閑話 凍てつきし炎の物語(その1)
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
久しぶりの閑話は、初めてのサンディーカさん視点です。
かの方の姿を初めて拝見しましたのは、騎士見習いたちの模擬試合をのぞいた時のことでしたでしょうか。
カン、と鋭い音とともに木剣がはね飛び、審判が勝敗を宣した後も、満足に試合相手への礼を取ることすらおできになれないご様子に、わたくしは内心小首を傾げておりました。
勝敗は世の常、一瞬の過ちを突かれて木剣を絡め飛ばされるなど、小姓や騎士見習いたちの練習ではよくあることではございませんか。
もちろん、それが真剣であったならば話は異なりますけれど。
それはそれで須臾に勝敗は決すのですから、敗者が己の過ちを歯噛みなどできませんでしょうから。
興味を引かれたわたくしが隙見しているのもおわかりではないのでしょう。
ご剣友の方でしょうか。慰め顔でお声をかけられたというのに、その方にご返答もなさらずかの方は拳で柵を叩かれておりました。
「この剣がこぶし一つぶん長ければ、勝っていたのはわたしだった!」
まあ。
よほど負けず嫌いなお方なのですね。ずいぶんとおかわいらしい。
背はお高い方なのに、意地の張りかたときたら、まるで駄々をこねているわたくしの下の弟のようではございませんか。
なにやら微笑ましく思えまして、さらにかの方のご様子を見ておりましたわたくしの頭に、つと大きな手が置かれました。
「あら」
「あら、ではないぞ、サンディ。このような場所で、そのような形で、お前はいったい何をしておるのだね?」
「剣技を競うみなさまのご様子を。お邪魔になりませんよう、ひそやかに拝見いたしておりました」
素直にお答え申し上げると、お父さまはなぜか深々とため息をおつきになりました。
「まったくお前は。淑女としての振る舞いもじゅうぶん身につけておるというのに、ちょっと目を離すとすぐにとんでもないことをしでかす。剣技など淑女の見るべきものではないよ」
「ですから、淑女ではない格好をしております」
わたくしは両腕を上げてくるりと回って御覧に入れました。
と申しましても、胴衣を外し、袖のつぼんだ上着の上から腰にベルトを締める少年の格好をして、髪の毛を隠しただけのことです。
ですが、たったこれだけの違いで、騎士見習いの少年たちはわたくしを自分よりも幼い小姓の一人としか見ず、アダマスピカ副伯爵家が長女、サンディーカ・フェロウィクトーリアとは思いもよらぬご様子。不思議なほど効き目はあらたかでございました。
この姿のわたくしをそれと見破るのはお父さまと二人の弟、そして剛健なるダヴィドの息子、カシアスぐらいのものでしょうか。
彼は幼い頃より、騎士となった父の後について館に出入りしておりましたから。
「わたくしはサンデと申します。アダマスピカ副伯爵におかれましてはご機嫌麗しく。新参者の小姓にはございますが、なにとぞ無礼の段はお目こぼし下さいませ」
声を作り見よう見まねの小姓の礼をすると、それまでわざと眉をしかめていらしたお父さまも、しかたのない子だと笑って下さいました。
それだけでなく、しばしの間だけだぞと念を押して、あれこれと騎士見習いの方々の繰り出す剣技についてご説明をしてくださったのです。嬉しいことに、側に控える小姓のふりをしていなさいとおっしゃって。
剣技を間近で見ながらお父さまのご説明を拝聴いたしますのは、とても楽しいことでした。
なぜなら、騎士見習いの方々が次から次へと繰り出す剣技の一つ一つだけでなく、なぜそのような剣技をこのような状況で繰り出すのかといった剣理に関わることまでも、とてもわかりやすく教えてくださるのですから。
あまりにするすると理解できてしまうので、わたくしでも剣を把ればいっぱしの働きができるような気さえしてしまうのが玉に瑕といったところでございましょう。
子どものころには、自分でも剣を学びたいと駄々をこねて、病床のお母さまをも困らせたことがありましたでしょうか。馬術や体術の手ほどきはしてくださったお父さまでも、さすがに大剣や長剣などの武張ったものはお許しになりませんでしたが、護身のためということで、短剣ならば裾長な女性の身なりでも扱いやすいからと、ひそかに柄の握り方から教えてくださったものです。
ふと、先ほどの試合に負けた方に目がとまりましたのは、お一人でいられたからでしょうか。それとも、お顔が蒼白のままだったからでしょうか。
「あの城門の紋章は、どちらの家の方でしょうか」
「ペリグリーヌスピカ城伯どのの紋章だ。ということは、あれにおられるのは、御当主カエルラデーンススどののお子であろう」
ペリグリーヌスピカ城砦とは、ボヌスヴェルトゥム辺境伯領へ通じるランシア街道にそびえる城の一つです。辺境伯領の守護とされておられるとは、カエルラデーンススさまはよほどボヌスヴェルトゥム辺境伯さまの信頼が厚い方なのでございましょう。
「わたしは彼の方の試合をまだ見てはおらぬのだが。お前は、あの方の剣をどう見た?」
「と申されましても。わたくしに剣の細かいことはよくわかりませぬ。ですが、ご自分の腕前に自信をお持ちであり、たいそう誇り高いお方のように思えます」
「ほう」
おもしろそうにお父さまはわたくしの顔をごらんになりました。
「そのようにお前が言うとはな。その根拠はなんだ。なにゆえそのように判断した」
「お負けになった後で、剣がこぶし一つぶん長ければ勝っていた、とおっしゃっておられました。一試合ののち、いまだ余人をお近づけにはなっておられないようです」
「そうか……」
お父さまはふ、と息をおつきになりました。
「それでは剣も上達するまい。城伯どのもお困りであろうな」
「それは、なぜにございましょう」
本当にその時のわたくしには、何ゆえお父さまがそのようにおっしゃったのか、まったくわからなかったのです。
「己が失敗を知己とはいえ、いや知己にこそ見せたくはないという気持ちはわからなくもない。己が失態を恥じることも当然のことだ。だが、本日は一人六試合が組まれているはずだ。ただ一試合の負けで落胆のあまり、あのように棄権者の詰所に座り込むとは……。おのが技量と体格をわきまえもせず、ただ悔しがり、反省もできぬようでは、成長は遠い」
お父さまは剣理を説くときの常で、切り下げる際の動きをゆっくりと大きくとってみせてくださいました。
「お前には、剣を選ぶにおいてもっとも重要なのは、重心の釣り合いだと教えたな」
「はい。指の幅一本でも重心がずれたならば、振り下ろしの速さも突きを入れる際の腕の伸びも変わるとうかがいました」
「ではもう一つ重要なことを教えよう。剣身の長短にも意味があるということだ。実際に手に持ち扱ってみねばわからぬことも多いが、体格や腕の長さとの兼ね合いは必ず見るべきものだ。短すぎれば短剣のように踏み込みを深くせねば間合いが縮み、同種の剣を使う相手と対するには不利となる。長すぎれば取り回しに困る。なによりも剣先に指が届かぬ」
お父さまの足の運びを拝見しながら、わたくしはこくこくと頷きました。
指が届かぬとは、意識が届かぬという意味にございます。剣と名のつくものを扱うのであれば、素手の指先同様に剣先を動かしうるようにならねばならぬとは、お父さまが短剣の扱いを学ぶお許しを下さった時のお言葉でございました。
「たいていは武術指南役がそのあたりのことは目を向けているものだ。それゆえに、戦技を学び始めたばかりの子には、当たり前のようにその体格にみあった剣が用意されていることが多い。だが、そろそろ騎士号を得ようかという年頃の男は、剣も自らの手で用意すべきものとなる。ゆえに、よき剣の質を見抜く目を持つことも必要となるが、なにゆえいかなる剣を手に入れるべきなのか、自分で考えることも必要なのだ。……このようなことも、本来なれば、すべて木剣による試合とはいえ、実際に剣を交えた経験から各々が学ぶべきことなのだよ。わかったかな」
「はい!お教え、ありがとうございます!」
わたくしは笑顔で答えました。
お父さまのお教えに夢中になったあまり、周囲が見えていなかったのでございましょう。
思いのほかわたくしたちの声は高かったようだと気づいたのは、幾ばくかの星霜を経てのことでございました。
模擬試合から数ヶ月が経ったころのことです。
「サンディーカ。ペリグリーヌスピカ城伯どのより、婚姻のお申し出があった」
「まあ。……よもや、城伯さまとでございましょうか」
「違う。カエルラデーンススどのはすでに四十を越えておられる。夫人との仲もおよろしいと伺っている。ご自分の娘と同じような年頃のお前に婚姻を申し込まれるようなご酔狂はなさらんよ。たしかお一人しかお子はいなかったはずだが」
苦笑したお父さまは書状をお見せ下さいました。
「嫡男、カエルレウスどのとのものだ。お前はどうしたい?」
どうしたい、とお父さまは訊いてくださいましたが、当時のわたくしにさしたる選択肢はございませんでした。
ボヌスヴェルトゥム辺境伯の麾下に集いしは、二伯四副伯四城伯十六男爵三十二準男爵とうたわれております。
子爵も名目上は副伯と同格となされてはおりますが、いずれは本家をお継ぎになるか他家へと入られる大貴族の御子息の方々のためのもの、数に入れるわけにはまいりませぬ。
それぞれの家の従属爵位を含みましても、当家と同等の副伯、城伯はわずかにございます。
しかもそのうちルンピートゥルアンサ副伯爵家からは、当主の妹に当たる方とお父さまとの婚姻をほのめかすさぐりが頻々となされておりましたもの。
やさしいイグニッサお母さまが亡くなられた直後からなされていたという、ルンピートゥルアンサ副伯爵家の打診は、このころかなりあからさまなものとなっておりました。
もちろん、お母さまの名残をこのアダマスピカの外側からがりがりと削り落とさんとするような、その心ない仕打ちには、わたくしとて不快にならぬわけがございませぬ。
ですが、お父さまにはボヌスヴェルトゥム辺境伯家寄子であるアダマスピカ副伯としての責務がございます。
そもそもお母さまはボヌスヴェルトゥム辺境伯家とは縁の薄い、とある魔術副伯家のご出身でいらっしゃいました。
お父さまとの仲は子のわたくしから見ましてもたいへん睦まじく、ほのぼのと暖かいものでございましたが、そのお母さまもお亡くなりになられて、はや四年も過ぎております。
このような動きが出てきました以上、あくまでも拒絶する姿勢を通せばそれは港湾伯家とのつながりを断とうかとする動きとも見えかねません。寄親との関係をこれ以上薄いものにしてはなりますまい。お父さまの再婚は、避けえぬものにございました。
そして、わたくしがいずれアダマスピカ副伯爵家を出ねばならぬことも。
他家へ嫁ぎ子をなすのは、互いに互いの手を取り合い、縁を結んで裏切りの芽を摘む貴族の娘としては当然の義務でもございます。
そして副伯家の長子たるわたくしが嫁ぐべき家は、同じ副伯家の嫡男である必要がございました。格上であっても格下であってもいけません。
この条件を鑑みますれば、ペリグリーヌスピカ城伯さまからのお申し込みは願ってもないものでございました。
なにより、わたくしが意を定めたのは、『どのような家に嫁がせるかは親の采配。ですが嫁ぎ先をどのような家とし、生家とどのようなつながりを保ち、嫁した方とどのような間柄となるべきか、己がどうしたいか、意のままになすもなさぬも嫁いだ女の采配ですよ』という、お母さまが遺されたお言葉があったためにございます。
「この家はルーフスが継ぐのでしょう?であれば、わたくしが他家へ出ねばならぬのは必然かと。お父さまのお心のままになさってくださいませ」
そう申し上げますと、お父さまはじつに困ったようなお顔になりました。
「……お前は、年々イグニッサに似てくるな。その温かい笑顔も、そのさっぱりとした決断のしかたも」
「お褒めいただいたのでしょうか」
「もちろんだとも、わたしのかわいいおしゃまなサンデ」
変装をしている時の呼び名に笑みをお返ししますと、お父さまはわたくしの両肩に手を置きました。
「カエルレウスどののお人柄については、わたしもよくは知らぬ。少々よくない噂もないわけではない。が、城伯どのは堅実無比の立派なお方だ。しっかりとお仕えしなさい」
「はい、お父さま」
「サンディ、この家の誰がどの家の者と婚姻を結ぼうと、わたしたちは血に結ばれている。それを忘れないでおくれ」
「お父さま!」
まだ十にもならない子どものようにお父さまに抱きついてしまいましたが、そんなわたくしの頭を、お父さまは大きな手で、何度も何度も撫でてくださいましたことを、今でもありありと思い出します。
14にてわたくしは嫁ぎました。
ペリグリーヌスピカでは城伯のカエルラデーンススさまと、そのご夫人のウィオラさまが、とても暖かくわたくしを受け入れてくださいました。
「サンディーカの髪は美しいこと。まるで夕陽と夕焼けに愛されているようね」
ウィオラさまのそのお言葉は、わたくしにはなにより嬉しいものでした。
わたくしの髪は夕陽色のお母さまの髪と、夕焼けのように紅がかったお父さまの髪が入り混じったようなふたいろまだらでしたので、お母さまとお父さまを褒めていただいているような気がいたしたのです。
細い癖毛はふわふわとして、わたくし自身がまとめるのにも少々手こずるものでしたが、ウィオラさまが毎日手づから梳いてくださるおかげか、次第に艶も出てまいったようでした。
「ウィオラさまの髪こそ、とてもお綺麗です。蒼銀の月の光を紡いだかのようですわ」
お返しにウィオラさまの髪をくしけずりながら感嘆すると、ウィオラさまはいたずらっぽく笑いかけてくださいました。
「あら、だめよサンディーカ。ちゃんと呼んでちょうだいとあれほど申し上げたでしょう?」
「あ……、申し訳ありません、お義母さま」
イグニッサお母さまとは違う、けれども同じくらいのあたたかさとやさしさで、ウィオラさまはまことの娘のようにわたくしを扱って下さいました。
「ルベウスどのは、よく教えられたのだな。サンディーカどのには明日からでもわたしの右腕になって欲しいくらいだ。なにせわたしは悪筆でね」
城伯さま……カエルラデーンススさまも、こまごまとしたお手伝いをいたしましたところ、とても高く評価なさってくださいました。
お母さまが亡くなられたのち、そのかわりを務めねばという幼いわたくしの一念を笑うことなく、時には領主としての仕事も担わねばならぬ領主夫人の実務について教えてくださり、すべてではありませんが一部の仕事については任せてくださっていたことを、お父さまには心から深く感謝したものでございます。
ペリグリーヌスピカ城砦にて、アダマスピカで行っていたようにさまざまなことをこなすうちに、次第にカエルラデーンススさまにも、ウィオラさまにも重責を与えられることが増えてまいりました。苦ではありましたが痛ではございません。これもわたくしを、次期城伯夫人として認めてくださっているからこそなのだとの思いを強くしておりました。
ですが、わたくしは妻としてはお飾りのままでした。
カエルレウスさまが愛妾をお持ちであることは、お父さまもご存じでしたし、わたくしにも教えて下さいました。
この婚姻にお父さまがいい顔をなさいませんでした理由の一つでもあります。
ですけど、その方はわたくしが嫁いで参る前どころか、カエルレウスさまが騎士号を授与されるかされないかという頃からおいでだったそうですので、これはしかたもないことでございましたのでしょう。
それに、嫁いだ時わたくしが14歳だったということもあり、今少し蕾で置いてはどうかと城伯さまに頭を下げられては、お父さまもそう強く出ることもできなかったようにございます。
カエルラデーンススさまも、カエルレウスさまに、数年のうちにケリをつけてくれと釘をお刺しにはなったようですが。
ええ、本来ならばすべてはそれで終わるべきお話だったのです。
もしかしたら、愛妾の方が、いわゆる悪女といわれるような、したたかな方であればよかったのかもしれません。流浪の民、旅芸人や行商人の娘御でもあれば、広く国内外を見て回られているわけですから、世間の風にもさらされて勁き花にもおなりでしたでしょう。
けれども、彼女は城砦へ働きに来ていた自作農の娘でした。
爵位相応に領地のあるアダマスピカと、城砦周辺のわずかな土地しか所有しないペリグリーヌスピカでは、近隣の者が貴族の側に働きに出るということの意味が違います。
働く者たちは支配の及ぶ領民ではなく、城伯の名において雇用された者。
その労働は税の一部ではなく、報酬と引き換えに行われるもの。
ある意味では平等な契約のもとに築かれた関係を打ち壊した御子息の不始末を、カエルラデーンススさまは深く詫びられたそうにございます。
彼女は、花ならば風にも折れ伏すひよわな花だったのでしょう。いえ、いつもおどおどとなさっている様子は花というよりは森の小動物のようでした。
わたくしも、少しでも心を開いていただこうと話しかけたりするのですが、アマートラという名の方は、わたくしから身を遠ざけようとなさるのでした。
またそのようなところを御覧になると、カエルレウスさまはひどくわたくしをお怒りになりました。わたくしが考えもなくひたすら彼女をいじめているとでもお思いになったがためのようです。
そんなことはまったくいたしておりませんでしたし、やれ赤毛女だのちびだのと子どものような罵倒は、けして聞きよいものではございませんでしたが。
カエルレウスさまがわたくしの説明もお聞き入れなさらずに怒鳴り、カエルラデーンススさまとウィオラさまはわたくしを擁護なされて実の息子と険悪になるということが幾たびとなく繰り返されました。
もちろん、元凶はカエルレウスさまでしょう。
いくら御本人の意から出たものではない婚姻とはいえ、純白のまま置かれていること、わたくしの存在すらほとんど視野に入れたがらぬご様子に、わたくしだけでなく城伯ご夫妻も、困惑を通り越して憤懣を感じないとでもお思いだったのでしょうか。
それでも、わたくしは城伯ご夫妻をお慕いしておりましたから、懸命に城砦の内外にもあたう限り目を配っておりました。
城砦の使用人たちや城兵のみなさんにも、どうにか次期城伯夫人として認められる程度には馴染めたのは、その甲斐あってというよりも、カエルラデーンススさまとウィオラさまのお心遣いあってのことでございましょうが。
それが大きく変わったのは、やはり、お父さまがお亡くなりになったという急使が到着した、あの黄昏時からでございましょう。
取るものも取り敢えず乗り込みました馬車すら、城伯の厩舎でも選りすぐりの馬たちを繋いだというに、枝葉を伝う陸巻貝のようにのろのろと感じられてなりませんでした。
遅さにじりじりしながらようやくアダマスピカに着き、息せき切って降りたわたくしたちを、無言のまま騎士の礼をもって迎えたのは、ひどく大人びた顔立ちになったカシアスでした。
すでにお父さまの棺は閉ざされており、直接最後のお別れをすることも叶わぬどころか、埋葬は済んでいると、苦渋の色を滲ませた家宰のグラーテスから知らされた時には、わたくしは頽れそうになりました。
そうはなりませんでしたのは、汗も拭わず馬の毛すらついたまま、他家で見習いをしていたはずのルーフスとコッキネウスもまた、無言でわたくしに歩み寄ってまいったからでございます。
わたくしより後に到着しましたコッシニア――ニアも、大きな瞳に涙をいっぱいに湛えて抱きついてまいりました。
病弱だった妹も、その時すでに行儀見習いとしてペルグランデクリス伯爵家へと預けられており、誰もお父さまの最期を看取ることはできなかったのです。
ものも言えぬまま、わたくしたちはひしと抱き合いました。
わたくしたちを繋ぎ支えてくださっていたお父さまの死。あまりにも突然でありすぎたそれが、ようやく悲しみとなってわたくしたちの心を砕かんとしていたのです。
直前に騎士叙任式があったとかで、叔父さまや従兄弟たちも葬儀には参列されたとのことでしたが、あわただしくお帰りになりましたのは、ルンピートゥルアンサ副伯家から名代とかいう名目で、男爵や準男爵や騎士が送り込まれていたこともありましょう。
ルンピートゥルアンサ副伯家から送り込まれていたのは男性ばかりではございません。見慣れぬ侍女を幾人となく引き連れて、葬儀の席に不釣り合いなほど満面に笑みを浮かべて、わたくしたちきょうだいに近寄ってまいりましたのは、お父さまの後妻でございました。
その時わたくしは初めてプルモーという、その後添いの顔を拝見いたしたのでございます。
わたくしと入れ違いに嫁いできた時には、すでに二十歳を過ぎた老嬢だったと伺っておりましたが、その歳を強調するようなごてごてと趣味の悪い宝飾品の数々には、ウィオラさまも内心あきれ果てておられるようにございました。お年はウィオラさまの方が上でしょうが、慎ましやかながらもしっとりとしたその美しさは比ぶべくもございません。おそらくはその髪のせいもあるのでしょう。後添い嬢の金灰色というより白髪に近いその髪はひどく痛みきって、いっそう老婆のように見えてなりませんでしたから。
ペリグリーヌスピカはボヌスヴェルトゥム辺境伯領と王都ディラミナムをつなぐ土地柄ゆえ、交易の人も物も多く行き交います。カエルラデーンススさまからご教授いただきましたので、わたくしも交易の荷と用途については多少なりとも存じております。その中には髪を染める染料も何種類かございました。
蒼などの暗い色と違い、金などの明るい色に髪を染めるためには、もとの髪の色を抜き去る必要があるのだと聞きました。たしかそれにはエクウスの尿を腐らせたものを使うのだとか。
どうやら、すぐにほつれてしまうプルモー嬢の髪は、クロシーというたいそう高価な染料を使って色よく染め上げるのではなく、単にもとの髪色を抜き去っただけのようにございました。それも手際が良くないのかまだらに色が抜けた上に、生え際では色が変わっております。
この髪にくらぶれば、わたくしやニアのように、紅と朱の入り混じったふたいろまだらなど、たいして目を引くようなものではございますまい。
「アダマスピカへようこそおいでくださいました、サンディーカさま」
身なりだけでなく言葉もこのような場にふさわしいとは到底思えぬものでした。
そもそもわたくしたちはお父さまの子、このアダマスピカはわたくしたちの故郷。いくらお父さまの後添いとはいえ、初対面のわたくしに『ようこそ』とは、まったくなんという言い草でしょう。
「ルーフスさま、コッキネウスさま、コッシニアさまもよくおいでくださいました。アダマスピカ副伯爵家の家族が一堂に会しましたこと、さぞかしルベウスさまも海神マリアムの御許でお喜びのことでしょう」
「これはプルモーどの。ご丁寧な挨拶を頂戴しましていたみいります」
ぴりっとルーフスの額に癇の筋が走りました。
たしかにお父さまの後添いであれば、わたくしたちの義母ということになります。領主である父の代理として葬儀を取り仕切る権限があることは間違いございません。
ですが、我が物顔に振る舞い、実の子であるわたくしたちを蔑ろにするようなやり口に不快感を覚えぬわけがございません。
「たいそう早急なるご手配をありがとうございました」
「あら、まあ」
ルーフスの言葉をどう受け取ったのか、後添え嬢はくねくねと身をよじらせました。
「ルーフスさまも他人行儀でございますこと。ルベウスさまのお子でいらっしゃる方々はわたくしの子も同然にございます。礼などおよしになってくださいまし。そしてどうぞ皆さま、このわたくしを義母とお呼びくださいませ、かつてのように」
薄気味悪いほどの笑みを浮かべて言い切られた言葉に、わたくしは思わず弟妹たちと目を見交わしました。
三人の目の色を見れば、はっきりとわかりましたとも。彼女の言うようなことは何もなかったと。
その一方で、お父さまを悼むこの場を険悪なものにしてはならないということも理解しておりました。
ならば。
「まあ。プルモーさまのようにお若い方をお義母さまとお呼び申し上げるなど、もったいなくてできませんわ」
わたくしはペリグリーヌスピカ次期城伯夫人として、この義母の僭称者に対することにいたしました。
わたくしがお義母さまと敬意を込めてお呼び申し上げるのは、ウィオラさまのみ、そしてわたくしのお母さまはイグニッサお母さまただ一人。
「かけちがいましてご挨拶が遅れましたことをお詫び申し上げます。このサンディーカ・リプリアクラデム、ペリグリーヌスピカ城伯家の者となりましてのちもアダマスピカをいとおしむ気持ちに変わりはございません」
わたくしの笑みは、あまり物事を深く考えていないように間が抜けて見えるとカエルレウスさまに言われたこともございましたが、どうやらそれなりの力はあったようにございます。彼女の目を見据えて、筋一つ揺るがぬ淑女の礼をいたしますと、うろたえたように後添い嬢は目をそらされました。
「ところで、アロイシウスどのは?おいでではないのですか?」
「あ、あの子は少々具合を悪くして、伏せっております。繊細なところのある子ゆえ、ルベウスさまの死を受け止めかねている様子でしたので」
ルーフスとコッキネウスが、後ほどカシアスから真っ赤な嘘であることを聞いてまいりました。
プルモーの甥だというアロイシウスという方は、ずいぶんと見かけの体格と精神が大きくかけ離れているようで……あえていうなら水に落とした案山子のような男だとは、直接彼を見知っている弟たちの言でしたが。
騎士号授与式での、あまりに醜悪なその振る舞いには、伝え聞いたわたくしもニアも驚き呆れました。
叔父さまや従兄弟たちは関わり合いになるのを避けて急ぎ去ったのでございましょう。
その後、ペリグリーヌスピカ城伯夫妻を証人としまして、アダマスピカ副伯爵位をルーフスが継ぎますことを、残りの継承権者であるコッキネウスとニアが承認した旨の証書を作成し、すでに継承権を喪失しておりましたわたくしが清書いたしました。
これをボヌスヴェルトゥム辺境伯に差し出し、認可されることで、次期アダマスピカ副伯爵家当主がルーフスであることが家の内外に認められられるのでございます。
控えを証人である城伯夫妻とルーフスが所持するわけですが、叔父さまたちがいらっしゃったならば皆さまにも証人となり署名をいただく必要がございました。
ですが、立ち会わないということは、低位継承権者がその権利を放棄したということでもあります。さほど高位でもない貴族ではこのような略式ですますことも多いとうかがいます。
いずれにせよ揉めずにすんでほっといたしました。これ以上心をわずらわせることなく、お父さまの御霊やすかれと海神マリアムへ祈りを捧げることがかなったのは、かなしみのうちのさいわいでございましたから。
うろうろするプルモーをそれ以上相手にせず、こまごまとした処理をすませると、わたくしたちはあわただしくもねんごろに挨拶を交わし、なつかしき生家を発ちました。
ああ、まさか、それが弟たちとの今生の別れになろうとは!
長くなりましたのでもうちょっと続きます。




