くせば、男に色目を使うかこの淫乱女と新たな語彙で一方的に罵倒され、私室へと追い込まれました。
もちろん、事実無根の言いがかりにございます。
呆れ果てましたこともありまして、侍女のアンシラに様子を見に行かせますと、下手に苦言を呈すれば、即間男なのだろうと決めつけてきかねないという彼の方の様子と、彼の方では目が行き届かぬゆえにか、兵士たちがすさんだ空気を漂わせているという、家宰のノドゥスからの愚痴を持って帰ってまいりました。
いかにわたくしがアダマスピカを愛し、このペリグリーヌスピカ城砦はさほどでもないとはいえ、いやしくも城伯夫人である以上、何らかの手を打たねばなりますまい。
それに、いくら彼の方が厳重にわたくしの有する繋がりを絶とうとしても、すでに結ばれた絆をやすやすと失うほどわたくしも甘くはございません。
人脈は城伯夫人としてウィオラさまから継承した財産でもあるのですから、なおのこと失うわけにはまいりません。
わたくしは、ノドゥスたちに頼んで布と服を用意してもらい、城砦内を歩き回ります時には髪を布で巻き上げ、リンテウムの前掛けをつけ、粗末な服を着て、下級の侍女にも下女にも見えるような格好をすることにいたしました。
変装というほどのものでもないですが、身なりを変えて動き方を当人達をお手本に変えれば、わたくしをディーという名の侍女ではないと見抜くものは従士たちにもおりませんでした。
さすがに身体も成長しておりますから、子どもの時のように小姓姿をしたところでごまかせるわけもございません。
ですが侍女にならなることはできようという目論見はうまくいったようにございます。
もちろん、そうと悟られないようにしておりましたこともあずかってのことでしょう。侍女のアンシラをまずは家宰へ預け、身の回りをわざと空けてみせたのもそのためです。
アンシラはわたくしを守ろうとするあまり、表だって彼の方に直接逆らいかねぬ気性の持ち主でありましたから、軽い罵倒にすら表情を引きつらせておりました。
このままでは、耐えかねた彼女が、彼の方に機嫌を損ねるようなことを申し上げないとも限りませぬ。
もっとも、彼女を彼の方が不快に思って、馘首を言い渡すなどとおっしゃいましても、わたくしと彼女の雇用契約は、彼の方の手の及ぶところにはございません。意の通りにはなるわけがございますまい。
ですが、機嫌を損ねた相手にわたくしの味方が傷つけられるというおそれは拭えません。ならばあたう限り減らすべきものでございましょう。
身支度をするにも手が足りなくなりましたがために、侍女のふりをしているときはまだしも、城伯夫人のなりをしているときのわたくしは、みるみるうちに見る影もないものとなりました。
髪ひとつ整えるのも、一人では後ろの方まで一筋の乱れもなく均一に結い上げるのは難しゅうございます。手のかかる身なりもなるべく避けざるをえません。服など城伯夫妻が身罷られてから新しく作らせることもございませんでした。
そのようなわたくしの姿は、さぞかしみすぼらしげに映ったのでしょう。彼の方はしてやったりとばかり口元にイヤな笑みを漂わせて、わたくしにはますます近寄ろうともしませんでした。
ですが、そのような反応こそ、こちらこそしてやったりといったところでしょうか。彼の方から見えるところではそしらぬ顔をしておくようにと、家宰以外の使用人たちにもねんごろに命じておいただけのことはございました。
彼の方はというと、午前中こそ城伯らしく仕事をしているように見せかけるためか、執務室に籠もるようになりました。昼餐の後はたいていキルクスという円盤上で駒を戦わせる遊びにふけるか、もしくは食っちゃ寝を繰り返していたようにございます。
それでいて太らないのは不思議でございますね?
されど先代の戦死により城伯の爵位を急ぎ襲うまでは、学ぶことにさほど熱心ではなかった彼の方が、いくら文書の山に向かい合ったところで、所詮知識は付け焼き刃。学ぶとは己の足らざるところを識らねば身にはつかぬもの。
仕事が思うようにはかどらぬことに業を煮やされたのか、わたくしに押しつけようとなさいましたこともございます。
昼餐の席に着いたわたくしの間近に立たれたと思えば、目をそらしたまま文書の束を突き出して、なにやらごそごそと言い出されますので、お顔を真正面から見つめて「まあ」とにっこりしてさしあげましたら、「もういい!」と文書の束をひったくって大広間を出て行かれましたが。
いったい、何をどうわたくしの仕草から読み取ったのでしょうね?
当て推量にしかすぎませんが、おそらくは『このようなたやすいことで音を上げるのですね?』といったことでしょうか。
己の弱さに気づき、矯めようともできぬ者はその弱さ故に裡から崩れるとは、お父さまがわたくしにお教え下さったことにございますが、まことに至言でございましょう。
弱き主を持って気の毒なのはノドゥスでございました。
もともと家宰として負うべきペリグリーヌスピカ城伯家に関する執務だけならまだしも、城砦の維持管理すら押しつけられたために青息吐息です。わたくしが手をかけるには十分な隙というものでした。
むろんのこと、城伯の執務室になど行きませんとも!台所近くの侍従部屋がわたくしの執務室となりました。
あくまでも侍女の振りをして仕事の段取りをつけ、ついでに縫い物もいたします。装飾要素の強い刺繍よりも実用的な縫い物の方にずいぶんと手慣れたものです。
重要な公文書は、朝食どきなどのアンシラ以外に人のおらぬ時を見計らい、ノドゥスと手早く打ち合わせをし、対処をいたします。
使うものは以前カエルラデーンススさまに使わせていただいていたものより数段質の悪い紙と筆記具でしたが、不満は申しますまい。ボヌスヴェルトゥム辺境伯家家に送る書状なども、わたくしの代筆ときちんと明示しておきました。
侍女や料理人たちの愚痴から食材の質を落として費用をごまかしていたのが侍従の一人だとつきとめますと、わたくしはノドゥスに処罰を任せる代わりに食事の質を元に戻すように命じました。
量も少なくまずい食事に意気は上がらず、彼の方の曖昧な命令と一方的な叱責の繰り返しに気持ちもすさんできていたのでしょう。先の城伯夫妻さまの目が届いておりました時と同様の食事に戻し、彼の方の命に不明な点があればノドゥスを通じてわたくしが聞き取り、叱責された不満も掬い上げて宥めるようにいたしましたところ、下っ端に腹いせをするような気風は、兵士たちだけでなく、おおよその使用人からも消え失せました。
そんなわけで、彼の方はわたくしを外の風にも触れ得ぬほど閉じ込めていたつもりかもしれませんが、わたくしはかなり好き勝手にやっておりました。
純白ではありませんがほぼ白い婚姻は望むところでしたもの、ありがたいくらいです。もし豊饒の女神フェルティリターテの加護なしと石女の汚名を立てられるならば、種なしの恥辱をお返しに差し上ればいいだけのこと。
その一方でわたくしは根気強く愛妾の方との会話も試みておりました。
その甲斐あってかアマートラさんも、ようやく打ち解けてくださるようになりました。
彼女は愛妾であることに満ち足りておりませんでした。
……いえいえ、なにも正妻の地位を欲しがるとなどということではございません。
彼女は自作農の娘。働くことは習い性となっておりました。
それが、彼の方が手をつけられてからは籠の鳥も同然。衣食住をただ与えられて、たまさか彼の方の訪れを得て、それで本当に良いのだろうか。もっと何か身を粉にして働かねばならぬはずなのに、このような無為は何か恐ろしい代償をもたらすのではあるまいか。それが彼女の怯えの原因だったのです。
彼の方がわたくしをあしざまに伝えたことも、いっそう怯えを深める原因となったようにございます。
わたくしを避けていたのもわたくしを疎んじてのことではなく、愛妾であることで正妻たるわたくしの不興を買っていると思っていたこともわかりました。
まったく、彼の方は何を考えているのでございましょう!
他家へ嫁ぎ子をなすのは副伯家の娘としては当然の義務。寝所を拒むなど言語道断なのは、彼の方も同じこと。けれどもそれがならぬのでしたら、こちらも手を打たねばならぬのです。
わたくしはアマートラさんとしっかり雇用契約を結び、彼の方のお相手をしばし願うことにいたしました。
一方的に劣情を向けられ、毒牙にかけられたことから始まった愛妾のくらしに、彼女がいつまでたってもなじめぬのは当然のことです。それを続けよというのは大変申し訳ないことなのですが、彼女が彼の方を拒絶でもして不興を買えば、どのような危害を加えられるかはわかりませぬ。加えて、彼の方がならばとアマートラさんになさったようなことを別の方に繰り返されても困るのです。
わたくしは彼の方の親、先代城伯夫妻さまではございません。彼の方の不始末を詫びるために頭を下げる気にはなれません以上は、あらかじめそのような事態が起こらぬようにと手を打ちますとも。
さいわい、ウィオラさまのお若い頃からお仕えしていたという侍女頭にうまくとりなすことで、アマートラさんには彼女が望むとおり、仕事を与えることができました。
彼の方が執務室に籠もられるほんの数刻ではありますが、布を織ったり紡いだりするというものです。彼女が実家で馴染んでいたという仕事です。
わたくし同様、下級侍女のような動きやすい姿でくるくると立ち働かれるアマートラさんは、これが彼女本来の美しさなのだと初めて見たわたくしにもわかるほど、ほんとうに生き生きと光り輝く笑みを浮かべておりました。
ようようペリグリーヌスピカ城砦をわたくしがひそやかに取り仕切る仕組みが動き出しますと、気にかかるのはやはりアダマスピカのことでございました。
女として生まれた以上、幼い頃より、いつかは去らねばならぬ地と覚悟はしておりました。他家へと嫁いでこそきょうだい仲良く手を取り合う未来があると無邪気に信じておりましたゆえ。
ですが、もはやお父さまもお母さまもおらず、ものしずかなルーフスも才気煥発なコッキニウスも、この世にはおりません。
あの地にはびこるは、プルモー以下不当にも領主顔する者ども。
蹂躙されているアダマスピカを思えば、ひどく胸が痛みます。ですが、かの地を守るためにわたくしにできることは、一日でも彼の方より長生きすることくらいのものでした。
いま、彼の方にお子はございません。
彼の方がわたくしの閨に初夜以降足を向けられない以上、これからわたくしが嫡子を生むことも、おそらくございませんでしょう。
たとえアマートラさんにお子ができたとしても、それだけではただの庶子。庶子とはいえど彼の方が爵位継承権を与えることはかないますが、……どうしても、庶子は嫡子よりも一段格が劣ると見なされることが多いのも、よく存じております。年上の庶子を従属爵位で飼い殺し、嫡子の従者にする家がないというわけでもございませんので。
それを避けようとなさるのであれば、彼の方はわたくしを舌剣で切り苛もうとするにせよ、表だって命を奪おうとはいたしますまい。
いくら名目上の妻でも妻は妻。このわたくし、サンディーカ・リプリアクラデムが養子にすることで、ようやくペリグリーヌスピカ城伯の嫡子を彼の方は得ることができるのです。どなたがお産みになろうが。
ですが、嫡子を一人でもお持ちになったら、短慮な彼の方のことです。目障りなわたくしをすぐさま海神マリアムの御許へ送ろうといたすかもしれません。
すっかり彼の方を見限ったノドゥスら、使用人たちに打ち明けますれば、それなりに警戒にあたってくれましょう。
けれども、それは次期城伯へと爵位が継承されるまでのことにございましょう。彼らはペリグリーヌスピカ城伯家が安泰であればそれでよろしいのですから。
嫡子が爵位を継承するまで夭折するおそれがまったくないのであれば、曲がりなりにも伴侶である彼の方の死を願うのはわたくしも同じ事でしたが。
婚姻というのは家と家との結びつきのためのもの。それゆえ、たとえ夫にうち捨てられていることを証しだてしたとしても、生前の離縁というのはたいへん難しゅうございます。
ですが、配偶者が亡くなった場合に限り、比較的たやすく死後離縁ができるのです。
これは寡婦が他家へ嫁ぐ際に、亡夫の爵位に付随する夫人としての権限のすべてを伴ったまま輿入れしてしまうと、夫妻権限共有の法則に伴い、次の夫に亡夫の権限が継承されてしまうというややこしさを避けるための定めにございます。
寡婦が嫁ぎ先を出るのであれば死後離縁の手続きを行い、亡夫の爵位に付随する権限をすべて爵位継承権をお持ちのその家の方へお返しをして、またあらためて次の家に入り、その家での夫人としての権限を行使せよということでしょう。
彼の方が身罷られたのちも、わたくしがこの城砦にとどまり、ペリグリーヌスピカ城伯夫人として城伯名代を名乗り、次期城伯がその爵位を得るまで采配をふるうことも可能ではございます。
ですがそれよりもわたくしが強く望んでいたのは、サンディーカ・フェロウィクトーリアに戻ること。リプリアクラデムの姓を受ける代償に失った、アダマスピカ副伯爵位の継承権を復活させることでした。
これさえかなえば、アダマスピカからプルモーらを打ち払うことも不可能ではございません。
ですが、そのためには、わたくしがペリグリーヌスピカ城伯夫人としての立場を盤石なものにするため、ペリグリーヌスピカ城伯家安寧のために働いてきた枠組みすべてがしがらみとなってしまうのです。
大きな誤算にございました。
家宰のノドゥスをはじめとしたペリグリーヌスピカ城伯家の使用人たちがわたくしに従ってくれるのは、わたくしが城伯夫人だから。ただそれだけのことにございます。
彼の方とただしき婚姻を結び、彼の方と権限を共有する城伯夫人として、わたくしがペリグリーヌスピカのために働いているからこそ。
ならば、彼らがわたくしをのがすわけがございませぬ。
ここでわたくしが動きを変えたとしても、それにより看過し得ぬほど不利益を与えたとしても、城伯家から出ることはかないますまい。
わたくしだけがペリグリーヌスピカ城伯家に嫡子を、次期城伯をもたらしうる以上は、きびしい幽閉を行って、それまで生かしておけばいいのですから。
この城砦は、わたくしにはあまりにも狭うございました。出ることがかなわないと知れば、いっそう息苦しいようにさえ感じます。
ひろびろと麦畑とユーグラーンスの森が広がるアダマスピカ、なつかしき地。豊饒の女神フェルティリターテの恵みゆたかなふるさとを、わたくしはどれほど恋い焦がれたことでしょう。
このあまりにも不毛な、水の一滴もしみ込まぬ小石にも似た城一つとは比ぶるべくもございません。
八方塞がりを生じた拮抗を打ち崩すべく、わたくしはひそやかな動きをはじめました。
ノドゥスにも隠すように、せっせとボヌスヴェルトゥム辺境伯家や王都へ向かう報告書に陳情書を紛れ込ませたのです。
むろんのこと、生前離縁したいなどとは申せませぬ。かわりにペリグリーヌスピカ城伯家の現状はいつ何時嫡子が生じてもおかしくはない状況である一方、正規の爵位継承権者不在のアダマスピカ副伯領への懸念を縷々と述べました。
その一方でさりげなく書状に煤や糸の破片をしのばせ、どのような状況でわたくしが執務しているかも伝わるようにもいたしておりました。
そして、ついにあの日が来たのでございます。
えー……、まだ続きます。




